女を見連れの男を見て師走 高浜虚子
「東映やくざ映画を叱る!」 斎藤龍鳳 1971年3月「映画芸術」
私が愛してきた像は、作家らの何人かが彫りに彫った花田秀次郎であり、片桐直次郎であり、そしてまた飛車角であった。彼らは渡世をよくわきまえていたし、何よりも日陰に咲く花にふさわしい忍耐力、やせがまんといっていいだろう、そんなものを備えていて、それがジカに私にはつたわってきた。日韓会談に反対する闘争に明け暮れる当時の私の唯一の慰安娯楽は、「義理と人情をはかりにかけりゃ/義理が重たい男の世界--」が流れる中を、花田秀次郎が後ろ姿を見せながら、歩きはじめる、くるんだ風呂敷をパラリと捨て去ると白鞘のドスが現れてくるシーンと、深夜浅草東映でむぐりあうことだった。一時間二十分ぐらいのガマンがプツンと切れるその瞬間に、私はわけもなくひたりこんだものである。
(中略)
合理の世界に安住する人々をして唖然たらしめるような断固不合理な世界を、もっともっと凄絶に描くよう心がけねばならない時期に今、東映やくざ映画はさしかかっているのだ。夏冬、木綿で通すやくざに、まかり間違っても絹物を着せるな。善玉にはガマンにガマンをさせ、悪玉は斬って斬って斬りまくれ。突いて、えぐって、足蹴にしろ。所詮やくざ映画はやくざ映画であることの身のほどをわきまえ、牧師の子分になったり、ジェット機のタラップをサッソウと踏ませたりして、私のイメージする渡世人像をこわしてくれるな。かつて苦肉の策とはいえ、練りに練り上げたやくざ映画のパターンを、これ以上崩してくれるな。今度こそ、法網の裏を歩む、凛々しくも作法をわきまえる、ひっそりとした“男”を登場させてくれ。頼むぜ、降旗康男さん! 深作欣二君! それにやくざ映画の帝王、佐藤浩滋さん!(『なにが粋かよ』斎藤龍鳳)
私が愛してきた像は、作家らの何人かが彫りに彫った花田秀次郎であり、片桐直次郎であり、そしてまた飛車角であった。彼らは渡世をよくわきまえていたし、何よりも日陰に咲く花にふさわしい忍耐力、やせがまんといっていいだろう、そんなものを備えていて、それがジカに私にはつたわってきた。日韓会談に反対する闘争に明け暮れる当時の私の唯一の慰安娯楽は、「義理と人情をはかりにかけりゃ/義理が重たい男の世界--」が流れる中を、花田秀次郎が後ろ姿を見せながら、歩きはじめる、くるんだ風呂敷をパラリと捨て去ると白鞘のドスが現れてくるシーンと、深夜浅草東映でむぐりあうことだった。一時間二十分ぐらいのガマンがプツンと切れるその瞬間に、私はわけもなくひたりこんだものである。
(中略)
合理の世界に安住する人々をして唖然たらしめるような断固不合理な世界を、もっともっと凄絶に描くよう心がけねばならない時期に今、東映やくざ映画はさしかかっているのだ。夏冬、木綿で通すやくざに、まかり間違っても絹物を着せるな。善玉にはガマンにガマンをさせ、悪玉は斬って斬って斬りまくれ。突いて、えぐって、足蹴にしろ。所詮やくざ映画はやくざ映画であることの身のほどをわきまえ、牧師の子分になったり、ジェット機のタラップをサッソウと踏ませたりして、私のイメージする渡世人像をこわしてくれるな。かつて苦肉の策とはいえ、練りに練り上げたやくざ映画のパターンを、これ以上崩してくれるな。今度こそ、法網の裏を歩む、凛々しくも作法をわきまえる、ひっそりとした“男”を登場させてくれ。頼むぜ、降旗康男さん! 深作欣二君! それにやくざ映画の帝王、佐藤浩滋さん!(『なにが粋かよ』斎藤龍鳳)
札幌国際芸術祭
札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。
http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf