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心のたねを言の葉として

石原慎太郎の宿痾         関川宗英

2022-02-13 16:13:54 | 言葉

石原慎太郎の宿痾         関川宗英




1 石原の差別発言

 

 京都府警は2020年7月23日、ALSで在宅介護を受けていた京都市内の女性(当時51歳)に対し、女性からの依頼で薬物を投与のうえ殺害したとして、仙台市内などの医師2人を逮捕した。

   石原慎太郎はこの事件について、ツイートで以下のように言及した。

 

「業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で『殺害』容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい」

                        業病~悪業の報いでかかると考えられていた難病。 (『広辞苑第七版』)




 石原慎太郎が死去した。

 「死ぬまではやっぱり、言いたいこと言って、やりたいことをやって人から憎まれて死にたいと思います」(2014年政界引退時の会見)という本人の言葉の通り、最後まで差別発言を繰り返した。

 

 1977年、当時環境庁長官だった石原慎太郎は、公務で熊本県へ赴き、水俣病の患者施設を視察した。患者に抗議文を手渡された。するとその夜の会見で、「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。さらには「補償金が目当ての“偽”患者もいる」との暴言を吐き、患者らの前で土下座して謝罪する事態となった。http://pic.twitter.com/xWUMKHOg







 1999年、東京都都知事として重度障害者の施設を訪問した際には次のような差別発言を残している。

「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」




2 意味のない存在

 ALS患者、水俣病患者、そして重度障害者・・・身体的に不自由な人に対する差別発言を振り返ったが、読むだけで心が荒んでくる。

 石原自身、晩年は脳梗塞のため、歩くことなど不自由な生活を送っていた。しかし彼は、体の不自由な人の苦しみや生活の不安など、感じることはなかったに違いない。



 ALS患者殺人事件の犯人は、活発にツイートしており、フォロワーは1万9000人もいたそうだ。ツイートには以下のような過激なコメントがあふれていた。

「経済的な生産性でいうとマイナスでしかない認知症老人に人生からめとられて、退職を余儀なくされるとか、ほんとボケ上がった老人を長生きされることに俺は興味も関心もない」

「意味などないでしょう。ゾンビを無目的に生かして、国民の皆様から診療報酬を賜るというだけ。バカらしくて新人はやめていくし、生活の糧と割りきった人だけが感情棄てて業務に当たる」

「予後不良なのに治療に人生とカネを費やす意味があるんですかね」

 

 ALS患者を殺した2人の医師は、過去に共著で電子書籍を刊行している。そのタイトルは『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』。

 高齢者や治る見込みのない病人を生かし続ける治療に、人生とカネを費やす意味などないと、犯人たちは唱え続けていた。犯人の二人からすれば、脳梗塞で予後不良、老い先短い老人など「意味のない存在」だ。

 しかし、石原慎太郎は自分自身について、ALS患者殺人事件の犯人から、「意味のない存在」と切り捨てられる側にいる、そう思うことなどなかっただろう。

 ALS患者殺人事件の犯人を弁護したいとツイートした石原だから、よもや自分を不必要な老人と思うことなどなかったに違いない。



 犯人たちのような優生思想の持ち主は、自分が差別される側になるなど思いもよらぬことだろう。

 そう、差別する側は、いつも力を持っている方なのだ。マジョリティがマイノリティを差別する。

 仕事も住む家もなくなって路上で夜を過すことや、孤独死の不安など、まさか自分がさいなまれるとは、世の勝ち組は思っていない。

 

 

 

 2016年7月、神奈川県相模原市の知的障害者施設で19人が死亡し、20人が重傷を負った殺傷事件が発生した。

 この事件について石原慎太郎は次のように言っている。

 

「あれは僕、ある意味で分かるんですよ」

「(作家の)大江(健三郎氏)なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさん(作曲家で障害を抱える大江光氏)を持ったことが深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」

(「文學界」16年10月号)






3 病的な心性

 

 石原慎太郎の一連の発言は失言ではない。

 彼は批判されるたびに謝罪はしたが、差別発言は繰り返された。彼はマジョリティのトップの階層にいて、社会的弱者の苦しみなど露ほどにも感じない、優生思想の持ち主、レイシストである。

 彼は使う言葉を間違えたのではない。彼の言葉は、自分の中から出てくる正直な気持ちの表れだ。

 弱者の心の痛みなど感じることはなく、弱者をさらに痛めつける発言を繰り返す。私にとってそれは、病的なくらい真っ黒な、攻撃的な心性だ。



 彼のようなレイシストが、マスコミでちやほやされ、干されることもなかった。そして死後、美化された論調の言葉がメディアを覆う。これらは、私たち日本の意識の低さをそのまま物語っている。

 

 だから斎藤美奈子の次のような記事には勇気づけられる。

 

 無責任な追悼

 斎藤美奈子 2022/2/9 東京新聞

 石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。「文明がもたらしたもっとも有害なものはババア」「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」。暴言の多くは、外国人、障がい者、性的マイノリティなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったのか。

 彼は生涯現役の作家だった。晩年に至ってもベストセラーを連発した。だが、私は石原慎太郎の姿勢には疑問を持っている。

 朝日新聞で文芸時評を担当していた2010年2月。「文学界」3月号『再生』には下敷(福島智『盲ろう者として生きて』。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。

 と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた「御大・石原慎太郎」だったから許された手法だったのではないか。

 各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。二日の本紙(注・東京新聞のこと)「筆洗」は「その人はやはりまぶしい太陽だった」と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?(文芸評論家)

 

 反論できない死者に、鞭打つような非難の言葉を浴びせて、留飲を下げたいのではない。一人の男の人生の終焉に当たり、排気ガス対策といった功績とともに、数々の放たれた差別発言も事実であることをはっきりと残すためだ。

 生活保護バッシングに見られるような、弱者を切り捨てる声はますます赤裸々になっている。費用対効果で全てが決まっていく、生きづらい世の中、荒んだ雰囲気をネオリベたちの差別的な言葉がさらに搔きむしる。



 

4 言葉の重さ

 

 かつて、「人の命は地球より重い」と語った政治家がいた。

 1977年(昭和52年)9月28日、パリ発東京行きの日本航空機が、日本赤軍を名乗る男5人にハイジャックされ、乗員・乗客151人が人質となった。そして犯人は、日本政府に対して、600万ドル(約16億2000万円)の身代金と、日本で拘置中の仲間の政治犯など9人の釈放を要求した。

 これを受けて当時首相の福田赳夫は、犯人の要求を飲むことを決断する。超法規的措置により政治犯は釈放され、151人の人質は無事解放された。このとき福田は「人の命は地球より重い」と言ったのである。

 

 福田の言葉はナイーブなだけの、甘っちょろいヒューマニズムの戯言だろうか。

 私はそうは思わない。

 福田の決断はテロの輸出などと批判され大きな議論になったが、人の命を大切に考えることを堂々と言える大人がいたことは、この荒んだ令和の時代からみると見逃せないことだ。

 福田の言葉には、人の命に対する尊厳がある。

 

 1964年(昭和39年)、福田 は、池田勇人内閣の高度成長政策を「見せかけの繁栄は昭和元禄にすぎない」と批判し、気骨のあるところを見せた。

「池田内閣の所得倍増、高度成長政策 の結果、社会の動きは物質至上主義が全面を覆い、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、"元禄調"の世相が日本を支配している。経済面では物価が高騰し、国際収支は未曾有の困難に追い込まれ、広い国民層に抜き難い格差感を植え付けつつある」と厳しく批判したのである。

  続く昭和四十年代、五十年代の政界は田中角栄と福田赳夫の因縁の対決が展開された。いわゆる角福戦争だが、福田は連戦連敗だった。田中の金の力に負けたという。

 

 1972年(昭和47年)、角福戦争の最中、自民党総裁選があった。中曽根康弘は当初総裁選出馬に意欲を見せていたが、結局出馬しなかった。そして中曽根は、田中支持に回る。『週刊新潮』(同年7月8日号)は「田中から中曽根に、支持の見返りに7億円が渡った」とスクープしている。

 選挙は、「地盤、看板、鞄」で決まるなどと言われる。魑魅魍魎が跋扈する政治の世界には、市井の人間には想像もつかないような熾烈な争いがあるのかもしれない。

 しかし、金の力で権力を得たとしても、それは一時のことで、長くは続かない。田中角栄をはじめ、金権政治を批判されて辞任に追い込まれた政治家たちはたくさんいる。哀れな末路を迎える者、自殺が報じられる者もいる。金の力に群がる者たちの競争、金の力を信じる者たちによる政治に、明るい未来はない。

 

 金の力で成り立つ政治が、人心を得ることはないだろう。

 2千5百年前、孔子は為政者の「徳」、「仁」の大切さを説いた。それは今も変わっていない。

 

 たとえ福田が金の力に負けたとしても、命に対する尊厳は損なわれるものではない。

 人として大切なことを重んじること、それを堂々と言えること、その言葉の重さこそ多くの人々が求めていることだ。

 

 福田赳夫のような保守の論客の言葉に対して、体の不自由な人を「あんな人にも人格があるのか」と言ってしまうその言葉の軽さ。石原の言葉には、彼が言う「ああいう不幸な子どもさん」にも、自分と同じ命を持っているという畏れがない。命を持った人間の言葉なら、人を敬う重さというものがそなわっているものだろう。

 石原の一連の発言は、言葉の重さというものを考えさせてくれる。

 そして新自由主義的な優勝劣敗、不寛容の時代にあって、私の中にもある差別、選別、異物排除の心性を見つめ続けなければならないと改めて考えさせてくれる。

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