連休中に、富岡製糸場を訪ねました。
富岡製糸場といえば、日本史の教科書に必ず出て
くる、余りにも有名な官営工場です。

入場料500円を支払い中に入ると、煉瓦造りの美しい
建物が建ち並んでいます。

ボランティアガイドさんの案内も充実していて、
興味深いお話を伺うことができました。

繰糸場(ここは例外的に内部見学可)

ブリューナ館(指導者として雇われたフランス人ポール・ブリューナの住居)

東繭倉庫内に展示されていたおカイコさん(生きてます)
だた期待はずれだったのは、ほとんどの建物が外観
のみの見学だったこと。製糸場内で働いていた工女さん
たちの生活エリアに立ち入ることができないため、
彼女らがどのような暮らしをしていたのか、感じ取る
ことが出来ません。
建物が傷むのを恐れて公開していないのだとは思い
ますが、大変残念に思いました。
工女たちの生活はどんなだったんでしょう。
ということで、「工女への旅ー富岡製糸場から近江絹糸へ」
(早田リツ子著)を図書館で借りて読んでみました。
製糸場といえば、「女工哀史」が思い浮かびますが、
ここ富岡はずい分恵まれた状況にあったようです。
当初富岡製糸場には、診療室があり、外国人医師も
いて、健康管理には気が遣われていたふしがあります。
とはいえ、湿気の多い製糸工場では胃腸病や脚気などが
多く、官営の21年間に工女56名が亡くなっています。
体調を崩したのは、日本人工女だけではありませんでした。
4人いたフランス人の女性教師たちも、3人が病気になり
全員帰国してしまったということです。
日本とフランスの気候や文化の違いに戸惑うことも多かった
はずです。
次のようなエピソードが和田英著「富岡日記」に記されて
いました。
ある日フランス人女教師たちは外出し、神社を訪ねました。
鳥居をくぐろうとしたら、付き添いの日本人の取締役が、
制止したというのです。泣きじゃくって懇願する人もいた
そうだけど、入ることは許されなかったといいます。
その理由を、和田氏は「肉食の多い彼女たちが鳥居をくぐ
れば境内を穢すことになると考えたためではないか」と想像
しています。
遠くはるばる日本まで来て、こんな窮屈な生活では、心身
ともに健康を保つのは(よほどの超人で無い限り)難し
かったんじゃないかなぁ。
時は流れ、明治二十六年、富岡製糸場は三井に払い下げられ、
官営工場としての役目を終えました。
民営化後、給与が歩合制に変わったり、福利厚生が一部打ち
切られたことを発端に、明治三十一年、ストライキが勃発
しています。
富岡製糸場が三井に払い下げられたと知って、思わず頭に
浮かんだのが郵政民営化を思い出しました。
郵政公社の初代総裁を務めたのが生田正治氏(大阪商船三井)
なら、それを引き継ぐ形で民営化後も日本郵政社長を務めて
いるのが三井住友銀行出身の西川善文氏。
日本は変わったのかしら?
富岡製糸場といえば、日本史の教科書に必ず出て
くる、余りにも有名な官営工場です。

入場料500円を支払い中に入ると、煉瓦造りの美しい
建物が建ち並んでいます。

ボランティアガイドさんの案内も充実していて、
興味深いお話を伺うことができました。

繰糸場(ここは例外的に内部見学可)

ブリューナ館(指導者として雇われたフランス人ポール・ブリューナの住居)

東繭倉庫内に展示されていたおカイコさん(生きてます)
だた期待はずれだったのは、ほとんどの建物が外観
のみの見学だったこと。製糸場内で働いていた工女さん
たちの生活エリアに立ち入ることができないため、
彼女らがどのような暮らしをしていたのか、感じ取る
ことが出来ません。
建物が傷むのを恐れて公開していないのだとは思い
ますが、大変残念に思いました。
工女たちの生活はどんなだったんでしょう。
ということで、「工女への旅ー富岡製糸場から近江絹糸へ」
(早田リツ子著)を図書館で借りて読んでみました。
製糸場といえば、「女工哀史」が思い浮かびますが、
ここ富岡はずい分恵まれた状況にあったようです。
当初富岡製糸場には、診療室があり、外国人医師も
いて、健康管理には気が遣われていたふしがあります。
とはいえ、湿気の多い製糸工場では胃腸病や脚気などが
多く、官営の21年間に工女56名が亡くなっています。
体調を崩したのは、日本人工女だけではありませんでした。
4人いたフランス人の女性教師たちも、3人が病気になり
全員帰国してしまったということです。
日本とフランスの気候や文化の違いに戸惑うことも多かった
はずです。
次のようなエピソードが和田英著「富岡日記」に記されて
いました。
ある日フランス人女教師たちは外出し、神社を訪ねました。
鳥居をくぐろうとしたら、付き添いの日本人の取締役が、
制止したというのです。泣きじゃくって懇願する人もいた
そうだけど、入ることは許されなかったといいます。
その理由を、和田氏は「肉食の多い彼女たちが鳥居をくぐ
れば境内を穢すことになると考えたためではないか」と想像
しています。
遠くはるばる日本まで来て、こんな窮屈な生活では、心身
ともに健康を保つのは(よほどの超人で無い限り)難し
かったんじゃないかなぁ。
時は流れ、明治二十六年、富岡製糸場は三井に払い下げられ、
官営工場としての役目を終えました。
民営化後、給与が歩合制に変わったり、福利厚生が一部打ち
切られたことを発端に、明治三十一年、ストライキが勃発
しています。
富岡製糸場が三井に払い下げられたと知って、思わず頭に
浮かんだのが郵政民営化を思い出しました。
郵政公社の初代総裁を務めたのが生田正治氏(大阪商船三井)
なら、それを引き継ぐ形で民営化後も日本郵政社長を務めて
いるのが三井住友銀行出身の西川善文氏。
日本は変わったのかしら?