遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

垂井まつり:子供歌舞伎と竹中半兵衛

2023年05月04日 | 故玩館日記

中山道垂井宿で行われている垂井曳山まつりに行ってきました。垂井宿は、故玩館の場所から中山道を西へ二つ目の宿場です。美江寺宿→赤坂宿→垂井宿→関ケ原宿と続き、美濃は終わって、近江へ入ります。名古屋から大垣を経る美濃路の起点として、中山道と東海道をむすぶ交通の要所でもありました。美濃一宮(南宮大社)参拝の人々も含め、多くの旅人で賑わいました。江戸時代から連綿として行われてきた垂井曳山祭りでは、安永年間創始と伝えらえる子供歌舞伎が演じられ、壮麗な3台の山車とともに、往時の繁栄を今に伝えています。

しかし、ほとんどの宿場町がそうであるように、往年の賑わいは年とともにすたれ、かつては、すべての家が何らかの商売をしていた街道は、日中、人影もまばらです。そんな中で、町興しの試みがあちこちの宿場でなされています。私もそのお手伝いを少しさせていただいています。そんな関係から、コロナ下で途絶えていた祭りが、今年、完全復活するというのでしばらくぶりに訪れました。

八重垣神社前に整列した3台の山車。3つの町にそれぞれ一台。

西町攀鱗閣:

東町鳳凰山:

明治の日本画家、大橋翠石筆の鶏図。

子供歌舞伎は、3日間、小学生男子が演じます。

今年は、観光協会が、3つの演題を簡単なマンガ本にして無料で配布しました。

普段は閑散とした中山道も、黒山の人だかり。

15回ほどの公演があるので、炎天下、なれない衣裳と化粧で体調を崩す子もいます。が、1年間練習の晴舞台。本人にとっては貴重な体験です。

岐阜は、地歌舞伎が残っている場所がいくつかあります。この子供歌舞伎もその一つです。上方の影響を受けたのでしょう。なお、他の地にも豪壮な山車は多くあります。そして、その多くは、からくりの演舞が見どころです。これは、尾張の影響下でつくられたものだと考えられます。

 

また、この日は、古い旅籠、亀丸屋が初公開されました。

この建物は、道が鉤型に曲がる所に建っています。中山道の宿場はどこも、敵が容易に侵入できないよう街道を屈曲させてあるのです。

2階には、鉄砲窓が残っています。

逆光ではっきりしませんが、鬼瓦は、鬼が亀を咥えた珍しい物。

中山道筋で唯一、当時のままで続けられていた旅館ですが、女主人も高齢となり、やむなく数年前に閉じられました。

内部は、江戸時代、大名から商人までが泊まれるよう、いろいろな部屋があります。ちょんまげ姿の人が、ふっと現れるような錯覚を覚えます。ま、故玩館も似たようなものではありますが(^^;

垂井町には、史跡が多くあります。その中で、曳山まつりと並んで、人を呼べる可能性があるのは、やはり、軍師竹中半兵衛ですね。関ケ原の合戦も、南宮山に陣取って動かなかった毛利氏と西軍と思われていたけれども東軍に与した竹中氏(半兵衛の子、竹中重門)の動向が合戦を左右したとも言えます(このあたりから関ケ原にかけてが竹中氏の領地)。南宮山は垂井町の南部、竹中陣屋跡、菩提山城跡は北部、いずれも宿場から数kmの距離です。

帰り際に、観光協会の方から、新製品だという「軍師竹中半兵衛 プリントクッキー」をいただきました。美味しかったです。子供歌舞伎のマンガ解説本とともに、今風の超イケメンの半兵衛が、垂井宿に人をよんでくれるとよいのですが。

故玩館外での初展示会『折形と飾り結び』を行ったのが、10年前の垂井曳山まつりでした。入場者は、1000人を超え、盛会でした。その後、何回かの展示と高札場整備のお手伝いをしました。しかし、街興しの中心になっていた方々がコロナ下、相次いで逝ってしまわれ、私自身もこれからどのように関わっていったらよいか、思案中です。


コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サツマイモの苗、通販でビッ... | トップ | 改竄?!『太政官日誌第六』 »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
遅生さんへ (Dr.K)
2023-05-04 17:14:36
コロナも下火になり、垂井曳山まつりが復活し、賑わいを取り戻したのですね(^_^)
竹中家の領地はこの辺だったのですか。
私は竹中半兵衛が大好きなんです(^-^*)
竹中半兵衛が垂井宿に多くの人を呼んでくれることを祈っております(^-^*)
そして、故玩館にも多くの人が訪れることも、、、(^-^*)
返信する
Dr.Kさんへ (遅生)
2023-05-04 20:23:34
竹中氏がどうして東軍に加わったのかよくわかりません。Drの歴史小説には出てきたでしょうか。
地形を知り尽くしている竹中氏を引き入れた東軍は、有利に戦えたのだと思います。
これまで、城についてはあまり注目されていませんが、竹中の菩提山城、毛利の南宮山陣地、小早川の松尾山陣地、そして光成の玉城がぐるりと関ケ原を取り囲んでいます。この4拠点が西軍、東軍のどちら側に属するかによって、関ケ原合戦の趨勢は決まると思います。結局、1対3(毛利をはずすなら1対2)ですから、勝負になりませんね。
返信する
遅生さんへ(その2) (Dr.K)
2023-05-05 08:47:30
竹中氏がどうして東軍に加わったのかは、私も知りません。竹中氏が東軍に加わったことは、このブログ記事で知りました。
竹中氏は、やはり竹中半兵衛が亡くなってからは、歴史の主役からは降りましたね。
それで、それほど関心がむけられず、歴史小説にも登場する機会が少なくなったのかもしれませんね。
これからは、竹中氏がどうして東軍に加わったのかについて、注意しながら読んでいきたいと思います。
返信する
Dr.Kさんへ (遅生)
2023-05-05 09:35:38
竹中家は旗本、5000石です。家康が大名にしなかったのか、中途半端な大名より実のある旗本にとどまったのか、知りたいところです。多分、後者ではなかったかと。ただ、江戸屋敷も構えていたので、大変だったろうと思います。そのおかげで、この地を何百年もずっと安定して統治できたのでしょう。これも、ひょっとしたら、半兵衛以来の知恵、才覚かもしれませんね。
ps。歴代の当主、マッチョはまれで、病弱な人が多かったようです。
返信する
遅生さんへ(その3) (Dr.K)
2023-05-05 14:16:35
竹中家は、江戸時代は5,000石の旗本でしたか。
以前に紹介(2022年8月24日紹介)しました「九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義」(近衛龍春著 新潮社 2016年7月20日発行)の著者によりますと、江戸幕府は、大名の取扱について、当初は改易政策をとりましたが、次いで、大名の分割を実施したとのことでした。
藩を分割して結束力を弱め、幕府の統治力を強めるためであったとのことです。
そんなこともあって、竹中家は大名にはならなかったのかもしれませんね。
結果的にはそのほうが良かったのかもしれませんね(^_^)

「歴代の当主、マッチョはまれで、病弱な人が多かった」のですか。
そんなところも、竹中半兵衛の血を引き継いでいるのかもしれませんね(^-^*)
返信する

コメントを投稿