先回に続いて、佐成謙太郎『謡曲大観』全7冊の内の第一冊目、首巻(写真右端)の後半部です。
首巻の主な内容は、「能楽畫譜」「能楽総説」「謠曲細説」の3つですが、今回は、「能楽総説」「謠曲細説」です。
まず、「能楽総説」です。
194頁も有り、これだけで通常の本一冊の分量です。
まず、能楽の生成を、その源流から探っています。日本書紀や續日本記などの資料を示しながら、歌舞の起源を、神楽舞、伎楽、散楽などに求めようとしています。そして、能の原型である申楽が散楽から派生したのではないかと述べています。
そして、申楽、田楽が、能、狂言へと展開していく歴史を、資料に基づいて記述しています。
佐成謙太郎『謡曲大観』の最大の特徴は、著者が、出来得る限りの文献、資料を渉猟し、それを本文中に示していることです。
能楽は歴史が古いので、関連する資料は膨大です。一方、新事実の発見や画期的な資料の発掘は、そうそうはありません。明治以来、今日まで、発見の名に値する物は、明治41年、吉田東悟博士による『風姿花伝』(花伝書)をはじめとする『世阿弥十六部集』がほぼ唯一のものと言ってよいでしょう。
したがって、能楽研究は、既存の資料をどのように渉猟し、再評価し、新たな視点をまとめあげるかという点にかかっています。『謡曲大観』は、著者佐成健太郎がそのことを強く意識して著した本です。その点が他の類似書と大きく違います。
さらに、能楽の中で重要な位置を占める謡曲について、概説しています。
、
なかでも、七五調詞章である謡曲の修辞法が興味深いです。
今の我々には、謡いの文句は特別なものに聞こえます。が、室町時代に成立した能の詞章、謡曲には、和歌の影響を強く受け、様々なことば遊びが散りばめられています。
縁語、掛詞、序詞の例として・・・・
縁語:
「汐汲車わずかなる浮世をめぐるはかなさよ」(能、松風)
車→わ、めぐる
掛詞:
「住み果てぬ住家は宇治の橋柱、立居苦しき思ひ草、葉末の梅雨を憂き身にて、老い行く末も白眞弓・・・」(能、浮舟)
宇治→憂し、橋柱→立、苦しき思ひ→思ひ草、白→知ら(ぬ)
その意味は、「宇治の里にも永く住み果てることができない、何に付けても心苦しい物思いをする哀れな身上で、この後老い先もどうなるかわからない・・・」(第一巻316頁)
折字:
「竹に生まる鶯の、竹生島詣で急がん」(能、竹生島)
竹、生き→竹生
数詞:
一つ、二つ、みつ、よる
第一、二つ、のみ、四海
こういったことば遊びは、戯れごとに思えますが、当時は、気の利いた言い回しであり、それを理解するセンスを備えた教養が求められる社会であったのです。
能はシリアスな物語が多いのですが、ストーリー的には、最期に仏の力によって救われるなどのハッピーな顛末が用意されているのと、詞章にことば遊びが散りばめられていることによって、全体のバランスが保たれ、人々に広く受け入れられてきたのだと思います(私見(^^;)
謡曲を作者別にあげています。
類書の多くも同様の項目を設けています。しかし、どのよう曲を誰が作ったかについて、明確な物は少ないのです。ですから、伝○○作という記述が多くなるわけです。
この本の場合、信頼度の高い3種の著作、◎世阿弥十六部集、◯吉田兼時『能本作者註文文』、△観世元章『二百十番謠目録』に載っているかを記しています。
たとえば、相生(高砂)のが世阿弥作とあるのは、◎世阿弥十六部集、◯吉田兼時『能本作者註文文』、△観世元章『二百十番謠目録』すべてなので、◎◯△の記号が付いています。養老、老松、頼政なども同様です。卒塔婆小町などは、◯がついているのみですから、『能本作者註文文』にだけ世阿弥作となっていることがわかります。
謡曲の作者も含めて、現行の謡曲235番を分類表にまとめています。
各曲について、観世、宝生、金春、金剛、喜多の五流のどの謡本に相当するかを表にあらわし、さらにその曲の能柄、役割、所、時、原作者名、そしてその曲名が最初に記録に現れた年を記しています。
これによって、能楽における謡曲の全体像をつかむことができます。
最後の「謠曲細説」は、164頁のボリュームです。
内容は非常に多岐にわたっていますが、その中で和歌と俳句に関係した部分を紹介します。
謡曲には、多くの歌が引用されています、
上代では、古事記や万葉集などです。
古今集以降、引用される和歌の数は非常に多くなります。
古今集からの歌が、21頁にわたって載っています。
後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千歳集からの歌は14頁。
新古今集からは10頁。
さらに、伊勢物語や
源氏物語からも、多くの和歌が引用されています。
また逆に、謡曲は、俳諧、歌舞伎、浄瑠璃などに大きな影響を与えました。この事は、前述の「能楽総説」に書かれているのですが、話の都合上、ここに載せます。
有名俳人たちの句で、謡曲に関係したものがあげられています。
たとえば、
「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」芭蕉
「あら何ともなや」は、能『船弁慶』の前シテ、静の言葉です。
義経は、兄頼朝から疑いをかけられ、弁慶たちと共に都を出、攝津国大物浦から西国へ落ちようとします。静御前(シテ)も、義経を慕ってついて来ます。弁慶(ワキ)は、都へ留まるようにと、義経の言葉を静に伝えます。
ワキ「さん候我が君の御諚には。波濤をしのぎ伴われん事。人口しかるべからず候あいだ。まずまず静は都へ御帰りあれとの御事にて候。
シテ「これは思いの外なる仰せかな。いずくまでも御供とこそ思いしに。頼みても頼み少なきは.人の心なり。あら何ともなや候。
芭蕉は、ここからの文句を借りてきて、河豚汁を食べたが何ともなかった、という句をしたてあげたのですね(^.^)
有名なもう一句。
「面白うてやがて悲しき鵜舟かな」芭蕉
確かに今でも、華やかな鵜飼が終わってみれば、さっきまでの喧騒が幻のような感覚がすると同時に、えもいわれぬ物悲しさを覚えます。
しかし、能『鵜飼』を見れば、この句の解釈は変わります。この能は、鵜舟を使って禁漁を犯し、それが発覚して殺された老漁師の物語なのです。老人は、夜漁に出て、面白いように魚を捕まえることができました。しかし、その後、悲惨な運命がまっていたのです。
江戸時代の俳人にとって、能の素養は必須のものであったようです。
今の私たちも、能、謡曲に親しめば、江戸時代の俳句をより深く理解できるようになると思います(^.^)
ましてや、この膨大な本を書くとなったら、気の遠くなるような知識が要求されますね(><)
遅生さんのお陰で、ほんのちょっぴり、この本に接することが出来、教養が高まったような気がします(^_^)
が、やり始めたからには、退却は不可😅
教養は飯のタネにはなりませんし、なくても困りませんが、あったほうがいいと思うのです。
教養が少しふえると(高まる所までいかなくても)、少し得をした気分になります。
教養ネタは何でも。Drの古伊万里も私にとって宝の山😊