灯火管制とは、戦時中、夜間の空爆時、爆撃機の目標にならないよう、灯りを消したり、覆って減光したりして、光が外へ漏れないようにすることです。日本だけでなく、戦時、各国で行われましたが、レーダーの発達とともに、意味がなくなりました。
今回は、日本で使われた、灯火管制用の小物です。
レザーのように見えますが、丈夫な蝋ひき紙でできた品物です。
口には、紐がついています。
折り畳んであるのを広げると
灯火管制用のカバーです。
折り畳まれたものをさらに開いて、筒状にします。
空襲警報発令!
急いでカバーを取り付けて、外へ明かりが漏れないようにします。
もう一種類ありました。
灯火管制用の電球です。明暗切替用、というのがポイントです。
マツダ(東京電機株式会社)製、特許をとっています。
大仰なコピーで、東部防衛司令部認定済。関東方面で使用か?
東部防衛司令部:昭和10年8月1日に防空のため新設された陸軍の役所、東日本を担当。
いろいろな明るさの品が売られていたようです。
今回の品は、10W ←→ 0.5W、10W←→ 0.15W の2種類、2~3畳用です。
いずれも、明←→暗、20分の1以下に、明るさを切り替えて、減光することができます。
元々、電球の側面には遮光剤が塗られており、下方だけに光が出る灯火管制電球です。
ポイントは、口金。バネになっていて、動きます。
電球をねじ込む回数によって、スイッチが切り替わるようになっています。
いっぱいに回して奥まで入れると・・・・明るく灯ります。
電球を2回ほど回しゆるめると・・・・・暗くなります。
空襲警報がなったら、ゆるめる。
これらの小物を実際に使ってみると、電灯カバーの付け替えはかなり手間のかかる方法であることがわかりました。しかも、口を締める紐が細すぎて、何度も使うのには向いていません。消耗品だったのかもしれません。
それに対して、灯火管制用電球の方は、スグレ物です。電球をひねるだけで減光ができます。電球の内には、2種類のフィラメントが入っていて、口金の押され具合によって、切り替わるようになっているのです。
この品を作ったのは、東京電機株式会社、後の東芝です。
東芝の始まりは、からくり義衛門こと、田中久重が、明治8年、東京銀座に設立した電信機工場です。弓曳童子や万年時計の開発で知られる彼は、独創的な技術で日本を代表する電気メーカーの基礎を築いたのです。以来、そのフロンティア精神は受け継がれ、世界的な電気メーカーになりました。戦時中の灯火管制用ランプも、ささやかな品ですが、東芝らしさがみられて微笑ましい。
しかし、現在、東芝は、瀕死の状態にあります。もはや、電機メーカーの体をなしていません。
そんな状態になってしまったのは、原発事業に手を出したからです。原子力発電は欠陥技術であり、今後も、技術的進展の可能性はありません。放射性廃棄物を合理的に処理する方法は存在しないのです。
創業以来の技術主義を捨て、政府の原発政策にのってしまった結果がこれです。
創業者・田中久重は、お盆にもどってきているかもしれません。会社の惨状を目の当たりにして、彼は何と言うでしょうか。
東芝の電球は画期的ですね。簡単に明りの調整が
出来るのが素晴らしいです。
その当時の不便を解消して命を守っていたのですね。
それにしても、もし空襲で焼けなければ、相当量の美術品、文化財が残っていたでしょうね。骨董品や民具も。沖縄なんかすべて焼きつくされ、今現地にある古琉球漆器は、すべて戦後、本土から来た物です。
映画のシーンで見たくらいです
カバーや実際の電球が保存されていること 貴重な戦時資料ですね
東芝の経営は 原子力に手を出すまでは 世界有数企業でしたね
土光さんも確か東芝の社長から 経団連に出ていたと記憶しています 良き時代です
電傘やソケットも当時の物でしょうか。
見栄をはって、モダン電傘をつけてありますが、他の場所の電傘は白ガラスです(笑)。一応、これらは当時物。同じ電傘でも、コピー品は、使っているうちに色のいやらしさが目につくように・・・陶磁器などと一緒で、長く見ていると何となくわかってきますね・・・・・これまで、どれだけ情けない思いをしたことやら(^_^;)
灯火管制は、かなり徹底してやられていたようで、当時はもう、日常事だったんでしょうね。
とりとめもなく集めてきたガラクタですが、何かの役にたつこともありそうです。
東芝をはじめ、日本の製造業はどうなるんでしょうか。何かをはきちがえしている気がします。かつて、政治は三流、経済は一流、と言われていましたが、今や、両方とも四流!?