今回の品物は高札ではありません。高札と非常によく似た物で、生産所の掟札です。
生産所(生産会所)とは、明治初期、殖産振興を目的として設けられた金融機関です。明治元年十一月頃から、日田、大阪、函館などで地元の有力者によって設立された組織です。当初は、質屋と両替商を兼ねていました。しかし、資料に乏しく、詳しい事はわかっていません。
生産所質貸掟高札(高札№13)は、この質貸しの掟を記したものです。
29.1㎝x 、厚 53.6㎝。重 1.32㎏。明治3年10月。
掟
一質貸之儀者品々出所を相糺し可申ハ
勿論無據手詰り候処よ里質物持参
致し候事ニ候得ハ正路之取引専一之事
一不正之所常々恵念致し居訝ケ敷
相見候ハゞ取押置可訴出事
附不正之品と心付預り置候ハゞ鑑札
取上咎可申付事
一無鑑札ニ而質貸致し候ハゞ見聞次第可訴事
一質貸六ケ月限之事
一仲間之内組々ニ而年行司役両人
相立毎年七月参会之上不正路之
取扱等無之哉堅取締可致不用
者ハ鑑札取上可申事
明治三庚午年
十月 生産所
(裏面)
一鑑札譲引之節年行司
押印之事
表書之通相改申渡候條々
添以相守可申者也
(意訳)
掟
一質貸しについては、品物の出所を調べるべきことはもちろん、拠り所無く、金に困窮した所から品物を持参した場合、 正しい方法での取引に力を注ぐこと。
一不正の所を常々気にかけておき、不審な物を見た場合には差し押さえて、通報すべきこと。
附、不正の品と気づきながら預かり置いたばあい、鑑札を取り上げること。
一無鑑札で質貸しを行っているのを見聞きしたら、直ちに通報すること。
一質貸しは、六ヶ月に限ること。
一仲間の内、組々で年行司を二人立て、毎年七月に集会をもって、不正な取引等がなかったかを厳しく調べ、不届き者は、鑑札を取り上げること。
明治三庚午年
十月 生産所
(裏面)
一鑑札を譲り渡すときは、年行司が印を押すこと。
表書きの通り改め、申し渡す事柄を守るべきものである。
この生産所板札には、「掟」と書かれていますが、いわゆる高札ではありません。屋外に掲示された形跡はなく、生産所内に掲げられていたものでしょう。書かれている内容も、生産所の会員向けの決まりであり、質貸し業が、円滑に行われるようルールを定め、会員に周知徹底するためのものであったと考えられます。
この板札には、地名など手がかりになるものはありません。しかし、品物の出所からすると、岐阜県内の物と考えられます。しかも、生産所は全国にそれほど数多く作られたわけではありません。生産所に関する正確な資料やデータは乏しいですが、岐阜県では、加納藩が設置した長刀堀生産所(JR岐阜駅の南南東1㎞)が唯一知られています。
生産所は後に、太政官札を用いた金融業も担うこととなりました。太政官札は、日本初の全国に通用する紙幣です。新政府は、戊辰戦争による財政難の解決と産業振興を目的として、慶応4年4月、通用期限13年の太政官札を発行しました。しかし、それまでの藩札に対して、金銀銭との交換を保証しない不換紙幣に人々が慣れていない事に加え、政府への信用がまだ十分でなかったため、流通は困難を極めました。そこで、政府は生産所に太政官札を融資し、その運用を行わせたのです。そして、一般へ貸し付けを行い、利子をとる銀行業も行ったのです。
しかし、明治15(1882)年の「日本銀行条例」などの制定により、円を通貨とする新しい貨幣制度が定着し、太政官札の使命が終わるとともに、生産所もその役割を終えました。
外見は似ていますが、内容は随分と違うようですね。
これを読んで蒐集し、その時代背景まで調べる姿勢には頭がさがります。
これぞ、捨てられるようなゴミのような存在のものが「故玩」となる瞬間ですね!