これまで、何回かにわたって、五榜の掲示について書いてきました。そして、明治初期という激動の時代を反映して、五榜の掲示をめぐる情勢は、発布から撤去までの6年間にめまぐるしく変化しました。主なものは、次の4つの布告によるものです。
1.五榜の掲示発布
慶応4年3月15日 太政官布告 第百五十八号
『諸国旧来ノ高札ヲ除却シ定三札覚二札ヲ掲示ス』
2.第二札『切支丹禁止』の改訂
慶応4年閏4月4日 太政官布告 第二百七十九号
『切支丹宗門及ヒ邪宗門禁止ノ制札ヲ改ム』
3.第五札『郷村脱走禁止』の撤去
明治4年10月4日 太政官布告 第五百十六号
『戊辰三月掲示ノ高札中第五札ヲ取除カシム』
4.五榜の掲示の撤去(高札制度の廃止)
明治6年2月24日 太政官布告 第六八号
『府縣ヘ 布告発令毎二三十日間便宜ノ地ニ掲示シ並ニ従来ノ高札ヲ取除カシム』
このうち、1.五榜の掲示発布と2.第二札『切支丹禁止』については、すでにブログで詳しく見てきました。
今回は、3.第五札『郷村脱走禁止』の撤去を取り上げます。実際の掲示時期がはっきりしないこと、地域や掲示時期による違いがあること、第三札『切支丹禁止』の条文が最初の発布からすぐに変更されたことなど、五榜の掲示については、不明な点や意外な出来事がいろいろあります。
しかし、高札が途中で撤去となったのは、第五札『郷村脱走禁止』の撤去以外にはありません。
第五札『郷村脱走禁止』を再度載せます。
(意訳)
覚
王政御一新であるので、速やかに、天下は平定され、万民が安心して暮らせるようになった。そのことを、よくわきまえるよう思い煩っておられる。ついては、この時節、天下浮浪の者がうろつくようではならぬ。今日の形勢を窺い、士民達が勝手に本国(郷土)を脱走することは堅く禁じられている。万一、脱国を致す不埒者がいた場合は、主宰者の落ち度となるであろう。
ただ、この御時節であるので、身分の上下に関係なく、皇国の為や主家の為などに建言を行う者は、その提言を採る道を開き、公正な立場で、その考えを聞き、郷土出国の願い出を、太政官(役所)へ、申し出ることができる。
ただし、今後、武士の奉公人はもちろん、農民、商人の奉公人に至るまで、すべて雇用を行う時は、出身地をしっかりと調べよ。もし、脱郷者を雇い、とんでもない事態に至った場合には、雇用主の罪となろう。
明治元年三月 太政官
明治4年10月8日、この第五覚札は、突然撤去されました。廃藩置県の三か月後です。
その時の太政官布告には、
「去ル戊辰三月中掲示候高札之内第五覚札自今可取除事」
とあり、「高札を除去せよ」と言うだけで、その理由は全く述べられていません。
明治2年6月17日の版籍奉還を経て、明治4年7月14日には廃藩置県がなされており、幕藩時代の政策を引き継いだ郷土脱走禁止令は、もはや意味をもたなくなってきたのでしょう。なお、岐阜縣の発足は、明治4年7月14日(先行する笠松縣は慶応4年5月13日)です。
この第五札は、王政復古をとなえる新政府が出したものですが、王政復古の理念と藩政に依拠した郷土脱走禁止令とは、もともと相容れないものでした。高札の文面では、脱国禁止について、「天下浮浪の者がうろつくと平和な世が乱れる」と苦しい理由付けをしています。その一方で、「新時代に入ったので、前向きに生きようとする者には、提言を聞き入れ、出国を認める」とも言っています。さらにその後に、「浮浪者を雇った者は処罰する」と述べています。
このように、第五札の内容自体が、行きつ戻りつを繰り返す矛盾に満ちた妥協の産物であり、このまま掲示を続けることは、いずれにしろ難しかったのでしょう。ですから、理由も述べずに撤去となったと思われます。