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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

巣籠りの効用3 正徳元年の大錫鉢、共箱で発見(金工23))

2020年11月23日 | コロナに負けるな

先のブログで、行方が知れなかった長崎螺鈿の入っていた大箱を発見した事を報告しました。

その時、足元に汚れた大箱がもう一つありました。

おお、ひょっとしてこれは・・・・・・

 

相当に古い箱です。

 

箱はボロボロ、字がかなり薄くなっています。

正徳元歳  鼠〇〇
鈴鉢壱入  五〇伊
 卯ノ極月吉日

 

此鈴鉢松之助家より被下候
松之助伊右衛門孫也
 
この鈴(錫)鉢は。正徳元(1711)年四月、松之助家よりいただいたとあります。
松之助は、伊右衛門の孫ということでしょうか。

中には、錫の大鉢が入っています。

この品は、20年ほど前に入手したのですが、例によって、一度ちらっと見ただけで、以後、他のガラクタの中に埋もれていた物です。

金工シリーズのブログを書こうと品物を物色していた時、錫の鉢があったのを思い出し、かなり探したのですが見つかりませんでした。それが、何でもない所に転がっていたのを、今回、発見したわけです(^^;

 

正徳年号は、故玩館にある品の箱書きの中で、3番目に古いものです。

また、古い錫製品で、江戸の年代がわかる品は少ないと思います。

 

『錫大鉢』 径 31.0 x 高 11.2㎝、2.0㎏。 正徳元年。

 

裏底には、「御錫屋 天下一 美作守」の銘があります。

 

「大坂の錫器製造は、後述するように錫屋の老舗として近代に一世を風靡した「錫半」の初代半兵衛が、京都の「天下一美作守」を称する錫師に師事し、正徳 4 年(1714)に心斎橋北で開業したと伝えることから、同時期に京都の流れをくむ職人が大坂で営業したのが始まりとする説がある 」大阪の伝統工芸 ―茶湯釜と大阪浪華錫器―、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、平成20年

「御錫屋 天下一 美作守」は、京都の錫製造屋で、大阪が錫器生産の中心地となる前の江戸時代前中期、京都の錫屋が日本の錫器生産を担っていたようです。

大阪、初代半兵衛が「天下一美作守」の下で修行し、「錫半」を興したのは、丁度、この錫大鉢ができたころだったのですね。

「御錫屋 天下一 美作守」の錫器は、ほとんどが大型の茶壷や瓶子で、今回の品のような鉢は少ないと思います。

 

桜の透かし模様が生きていますね。

桜の花びらが3枚、枝桜が3種、ぐるっと配されています。

 

 

 

 

高級品だった錫大鉢には、このような繊細な細工が施され、各部の仕上げも丁寧になされています。

 

ところが、3本の脚の内側は粗削りのまま。

落差がおおきいですね(^^;

 

また、見込みの部分を拡大して見ると

写真のまん中付近に、2個続いた小穴(1mm位)が見えます。

他にも小孔がいくつかあります。

これは明らかに腐食による孔です。

物の本には、酸化錫の被膜が表面を覆うので、錫は、腐食しないとあります。しかし、300年も経つと、厚い(4㎜ほど)錫にも穴があくのです。

 

この錫大鉢の特色は、瀟洒な繰り抜き桜模様です。桜模様には、花弁の無いものがいくつかあります。よく見てみると、元々は他の花びらと同じだったのですが、中の細い線が切れてなくなっているのです。

柔らかな錫ですから、細線の部分が毀れやすいのでしょう。

ということは、この鉢はかなり使い込まれた可能性が高い。見込みの小穴も、頻繁に使用されて腐食が加速されたと考えれば納得できます。

 

では、錫の大鉢は何に使われたのでしょうか。

ヒントは、以前のブログにありました。

江戸の小謡集『拾遺小諷小舞揃』(元文2(1737)年)の上欄、プチ教養に、食の作法が載っていて、その中に「瓜の包丁の事」があります。

瓜の包丁の事
うりむきやう
一 いまだはじめの時ハ、わりて
錫の鉢に入、涼して参らする也。
大ならバ皮をむくべし。わり様
大小によるべし。

 

包丁で皮をむいている若者の傍らには、今回の品と似た錫鉢が置いてあるではないですか。

江戸時代、錫鉢は、果物入れに使われていたのです。

地味な肌合いの錫鉢は、果物と相性が良いのですね。

例年、畑に数種類の瓜を作っているのですが、来年は、江戸時代、地元の名産品であった真桑瓜を栽培し、この錫大鉢にのせてみます。

剥かぬ瓜の皮算用(^.^)

 

 

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巣籠りの効用2 古文書でジグソーパズル 写本 伊勢貞丈『婚礼法式』

2020年11月21日 | コロナに負けるな

コロナが始まってからずっとやっていたことがあります。

古文書の整理です。

特に手間どったのがこれ。

160丁ほどの大部の写本です。右側に穴をあけ、紙縒りでとめてありました。

ところが、綴じてある順番が全くデタラメなのです。

頁番号はどこにもふってありません。

目次も無し。

もう、地道に、繋がった文を捜しだして、頁をつなげていくという作業を繰り返すしかありません。

これは、160ピースのジグソーパズルを解くようなものです(^^;

 

こんな感じです。

 

ところが、左頁として綴じてあったこの紙は・・・

本来は、反対の左側に穴があって、右頁にくるべきものであったのです。

裏返せば、前頁(左頁)となります。

 

『婚礼法式』とあり、この写本の最初の頁であることがわかりました。

 

こんな感じで、全体の三分の一ほどが、反対側に穴があけて綴じてありました(^^;

 

おまけに、全然関係のない、別の写本も紛れ込んでいました。

『銃備略叙』嘉永年の写本です。が、4丁のみ。

 

このように滅茶苦茶な写本の綴りを、少しずつ処理をして、最終的に、12のブロックにまとめました。

ここまでで、4か月ほどかかってしまいました(^^;

問題はここから先です。

最初と最後の部分は、すぐにわかりました。

しかし、他のブロックは、互いの前後関係が全くわかりません。どのようにも組み合すことが出来るのです(^^;

作業は、ここで完全に行き止まりました。

ヤレヤレ、4か月をムダに費やしたのか・・・・・

 

そうだ、苦しい時のネット頼み。

なんと、国会図書館デジタルに『婚礼法式』があるではないですか。

あとはもう、鼻歌まじり(^.^)

 

伊勢貞丈『婚礼法式』明和2年

 

上流階級の婚礼法について、多くの図をまじえ、非常に詳細に記述された物です。その一部を紹介します。

 

「たのミの部」から始まります。

「たのみ」とは、結納に相当する儀式。

 

座敷違棚の置物。

 

雉と鯉の置き方。大草流。

 

銚子とひさげ。

 

銚子、ひさげに付ける折形、蝶。

 

貝桶の図。

 

手箱紐の結び方。

 

「夜具の部」、こしまきの図。「とのい物」「おんそ」とも言うと記されています。

 

明和2年に、伊勢平蔵貞丈が著した『婚礼法式』の写本であることがわかります。

なお、最後の頁は、国会図書館の『婚礼法式』にはありません。

 

ところが、東博デジタルコレクションに、この最後の頁が付加した写本がありました。

   東京国立博物館デジタルコレクションより

 

寛政八年と十二年の違いがありますが、『婚礼法式』の本体部分も含め、故玩館と東博の品は、ほぼ同じです。

 

私のジグソーパズルで完成した写本と東博デジタルコレクションは、いずれも、伊勢万助貞春が、伊勢貞丈『婚礼法式』を写して、人に与えるためのものだと思われます。

東博デジタルコレクションの写本はその雛形で、相手の名が入っていません。

一方、故玩館の写本は、伊勢万助が、伊勢貞丈『婚礼法式』を写して、伊勢流礼法家、土井主税に与えた物です。

 

室町時代、将軍の命を受けて発足した伊勢、今川、小笠原の礼法は、江戸時代に入って急速に発達しました。各流派、特に小笠原流の興隆とともに、礼法を教授する礼法家が多数生まれ、混乱も生じました。

その中にあって、江戸中期、伊勢流礼法家、伊勢貞丈は、多数の文献を渉猟して、考証を重ね、礼法を根本的にまとめ直しました。博覧強記の彼の研究は、武家制度、典章、弓馬、武器武具、服飾、婚礼などの諸分野に及び、300以上の書を著したと言われています。

伊勢貞丈は伊勢流中興の祖であるのみならず、日本の礼法を語る時、筆頭にくる人物です。『貞丈雑記』『包結記』『安斎随筆』『安斎雑考』『安斎小説』『武器考証』などが有名で、そのうちのいくつかは、近年、再刊され、読むことができます。

 

伊勢万助貞春(宝暦十―文化九(1760-1813)年)は、伊勢貞丈の孫(養子の子)、土井主税は伊勢流の礼法家です。伊勢万助は、伊勢貞丈の著作の普及に努めました。

 

折形など礼法関係の資料は、故玩館コレクションの一つです。いずれ、まとめて紹介します(^.^)

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巣籠りの効用1:長崎螺鈿の共箱発見

2020年11月19日 | コロナに負けるな

以前のブログで、大きな長崎螺鈿広蓋を紹介しました。

 

幅 41.7㎝ x 長 60.1㎝ x 高 13.2㎝

 

漆黒の中に、花鳥が浮かんでいます。

 

大きな物が、畳の上にデンと居座ったままなので、早く何とかとの御催促。

ところが、この品が入っていた箱が見あたりません。

ひょっとして粗大ごみに出されたか?と疑ってみたのですが、こんな大きな物なら目につくはず。

悶々としながら、半年が過ぎてしまいました。

どーせコロナで出かけることもないし・・・・ガラクタの整理をしていると、片隅に古びた箱があるではありませんか。

自分で置いておいて、忘れていました。完全に記憶がとんでいます(^^;

 

      45x64x15㎝

巨大な文字で、

「大硯蓋

   七代目 文右衛門調之」
と書かれています。
 
硯蓋は、広蓋とほぼ同じで、祝物などを載せる台です。
 

蓋の裏には

 

「 慶應弐寅年
  五月上旬英勝
  普請奉行役中
  調之候事 」
 
慶応二年五月、七代目 文右衛門英勝という人が、普請奉行の仕事をしていた時に、この品を調達したことがわかります。
 
慶応二年と言えば、風雲急を告げる幕末。そのさなかに、英勝さんは、長崎で何かの工事の責任者を務め、記念に螺鈿細工の大盆を買って帰ったのでしょう。
 
どんな人物であったのか、想像をめぐらすのも楽しいですね。
 
コロナ禍で家の中をウロウロすることがなかったなら、この箱は行方不明のままだったでしょう。
巣籠りの思わぬ効用でした(^.^)

 

 

 

 

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青春グラフィティ

2020年09月11日 | コロナに負けるな

どっと積んである本の間に埋もれていました。半世紀ぶりに表へ。

10年前、能、骨董関係以外の本3000冊と一緒に、レコード・CD数百枚ほどを処分したのですが、まだ何枚か片隅に残っていたようです(1963-73年)。

 

     

物は残っても、青春はとうに失せています(^.^)

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コロナ禍の火事場泥棒。暗愚宰相と経産官僚。

2020年06月07日 | コロナに負けるな

 コロナもまだ終わってはいませんが、ここへきて、アホノマスクどころか、信じられないような事が次々と起こっています。

新コロナウイルス対策と称して実施する観光需要喚起策「Go To キャンペーン」や中小企業に現金を支給する「持続化給付金」です。

いずれも、あやしげな事務局や法人が窓口となって受注し、手数料や人件費、数百億円を取って、企業に丸投げ、そしてさらに別の企業に下請けに出す・・・・古くからある税金還流システムです。

要するに、コロナのどさくさに紛れて、税金を数百億円(数兆円?)単位でチョロマカそうというわけです。

受注先に、ブラック企業電通や大学教授の仮面をかぶった政商、竹中平蔵が登場するとなると、もう、役者がそろいすぎですね。

蔭でコソコソならまだしも、こんな茶番劇を、国民の前で堂々と行う・・・・普通の感覚では理解できません・・・なぜ?

鍵は、経済産業省(以前の通産省、戦前は商工省、軍需省)にあります。暗愚宰相殿には、政策を打ち出せる能力はありません。で、どうするか?官僚の利用です。もともと、日本には、政治家がいなくても国が回っていく官僚機構ができあがっていました。下手な政治家が何かするよりは、よほどマシなシステムです。

ところが、とてつもなく下手な政治家が出てきてしまったのです。暗愚でもズル賢さには長けていた。官僚を締め上げて、奴隷として奉仕させる・・・佐川は哀れでしたね。国税庁長官職と引換えに、悪魔に魂を売る・・・これでは、若い頃に佐川が愛読したという『孤立無援の思想』でなくて、『アベ盲従の悲哀』。大枚の退職金でチャラになったか?それとも学歴コン〇レックスの宰相にいたぶられて、倒錯した快感を味わっていたのか?(^^;

しかし、いつの時代も、毒を喰らわば皿まで、の人間が現れるものです。それが、首相補佐官です。特に、現在は、経産省出身の今井という補佐官が主要な政策を立案しているといいます。あの、アホノマスクも彼の発案とか。うーん、大したことのない人間だ(^^;  

日本のヘスなくして日本のヒットラーなし(><;)

このお笑いコンビは、汚染マスクが出ようと知ったことではありません。事のついでに、検品名目で何十億でも税金バラまけばいい。転んでも、火事場泥棒根性はぬけず、ちょっとやそっとでは、へこたれないのです。なぜこれほどまでに?

その理由は・・・税金で甘い汁をすう・・・両者の利害が一致

官僚には、少数ですが高い志をもち、頭の下がるくらい真面目な人がいます。逆に、自分の出世と利権にしか興味のない人間も。要は、その比率です。国家、国民の台所を預かっているという自負がある財務官僚はまだしも、経産官僚や国土交通官僚には、利権に敏な人間が目白押し。これが、暗愚宰相と経産官僚が結びつく理由です。国家、国民はどうでもいい。関心は、どうしたらウマイ汁が吸えるかなのです。

そのルーツは、経産省の前進、戦前の農商務省(後の商工省、軍需省、戦後は、通産省、経産省)にあります。そして、農商務省官僚中の官僚が、暗愚宰相の祖父、岸信介なのです。

岸信介は、東京帝大在学中、社会主義に興味をもち、マルクス資本論を愛読するほどであったと言われています。戦後、武装闘争時代の日本共産党員だった、読売新聞、渡部恒三の若い頃に似ています。その後、大川周明らの国家社会主義に傾倒し、農商務省に入り、国家統制経済のリーダーになってゆきます。そして、革新官僚として満州国に赴き、実質的な責任者となって、ソ連風計画経済を展開していきました。しかし、これは表の顔で、裏では様々な工作をしていました。当時、指揮者小澤征爾の父、小沢開作は右翼の大物で、満州に五族協和の理念に基づいた理想国を建設しようと活動していました。彼は戦後、次のように回想しています。「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ。地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした。」その後、岸は満州を舞台にアヘンビジネスを展開し、途方もない金を手に入れるのです。この資金で軍を動かし、東条英機を首相に押し上げます。戦争を実質的に展開していたのは、岸信介だったのです。彼にとって、五族協和や八紘一宇は、ビジネスのための格好のスローガンであり、戦争という非常時は、ビジネスを堂々と展開できる好機であったのです。

戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されていた岸は、東条英機らA級戦犯7人が処刑された翌日、GHQ特別恩赦で無罪釈放となりました。突然の釈放は今でも謎ですが、一説には、アヘンの巨額裏資金でGHQを買収したのではないかと言われています。

もうおわかりですね、商工省官僚であった岸信介のDNAは、孫の暗愚宰相に引き継がれているのです。商工省をそもそものルーツとする経産省の官僚と共謀し、コロナ禍の非常時に乗じて、禁断のビジネスを白昼堂々と展開しているのです。

 

こんな話しばかりだと、暗澹とした気持ちになります。

そこで思い出すのは、ずいぶん前、里山めぐりをしていた時に出会ったKさんです。

かつては、暇さえあれば、鮎、アマゴ、イワナを釣り、野の草を摘む、そんな毎日を送っていました。そんな私の里山歩きの師匠は、Iさんです。飄々としたIさんの後を追いながら、いろんなことを学びました。Iさんは、里山歩きの達人で、野山のあれこれに非常に詳しかったのです。

そのIさんには、師匠がいました。Kさんです。私の大師匠になります。

Kさんは、実は、元通産省の官僚。丁度高度経済成長が始まったころ、若手官僚としてバリバリ働いていたそうです。そのころの通産省はそれこそ怖いものしらず。ずいぶん、目茶苦茶な事もあったそうです。そんな中、Kさんは、こんなことをしていたら、人間としてダメになってしまう・・・30代働き盛りに通産省をやめたのです。Kさんの3年下に、堺屋太一がいたそうです。堺屋太一も通産省をやめて作家になるのですが、本業はハッタリ屋。警世家のふりをして、行政や世間にハッタリをかませて、自分を売り込み、ビジネスを展開したのです。たとえ省庁は退いても、中味は目先のきく通産官僚であったわけです。

Kさんはというと、美濃の山奥に小屋を建て、自給自足の生活を始めました。少しばかりの畑を耕し、谷川で魚を釣れば、自分一人の生活は成り立ちます。Kさんの関心の一つが、食べられる野草や木の実探しでした。つくし、ヨモギ、ドクダミ、スカンポ、ワラビ・・・・誰でも知っている食べられる野草です。Kさんは、これまで普通に食べられてきた野草以外にも、食べることができる野草があるはずだと考え、いろいろ試していきました。その結果、野の草花や実の8割は食べられるという結論に至りました。

師匠Iさんから、大師匠Kさんの訃報に接したたのは、私が3回目の入院をしていた時です。仙人のような暮らしで、一生独身でした。その後、まもなくIさんも世をさりました。

私が一番残念なのは、大師匠Kさん、師匠Iさんから、食べられる野草とその処理法をしっかりと聞いておかなかったことです。

今、歳だけは、Kさん、Iさんに近づいてきました。しかし、里山歩きの達人には程遠い、不肖の弟子であります。

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