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イスラム教

2006-04-02 16:29:33 | 世界の宗教
イスラム教は西暦7世紀の始め、最後の預言者とされるムハンマド(マホメット)が
天使ガブリエルから神アッラーの啓示を受け、アラビア半島のメッカで
誕生した宗教です。

ユダヤ教、キリスト教を起源とし、唯一の神アッラーを絶対神とする一神教で、
教義はムハンマドが受けた神の啓示をまとめた「コーラン」を唯一の教えとし、
その内容は宗教的な教義だけではなく、社会・制度・生活の隅々にわかっている。
元々イスラムとは「神への絶対帰依・服従」を意味する言葉です。
イスラム教徒と指す「ムスリム」も「帰依した者」を意味する言葉です。

現在のムスリム人口は約10億人。
イスラム教の布教地域は。アラブ諸国(サウジアラビア等)、
非アラブ諸国(トルコ、イラン、アフガニスタン等)、
北アフリカのアラブ諸国(エジプト等)、サハラ以南のアフリカ諸国、
パキスタン、スリランカ、ミャンマーを含むインド亜大陸、東南アジア諸国、
ロシア、中国、バルカン半島など、西アジアを中心に全世界に広がっています。

いわゆるアラブ社会だけではなく、インドネシアやフィリピンなどの
東南アジアにまで広がっている事が大きな特色です。
また、パキスタン、バングラデシュ、マレーシア、インドネシア、
ブルネイの各国では、国教またはそれと同等の宗教として扱われています。

ムハンマド登場以前のアラブ地域は、部族間の闘争に明け暮れていました。
ユダヤ教やキリスト教などが、この地域に浸透していましたが、
人々の価値観の中心となっていたのは、多神教でした。

610年、イスラム教の創始者ムハンマドは40歳の時、
瞑想をしていたムハンマドは突如、啓示を受けます。
その啓示とは「アッラーこそ唯一神であり、ムハンマドは預言者である。
審判の日は近い、神の教えを広め人々を救え」というものです。

そしてムハンマドの布教活動が始まるのですが、メッカの商売人達は
ムハンマドが言うように偶像崇拝が悪いとなると、偶像崇拝者たちがメッカから去り、
商売に支障をきたすと考え、受け入れませんでした。

そこでムハマドは僅かな信徒達と共にメッカを見捨て、メディナへ移ります。
その後周辺部族を教化し、西暦630年、幾たびかの戦闘の後
ムハンマドはメッカを無血征服し、同時にカーバ神殿の偶像を破壊し尽くします。
この時、メッカはイスラム教の聖地となったのです。

メッカを奪還した翌々年、ムハンマドは永眠します。そして彼の死後、
イスラム共同体の指導者として預言者の代理人が定められます。
この代理人は「カリフ」と呼ばれ、後のイスラム教の発展の中で
重要な役割を演じることになります。

特に2代目のカリフ・ウルマの時には大征服が開始され、
イスラムの勢力範囲がアラビア半島全域に拡大します。
そして4代目カリフの時代にイスラム共同体は大いに栄え、
イスラム(サラセン)帝国と呼ばれる大帝国に発展、拡大します。

但し、こうした発展の裏で、イスラム共同体は常に内紛の火種を抱えていました。
2代目、3代目のカリフは毒殺され、4代目カリフとなった「アリー」の時代には、
ウマイヤ家との指導者争いが起こり、さらにイスラム教の世俗化に反発する
ハワーリジュ派という勢力も力を伸ばし、三者の間で争いが起こります。

そして661年、アリーはハワーリジュ派によって暗殺され、
ここに正当カリフ時代は終わります。その後イスラム共同体の指導権は
ウマイヤ家(ウマイヤ王朝)に引き継がれますが、アリーの死をきっかけに
イスラム社会は分断し、今日にスンニー派とシーア派という大きな二つの流れが
生まれます。

スンニー派の「スンニ」はスンナ(模範という意味)からで、
「ムハンマドの教えに従う」という意味です。
初代から3代目までをカリフとして認めており、
その後はウマイヤ王朝の子孫をカリフとしています。
イスラム教国家の大半が、このスンニー派で、イスラム教の約85%を占めます

シーア派のシーアは「アリーを支持する」という意味で、
アリーの子孫だけがイスラムの指導者だと考えます。
シーア派ではこの正しい光栄者をイマーム(指導者)と呼びます。
イラン・イラクの大半がこのシーア派です。

ウマイヤ朝、アッバース朝と時代を経てイスラム世界は空前の繁栄に迎えます。
それに伴いイスラム教の布教範囲も大いに拡大しました。
しかし様々な権力者達と独立・半独立を行い、イスラム共同体は
政治的には分裂した状態になりました。

11世紀末に始まった十字軍の侵攻は、こうしたイスラム世界の混乱と
分裂をさらに深めました。1095年~1291年の約200年間にわたって、
戦いが続きます。そして1258年モンゴル軍の侵攻によって
アッバース朝はついに滅亡します。

14世紀から16世紀にかけて、オスマントルコ帝国はアジア、
バルカン半島、地中海周辺アラブ諸地域を征服し、広大な統一国家を作り上げます。
そしてオスマントルコ帝国の王は自らカリフを称し、
スンニー派イスラム世界の守護者となります。

16から17世紀をピークに、イスラム教を奉じるオスマントルコ帝国は
キリスト教徒のヨーロッパの前に徐々にその力を失っていきます。
その後イスラム共同体は個々の民族の国家に分離・独立し、
イスラム教もそれぞれの国の事情によって様々な形態をとっていきます。

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