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サワノのお気に入りだけで構成するブログ

家具っていい。

2010-05-06 | 木工・家具(全般)
写真は父に呼ばれて あわてて見たTV番組を撮ったモノ↑
何枚か撮ってみたけど やっぱり動くモノは撮りにくい。
使える写真は2枚しかなかった。

「世界ふれあい街歩き」のイタリア。
途中から見たのでどこの都市なのかも分からないけど
どうやらアンティーク家具の修理をするオジサンの工房を訪問している模様。
トップの写真、ゴテゴテの彫刻はベッドのヘッド部分。

工房内には家具がぐちゃぐちゃに積まれていた。
アンティーク家具は一点モノで 大きさも形も揃わないので
保管するにはどうしたってぐちゃぐちゃになる....と思われる。

私はこのオジサンの話を聞きながら彼の工房を見て
思わず「家具っていいなぁ!」とつぶやいていたシアワセモノである。



今朝、5月の連休を交互に取ったため 久し振りに作業場でS氏と顔を合わせた。
「Sさん おはよ、久し振り(笑)!」
「うん、1週間振りだよね」

再修理のテーブルの塗装をお願いしようと剥離場へ行って
「Kさん このまま目立たない様に塗装することはできない?」
「キレイにはならないからダメだよ。いいよ、全部剥離するよ」

「今日は出荷が忙しい」とYさん。
「うち(木工)もまだまだ忙しいですヨ」
「そうだね、がんばろーっ!」

なんだか朝からみんなの姿勢が清々しくて格好良かった。
「今日も頑張ろう」と思えるシアワセモノなのである



BRITISH STANDARD

2010-03-28 | 木工・家具(全般)
これに魅せられている方には本気で怒られそうですが
Aladdinていうのはこういうカタチのストーブをいうのだと
ずーっと思っていました。
10代の頃 タイヤを背負っている車はみんな
Jeepというカタチだと思っていたのと同じです

先日 見せてもらったアラジンのストーブに
家具修理の仕事でよく見るマーク↓があるんだと教えてもらってビックリ!



ホントだ、これと同じマークの焼き印を修理する過程でよく見掛ける。
「BRITISH STANDARD」....会社名だろうか?
でもストーブと家具を同じ会社が作るかな....?
....作らないよな(←いやだから会社名がアラジンなんだって
仕事で身近なマークだっただけに知りたくなって 調べてみることにしました。

まず「APPROVED TO BRITISH STANDARD」で「英国基準」の意味。
それからBSI ジャパンによるとこれは「KITEMARK(カイトマーク)」という
英国における品質の保証をするマークなんだそうです。
日本でいう「JISマーク」みたいなモノだと思う。
なーるーほーどー。
ストーブと家具に付いているワケです。



うーーーん オモシロイ。
こういうコトはもっともっと知りたいと思う





天童木工ショールーム

2010-03-21 | 木工・家具(全般)
天童木工ショールームに行ってきました!
コレが答えです。
旅行先はもうお分かりですね

平日と第二土曜日のみ一般に公開されています。
このショールームの公開日に合わせて旅行の計画を立てました、
まさに今回の旅行の大本命。
ここまで来られる日が来るなんて、学生の頃は想像も出来なかった私。


入口を入ってすぐ、柳さんのバタフライ↓
誰もが認めるスツールの傑作でしょう。
最高の技術を駆使している上での このフォルムは「美しい」のヒトコトに尽きる。
これ以上のモノを、一体誰が生み出せるのか と さえ思ってしまう。



ムライスツール↓
この方は私の大学の先生でした。
思わず「田辺先生、お久し振りです」みたいな。
同じパーツを組み合わせてカタチ作るデザインはよく見掛けるけれど
ムライスツールを越える単純明快さには 幸か不幸かまだ出会えない。



この2つを見ると、改めて デザインとは技術との融合なのだと、
きっとコレが本来の「デザインすること」なのだと思わずにいられない。


そして日本のモダンデザイン代表作が続々↓





豊口さん、長さんの他にも剣持さん、磯崎さんなどビッグネームが並ぶ。
地方の家具メーカーでありながら
日本の代表作を作り続けてきた技術と歴史に脱帽する。
大手のメーカーにとっても厳しい時代だとは思いますが
どうかこのまま 伝統を守っていってほしい。


全然知らなかったのですがこんな仕事も↓しているんですね。
画面一番奥に写るのはクラロ ウォールナットの突き板↓




ずらーーーっと並んだダイニングセットの奥に
工場へと抜けるトンネルがあります↓



この先が工場....。
近未来的でカッコイイ
たまにこのトンネルから作業着姿の職人さんが寸法取りに来たりするそうです。
残念ながら立ち入り禁止。

トンネルの脇に置かれた古い高周波発信器↓





このイラストを見ると私が飛騨で見た曲げ木も 同じ要領です。
天童木工の成形合板についてはコチラをご覧下さい。

分かりやすい説明に思わず
高周波をかけることは無理でも 何かやってみたい衝動に駆られる。
学生時代 天童木工から講師を招いて行った成形合板の授業を受けたというO氏に
「やってみせて!」と かなり無責任に言ってみたら
実際にこの要領で3次元の曲面をカタチ作る難しさを問われた。
ううーむ....。
確かに。







そしてその3次元の曲芸(←笑)を可能にし飛躍的な進歩を遂げたのが
天童木工が誇る多方向油圧プレス↓ってわけですね。




以前ココで記事にしましたが
今も現役の様でpdWEBの「これが人気プロダクトの生産現場だ!」にも載っていました。
(全2P。写真はクリックで拡大できるので治具のアップも見られます)

ここでも予想以上に触発されてきた私。
やっぱり他メーカーの追随を許さないモノ作りをしているメーカーはいい。
なんと言ってもカッコイイ。
今度 高山に行ったら改めて飛騨産業のショールームにも行かなければ!
心に誓う私。



「Claps」

2010-01-13 | 木工・家具(全般)
福岡の「UNPLUGGED(アンプラグド)」、
静岡の「Dub-tail(ダブ-テール)」、
続く待望の第3弾は蔵王山麓 山形からClaps(クラップス)」。

ここをリンクするにあたっては少々 時期を見てました。
何しろ私に「アンティーク家具修理の何たるか」を約2年の間
忍耐強く教えてくれていたO氏が 我が社を退社したのは昨年10月末日。
最後の一ヶ月は20日以上残した有休を返上、残業までしたよねぇ。
ご苦労様でしたー。
....っと、あれからわずか2ヶ月余り。
独立の準備を整えろと言う方が無理でしょう。

いやー、それにしても
10月の静岡で「さみーからコタツ出した」と言っていたO氏が雪国山形とは。
がんばるねー

少し前 相方さんが担当していると思われるClapsのHP、ブログを拝見した所
以前 話に聞いていたALL WAYSな木製冷蔵庫が載っていました。
ふおぉー、カワイイ
そしてその後 詳細写メが届いたので これを機にリンク決行します。
以下の写真は全てO氏による撮影↓Thanks

  

「木製冷蔵庫」と呼んだのはあくまでも「電気冷蔵庫」の出現によるもの。
機能としては「ただの保冷箱」だったこの冷蔵庫は
明治30年頃から高度成長期に差しかかる昭和30年頃まで広く普及した。
上の扉の中に氷を入れ
保存する物を入れられるのは下の扉の中のみで 使用は小さく限られている。
ざっとネット検索してみるとおよそこんなふうに出ている。
基本構造は木で これにブリキやトタンを貼ったものもあったらしく
そんな感じの写真も幾つか見掛けました。

  

↑業務用冷蔵庫の様な取っ手がカワイイ。
もちろんマイナスネジ。

  

↑出来たらこのメーカーも辿りたかったけど引っ掛からない。
ネット上で見られる木製冷蔵庫の写真のほとんどは
この蝶番とは違う ちょっと独特のカタチをしたモノだった。
当時「家庭用」のことを「家庭形(しかも型でなく形)」と言ったんですねー。
「壹號」も最初何のことだか分かりませんでした。
「壱号」つまり「1号」ですね。
(O氏 よく読めたねー、この「いちごう」)


さて、ここClapsが持つ 他の家具工房にない最大の特徴は
代表者さんがコレクションし 販売もしている「古材」にあるでしょう。
古い建具なんかもストックがあるそうです。
その最大の特徴がClapsのHP上から発信されるには もう少し時間が必要ですね。
「古材」+「新しい材」は
O氏が我が社で培った技術と知識と経験が最も活かされるところ。
今後に期待デス!!

おっと、最近デビューしたブログも期待してマス!!





そしてついにお取り寄せしちゃいました!
O氏イチオシ、山形が誇るCybeleのラスクフランスです。
↓さすがサワノ家。
スウィーツに掛ける情熱はハンパない、段ボール箱買いです。







お世話になっているM家にも送ってみた所 大好評だったみたい!
うちもザクザク食べました。
おいしかったー



「Dub-tail」

2009-12-11 | 木工・家具(全般)
M木工のMさんから「HPが出来ました」とお知らせが届きました!
(Mさんに関する過去の記事はコチラ
なんとなんと、所属する会社の強力バックアップのもと
プライベートブランドを立ち上げてしまった!とのコト
(我が社も少しは見習えっての!)
そういえば前回 お会いした時に「HP作りたい」って言ってましたヨね?
有言実行、さすがですっ!


ではでは早速 訪問してみましょう♪

Dub-tail

おおーー!
すでに立派なHPですー!

「ダブテール」という響きが なんだか懐かしい。
高山の訓練校で制作したチェストの抽き出し、
前板と側板を組む際にダブテールマシンというホゾ加工の機械を使いました。
(向こう板と側板の加工はコーナーロッキングマシンでしたね)
加工されたホゾを見ると、言われてみれば確かに「鳩のしっぽ(dove-tail)」で
女のコ達が「カワイイ」と盛り上がると
男性陣に「(カワイイと言う)意味が分からない....」と言われたものです
ちなみに確かこの時、Yちゃんが調べてくれましたが
doveが野生の鳩、pigeonは食用...じゃない飼われている鳩、だったと思います。



....え。
Mさん そんなにダブテールマシンが好きだったのかな?
なんて ぼんやり思っていましたが
HPによるとMさんの「dub-tail」は造語で
「dub」には「レゲエミュージックにおいて
曲の一部分を強調したり効果を加えることにより 全く新しい曲を作り上げる手法」
という意味があるそうです!
ほえー、なるほど「ダブ」をかけているんですね。


それにしてもHP制作って画面構成も文章も個性が出ておもしろい!
Macの先生によると「これからのモノヅクリ、表現行為を担おうとする人は、
Webの基本の修得は欠かせない」そうですよ!
みんな頑張るなぁ!


....やばいぞ 私! ←ホントに思ってる?



「UNPLUGGED」

2009-11-25 | 木工・家具(全般)
「お前のブログ、スウィーツの事 意外は、内容がオッサンだな」
....っって、オイ。
せめて「オトコマエ」と言ってくれ
「スウィーツの事になると乙女全開だけど」
....フォローする気あるの!?



九州は福岡。
高山訓練校時代、クラスの誰より女子集客率の高かったシェフS氏のHPが
(というかいつも私と相方のKちゃん、Y姉さんだったけど)
リニューアルオープンしたとお知らせがありました

UNPLUGGED

早速 表敬訪問。
おーっと?
なかなかいいんじゃない!?
UNPLUGGED(アンプラグド)とは
「プラグを抜いた/電気楽器やアンプを使わない演奏」という意味。
カッコイイ家具は洗練された楽器に通じると思う、というS氏、
「一息つきませんか?」という意味合いも含めているそうです。

いやー
こんなにコジャレてるのにトップの写真が高山ラーメンでごめんね
だって他に高山関連の写真なかったんだもん。





そうだなー。
うんじゃ、来年辺り行きますかね、人生で3度目の九州。
美味しい手料理を食べに





.....い、いや違った工房探訪に!!



「工芸ニュース」

2009-11-22 | 木工・家具(全般)
写真は1959年の「工芸ニュース」より↑
福助ミシン(福助足袋KK 同社スタッフデザイン)、
トヨペットクラウンデラックスRS21(トヨタ自動車工業KK 同社スタッッフデザイン)、
キャノンポピュレール(CanonカメラKK 川田龍□デザイン)、
曲げ木スタッキングスツール(秋田木工KK 剣持勇デザイン研究所デザイン)、
ドーナツ椅子(KK天童木工製作所 同社スタッフデザイン)、
マツダD1100(東洋工業KK 小杉二郎デザイン)、
特急あさかぜ さくら
(日本車輌KK KK日立製作所 日本国有鉄道、高島屋、秋岡芳夫 他デザイン)
などが見られる。



1928年、当時の商工省(現在の経済産業省)の官僚だった 岸信介等が
各地の優れた伝統工芸に着目し その改善と近代化、同時に人材の育成を図る目的で
仙台に「商工省・工芸指導所」(初代所長 国井喜太郎)を開設した。
これが日本の工芸産業の指導機関の誕生。
何故 仙台か?と思ってしまいますが
これには東北地方の近代工業化をおしすすめる意図があり
(ここの「展示室」に面白いこと載ってます仙台デザイン史博物館
東京美術学校(1887年設立の云わずと知れた 現在の東京芸術大学)、
東京高等工業学校(前身は1881年に創立した東京職工学校。現在の東京工業大学)、
東京高等工芸学校(1921年設立。のちの千葉大学工学部の母体となった)など、
中央で専門的な教育を受けたエリート学生達が相次いで仙台に移り住みます。
この非常に面白い図式、今ではちょっと考えられない。


↑左から剣持勇、タウト夫人、ブルーノ・タウト。


↑人間工学の研究に雪で型を取る豊口克平。


↑左から剣持勇、ペリアン、坂倉準三。


ドイツからブルーノ・タウト、フランスからシャルロット・ペリアン、
アメリカからレイモンド・ローウィやイサム・ノグチ、
イギリスからバーナード・リーチ、バウハウスのワルター・グロピウスなどを招き
やがては所員であった豊口克平、剣持勇が独立してデザイン事務所を構えるなど
工芸を産業として高め、日本のモダンデザインに多くの業績を残すことになる。



↑左から剣持勇、イサム・ノグチ、レイモンド・ローウィ。


1937年に東京の下丸子に移転し仙台は東北支所となった。
この頃には関西や九州にも支所が出来ている。
1943年、戦時色が強くなり一時は活動を停止したものの45年に復活。
1948年頃からは工芸から工業デザイン重視の研究になっていき
家具はもちろん電化製品や車など、あらゆる工業製品の研究と普及につとめた。



↑左から柳宗悦、バーナード・リーチ、工芸試験所 関西支所長 八井□二。


その工芸指導所(のちに改名された工芸試験所も含)が研究や情報をまとめていたのが
「工芸ニュース」(最初は「工芸指導」と言ったらしい)という機関誌。
1932年から1974年まで発刊されている。
一部ネット上でも見ることが出来るのには驚きました。

現在の仙台 宮城野中学校 校内には「工芸発祥の地」の記念碑が残されている。





数年前、某家具メーカーで「職人の□□(名字)です」と
自己紹介する30代の男のコがいた。
肩書きで責任を持たせようとする会社方針もあるのかもしれませんが
30代の若さ(?)で自らを「職人」と名乗る彼に正直、驚いた。
こんなコト言うと お世話になりっぱなしの大先輩方から
オマエ!今更ナニ言っとんじゃー!!と言わてしまいそうですが、
私は家具職人を目指すことがどうしても出来ない。
実際 学校や会社の面接以外で「職人になりたいっ!」と言った記憶もない。
もちろん半端に家具をやってきたつもりはありません。
これは好きなデザインやデザイナーを聞かれた時と同じで
私にとって簡単に答えられる問題ではなくなってしまったから。
過去の職人やデザイナーが苦心して積み上げてきた技術を
最初からあっさりと手に入れて、何を以て自らを「職人」だと言えるのだろうか。

あらゆる時代を生き抜いてきた先人の知恵に感謝し、その全ての功績に敬意を!
私など、ただのいち家具ファンに過ぎないのです。





※本文中の写真は全て1977年の「室内 写真に見る家具百年史」より。



進駐軍家族用家具の生産

2009-11-21 | 木工・家具(全般)
写真に見る家具百年史で、マルニ木工ところでも触れていましたが
戦後の家具業界の歴史はこの「進駐軍家族用家具」の生産で一色です。

日本の家具メーカーは
1945年にポツダム宣言の受諾をした日本政府に協力する「名誉」を担います。
進駐軍家族用住宅(Dependents Housing)が国内に2万戸建ち
それにともなって家具の生産に追われることになったのです。
建築業界や家具業界だけの話に留まりません。
冷蔵庫や電気(!)洗濯機も万単位で発注されていった様です。

私は神奈川県相模原市(厚木市のヨコ)の大学に通いましたが
学校に向かうぎゅうぎゅう詰めのバスから初めて見たアメリカ軍の基地には
本当に驚きました。
狭い敷地に所狭しと建てられている日本の家並みの、
道路を隔てたフェンス越しにゆーったりと建つ白い家々。
家と家の間隔はとても広く、芝生に覆われたひろーいお庭が
何処までも続いている様な印象を受けました。
進駐軍用家族住宅もきっと、この様なモノだったのではないでしょうか。



1946年の「工芸ニュース」によると
多くのメーカーがこの「進駐軍家族用家具」の生産に飛びつきました。
軍需生産から平時生産へ、家具業界が動き出した瞬間です。
ところがこの切り替えこそ難しかった。
要求される条件(設計、資材、量産技術、期限)等が
非常に厳しいものだったのに対して
当時の日本の家具メーカーは資材、設備、技術、人材の貧困さに加え
食料や金融、物流すら極度に状態が悪い。
そんな状態の中での 復興への道程となったのです。



↑とても興味深い工芸指導所 所長(当時 斉藤信治)の文面。
「戦時中吾国の木工業は航空部品という新しい仕事に於いて
厳格な企画生産への洗礼を受けたが
充分な訓練の機会を持たぬうちに敗戦と共にこの仕事は中断した。
勘とコツを特徴としてきた日本の工芸生産に
一定規格による大量生産の方式と 技術を教えた軍需品生産の知識と経験は、
今後 日本工芸が国際性を持って発展していく上に於いて
当然成長せしめるよう訓練せねばならぬものと思う。」



そしてこの「進駐軍家族用家具の生産」から始まる家具業界の復興には
設計に豊口克平、金子徳次郎、秋岡芳夫、工作には剣持勇の名前が並びます。
以下 豊口克平さんの記事より↓

「生産に移行して後、敗戦後の吾国の現状として
材料、工場及び設備の戦火、技術員の分散 其他食料事情等で
決して円滑な進歩を見ているとは云えない。
この設計に対しても生産者から数多くの「難しい」という避難を聞くのであるが
設計を担当した吾々としては「決して難しい仕事ではない」
「戦前の技術はこんな程度のものは易々たるものであった」
「この仕事を全国数百の工場が完遂すれば日本の木工技術は大きな躍進を約束される」
という将来への技術日本建設のため 敢えて業者の努力を希って居る次第である。」

厳格にし過ぎて業者から非難の声が上がらない様に、
ゆるくし過ぎて技術の向上を放棄してしまわない様に、と、
充分に配慮されて全国に配布された仕様書の一部↓
「今回の仕事ではこの工作は絶対に許されない」
「こうして強化するのも一方法」など事細かな仕様が並んでいます。







↑こんな完成予想イラストが載っていました。
リビング、ダイニング、ベッドルーム、電話台、アイロン台、ドレッサーと続く中に
「カードチェア」と呼ばれる折りたたみ椅子を発見!



このカードチェア、
1996年に新宿のOZONEで開催された「日本の木の椅子展」に出展されていました。
この展示会の図録によると秋岡芳夫デザイン、
飛騨産業とマルニ木工による製造となっています。
おそらく会場では製造された時代順にジョージ・ナカシマと、
アントニン・レーモンド、ノエミ・レーモンドに挟まれるカタチで展示されていたハズ。
(私はイギリス3週間の旅からフラフラになって帰国した直後だった。
会場の様子はかすかな記憶としてあるものの展示の順番までは覚えていない....)
輝かしい名前に挟まれた この地味な椅子に目を留めた人はどれだけいただろう。

↓コチラは同じく「日本の木の椅子展」より「英連合進駐軍用食堂椅子」
金子徳次郎デザイン、野島製作所、他 製造。



日本の家具メーカーと職人、デザイナーの歴史を考えると
非常に重要なモノであったことが分かります。




写真に見る家具百年史

2009-11-08 | 木工・家具(全般)
1977年、インテリア雑誌として名高い「室内」で
(その「室内」も姿を消してしばらく経ちますね)
一年間に渡り「写真に見る家具百年史」という特集が組まれていました。
歴史ある家具メーカーの仕事、デザイナーの経歴などを紹介した特集でした。
一部 家具メーカーをココに抜粋してみます。


トップバッターはココ↓
私が木工を学んだ飛騨の土地では泣くコも黙る(?)飛騨産業。
「大正9年、岐阜県高山市の有志が集まり、
ブナ材を有効利用する為の企業として「飛騨木工」の名前で出発した。
会社発足から間もなく対米輸出を開始した、
当時としては特殊な家具メーカーであった」



↑「昭和9年、横置き多管式ボイラーの本体落成の日」



↑「昭和17年12月8日、
対米英開戦1周年記念日の本社事務所、戦時色一色だった」
対米英開戦記念日....。
盛り上げたかったのでしょうけど、今から見るとそんな記念日 絶対いりません。
写真だと分かり辛いのですが
建物の入口上に「国民精神総動員」の文字が書かれています。



↑「昭和15年から弾薬箱を作る。
昭和17年からは航空機の補助落下タンクも製造し、終戦まで続いた」

これが戦前、戦中の家具メーカーの仕事だったのです。



↓続いてirodoriさんに修理依頼された椅子の中にも見つけた秋田木工。
現在の秋田木工のHPによると
「日本に初めてトーネットの曲木技術が伝わったのは、1901年のこと。
そして1910年に、曲木に適したブナやナラの豊富な秋田県湯沢市に
秋田曲木製作所(現在の秋田木工株式会社)が設立されました」



↑「大正6~8年頃「墺国(オーストリア)式金具付きスキー」の製造を始め
一時中断したが 昭和5~6年から再開し8年まで作った」
うわ、スキーの板に木目が見えます....。
何の木ですかね?
材料が気になります。ナラ?



↑「左奥は(中略)ドイツから持ち帰った曲木機械である。
以後 何度か改良を加えて、現在(1977年当時)も使用中である。
手前は台輪の接手(継ぎ手)切り加工。大正末期の撮影」
お、帯鋸盤に安全カバーがありません....。



↑「当時は動力機は丸鋸が1台と鋸盤が1~2台。
曲げが済んだものをマサカリやナタ、カンナで仕上げた。
だからすべて一人一品制作だった」
思いっきり意識しているトーネット。
でもコレをほとんど手仕事で作ってしまうのだから
職人....って言葉の意味を思い知らされる。



↓次はマルニ木工。



↑「陸軍航空技術研究所から試作命令を受けて作ったキ84戦闘機の木製水平尾翼。
昭和19年9月28日に完成し「優秀で実戦に使える」とほめられたが
実際に使用されたかどうか関係者も知らされていない。
木と竹の積層合板で金属に劣らない強度を出すため
スタッフは不眠不休の努力をしたという。
表面は当時の倉敷中央化工製のレジン含浸織布だった」
うんと。
不眠不休の努力で、木と竹が金属よりカタくなるんでしょうか。
当時の日本独特の精神論なのか、真面目な技術の話なのか。
スゴ過ぎて想像出来ません....。
いや、技術の話だよなぁー....?



↑「創業当時の工場の梁上部に 得意の曲木で作った社名の「マルニ」を表す輪。



↑「昭和19年頃。ツキ板にアイロンをかける女子挺身隊員」
家具メーカーは次々と軍需工場に切り替えられ
軍需品を生産しなければ材料をまわしてもらえない時代だった様です。
「戦後は一転して下駄、八折ぞうり、大八車まで作った。
次いで占領軍用家具をつくり これで本来の仕事に戻った」



↓そして天童木工。
「昭和15年(中略)山形県天童市に「天童木工家具建具工業組合」が生まれた。
戦争が激化して地方の職人がどんどん徴用で軍需工場に吸収された頃で
それに対する自衛手段として天童町とその付近10ヵ村の
建具屋、指物師、大工等が大同団結した組合だった。
この組合が、現在の株式会社 天童木工の全身である」



↑この雑誌を見た当時20代前半の私にとって やや衝撃的な写真でした。
ウワサでは確かに戦闘機のプロペラを作った話など聞いていましたし
マルニ木工の木製水平尾翼の写真もありましたけど、
ついに本体のお出ましです。
「昭和19年~20年、敵機をあざむくための「おとり機」。
全木製で全く飛ばない飛行機である。
別に仙台の工芸指導所で剣持勇さんが中心になって木製飛行機
(これは本当に飛ぶもの)を研究していて、その部品も作った」



↑「天童木工の誇る多方向油圧プレス、別名トンネルプレス。
このプレスを開発したことによって成形技術は一段と進歩した」
多方向って三次元って意味でしょうか??
昭和39年の設置だそうです。
今はさすがに使われていないかな?



↑「昭和41年、新しい帝国劇場のロビーに飾られた猪熊弦一郎氏デザインの「のし」。
これは型を使わない成形法で作った」
成形とは型ありき と思っていました。
型を使わない成形があるんですね。


この「家具百年史」特集は今でもとても興味深い。
日本の家具職人の歴史をも考えてしまう。
家具屋が家具を作っていられるというのは実は平和なことなんですね。
特集が組まれてから30年余り、
私がこのコピーを取ってから10年を越えますが
視点が変わっただけでいつも新しい発見があるのです。

イームズもコルビジェもウェグナーもいいけど
もっと、ぐっとココロの奥に響いてくる様な特集を組んでくれる
そんなインテリア雑誌、何処かにありませんか?





関連記事はコチラ進駐軍家族用家具の生産



お教室

2009-03-08 | 木工・家具(全般)
中学生の頃、すごく好きだったシンガーソングライターがいた。
歌はそんなに上手くなかったかもしれないけれど
(いや、どちらかと言うと....
彼の作る歌詞はリアルで大好きだった。
確か友達の友達のお姉ちゃんが好きで
そのCDがまわりまわって私までやってきて
仲間内ではちょっとしたブームになっていた。
私が初めてLIVE会場に足を運んだ人物でもある。
ハタチ前まではたまにLIVE会場に行っていたけれど
その後、すっかり忘れ去っていました、ゴメンナサイ。



それが最近になって、突然気になってその人物の名前を検索してみた所
なんと、なんとなんと、彼はNYにいた。
いま、48歳....。
お、大人になって....。
....。
(気を取り直して)
彼はNYで、イチからジャズを勉強していた。
48歳、こんな大の大人がクラスで
「憧れの黒人の先生に誉められて泣きそうになる」とかブログで近況報告している。
いいね、こういうの。
私は、同時期に売れに売れた音楽プロデューサーが5億円の詐欺容疑で逮捕される中で
彼が全く地盤のナイ土地でイチから何かを学ぼうともがいている姿が嬉しかった。



実は4月から3ヶ月間の、挽きモノのお教室に申し込んでみました。
(定員数が集まらなければ開催しない様なので みなさん申し込んでください!)
挽きモノといえばこれまで何度か見たことだけはあるのですが
150ミリを越える角材(長さ700ミリほど)が旋盤でぐるんぐるん回転し
それに鑿を当てて削る迫力に負けてしまった。
「もっと近くで見てもいいよ」と背中を押してもらったけれど
飛び散る木っ端が痛くて回転する材が怖くて近寄れなかったのがホントの所。
同じ木工芸と言えど 挽きモノだけで専門の職人さんがいるのだから奥が深い。

実際にお教室で基本を学ぶのは誰でも出来る(?)小物のはずですが
あんなにカルチャースクールを探していたのに 結局、木工?みたいな私




コレが仕事

2009-02-01 | 木工・家具(全般)
何かカルチャースクールにでも行こうかな。
なぁんて半分だけ本気で考えてみた。
以下はいつも私の愚痴につき合ってくれるSちゃんとの会話。

「そうだ、乗馬は?」
「....動物苦手」
(実は多少の憧れがある。でも動物が苦手なのに気付いた)

「スポーツは?」
「きらい」

「水泳は?」
「息苦しい」
(つまり泳げていない)

「ジムに行くとか?」
「体力ない」
(仕事で精一杯です)

「絵は?油絵とか」
「その気ない」
(自分が絵がヘタだと思ったのは美大に行ったが故のコンプレックス)

「お茶やお花は?」
「....作法が面倒」

「弓道!」
「だから作法が面倒」
(誰も知らないと思うけど唯一通ったことがあるお教室。3回で挫折)

「語学は?」
「努力する気ない」

「お料理教室は?」
「なんで私が?」

「何か興味のあるボランティアは?」
「むしろ私にボランティアしてほしい」

「.....
「.....



結局 反応したのはフレスコ画と左官だった....。
そんなお教室あるのか??
左官教室、あったら行きたい。
こんな、普通のことがなぁんにも見つけられない私、
よく家具と出会い仕事に就けたもんだなぁ。


私は家具の現場の仕事に就いていますが
自信を持ってこの職業を他の人にオススメすることが出来ません。
もし、友達や知り合いが木工を職業にしたいと言ったら
それが女のコなら尚更、反対すると思います。
私自身も、木工の勉強をしたいと言った時は反対する人の方が多かった。
「指を落としたらどうするんだ」と言われ
「指なら10本ある」と両手を広げて強がったこともあります。
それぐらい言わないとこの道に進むことを認めてもらえなかった。

指を落としかねない危険な機械と常に向き合い
(NCの部署にいた時は即死の可能性も聞かされました)
たたけばホコリの出る作業着が普段着で、
大抵どこの作業場も夏は猛烈に暑く、冬は底冷えする環境。
手のひらは製材されただけの木材を触っても痛くない程固くなり
ドライバーやクランプを締め続けることによるマメだらけです。
立て膝で仕事をすれば膝はアザみたいに真っ黒になるし
小さなケガは日常茶飯事。
休日になっても爪の間の汚れは取れていないし
手についた瞬間接着剤も残ったまま。
ひどい時には前髪にも木工用ボンド。
同世代の男のコ達が3~4ヶ月で辞めていく高校生のバイトみたいな給料。

ただひとつ言えるとしたらそれは非常に健全な仕事であること、かな。
カルチャースクールの体験教室で陶芸や吹きガラスなんかを経験すると
日常を離れ目の前のひとつのコトに集中し 神経を張り
完成度の高いモノを作り上げる達成感を得られますが
私達には日々それらしきものがあります。
世の中の流れがすごいスピードで高速化していっても
人類の中に古来から根付く仕事に近いように思います。
「仕事」と「趣味」は違う。
けれど私の仕事は他の多くの人達よりそれに類似している。



平日5時間の残業に加えて少ない休日にも出勤の許可がおり
「俺たちに死ねって言っている様なもんだよな」(O氏)的スケジュール。
コレが仕事。

それでも木工を職業にしたいと思ったら、あなたはホンモノです。
是非 木工への扉を叩いてください。



irodori

2008-08-21 | 木工・家具(全般)
遅くなりましたが、夏休みという名の週末に
我が社の家具を納品させて頂いたirodoriさんに行ってきました。
↑見て、このミートパイ。
ミートパイって普段あまり食べる機会がナイのだけど
コレ、めっちゃ美味しかった
ご飯モノはこのミートパイとキッシュがありました。
キッシュのタマゴ、ふわっふわなんです
あまりの美味しさにデザートまでここでパイ食べちゃいました
また行きたいーっ、また行きたいぃー。





で、本題。
コチラ↓が私の修理したドローリーフテーブル。
日頃は仕事をこなすことに追われて完成品をじっくり見る時間さえないけど
こうしておさまっている姿を見ると 仕事中には無い別の嬉しさが込み上げます。



私は隣の作業台のSさんが修理したドローリーフに座ることが出来ました。
そこから人に使われている姿も撮ってみました、笑。
ちゃんとテーブルとして機能しているかなー。
木工完了した時点でチェック済みのハズなのに気になる。



店内にはミッドセンチュリーコーナーも有。
撮影する直前まで ココでおばぁちゃんが二人、お茶してました。
↓このスクールチェア、それぞれに かつての生徒の名前が彫ってあるんです。



予想通り、すっっごくステキな空間で かなり私好み
残念なのは10歳未満のお子さまの入店が出来ないこと。
小さい子供がいる友達もいるので 
そういわれるとちょっとつらい気持ちもあるのですが
アンティークのテーブル自体も可動する分だけ構造が弱い面もありますし
その辺はご理解ください




非常に充実した時間を過ごして帰宅すると
なんと私、irodoriさんのブログに登場してました!!
(画面が変わったら出てくる「職人さん」をクリックすると記事があらわれます)
職人さんと言われると 微妙な違和感も感じる私。
でも納品先ではそう見られるのだから心して取り組まないと!
そして何故かみんな「<若い>女性」で笑います。
なんで?




BC工房

2008-08-12 | 木工・家具(全般)
インドネシア、ジャワ島のジャパラという村から手紙が届いた。

私が11年程前に行った時は成田空港→首都ジャカルタ→国内線でスマラン
そこから確かタクシーで数時間もかかる「世界の果てまでイッテ」かよっっっ!
みたいな道のりだった(当時は「ウルン滞在記」と呼んでいた)。
むっっっとした熱気と匂い、赤茶色した土、深い緑、
時々痩せた牛とすれ違う そんな思いっきりアジアな世界。
Google EarthでJeparaを検索してみた。 
感動だなぁ
当時はどこにいるのか全くつかめないまま一週間過ごしていたけど
(ジャパラ一週間にバリ一週間のリゾート付きだった。
ワガママ言ってボロブドゥールにも寄ってもらったー。)
海まで歩いた記憶や滞在したプール付きのホテルの外観をたどれば
あの頃の自分が特定できるかもしれない。

ジャパラは木工芸の盛んな村、らしい。
なにしろそれ以来 ジャパラの名前を聞くことがナイので
(ヨーロッパに輸出する家具の彫刻が得意とか)
どのくらいスゴイ工芸村なのかまったくつかめないが
ここに行ったのは 当時のバイト先の直営工房があるため。




こんなブログを見つけました→ココ
ココを見つけたのは本当に偶然で 
実は彼女とは青山BC工房で数回お会いしている、
ハズ。
もう記憶も曖昧ではあるけれども
大人の名刺集めを秘かな楽しみにしていた学生の頃の私のコレクションに
彼女の名刺もしっかり入っている。
彼女のブログを、私は「そうそう、そうなんだよ!」って
なんか個人的な思いを分かってくれる同士に会った気分で読んだ。
当時のBC工房は 学生とデザイナーと職人が出会えるような、そんな場所だった。
「今や超売れっ子の小泉誠さんはその酔っぱらいの介抱させられていたりして」
というのは本当、私も数回目撃しました、笑。




BCの鈴木さんと初めて会ったのは19のとき。
OZONEで開催されていた展示会でアイディア募集のチラシを見つけ
応募したら「商品化したい」と電話があった。
(おそらく当時のBC工房が力を入れていた 若手デザイナーを育てる
実験的な「商品化」であり 店頭に並んだのは数個しかみていないけど ね)
書類にサインしに行ったその足で埼玉県三郷の家具工場に連れて行かれ
一度に今まで会ったこともない様ないろんな人に会い いろんな話を聞いて
衝撃で泣きそうになったのを覚えている。
スツール展、椅子展への参加、
ついには直営のインドネシアの工房まで連れて行っていただいた。
鈴木さんの家具に対する情熱はいつも圧倒される程すごかった。

今も、家具を続けようともがく私の根底には
最初に刷り込まれた鈴木さんのコトバたちが存在する。
「仕事は自分で見つけろ!」
「人の気持ちを察しろ!」
「分かっているなら行動しろ!」
「黙るな、コトバにしろ!」
「腐るな!」
「甘えるなっ!」
「ダメだ、そんなんじゃ!」
「もっとたくましくなれ サワノ!」
「....!」
「....!!」
あー....随分泣かされたよなぁー
バイト中、トイレに駆け込んで泣いたことも数回。
思惑通り私は鍛えられた気がする。
私、やっぱりコドモだったんだな。



そして今回、海を渡って届いたコトバたち。

「<知識と技術と感性>を積み重ねることが大切だと思っている」
「これを追求することが日本の木工には欠けていると感じる」
「デザインもモノ作りもこの3つのバランス」

「そしてそれを続けることが才能を生み出すと信じている」




私、少しはオトナになったみたいだ。



cafe+antique

2008-08-06 | 木工・家具(全般)
今朝 会社の店舗を通ったらカワイイDMを発見
やっぱりDMはこうでなきゃ。
早速チェック!

どうやらアンティークを置いたカフェらしい。
イズッパコ(伊豆箱根鉄道のこと)沿線なら遠くもないか、
と思ってお店の名前を確認すると「irodori」
....いろどり?
聞いたことあるなぁー、なんだっけ?


すっごくステキなHPを見て気付きました。
7月8日にオープンしたばかりのこのお店、築70年の民家だそうです。
何故聞き覚えがあったかと言うと
ココ「irodori」さんのドローリーフテーブルの中の一台、
実は私が修理を担当してたんだよね

近いうちに行ってみよー!!

ココから見てねirodori
トップページの「ABOUT US」で店内の様子出てます


マイナスネジ

2008-07-18 | 木工・家具(全般)
アンティーク家具の修理をする私が 
日常 頻繁に取り扱うマイナスネジについて調べてみました。



締結用ネジの存在は ダ・ヴィンチの時代、15世紀からあった様です。
日本には16世紀、火縄銃とともに入ってきました。
ネジを作る技術を得るために
ポルトガル人に娘を嫁がせたという職人の話もあるほど。
大量に生産される様になるまでのこの頃のネジは全て手作りで 
アタマにノコなどで切り込みを入れたマイナスネジでした。

1935年(1936年とも)アメリカのフィリップス・スクリュー社によって
プラスネジが開発され特許を取得。
つまり、これ以前に作られたアンティーク家具にはすべて
マイナスネジが使用されているというワケです。
家具に限らず時計などの小物も同じで
中にはアンティークを装うため、修理しても雰囲気を損なわないために
現代のマイナスネジをわざと錆びさせて使う場合もある様です。
日本ではマイナスネジを「すわり付きネジ」
プラスネジを「十字穴付きネジ」という正式名称がありますが
英語ではマイナスネジを「Flat head」又は「slotted(スロテッド)」、
プラスネジを開発会社(開発者ヘンリー・フィリップスとも)の名前から
「Phillips」と言うそうです。
「プラス」や「マイナス」では通じません。

マイナスネジは
ドライバーをネジ山に対してまっすぐに押し付け 回転させつつ
ネジ山からドライバーが外れない様に注意しなければ
簡単にネジ山を変形させてしまいます。
はっきりした規格統一がされていないためネジ山の溝も幅も様々で
ドライバーにぴったり合わず 非常によく「ナメる」のです。
マイナスネジの場合が2面で力を加える手作業による締結であるのに対して
プラスネジはドライバーを押し付けるだけでネジの中心にフィットし
4面で力を加えられ これによって高速での締め付け、
電動工具の使用が可能となりました。
現在の日本では その生産性、作業効率などの問題から
マイナス工業用ネジはほとんど流通していないそうです。

日本でプラスネジが普及したのは戦後の話。
1952年、ヨーロッパの自動車工場を見学していた
本田宗一郎さんが落ちていたネジを拾い
「面白い」と大切に持ち帰ったことがキッカケなんだそうです。





と、ココまでの話ならばただのネジの歴史で終わるのですが
マイナスネジ=アンティーク、古いモノ、そして
作業効率が良くないというイメージがあったのに
先日このブログでも紹介した須藤生さん
本の中で金具の取り付けにマイナスネジを使用していたのです。
んんんんん???
何故???
確かにマイナスネジにはプラスネジにはナイ品格があると思う。
けど、それだけの理由ではないハズ!
この疑問をどのように解決すれば良いのか分からないまま数ヶ月。
そしてついにネット上であるコトバに遭遇したのです。

「ヨーロッパでは工芸品などに決してプラスネジは使わない」

コレだ
ヨーロッパで家具職人を目指そうとした時
この扱いにくいマイナスネジをいかに美しくおさめるか
きっとそこまでの手加工による技量が問われるのでしょう。
この「ヨーロッパで工芸品にプラスは使わない」というコトバは なんと、
オルガン工房を営む須藤さんのご実家のHPに書かれたコトバでした....






下の写真はアンティークのカギ。
コイツもいろいろ知りたいコトのひとつ。







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