
写真は1959年の「工芸ニュース」より↑
福助ミシン(福助足袋KK 同社スタッフデザイン)、
トヨペットクラウンデラックスRS21(トヨタ自動車工業KK 同社スタッッフデザイン)、
キャノンポピュレール(CanonカメラKK 川田龍□デザイン)、
曲げ木スタッキングスツール(秋田木工KK 剣持勇デザイン研究所デザイン)、
ドーナツ椅子(KK天童木工製作所 同社スタッフデザイン)、
マツダD1100(東洋工業KK 小杉二郎デザイン)、
特急あさかぜ さくら
(日本車輌KK KK日立製作所 日本国有鉄道、高島屋、秋岡芳夫 他デザイン)
などが見られる。
1928年、当時の商工省(現在の経済産業省)の官僚だった 岸信介等が
各地の優れた伝統工芸に着目し その改善と近代化、同時に人材の育成を図る目的で
仙台に「商工省・工芸指導所」(初代所長 国井喜太郎)を開設した。
これが日本の工芸産業の指導機関の誕生。
何故 仙台か?と思ってしまいますが
これには東北地方の近代工業化をおしすすめる意図があり
(ここの「展示室」に面白いこと載ってます
仙台デザイン史博物館)
東京美術学校(1887年設立の云わずと知れた 現在の東京芸術大学)、
東京高等工業学校(前身は1881年に創立した東京職工学校。現在の東京工業大学)、
東京高等工芸学校(1921年設立。のちの千葉大学工学部の母体となった)など、
中央で専門的な教育を受けたエリート学生達が相次いで仙台に移り住みます。
この非常に面白い図式、今ではちょっと考えられない。

↑左から剣持勇、タウト夫人、ブルーノ・タウト。

↑人間工学の研究に雪で型を取る豊口克平。

↑左から剣持勇、ペリアン、坂倉準三。
ドイツからブルーノ・タウト、フランスからシャルロット・ペリアン、
アメリカからレイモンド・ローウィやイサム・ノグチ、
イギリスからバーナード・リーチ、バウハウスのワルター・グロピウスなどを招き
やがては所員であった豊口克平、剣持勇が独立してデザイン事務所を構えるなど
工芸を産業として高め、日本のモダンデザインに多くの業績を残すことになる。

↑左から剣持勇、イサム・ノグチ、レイモンド・ローウィ。
1937年に東京の下丸子に移転し仙台は東北支所となった。
この頃には関西や九州にも支所が出来ている。
1943年、戦時色が強くなり一時は活動を停止したものの45年に復活。
1948年頃からは工芸から工業デザイン重視の研究になっていき
家具はもちろん電化製品や車など、あらゆる工業製品の研究と普及につとめた。

↑左から柳宗悦、バーナード・リーチ、工芸試験所 関西支所長 八井□二。
その工芸指導所(のちに改名された工芸試験所も含)が研究や情報をまとめていたのが
「工芸ニュース」(最初は「工芸指導」と言ったらしい)という機関誌。
1932年から1974年まで発刊されている。
一部ネット上でも見ることが出来るのには驚きました。
現在の仙台 宮城野中学校 校内には「工芸発祥の地」の記念碑が残されている。
数年前、某家具メーカーで「職人の□□(名字)です」と
自己紹介する30代の男のコがいた。
肩書きで責任を持たせようとする会社方針もあるのかもしれませんが
30代の若さ(?)で自らを「職人」と名乗る彼に正直、驚いた。
こんなコト言うと お世話になりっぱなしの大先輩方から
オマエ!今更ナニ言っとんじゃー!!
と言わてしまいそうですが、
私は家具職人を目指すことがどうしても出来ない。
実際 学校や会社の面接以外で「職人になりたいっ!」と言った記憶もない。
もちろん半端に家具をやってきたつもりはありません。
これは好きなデザインやデザイナーを聞かれた時と同じで
私にとって簡単に答えられる問題ではなくなってしまったから。
過去の職人やデザイナーが苦心して積み上げてきた技術を
最初からあっさりと手に入れて、何を以て自らを「職人」だと言えるのだろうか。
あらゆる時代を生き抜いてきた先人の知恵に感謝し、その全ての功績に敬意を!
私など、ただのいち家具ファンに過ぎないのです。
※本文中の写真は全て1977年の「室内 写真に見る家具百年史」より。
福助ミシン(福助足袋KK 同社スタッフデザイン)、
トヨペットクラウンデラックスRS21(トヨタ自動車工業KK 同社スタッッフデザイン)、
キャノンポピュレール(CanonカメラKK 川田龍□デザイン)、
曲げ木スタッキングスツール(秋田木工KK 剣持勇デザイン研究所デザイン)、
ドーナツ椅子(KK天童木工製作所 同社スタッフデザイン)、
マツダD1100(東洋工業KK 小杉二郎デザイン)、
特急あさかぜ さくら
(日本車輌KK KK日立製作所 日本国有鉄道、高島屋、秋岡芳夫 他デザイン)
などが見られる。
1928年、当時の商工省(現在の経済産業省)の官僚だった 岸信介等が
各地の優れた伝統工芸に着目し その改善と近代化、同時に人材の育成を図る目的で
仙台に「商工省・工芸指導所」(初代所長 国井喜太郎)を開設した。
これが日本の工芸産業の指導機関の誕生。
何故 仙台か?と思ってしまいますが
これには東北地方の近代工業化をおしすすめる意図があり
(ここの「展示室」に面白いこと載ってます

東京美術学校(1887年設立の云わずと知れた 現在の東京芸術大学)、
東京高等工業学校(前身は1881年に創立した東京職工学校。現在の東京工業大学)、
東京高等工芸学校(1921年設立。のちの千葉大学工学部の母体となった)など、
中央で専門的な教育を受けたエリート学生達が相次いで仙台に移り住みます。
この非常に面白い図式、今ではちょっと考えられない。

↑左から剣持勇、タウト夫人、ブルーノ・タウト。

↑人間工学の研究に雪で型を取る豊口克平。

↑左から剣持勇、ペリアン、坂倉準三。
ドイツからブルーノ・タウト、フランスからシャルロット・ペリアン、
アメリカからレイモンド・ローウィやイサム・ノグチ、
イギリスからバーナード・リーチ、バウハウスのワルター・グロピウスなどを招き
やがては所員であった豊口克平、剣持勇が独立してデザイン事務所を構えるなど
工芸を産業として高め、日本のモダンデザインに多くの業績を残すことになる。

↑左から剣持勇、イサム・ノグチ、レイモンド・ローウィ。
1937年に東京の下丸子に移転し仙台は東北支所となった。
この頃には関西や九州にも支所が出来ている。
1943年、戦時色が強くなり一時は活動を停止したものの45年に復活。
1948年頃からは工芸から工業デザイン重視の研究になっていき
家具はもちろん電化製品や車など、あらゆる工業製品の研究と普及につとめた。

↑左から柳宗悦、バーナード・リーチ、工芸試験所 関西支所長 八井□二。
その工芸指導所(のちに改名された工芸試験所も含)が研究や情報をまとめていたのが
「工芸ニュース」(最初は「工芸指導」と言ったらしい)という機関誌。
1932年から1974年まで発刊されている。
一部ネット上でも見ることが出来るのには驚きました。
現在の仙台 宮城野中学校 校内には「工芸発祥の地」の記念碑が残されている。
数年前、某家具メーカーで「職人の□□(名字)です」と
自己紹介する30代の男のコがいた。
肩書きで責任を持たせようとする会社方針もあるのかもしれませんが
30代の若さ(?)で自らを「職人」と名乗る彼に正直、驚いた。
こんなコト言うと お世話になりっぱなしの大先輩方から
オマエ!今更ナニ言っとんじゃー!!

私は家具職人を目指すことがどうしても出来ない。
実際 学校や会社の面接以外で「職人になりたいっ!」と言った記憶もない。
もちろん半端に家具をやってきたつもりはありません。
これは好きなデザインやデザイナーを聞かれた時と同じで
私にとって簡単に答えられる問題ではなくなってしまったから。
過去の職人やデザイナーが苦心して積み上げてきた技術を
最初からあっさりと手に入れて、何を以て自らを「職人」だと言えるのだろうか。
あらゆる時代を生き抜いてきた先人の知恵に感謝し、その全ての功績に敬意を!
私など、ただのいち家具ファンに過ぎないのです。
※本文中の写真は全て1977年の「室内 写真に見る家具百年史」より。
なんの違和感もなく現在にいるけど
実はこの頃のモノなんだよね
デザインが時代を越えるスゴさも実感だけど
そのデザインが生まれた頃の事情を知ると スゴさ倍増する!