最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

2/2場面かん黙児

2011-02-27 12:23:30 | 日記

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないのか」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならない。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようになるのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子どもが、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子どもを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よかれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身している。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようになった。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさんの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まったく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」とか、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子どもは、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあい、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめて、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものごとは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育として、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコンの切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

● かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提として、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張していただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断することくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじめてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクターは、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分がキズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじれ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点については、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(5) ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙ってしまう。

(6) 気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(7) かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくなる。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(8) かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみることにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかった。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そして自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であることが多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あとは「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どうにもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれしいです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になったり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決しているのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉からも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあげてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪いことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいるわけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、ありえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許して、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろつらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このことは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、もっておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここにも書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いかがでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善するとは、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじらせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたですよ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みながら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のない子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしそのようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行けばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれません。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてください。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答えてあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるのが、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少しずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそれを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえています。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だということです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無料です。
(031017)

1/2場面かん黙児

2011-02-27 12:22:56 | 日記
●場面かん黙児

+++++++++++++++++

家の中では、ふつうに話したり、
騒いだりすることができる。
しかし家を一歩出ると、場面に応じて、
かん黙(緘黙)してしまう。
たとえば幼稚園や、おけいこ塾などでは
貝殻を閉ざしたかのように、まったく
話さない、など。
体が固くなる子どもと、柔和な、意味の
わからない笑みを浮かべる子どもとに
分けて考えることができる。

このタイプの子どもを、「かん黙児」
「場面かん黙児」という。
少し経験のある教師なら、簡単に
見分けることができる。

もちろん診断名を口にするのは、
タブー中のタブー。
できることと言えば、「一度、専門の先生に
談してみてはどうですか?」と提案する程度の
ことでしかない。

が、このかん黙児の指導でむずかしいのは、
本人の問題よりも、家族、とくに
母親に、その理解がないこと。
家の中ではふつうに話すため、それに
気づかない。
気づかないばかりか、「先生が悪い」
「ほかの子どもに圧倒される」などと言って、
他人の責任にしてしまう。
中には、「お前がうちの子を萎縮させて
しまった!」と、先生に抗議していく
親もいる。

さらに……。
本来なら、発症直後、つまり乳幼児の
ときに適切な指導をし、そうした症状
から子どもを、取り出してあげねば
ならない。

(「取り出す」という表現は、私が考えた。
「取り出す」「引き出す」という言い方の
ほうが、「治す」「直す」という言い方より、
事実に近い。)

もっとも簡単な方法は、ほかの子どもたち
といっしょに、ドッと笑わせる。
私はこの方法で、かん黙児(もちろん
親や子どもには、診断名を告げることは
ない)を、なおしている。

が、それすらも理解できない。
親は「話せて当たり前」と考える。
そしてよくしゃべる子どもを、「騒がしい
子ども」として、遠ざけてしまう。
あるいは「できの悪い子ども」として、
遠ざけてしまう。
子どもを見る基準そのものがちがう。

さらにこんなことも……。
せっかく本人が話しても、(最初の
ころは、蚊の鳴くような小さな声だが)、
子どもに向かって、「どうして、あなたは
大きな声で話せないの!」と叱ったりする。

この一撃が、ますます症状を重くする。
が、話はさらに先につづく。

先にも書いたように、乳幼児期に
それに気づき、適切な指導をすれば、
症状は、ほかの子どもと区別ができないほど
まで、改善する。
が、その乳幼児期に、無理をしたりする
ことによって、症状がこじれてしまう。
複合的な症状となってしまう。

が、そのときでも親はそれに気づかない。
そこで私がそれとなく問題点を指摘すると、
たいていの親は、こう言う。

「わかっていたら、どうしてもっと
早く教えてくれなかったのですか!」と。

教える側は、いつも親の身勝手に(=無知)に
振り回される。
そのたびに、大きな挫折感を覚える。

+++++++++++++++++

【場面かん黙児】


●恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間は、車の速度が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症に対処する。

++++++++++++++++++++

●子どもの心

●茨城県のWさんより……

 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それについて、考えてみたい。

「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。

数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。
三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。

そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも
嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。
で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。

そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 
そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。

ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。
その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。

ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限
り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと
は考えられない」と言っています。

昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人
の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの
をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。
(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)

お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ
貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。
最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。

私は本人の納得するまで、つまり子どもが、
帰っていいよと言うまで、その場で待っています。
時には降園までそこで待つときもあります。 
私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?
昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。

今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず
「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。
その時の対処法に困っています。

かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。
こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。
かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。

みなにからかわれることもあるようです。

絵日記を見ると、 

『いちりんしゃにのれるようになったよ 
いっしょうけんめいれんしゅうして 
のれるようになったよ 
でも どうして あのこはのれないんだろう』

と書いていました。

そんな、心のやさしい子です。
何かアドバイス頂ければ幸いです。

    茨城県M町、Wより」

2/2かん黙児

2011-02-27 12:22:22 | 日記

●Wさんの問題

 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。

Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないのか」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならない。

あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようになるのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。

 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。

 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。

 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全員、女性。男は、私一人だけだった。

 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。

 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家庭で、母親が教えればいいことです」と。

 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。

●小学校の問題が、幼稚園で 

 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。

 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子どもが、どういう子どもであるか、知っているだろうか?

 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子どもを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この部分で、いたたまれない気持になった。

 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よかれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。

 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。

 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。

 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身している。

 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようになった。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさんの問題は、まさにその一つということになる。

●もっと、おおらかに! 
 
 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まったく、ない。

 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」とか、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。

 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?

 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子どもは、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。

 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあい、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめて、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。

 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものごとは、常識で考えてほしい。

 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育として、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコンの切り方を教えるのが、幼児教育ではない。

 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預かりあいながら、保育をしているところもある。

 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。

● かん黙児?

Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提として、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。

 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張していただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。

 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断することくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじめてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクターは、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。

 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。

 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分がキズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。

 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじれ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。

 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点については、よくわからない。

 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。

●かん黙児

(5) ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙ってしまう。

(6) 気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。


(7) かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくなる。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。

(8) かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみることにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、立ちなおりは、早い。

 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。

 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。

 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかった。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。

 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」などと言う。私も、何度か、経験している。

 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意味はない。

 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そして自分で自分を、コントロールするようになる。

 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であることが多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が停止していると考えるのは、まちがいである。

 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あとは「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どうにもならない問題なのである。
 
●Wさんへ

 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。

 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれしいです。

 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。

 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になったり、「高所」になったりするというわけです。

 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症状も考えられます。

 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決しているのではないかと思います。

●最後に……

 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。

 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人と悪人に分かれるのに、似ています。

 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。

 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉からも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあげてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪いことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。

 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいるわけです。

 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、ありえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許して、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。

 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろつらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このことは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに気づくはずです。

 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、もっておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。

 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここにも書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いかがでしょうか?

 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善するとは、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。

 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、大半のかん黙症は、なおっていきます。

 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじらせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたですよ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識は、まったくないのですから。

 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みながら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のない子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。

 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしそのようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行けばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。

 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれません。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてください。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風穴をあけます。

 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答えてあげてください。

 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。

 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるのが、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少しずつ、できるだけ長くしていきます。

 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそれを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえています。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だということです。どうか、私の言葉を信じてください。

 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無料です。
(031017)

●反動形成

2011-02-27 09:15:27 | 日記




☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 28日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page014.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【反動形成】2月10日(木曜日)

+++++++++++++++

今日は、木曜日。
よくわかっている。
が、木曜日は、何かと忙しい。
それもあって、木曜日になるたびに、こう思う。
「今日は、だいじょうだろうか?」と。
つまり体力がつづくだろうか、と。

昨日は、朝、30分のウォーキングをした。
午後、約3時間、外を歩いた。
歩きたくて歩いたわけではないが、ともかくも
歩いた。
計3時間30分。
運動量としては、まずまず。

そんなわけで、今は、こう思う。
「今日は、だいじょうぶ」と。

++++++++++++++

●反動形成

 「反動形成」という言葉がある。
何度かそれについて、書いた。

 要するに、本当の自分を隠し、仮面をかぶること。
よくあるのは、こんな例。

ケチな人が、そのケチを隠すために、気前のよい自分をわざとおおげさに見せたりする。
あるいは教育ママが、人には、「私は子どもに勉強しなさいと言ったことはありません」と、
ウソをついたりする。
子どもの世界でも、よく見られる。
よい兄、よい姉を演じながら、その実、裏で陰湿な弟いじめや、妹いじめを繰り返したり
する。

 本当の自分を見抜かれるのがこわく、その反動として、正反対の自分を演ずる。
たとえば内面に潜む攻撃心や、憎悪を隠すため、妙にやさしい人間を演ずるのもそれ。
「仮面(ペルソナ)」とちがうのは、「正反対」という部分。
たとえばショッピングセンターの売り子が見せる、あの笑顔は、仮面である。
仮面をかぶりながら、客にものを売る。

反動形成は、それとはちがう。
心の中に別室をつくり、その中に自分を押し込む。
これを「抑圧」というが、日常的に、心がその抑圧状態になる。
本当の自分をさらけ出したら、自分の立場そのものが、あやうくなる。
正反対の自分を演ずることによって、自分の立場を取り繕う。
意識的な行為というよりは、無意識的な行為。

●ぎこちなさ

 反動形成には、いくつかの特徴がある。
どこか不自然。
どこか変。
どこかぎこちない。

 わざとらしい言葉。
不自然な笑顔。
一貫性のない生活態度、などなど。

 ときに心の別室にたまった、不平や不満が爆発することもある。
ふつうの爆発ではない。
その瞬間、まったくの別人になる。
(……というか、そのときのほうが、その人自身のほんとうの姿ということになるのだが
……。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた原稿を拾ってみる。
一部、ダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反動形成(1)(2010年記)

 反動形成は、いろいろな場面で経験する。
よく知られた例として、長男、長女が見せる反動形成がある。
長男や長女は、下の子(弟や妹)に嫉妬しやすい。
親は、「兄も弟も、平等にかわいがっています」と言う。
しかし上の子ども(長男や長女)にしてみれば、その「平等」であることが不満。
それまで100%自分のものだった親の愛情が、半分に減った。

 そこで上の子どもは、赤ちゃんぽい自分を演出して、もう一度親の愛情を、100%、
自分のものとして取り返そうとする。
「赤ちゃん返り」というのは、そうして起こる。
本能的な部分で起こるので、叱ってなおるような問題ではない。
またそれが高じて、反対に、ときとして下の子どもに、攻撃的になることもある。
嫉妬がからんでいるだけに、陰湿かつ動物的。
下の子どもを、「殺す」ということもしかねない。

 が、それでは自分の立場がなくなる。
「あなたはお兄ちゃんでしょ(お姉ちゃんでしょ)!」と言われる。
そういう言葉で、抑圧される。
あるいは自らを抑圧する。
そこで上の子どもは、よい兄やよい姉を演ずるようになる。
「ぼくは弟(妹)が好き」などと、平然と言ったりする。
本当は弟(妹)が憎くてならないのだが、やさしくめんどうをみのよい兄(姉)を
演ずるようになる。

先にも書いたように、本能的な部分に根ざしているため、親はそれが仮面であることに気
づくことはない。
外面だけを見て、こう判断する。
「うちの子は、いい子」と。
これが「反動形成」である。

 ほかに聖職者(牧師や僧侶、教師)と呼ばれる人たちの反動形成も
よく知られている。
みなにあがめられている間に、そういう人間を、自ら作っていってしまう。
たとえばだれかが、性的な話や卑猥な話をしたりすると、ことさらそれを嫌って
見せたりする、など。
これが「反動形成」である。

 それはそれだが、そういった状態が長く続くと、仮面をかぶるようになる。
高徳者を演じているあまり、本当の自分を見失ってしまう。
が、本当の自分が消えるわけではない。
本当の自分は、心の奥に抑圧され、押し込まれる。・・・あるいは、自分を
押し込む。

本当に自分が、別のところで、別の人格となって現れることもある。
欧米では、聖職者による少年や少女に対する暴行や虐待が、問題になら
ない日がないほど、多い。
そういう形で、つまり別の形で、抑圧された自分が外に出てくる。
「反動形成」のこわいところは、ここにある。

●反動形成(2)(2009ー6記)

●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するた
めに、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、Sックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人
がいる。(S=セ、禁止用語)

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「Sックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫
んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、そ
の自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自
分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことがで
きない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になっ
たりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、ま
た別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW BW教室 はやし浩司 反動形成 仮面 ペルソナ)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方
で、「嫌いだヨ~」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」とい
う言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいこ
とと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえてお
おげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめ
ると、小声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはい
る。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●夫婦のばあい

 よき夫、よき妻。
しかしたがいに反動形成。
内心では、憎しみあい、軽蔑しあっている……。
そういう夫婦は、少なくない。
私たち夫婦がそうかもしれないし、あなたがた夫婦も、そうかもしれない。
そういう「形」にしなければ、自分が、みじめ。
50歳とか60歳とかを過ぎ、「私たちの結婚は失敗でした」とは、とても言えない。
この年齢になると、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
敗北感から、絶望感に発展することもある。

 だから妥協し、ほどほどのところで接点を見出し、よい夫婦を演ずる。
いっしょに映画を観に行ったり、旅行に出かけたりする。
世間体というより、ここにも書いたように、たがいに本当の自分を認めたら、夫婦という
より、自分自身が崩壊してしまう。
それがこわい。

 ……と書くと、身も蓋(ふた)もない。
しかし多かれ少なかれ、どんな人も、自分をごまかしながら生きている。
程度の差はある。
つまり反動形成は、みながしている。
していない人はいない。

ただひとり、自分をさらけ出しながら生きている女性と言えば、あの「みさえさん」。
「クレヨンしんちゃん」(コミック本、vol. 1~11前後)のママである。
私はみさえさん以外に、自分をさらけ出しながら生きている女性を知らない。
これは余談。

●さらけ出し

 そこで私自身の反動形成は何か、それを考えなおしてみる。

 たとえば、ウソとインチキ。
私はもともとウソつきで、インチキな男だった。
子どものころは、そうだった。
拾ったお金でも、交番へ届けたことは、めったにない。
(1、2度はあったように記憶しているが……。)

 それにウソつきだった。
……というか、私が住んでいた世界は、ウソが当たり前だった。
今でも、何が本当で、何がウソなのか、よくわからない。
そういう自分がいやになり、私は私なりの経験を通して、そういう世界から抜け出た。
その結果が今。
私はウソとインチキには、妥協しない。
ウソをついたり、インチキをする人を、許さない。
相手が息子でも、許さない。
自分でもときどき「過剰」と思うことがある。
ワイフもときどき、こう言う。
「もう少し妥協したら……」と。

 考えてみれば、これも反動形成。
自分の中に潜む邪悪な人間性を隠すために、(……隠すという意識はあまりないが)、
表では正反対の自分を演じてみせる。
それが長くつづいたため、それが生活態度として、定着してしまった(?)。

 が、それで邪悪な人間性が消えたわけではない。
今でも道路でサイフのようなものを拾ったりすると、頭の中が混乱する。
こんな経験がある。
2007年に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●勇気(2007年8月記)

+++++++++++++++

昨夜、コンビニの前を通ると、
小さなサイフが落ちていた。

イヤ~ナ気分だった。
私はそれを拾うと、自転車の前の
かごに入れた。

途中、信号待ちのところで、サイフを
開いてみると、何枚かのカードが
入っているのが、わかった。
住所と名前が書いてあった。

イヤ~ナ気分だった。本来なら、
そのままコンビニの店員に渡すべき
だった。

悶々とした気分。
「もらっちゃえ」と言う、自分。
「落としたヤツが悪いんだ」と言う、自分。
そんな自分が、そこにいた。

そんな自分を感じながら、家に着いた。
ワイフがそこにいて、「お帰り!」と
声をかけてくれた。

明るい声だった。

私「サイフを拾っちゃった」
ワ「どこで?」
私「あの○○のコンビニの前」
ワ「……」
私「名前と電話番号が書いているから、
そこへ電話して!」
ワ「うん」と。

あとの処理は、ワイフに任せた。
いくら入っているかは、見なかった。
知りたくもなかった。

かばんをかけて、書斎へ入るとき、
振り返ると、ワイフは、どこかへ
電話をかけていた。

よかった……。

夜、床についてから、私は、ワイフに
こう言った。

「サイフを拾うたびに、いまだに迷う。
子どものころの、あの邪悪な小ズルサ、
それが、いまだに、ぼくの心の中で生きている。

ぼくが子どものころには、拾ったお金は、
そのまま自分のものになった。

ぼくはそういう時代に生きていた」と。

+++++++++++++++

 ほかのことでは迷わない私でも、どういうわけか、拾ったお金については、そうではな
い。迷う。私が子どものころには、終戦直後ということもあって、拾ったお金は、拾った
子どものものだった。当時は、そういう時代だった。

 モラルもルールも、なかった。親たちにしても、食べていくだけで、精一杯。家庭教育
の「か」の字もないような時代だった。

 だから今でも、迷う。「返そう」という自分と、「もらっちゃえ」という自分。その2人
が、自分の中で、はげしく対立する。一度、心にしみついた(汚れ)は、そう簡単には消
えない。昨夜もそうだった。

 で、ここに書いたように、今回は、処理は、ワイフに任せた。数年前にも一度、同じよ
うにコンビニの前で拾ったことがある。そのときは、コンビニの店員に届けた。しかし今
回は、自転車のかごに入れて、もち帰ってしまった。

 つまり、このあたりに、私の善人としての限界がある。が、限界といっても、このとこ
ろ、輪郭(りんかく)が、ぼやけてきた。以前は、コンクリートの壁のようだったが、今
は、木の柵のようになった。簡単に乗り越えられる。

 おかげで、今朝は、どこかすがすがしい。さわやかな気分。心の中で、掃除機をかけた
ような気分といってもよい。それに少しだが、自分に自信がついた。

 世の中には、こわいものはいくらでもある。子どもたちは、「お化け」「幽霊」というが、
それもそうかもしれない。

 しかしほんとうにこわいのは、自分自身である。自分自身の中に潜む、邪悪な自分であ
る。この邪悪な自分に毒されると、人生そのものを無駄にしてしまう。前にも書いたが、「今、
生きている」という、その一時(いっとき)一時の時間ほど、貴重な財産はない。その財
産を、無駄にしてしまう。

 その邪悪な自分と戦うためには、勇気がいる。どういうわけだか、勇気がいる。しかし
その勇気を実感したとき、それが今度は、喜びに変わる。ここに書いた、「自信」も、そこ
から生まれる。

 「よかった!」と思ったところで、この話は、おしまい。今日(8月31日)も、始ま
った。

 みなさん、おはようございます!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに……

 反動形成と仮面。
今日1日は、この2つをテーマに、いろいろ考えてみたい。
どうして人は(私は)、反動形成をするのか。
仮面をかぶるのか。

 では、今日は忙しいので、ここまで。
推敲しないまま、BLOGに原稿をアップする。
ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 反動形成 拾ったサイフ 邪悪な自分 邪悪な私 抑圧 心の別室)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛する人の死

++++++++++++++++++

NG先生が亡くなって、もう2か月が過ぎた。
早いというか、長かったというか。
NG先生の奥さんから、今朝、メールが
届いていた。
「この2か月は、あっという間でもあり、
20年にも長く感じます」と。

自分の死を受け入れるのは、むずかしい。
いわんや、愛する人の死を受け入れるのは、
さらにむずかしい。

ひしひしと迫るくる孤独感。
さみしさ。
悲しさ。
それには理由がある。

「死」を前にした孤独感は、同時に
隔離感をともなう。
いくら近くに愛する人がいて、やさしい
言葉をかけてくれても、それは心に
しみこんでこない。
「死ぬのは、私ひとり」と。

その隔離感が、そばにいる相手にもわかる。
どんなに同情しても、同情しきれない。
あるところまで入ったところで、拒絶
されてしまう。
壁がある。
その壁を乗り越えることはできない。

だから死んでいく人も孤独だが、
しかしそれを近くで見守る人は、もっと
孤独。
さみしい。
悲しい。
足下をすくわれるような空虚感。
つかんでもつかみきれない、自分の心。
怒りと絶望感。
どうしようもない、怒りと絶望感。

死んでいく人も、また残された人も、
その怒りと絶望感と闘わねばならない。

++++++++++++++++++

●老後と孤独

 老後は、孤独との闘い。
先のない袋小路で、暗闇に包まれる。
日々に肉体は衰え、経験しなかった病魔が、つぎつぎとやってくる。
心配と不安。
いや、死ぬのがこわいのではない。
死ぬまでのプロセスが、こわい。
できれば、ポックリと死にたい。

しかしほとんどの人は、そうはいかない。
大病を患えば、なおさら。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「さみしいか?」と私が聞いたときのこと。
その友人は、ポツリと、「うれしかった」と。

 友人の妻は、がんで、2年間苦しんだ。
そのあと死んだ。
その苦しみを見ていたからこそ、友人は、そう言った。

●散歩

 NG先生の奥さんの気持ちを察するにつけ、胸が痛む。
どんなにどうがんばっても、奥さんの気持ちの中には、入れない。
そこには、先に書いた隔離感がある。
だから私にできることと言えば、そっと奥さんの心を暖かく包んでやることでしかない。
それで奥さんの気持ちがやすらぐとは、思わない。
さみしさや悲しさが、癒されるとは思わない。
しかしそれしかできない。
その歯がゆさ。

 NG先生が亡くなったと聞いた午後、私は、長い散歩に出た。
例年になく冷たい北風が、吹いていた。
乾いた北風で、道路脇の木々が、それに大きく揺れていた。

通り過ぎる人にも生彩がなかった。
ふだんならけばけばしく見える店の看板も、色彩を失っていた。
……というか、ほとんど顔をあげないで、歩いた。
ときどき前を見、あとは側溝のふたの上を歩いた。
灰色の、どこまでも灰色の、味気ない道。
その上をとぼとぼと、歩いた。

●通夜

 通夜のときも歩いた。
NG先生の自宅までは、40~50キロはある。
電車でも、4つ目の駅。
足が痛くなって、2つ目の駅で、電車に乗った。
それまで歩いた。
歩いているときだけ、私は、さみしさや悲しさを忘れることができる。
子どものころから、ずっとそうだった。
そのときも、そうだった。

 通夜の日は、さらに冷たい風が吹いていた。
身を切るような冷たさだった。
駅を下りてから、それからまた20分ほど、歩いた。
何度か、通った道。

 そう、NG先生だけだった。
NG先生だけは、私の原稿を、隅々まで読んでくれた。
一度の例外もなく、長い感想文をそのつど、送ってくれた。
NG先生という人は、そういう人だった。
そういう人を、私は失った。

 そのさみしさ。
その悲しさ。

●急死

 NG先生の死は、突然だった。
本当に、突然だった。
いつものように近くの病院へ、定期診断に行った。
注射を打ってもらった。
その直後、急変。
そのまま帰らぬ人になった。

 私はそんな死に方を、ほかに知らない。
それまで孫の世話をし、犬と散歩をしていた。
だからそれを認めろと言われても、すぐにはできなかった。
今もできない。

 ただおかしなことに、たいへんおかしなことに、私はNG先生を、うらやましく
思っている。
それを「ポックリ」と言わずして、何という。
そうでなくても、60歳を過ぎると、つぎつぎとやってくる。
経験したことのない、痛み、症状、病気……。
そのたびに「死」の影におびえ、ビクビクする。
70歳になれば、なおさらだろう。
80歳になれば、なおさらだろう。

 63歳の私ですら、ときどき、こう思う。
「もう、いいかげんにしてくれ。
命がほしいなら、さっさと持って行け!」と。

●NG先生の業績

 誤解しないでほしいのは、だからといって、死を望んでいるのではない。
死にたくない。
1回ポッキリの命。
しかし問題は、その生き方。
が、このところ、どう生きるかということよりも、どう死ぬか。
それをよく考えるようになった。

 できればこの世に生きたという証(あかし)を残したい。
かなわぬぜいたくということは、よく承知している。
しかしそれでも残したい。
その方法は、あるのか。
可能なのか。

 ……言い換えると、私がしなければならないこと。
NG先生は、教師であると同時に、学者だった。
その業績には、すばらしいものがある。
その業績をこの世に残すこと。
方法はいろいろある。
が、私ができることは、インターネット上に、先生の論文を残すこと。
このままNG先生が、この世から忘れ去られてしまうことには、耐えられない。
つまりそれが私の、NG先生との死と闘う、ゆいいつの方法ということになる。

 NG先生は、死んでいない。
まだ生きている。

 ……と力んではみたが、やはりさみしい。
このやるせなさを、どうしたらよいのか。
私は今、その怒りと絶望感と闘っている。
勝ち目のない闘いだが、がんばるしかない。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

●TOYOTA プリウス問題

2011-02-27 09:08:50 | 日記





☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 3月 25日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★ ★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●希薄になる親子関係(資料)


 自分の子どもが行方不明になれば、親は、必死になってその消息を
求める。
が、子どものほうは、どうか。
つぎの調査結果をみてほしい。
それが結論ということになる。


あるいは親子というのは、もともとそういうものなのか。
またそう考えてよいのか。


 今どきの若者たちに、親が、「親のめんどうはどうするのか?」と聞くと、こう答える。
「お前は(=親は)、見返りを求めて、オレたち(=自分)を育ててきたのか!」と。
あるいは気持ちをたずねただけで、「干渉」という言葉を使って、はねのける。


 日本と韓国は、双子国と揶揄(やゆ)されるほど、中身がよく似ている。
日本人の親子関係も希薄なら、韓国人の親子関係も希薄。
もう一度、日本の内閣府がした調査結果を、よく見比べてみてほしい。


+++++++++++++++


●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)


++++++++++++++++


●何も書きたくない!


 この数字がすべて。
私は、何も書きたくない。
しかしこの問題は、結局は自分人に返ってくる。
それとも今どきの若者たちは、永遠に、若いままと思っているのだろうか。
もしそうだとするなら、これほど、オメデタイ話はない!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 内閣府 親子関係 どんなことをしてでも親のめんどうをみる 親の
めんどう 親のめんどうをみる 成人男女の意識調査 はやし浩司 将来親のめんどうを
みる 親を養う)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2月8日という、「今」論】

●時の流れ

 今、この瞬間だけをみる。
遅々として進まない時間。
今朝は風もない。
昨日までの強風は消え、今は、庭の木々も、動きを止めている。

 これが時間か?
時間というものか?

 しかしそこにあるのは、「今」だけ。
過去は、ない。
未来は、ない。
つねに「つぎの今」がやってきて、また「過去の今」へと去っていく。
よい例が、人の死。

 NG先生が亡くなって、もう2か月になる。
早いというよりは、今と2か月前との間に「時間」がない。
「2か月」という数字はあるが、その実感がない。
つい数日前……というよりは、この2か月が、瞬時に消え去った。
……消え去ってしまった。

●人の死

 学研の幼児局に、斉藤洋三氏という編集長がいた。
世話になった。
その人が亡くなって、もう20年以上になる。

 そのあと、その斉藤洋三氏を追うように、本郷左智夫氏という編集長がが亡くなった。
「学習」「科学」という、日本を代表する学習雑誌を創りあげた編集長である。

 これら両氏が、今、ここでどうこうというのではない。
今、そういう人たちを思い出しながら、こう思う。
「瞬時だな」と。
その間に「20年」という時の流れがあるはず。
が、その実感が、どこにもない。

 さらに40年前に亡くなった、伯父がいる。
30年前に亡くなった叔父がいる。
それらのオジにしても、ともにその「時」から、今に至るまで、「瞬時」。
どの人を思い出しても、つい瞬間前に亡くなったような気がする。

 言い換えると、この先、10年、あるいは20年など、その瞬時に過ぎる。
いくら私やあなたが、「私たちは生きている」と実感しても、
その実感は、つぎの瞬時には、またたく間に消える。
時の流れというのは、そういうもの。

●順番

 人の死について、「順番」と考える人がいる。
それはその通りと思う。
うまくいけば(?)、人はその順番に従って、この世を去っていく。
ときどきその順番が狂う人もいる。
若くしてこの世を去る人もいる。
しかしおおむね、「順番」という考え方は、まちがってはいない。

 毎年、私より年上の人たちは、どんどんとこの世を去っていく。
どんどんと消えていく。
とくにこの数年の動きは、はげしい。
人も60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そのさみしさ。
そのはかなさ。

 しかしそれが人の世と割り切れば、同時に自分の死も割り切れる。
そのときが来たら、それを受け入れる。
仮にその先10年、長生きしたところで、(あるいは20年、長生きしたところで)、
それがどうだというのか。
瞬時は、瞬時。
だからこそ、私たちは、「今」を懸命に生きる。
一瞬一秒とて、無駄にできる時間はない。
また無駄にしては、いけない。

●死の恐怖

 先日、私は後頭部にはげしい神経痛を覚え、その場に倒れてしまった。
首を不意にひねったようなとき、ときどきそれが起きる。
が、そのときは、ちがった。
太い何百本もの神経が、一度にひねられたような痛さだった。

 私は床に倒れたとき、こう思った。
「ああ、これで死ねる」と。

 けっして死を望んでいたわけではない。
またそういう状況でもなかった。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、何もこわくなかった。
その瞬間だが、私は死をすなおに受け入れていた。
幸い……というか、いつもそうだが、その痛みは、数秒単位の短い時間で収まる。
私はそのあと、ゆっくりと床から、立ち上がった。

 私たちがなぜ死を恐れるか。
これはあくまでも私のばあいだが、私は死ぬまでのプロセスがこわい。
生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
簡単には死なせてくれない。
ワイフもときどき、こう言う。

「ボケ老人になり、みなに、迷惑をかけて死ぬのはいや」と。
同時に、「どうしてこの日本では、安楽死を認めてくれないのかしら」とも。

●ワイフと……

 昨夜は、寝床に入ってから、ワイフとこんな会話をした。

私「もしぼくが死ぬことになっても、悲しまないでよ。
ぼくが死んでも、やがてお前が死ぬときまでは、瞬時だからね」
ワ「私はあなたが死ぬまで、しっかりとめんどうをみるわ」
私「ありがとう。
そのかわり、お前が死ぬときは、かならず迎えに来るよ。
どんなことがあってもね。
神様や仏様が怒っても、迎えに来るよ」
ワ「頼むわ」と。

 そのほかにもいろいろ話した。
時計をみると、午前1時を過ぎていた。
それを最後に、私たちはいつの間にか、眠ってしまった。
 
 私たちは、こうする。

 私が死んでも、葬式などは、いっさい、しない。
だれにも知らせない。
だれも来なくてよい。
ただワイフだけ、一晩、横にいてくれれば、それでよい。
で、そのあと、火葬場で焼かれて、灰になる。
その灰は、ワイフが死ぬまで預かる。

 昨夜もワイフは、それをしっかりと約束してくれた。
私は何度も念を押した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 遺言 晃子への遺言)

●懸命さ

 私たちはこの宇宙で、瞬時に生まれ、そのまた瞬時に死んでいく。
その間に、長い時間があるように見えるが、もともとそんな「時間」など、存在しない。
100年前に生きた人も、1000年前に生きた人も、みな同じ。
1万年前に生きた人も、10万年前に生きた人も、みな同じ。

 この先の「未来」についても、同じ。
この先10年生きようが、20年生きようが、それがどうだというのか。
50年でもよい。
つぎの瞬時には、私もあなたも、この世から消えてなくなる。
それがわからなければ、私やあなた自身の過去をみればよい。
この10年間は、どうだったか?
この20年間は、どうだったか?
どれも瞬時に過ぎたはず。
そのいとおしさ。
切なさ。

 大切なことは、「今」を懸命に生きること。
懸命に生きて、生きて、生き抜く。
つぎの「今」は、その結果として、からなずやってくる。
が、それでも、「今日はよくがんばった」と思える日など、ない。
一日もない。
が、だからといって、生きるのが無駄というのではない。
その逆。
その(懸命さ)の中から、無数のドラマが生まれる。
人がなぜ、この世界に生まれ、そして死んでいくか。
その答は、シンプル。
無数の人間が織りなすドラマにこそ、価値があるから。
意味があるから。

 不完全でボロボロの世界。
だからこそ、おもしろい。
楽しい。

●はやし浩司 2011-0208

 今朝も5時に起きた。
睡眠時間は4時間(?)。
すぐウォーキングマシンで運動。
今朝は、10分間だけ、した。
書きたいことがたくさんあった。
汗が体ににじんだところで、そのまま書斎へ。

 パソコンを立ち上げ、メールに目を通す。
ニュースを読んで、あちこちのサイトのアクセス数を知る。
そのあと昨日撮影したビデオを、編集。
そのままYOUTUBEにアップ。
原稿を書き始めたのは、そのあと。
そう言えば、昨晩、ふとんの中でワイフがこう言った。

「あなたはいいわね。自分の書いたものが残るから」と。

 ワイフはいつもそう言う。
が、私は、そんな安易な気持ちで原稿を書いているのではない。
原稿イコール、私の墓石。
毎日自分の墓石に文字を刻むようなつもりで、文を書いている。
「私の命」そのもの。
「今」を生きる私の命そのもの。
今という瞬間を、実感のあるものにするためには、それしか方法がない。
だから書く。

●今日も始まった

 ……こうして今日も始まった。
何が書けるかということではない。
どんな新しい発見ができるか。
それが重要。
何か新しい発見ができれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 ただ願うことは、夜、床に就いたとき、深い後悔のため息だけは
つきたくないということ。
あれほどつまらない敗北感は、ない。
何としても、それだけは避けたい。
またそうあってはいけない。

 まさに『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』(論語)。
それをもう一度、深く、胸に刻む。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)

To: NHTSA, USA

What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"

+++++++++++++++++++++++++

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

このたび、TOYOTAの「シロ」が、
確定した。

まず、YOMIURIの記事から。

+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++

 ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに“お墨付き”を与え
たことを明らかにした。末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」
を購入したという。

 長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買
うべきだ』と答えた」と語った。「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも
述べた。長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。

+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++

●ラフード米運輸長官

 こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!

 ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。

●2010年に書いた原稿より

 昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10-04-01)

Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の
原稿が、あちこちのサイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010-3-30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)
と全米科学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受け
て事故原因の調査に乗り出すことが30日、明らかになった。
 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月か
けて行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影
響を与えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行
う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010-3-30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立
てあげたいらしい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア~~~?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、そ
の放射線とやらは、どこから発せられたのか。

そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるは
ず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授の
それと、どこもちがわない。

「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したと
か?

TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与え
るかもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほう
がよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠
とはならない。

もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こ
ぞって、放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、
TOYOTAの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。

(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA
車に、まんべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」
も証明しなければならない。
まだある。

「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、
証明しなければならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残
る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせな
くなってしまった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、
アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数
でもよい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も
走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、
アメリカには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」
と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値
に近ければ、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があると
いうことになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)
と、ほかのメーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通
安全局(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。
 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交
通安全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題に
する前に、車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしてい
る。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必
要があるのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題
は起きていないという。

(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでい
る。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証
明しなければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータで
もあれば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響
を与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめ
て十分となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が
与える影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X-File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明
できた」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。

言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安
全局(NHTSA) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制
御装置 影響 TOYOTA ハイブリッド車)

●終わりに

 ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買
うべきだ』と答えた」と。

 それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?

 つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの
(怒り)をご破算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 
■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
                     
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================