最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ

2009-07-12 16:12:39 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(381)

●子育てのコツ(2)

 もう一五年ほど前のことだが、「サイエンス」という雑誌に、「ガムをかむと頭がよくなる」という研究論文が発表された。ガムをかむことにより、脳への血行が刺激され、ついで脳の活動が活発になる。その結果、頭がよくなるというものだった。

素人の私が考えても、合理性のある内容だった。そこでこの話を懇談会の席ですると、数人の母親が、「では……」と言って、毎日子どもにガムをかませるようになった。

 その結果だが、A君(ガムをかみ始めたのは年中児のとき)は、小学三年生になるころには、本当に頭がよくなってしまった。もう一人そういう男の子もいたが、この方法は、どこかボンヤリしていて、ものごとに対する反応の鈍い子どもに有効である。(こう断言するのは危険なことかもしれないが、A君について言えば、年中児のときには、まるで反応がなく、一〇人中でも最下位をフラフラしているような子どもだった。その子どもが小学三年になるころには、反対に、一〇人中でも、最上位になるほど反応が鋭くなった。)

 計算力は、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は速くなる。で、その計算力を伸ばすカギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をするとよい。たとえば手をパンパンと叩いて、それを数えさせるなど。

少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまでのものを数えることができるようになる。最初は「ひとつ、ふたつ……」と数えていた子どもが、「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と進み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えることができるようになる。こうなると、「2+3」の問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計算できるようになる。反対に早数えが苦手な子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割には計算は速くならない。

 少し暑くなると、体をくねくねさせ、座っているだけでもたいへんと思われる子どもがでてくる。中には机の上のぺたんと体をふせてしまう子どももいる。そういう子どもを見ると、親は、「どうしてうちの子は、ああも行儀が悪いのでしょうか」と言う。そして子どもに向かっては、「もっと行儀よくしなさい」と叱る。しかしこれは行儀の問題ではない。このタイプの子どもは、まずカルシウム不足を疑ってみる。

 筋肉の緊張を保つのが、カルシウムイオンである。たとえば指を動かすとき、脳の指令を受けて、指の神経はカルシウムイオンを放出する。このカルシウムイオンが、筋肉を動かす。(実際にはもう少し複雑なメカニズムでだが、簡単に言えばそういうことになる。)が、このカリシウムイオンが不足すると、筋肉が緊張を保つことができなくなり、ついで姿勢が悪くなる。

もしあなたの子どもにそのような症状が出ていたら、(1)骨っぽい食生活にこころがけ、(2)カルシウムの大敵であるリン酸食品を減らし、(3)白砂糖の多い、甘い食生活を改める。子どもによっては、数日から一週間のうちに、みちがえるほど姿勢がよくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(382)

●子育てのコツ(3)

 子どもの運筆能力は、丸(○)を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズなきれいな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。

ちなみに縦線を描くときときと、横線を描くときは、手や指、手首の動きはまったく違う。幼児は縦線が苦手で、かつ曲線となると、かなり練習をしないと描けない。

 その運筆能力を養うには、ぬり絵が最適。こまかい部分を、縦線、横線、曲線をまじえながら、ていねいにぬるように指導する。この運筆能力のあるなしは、満四~五歳前後にはわかるようになる。この時期の訓練を大切にする。それ以後は、書きグセが定着してしまい、なおすのがむずかしくなる。

 母性(父性でもよい)のあるなしは、ぬいぐるみの人形を、そっと手渡してみるとわかる。母性が育っている子どもは、そのぬいぐるみを、さもいとおしいといった様子で、じょうずに抱く。中には頬をすりよせたり、赤ちゃんの世話をするような様子を見せる子どももいる。

しかし母性の育っていない子どもは、ぬいぐるみを見せても反応を示さないばかりか、中には投げて遊んだり、足でキックしたりする子どももいる。全体の約八〇%が、ぬいぐるみに温かい反応を示し、約二〇%が反応を示さないことがわかっている(年長児~小学三年生)。

 ぬいぐるみには不思議な力がある。もし「うちの子は心配だ」と思っているなら、一度、ぬいぐるみを与えてみるとよい。コツは、一度子どもの前で、大切そうにそのぬいぐるみの世話をする様子を見せてから渡すこと。あるいは世話のし方を教えるとよい。まずいのは買ってきたまま、袋に入れてポイと渡すこと。ちなみに約八〇%の子どもが、日常的にぬいぐるみと遊び、そのうち約半数が、「ぬいぐるみ大好き!」と答えている。

 子どもの知的好奇心を伸ばすためには、「アレッ!」と思う意外性を多くする。「マンネリ化した単調な生活は、知的好奇心の敵」と思うこと。決してお金をかけrということではない。意外性は、日常生活のほんのささいなところにある。ある母親は、おもちゃのトラックの上に、お寿司を並べた。また別の母親は、毎日違った弁当を、子どものために用意した。

私も以前、オーストラリアの友人がホームステイしたとき、彼らが白いご飯の上に、ココアとミルクをかけて食べているのをみて、心底驚いたことがある。こうした意外性が、子どもの知的好奇心を刺激する。

 なお最近よく右脳教育が話題になるが、一方で、頭の中でイメージが乱舞してしまい、ものごとを論理的かつ分析的に考えられない子どもがふえていることを忘れてはならない。「テレビなどの映像文化が過剰なまでに子どもの世界を包んでいる今、あえて右脳教育は必要ないのではないか」(九州T氏)という疑問も多く出されている。私もこの意見には賛成である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(383)

●子育てに溺れる親たち

 テレビのクイズ番組。テーマは、どこかの国の料理道具。それをことさらおおげさに取り上げて、ああでもない、こうでもないという議論がつづく。ヒマつぶしには、それなりにおもしろいが、そういう情報がいったい、何の役にたつというのだろうか。……と考えるのは、ヤボなことだ。が、幼児教育にも、同じような側面がある。

 二〇〇二年の五月。私の手元にはいくつかの女性雑誌がある。その中からいくつかの記事を拾ってみると……。「私は冷え性です。おむつをかえるとき、子どもがかわいそうです。どうすれば手を温めることができますか」「階段をおりるとき、三歳の子どもは、一段ごとすわりながらおります。手すりを使っておりるようにさせるには、どうすればいいでしょうか」「遊戯会で、親子のきずなを深めるビデオのとり方を教えて」と。

 こうした情報は、一見役にたつかのようにみえるが、その実、へたをすると、情報の洪水に巻き込まれてしまい、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それはちょうど中華料理と和食とイタリア料理をミキサーにかけて、ぐちゃぐちゃにしてしまうようなものだ。が、それではすまない。こうした情報に溺れると、思考能力そのものが停止する。一見考えているようだが、そのつど情報に引きまわされ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなってしまう。まさに「溺れた状態」になる。

 そこで子育てをするときには、いつも目標を定め、方向性をもたせる。「形」をつくれとか、「設計図」をつくれというのではない。いつも自分の子育てを高い視点からみおろし、自分が今、どこにいるかを知る。それはちょうど、旅をするときの地図のようなものだ。それがないと、迷子になるばかりか、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。たとえば不登校の問題。

 たいていの親は自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。その気持ちはわからないでもないが、今、アメリカだけでも、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)が二〇〇万人を超えたとされる。ドイツやイタリアではクラブ制度(日本でいえば各種おけいこ塾)が、学校教育と同じ、あるいはそれ以上に整備されている。カナダもオーストラリアもそうだ。


さらにアメリカでは、学校の設立そのものが自由化され、バウチャースクール、チャータースクールなどもある。「不登校を悪」と決めてかかること自体、時代遅れ。時代錯誤。国際常識にはずれている。だからといって不登校を支持するわけではないが、しかしそういう視点でみると、不登校に対する見方も変わってくる。高い視点でものを考えるというのはそういうことをいう。またそういう視点があると、少なくとも、「狂乱状態」にはならないですむ。

 テレビのクイズ番組を見ながら、あなたも一度、ここに書いたようなことを考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(384)

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(385)

●今を生きる子育て論(2)

 仕事をしているときは、休みの日のことばかり。それはわかる。しかしこのタイプの人は、休みになると、今度は仕事のことしか考えない。だから休みの日を、休みの日として休むことができない。もともと「今」を生きるという姿勢そのものがない。いつも「今」を未来のために犠牲にするという生き方をする。しかしこういう生き方は、すでに子どものときから始まり、そして老人になってからもつづく。

 A氏(五八歳)は、いつもこう言っている。「私は退職したら、女房とシベリア鉄道に乗り、モスクワまで行く」と。しかし私は、A氏は、退職してからも、モスクワまでは行かないだろうと思う。仮に行ったとしても、その道中では、帰国後の心配ばかりするに違いない。「今を生きる」という生きザマにせよ、「未来のために今を犠牲にする」という生きザマにせよ、それはまさに「生きザマ」の問題であって、そんなに簡単に変えられるものではない。

A氏について言うなら、今まで、「未来のために今を犠牲にする」という生き方を日常的にしてきた。そのA氏が退職したとたん、その生きザマを変えて、「今を生きる」などということは、できるはずもない。

 ……そこで私たち自身はどうなのかという問題にぶつかる。私たちは本当に「今」を生きているだろうか。あるいはあなたの子どもでもよい。私たちは自分の子どもに、「今を大切にしろ」と教えているだろうか。子どもたちはそれにこたえて、今を大切に生きているだろうか。ある母親はこう言った。

「日曜日などに子どもが家でゴロゴロしていると、つい、『宿題はやったの?』、『今度のテストはだいじょうぶなの?』と言ってしまう」と。親として子どもの「明日」を心配してそう言うが、こうした言い方は、少しずつだが、しかし確実に積み重なって、その子どもの生きザマをつくる。子ども自身もいつか、「休むのは、仕事のため」と考えるようになる。

 当然のことだが、人生には限りがある。しかしいつか突然、その人生が終わるわけではない。健康も少しずつむしばまれ、気力も弱くなる。先のA氏にしても、定年後があるとは限らない。この私にしても、五〇歳をすぎるころから、ガクンと気力が落ちたように思う。何かにつけて新しいことをするのが、おっくうになってきた。

 日本人は戦後、ある意味で、「今をがむしゃらに犠牲にして」生きてきた。会社人間、企業戦士という言葉もそこから生まれ、それがまたもてはやされた。そういう親たちが、第二世代をつくり、今、第三世代をつくりつつある。こうした生きザマに疑問をもつ人もふえてはきたが、しかし一方で、その生きザマを引きずっている人も多い。

仕事第一主義が悪いというわけではないが、今でも「仕事」を理由に、平気で家族を犠牲にし、人生そのものまで犠牲にしている人も多い。仕事は大切なものだが、「何のために仕事をするのか」という原点を忘れると、人生そのものまで棒に振ってしまうことになる。

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