最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/2 マガジン8-29

2011-08-29 07:38:54 | 日記




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     8月 29日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of the Life)

●夏休み(8月12日)

 私も明日から、夏休み。
10日間の夏休み。
自由、気ままな夏休み。

 ……と、子どもの書くような文を書く。
何歳になっても、休みは、うれしいもの。
ワイフも、今朝、こう言った。
「思う存分、遊びましょう」と。

 やりたいことがあったら、その場で決定。
迷わない。
行きたいところがあったら、その場で決定。
すぐ行く。

 が、明日まで待てない。
今夜は、仕事が終わったら、深夜劇場へ。
今日から公開の、「ツリー・オブ・ライフ」。
それを観る。
チケットは、すでに購入済み。

 明日は、ビスタ・パソコンのアップグレード。
夕方は、Mさん家族と会食。
山荘へ招待する。
明後日は……。

 こういうことはあまり詳しく書かないほうがよい。
空き巣に、おいでくださいと言っているようなもの。
以前、そういう忠告を、ある人から受けた。
「家を空けるという話は書かない方がいい」と。
以来、HPでもBLOGでも、予定については、書かないようにしている。

●浜松で35度!

 昨日は暑かった。
しかし今日は、もっと暑い。
昼寝をしていたが、ドカッとした熱気で目が覚めた。
起きて居間へ行くと、ワイフが、「34度よ」と。
家の中で、34度!

 が、私は自転車に乗って、教室へ向かった。
運動は欠かせない。
が、それにしても暑かった。
途中、飲み水としてもってきた水を、頭からかける。
地面から、乾いた熱気が、容赦なく伝わってくる。
白い日差しが、まぶしい。

 ……おかげで軽い熱中症に。
吐き気と頭痛。
クーラーの前に立ち、扇風機をかける。
頭を水で冷やす。

 今日のレッスンは、年長児。
「形」の学習。

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(つづきは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のほうで……。please!)

●したいこと

 新しいパソコン。
高性能であればあるほど、よい。
まず、それがほしい。

 つぎにそのパソコンをもって、どこかへ行きたい。
温泉がよい。
静かで、人がいないところがよい。
そこで一日中、本を読んだり、キーボードを叩いて過ごしたい。

 ……というか、今夜から、思う存分、徹夜ができる。
眠くなって、どうしようもなくなったら、床に就く。
それまでパソコンに向かって、文を書く。
それが私の休みの過ごし方。

●麦わら帽子

 夏休みと言えば、麦わら帽子。
そんなイメージが脳に焼き付いている。
ワイフと私は、そんな季節に出会った。
1972年の夏。

 その直後、知り合った直後、私は弁天島にあった友人の別荘を借り、パーティを開いた。
7~8人が集まってくれた。
その中に、「とべ・ひろし」(漢字名は忘れた)というフォークシンガーもいた。
そのとべ君が、吉田拓郎の『♪夏休み』を歌ってくれた。

 そう言えば、仲間に「なぎら・けんいち」というフォークシンガーもいた。
が、その夜は、どこかのビアガーデンで弾き語りをするということで、来なかった。
当時は「なぎら健一」と書いていたと記憶している。
今は「なぎら健壱」と書く。

 「♪……あんたがた死ねねえだろう。葬式費用もないからね……」というような歌を歌
っていた。

 遠い遠い昔の話。
あのころのワイフは、美しかった。
今でも、「♪麦わら帽子は、もう消えた……」と口ずさむたびに、それを歌ってくれた、と
べ君を思い出す。
ワイフを思い出す。
親友だった、今井修さんを思い出す。

 今井修さんは、今の市立図書館の前あたりで、小さなデザイン事務所を開いていた。
イベント事業も手がけていた。
その関係で、とべ君やなぎら健壱を、紹介してくれた。
もちろんそのパーティに、今井修さんも来ていた。
ワイフも、その夜のことを、よく覚えている。
ワイフと私は、パーティが終わると、海のそばの堤防に座り、夜遅くまであれこれ話した。

 夏休み……私にとっては、麦わら帽子の夏休み。

(映画を観て、夜、12時ごろ帰宅)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ツリー・オブ・ライフ(The Tree of the Life)』

 映画、『ツリー・オブ・ライフ(生命の樹)』を観てきた。
美しい画像と美しい音楽。
そのものすごさに、圧倒された。
ストーリーの運び方にも、独創性があった。
よかった。
よかったが、そこまで。
何か、釈然としない。

 冒頭のところで、こう言う。

「キリスト教を信ずる者は、愛に包まれ、時間を長く生きる。
そうでない人は、利得に毒され、つまらない人生を生きる」(記憶)と。

 つまりこの映画は、最初から最後まで、キリスト教のプロパガンダ映画。
キリスト教の信者の人(=大多数のアメリカ人)が観れば、涙を流して感激するだろう。
しかし残念ながら、私はその信者ではない。

 つまり最初の段階で、「そうかなあ?」という疑問をもってしまった。
その疑問が、最後の最後までつづいた。

 で、なぜ「ツリー(木)」なのか?

 映画の中では、大宇宙と、地球の歴史を交互にからませ、やがて人間世界に、「神の意志」
を投影させていく。
二男を19歳で失った父親と母親の悲しみを、その上に料理のトッピングのように載せて
いく……。
「生命というのは、人間の悲しみや苦しみを超えたところで、大宇宙や地球の歴史と、大
きな木のようになってつながっている」と。

しかし、それが大げさ。
深い(?)宗教哲学を織り込んだのはよいが、かえってそれが映画自体をわかりにくいも
のにしている。
「これがキリスト教だ」と言わんばかりの、高慢な製作姿勢。
観ていて、私は疲れた。
肩が凝った。
少なくとも、娯楽映画ではない。
辛らつな言い方をすれば、キリスト教の洗脳映画を見せつけられたような感じ。

 2000円(シルバー料金、2人分)も出して観に行ったのだから、もう少し楽しませ
てほしかった。

 映画館を出たあと、私はワイフに、こんな会話をした。
「日本では、大震災で、2万5000人もの人たちが、亡くなった。
1人ひとりについてみれば、それも神の意志だったのだろうか」と。

 なおブラッド・ピットが演ずる父親について一言。

 アメリカにも、ああいう権威主義で、代償的過保護(子どもを自分の支配下において、
自分の思い通りにしたいと思う、身勝手な過保護)な親はいる。……いたと思う。
1910年代~は、そうだっただろう。
その親が、映画の中では、一方的に、「悪人」に仕立てられていた。
その反動として(?)、母親はマリア様のように仕立てられていた。

 たしかに子ども側(=3人の息子)の視点から捕えれば、そうだろう。
しかし同時に、父親には、「家族を支えていかねばならない」という重圧感もある。
ものすごい重圧感である。
最近の若い人たちは、その重圧感の経験もないまま、「そんなのは親の義務」と、簡単に片
づけてしまう。
私はむしろそちらのほうに反発を覚える。
もちろんブラッド・ピットが演ずる父親には、問題がないわけではない。
が、しかし映画を観ているうちに、私はむしろ父親のほうに同情してしまった。
「偉そうなことを言うなら、自分で家族をもち、自分で支えてみなさい」と。

 さらに付け加えるなら、私の知る範囲でも、映画に出てくるブラッド・ピット以上に、
年がら年中、ガミガミ言っている母親だっているぞ!

 星は、もし私がキリスト教信者であれば、文句なしの5つの、★★★★★。
が、私は信者ではないから、かえって疎外感を覚えてしまった。
2度目は観たくないという意味で、星は2つの、★★。

 キリスト教国のアメリカでは、当然、アカデミー賞を受賞するだろう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of the Life)(補足的意見)

(注:この原稿は、今朝書いた原稿の補足部分です。)2011/08/13

●善と悪、進化論

++++++++++++++++++++++++

映画『ツリー・オブ・ライフ』の中で、
善と悪について、あれこれ述べている。
キリスト教信者は、絶対的な善人であり、
そうでない人は、善人にはなりえない(記憶)と。
この映画の主題と言ってもよい。

これについて日ごろの私の考えを記録しておきたい。

++++++++++++++++++++++++

●進化論の否定

 アメリカには、いまだに進化論を信じていない人が、70~80%前後もいるという。
熱心なキリスト教信者ほど、そうらしい。
が、もし私が、「善と悪」も、進化論の過程で生まれたと言ったら、どうだろう。
キリスト教の信者の人たちは、顔を真っ赤にして、怒るにちがいない。
「善と悪」を、進化論にからめて考えること自体、神への冒涜ということになる。
が、怒る前に、私の意見に、ほんの少しだけ、耳を傾けてほしい。

●仮定

 よくこんな仮定が、話題になる。
「もし蚊が、ハチの大きさだったら……」という仮定である。
もし蚊がハチの大きさだったが、蚊そのものが、絶滅していたはず。

蚊のもつ毒は、きわめて強力。
もし蚊がハチほどの大きさだったとすると、蚊の一刺しで、人間はもちろん、かなり大き
な動物(牛や馬)も、ショック状態になる。

ハチ(スズメバチ)は、約40ミリ。
蚊は、約5ミリ。
体積比でみると、8の3乗。
つまりハチは、蚊の512倍。
毒の量も512倍。

 毒の量が2倍になれば、抗原抗体反応は、4倍~10倍になる。
500倍ともなれば、一刺しで、人間だったら、体中が真っ赤に膨れ上がり、死んでしま
うかもしれない。
そんな蚊が人間を襲う。
集団で襲う。
ばあいによっては、人間は、絶滅。
(ハチも襲うが、それは自衛のため。)

 が、ここで蚊にとっても、深刻な問題が起きる。
もし刺す相手が絶滅し、いなくなってしまえば、自分も死ぬことになる。
血を吸う、相手がいなくなる。
そこで自然界では、絶妙なバランスが働く。

 蚊はほどよい大きさを保ち、刺した相手が絶滅するまでの毒は注射しない。
つまり同じことが、善と悪についても言える。

●絶妙なバランス

 もし人間がその進化の始まりで、絶対的な善人だったとする。
20万年前でもよいし、10万年前でもよい。
人類の歴史は、20万年と言われている。

 もしそうなら、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。
たとえば自分の妻や子どもたちが、別の動物に襲われたとする。
が、絶対的な善人である人間は、やり返すということをしない。
つまり無抵抗のまま、つぎに我が身を差し出す。
「どうか、私も食べてください」と。

 一方、人間が、絶対的な悪人だったとする。
それこそ腹が減れば、平気で自分の妻や子どもですらも、肉にして食べてしまう。
それを見ても、周りの人間も何も言わない。
スキさえあれば、今度は、自分たちも、そうする。
このばあいも、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 つまりここで善と悪の間に、絶妙なバランス感覚が生まれる。
絶対的な善人であっても、また絶対的な悪人であっても、人間は、とっくの昔に絶滅して
いたことになる。
だから人間は、適当に善人であり、適当に悪人であるということになる。

 自分の妻や子どもが襲われれば、反撃もする。
ばあいによっては、復讐もする。
相手を襲う。

 人間だけではない。
この地球上に住む、ありとあらゆる生物が、その絶妙なバランスの上で、成り立っている。
生きている。
長い進化の過程で、そういうバランスが生まれ、定着した。

●善と悪

 先にあげた例は、話をわかりやすくするため、極端な内容にした。
しかしこのことは、実生活の中で考えてみれば、よくわかる。
私たちは常に、善人と悪人の間を、行ったりきたりしながら、生きている。

 商売にしてもそうだ。
より大型店を作れば、小さな商店は閉店に追い込まれる。
大型店で、ものを安く売れば、貧しい人たちは、助かる。
この時点では、大型店を作った人は、善人ということになる。
しかし小さな商店の経営者にとっては、そうでない。
悪人ということになる。

 こんな話を、商売を経験したことのない人に話しても、無駄かもしれない。
ジワジワと斜陽の道をたどり、やがて閉店に追い込まれる商店主の気持ちは、理解できな
いだろう。
が、私は経験している。

私が中学生ののころ、近くに大きなショッピングセンターができた。
そこで自転車を安売りを始めたとき、心底、そのショッピングセンターを恨んだ。
この恨んだ部分が、「悪」ということになる。

 で、つぎに私がこう考えたとする。
「ようし、私はさらに大きな店を作り、あのショッピングセンターを叩きつぶしてやる」
と。
つまり、仕返しということになる。
これも「悪」ということになる。

 が、こうした心の作用を「悪」と決めつけてはいけない。
それがあるからこそ、人間は、今までこうして生き延びることができた。
今の、あなたにしてもそうだ。
今まで、こうして生き延びることができた。
「お人好しだけでは、生きていかれない」(映画の中のセリフ)。

●進化論

 善と悪は、絶妙なバランスの上で成り立っている。
つまり絶対的な善というのは、存在しない。
絶対的な悪というのも、存在しない。

 同じように、絶対的な善人というのも存在しない。
絶対的な悪人というのも存在しない。
どちらであるにせよ、もしそうなら、人類はとっくの昔に絶滅していたということになる。
逆に言うと、今、ここに存在するということは、私たちはそのバランスの上で生きてきた
ということになる。

 もちろん善人、悪人といっても、程度の問題もある。
割合の問題といったほうが、よいかもしれない。
善と悪の割合が、70:30の人もいれば、反対に30:70の人もいる。
人は努力によって、善の割合をふやすことはできる。
しかし100%……というわけにはいかない。
100%になったとたん、その人は、社会から、はじき飛ばされてしまう。

 で、もしそれが本来の人間の姿であるとするなら、善と悪を峻別し、たとえば善を「神」
と結びつけ、悪を「悪魔」と結びつけることは、あまりにも短絡的な考え方ということに
なる。

●私たちの心

 私は若いころ、『4割の善と4割の悪』という第で、エッセーを書いたことがある。
中日新聞にも発表させてもらった。
それをそのまま、ここに掲載する。
少しちがった視点から書いたエッセーである。
そこは許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●4割の善と、4割の悪(中日新聞掲載済み)

 社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4
割の悪がある。
子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。
子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする
(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。

 ただし一言。
悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいな
いというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。
言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。
「希望を与えるため」と。
もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望
をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間にな
ることもできる。
旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子ども
の世界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいるこ
とについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生
の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君
は許せるか」と。
するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。
うちの娘はまともだからね」と。
私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性
が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。
子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。
子どもの世界も変わる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪の否定

 要するに、悪は悪として存在する。
それを否定しても、意味はない。
大切なことは、悪と戦うのではない。
悪とどうやってうまく、つきあっていくかということ。

 相手が人間でも、そうである。
悪人は、いつの世界にも存在する。
どこにでもいる。
大切なことは、そういう悪人と戦うことではない。
悪人とどうやってうまく、つきあっていくかということ。

 もちろん反社会的な行為を繰り返すような悪人は、別。
しかし今、この文章を読んでいるあなたにしても、「私は善人」と言い切ることができる人
は、いったい、どれだけいるだろうか。

 私にしてもそうだ。
私は、自分を善人と思ったことは、一度もない。
ものの考え方は、たしかにゆがんでいる。
嫉妬深く、いつも心の底流では、恨みや、つらみが渦を巻いている。
それに自己中心的。
だからもしだれかに、「あなたは善人か」と聞かれたら、私はこう答える。
「ハハハ、ありえない」と。

 が、こうした善と悪のハバが、人間社会を、おもしろく豊かなものにしている。
もし人間がすべて天使になってしまったら、この世の中、ほんとうにつまらなくなる。
……というか、そのほうが、不気味。

私たちがなぜ、今、ここに生きているかといえば、そこにドラマを残すため。
そのドラマに生きる価値がある。
そのドラマの中に、生きる意味がある。

●神とは

 映画『ツリー・オブ・ライフ』の中では、得体の知れない、何やらモヤモヤしたものが、
「神」として描かれていた。
日本のどこかのカルト教団も、同じようなことを言っている。

 私はもちろん、神がどんなものであるか、知らない。
しかし今、昨夜見た映画を思い出してみると、どう考えても、あの映画は、どこかのキリ
スト教団体の、プロパガンダ(情宣)映画にしか思えない。
つまり洗脳映画。
(映画『ベン・ハー』を、洗脳に利用しているカルト教団もあるぞ!
勧誘してやってきた人たちに、まずあの映画を見せているそうだ。)

 あの映画の中で述べていることを本気でとらえてしまうと、そのままキリスト教に入信
してしまうかもしれない。
随所で、「入信してよかった」「新しい世界が開けた」と述べるセリフもあった(記憶)。

 その点、私たち日本人は、一歩退いたところからあの映画を観ることができる。
形だけかもしれないが、一応、仏教徒。
しかし油断は禁物。
そんな警戒心をもっても、おかしくない映画ということになる。

 最後に、試しにアメリカ人にこう聞いてみるとよい。
「あなたがたの国は、キリスト教国か?」と。
ほとんどのアメリカ人は、きっぱりとこう言う。
「No!」と。

 ドル札すべての裏に、「We trust in God(私たちは神の存在を信ずる)」と刷り込んでい
ても、「No!」という。
そのおかしさ。
映画『ツリ-・オブ・ライフ』は、そういう国の、そういう人たちによって作られた映画
である。

 インパクトが強烈な映画だけに、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ツリーオブライフ 
ツリー・オブ・ライフ The Tree of the Life 善と悪の進化論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月13日

 明けて今朝は、8月13日。
土曜日。
昨日のサイクリングがたたって、今でも筋肉痛がひどい。
が、負けてはいけない。
今朝は、起きるとすぐ、30分のウォーキング。
全身に、ビッショリと汗をかいた。

 が、痛さは、そのまま。
水を1リットルほど飲んで、そのまま書斎へ。
今が、そのとき。

 これから近くのショッピングセンターへ行き、買い物。
友人を、山荘に招待している。
その食材さがし。

 また午後イチバンに、WINDOW7のUPGRADEソフトが届くはず。
サブで使っている、ビスタマシンを、それを使ってUPGRADEしなければならない。
簡単な作業のように見えるが、時間はかかる。

 ……今日も猛暑日という。
パソコンがそれに耐えられるだろうか。
少し心配になってきた。

 では、これから買い物。
みなさん、おはようございます。

はやし浩司 2011-08-13


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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