最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2010-02-22 10:00:41 | 日記


●薬物でも・・・

 実はこの原稿を書くには、もうひとつの理由がある。

 現在私は、難聴治療のため、6種類の薬をのんでいる。
その中には、ホルモン剤としてよく知られている、ステロイド剤(副腎皮質ホルモン)も
ある。
「奇跡の薬」と言われているが、長くのんでいると、その分だけ副作用も、大きい。
服用をやめたあとの、反作用も、これまた大きい。

 そのほか、三半規管の働きをよくするために、
(1) MT剤・・・末梢神経障害を改善する薬。
(2) AD剤・・・心臓の働きを回復する薬、ほかを、のんでいる。

 で、この4日間、こういった薬をのんでいるが、明らかな変化が見られる。
動悸がはげしくなったこと。
耳の中を、川が流れるような音がすること。
脈拍数がふえたこと、など。
それに頭脳は、たしかに明晰になった。
テキパキと反応できる。
言葉も豊富。
かつパソコンのキーボードを叩く指が速くなった、など。

 どの薬がどのように作用しているのかは、わからない。
しかし薬効の説明書きを読むと、どうやらこういうことらしい。

「耳の聞こえをよくするため、心臓の働きをよくし、血流を増す。末梢神経の働きをよく
する。その結果として聴力を回復する」と。
あとの薬は、耳の中の炎症を抑えたり、鼻水や痰を排出するためのものらしい。

 で、こうした薬は、脳の神経細胞にも、同じように作用すると考えてよい。
神経細胞といえば、末梢神経のかたまりのようなもの。
(あくまでも素人判断だが・・・。)

 言い換えると、この世界にも、つまり受験競争の世界にも、ドーピングというのが、あ
るのではないかということ。
うまく薬を使えば、脳の神経細胞の働きを倍加できる。
ふだんなら思い出せないような、歴史の年号がスラスラと思い浮かんできたり、計算力が
速くなったりするなど。
もしそうだとするなら、

(1) この分野の研究を、早急に進める。
(2) この種のドーピング検査の態勢をできるだけ早く、整える。

 でないと、そういう薬の知識のある親の子どもは、受験競争に有利ということになる。
堂々とドーピングができる。
パーセントで表示するのは、適切ではないかもしれない。
しかし薬物の使用で、当日、10~20%、神経細胞の活動が活発になれば、その分だけ、
試験ではよい点数を稼ぐことができる。

 が、これはフェアではない。
あるいは水面下では、すでに実行されているかもしれない。
先にも書いたように、市販のドリンク剤でも、かなりの効果がある。
今回、難聴治療のために6種類の薬をのんでみて、私はさらにそれを確信した。

ここに書いたことを、みなさんが、どう判断し、どう利用するかは、みなさんの自己責
任においてしてほしい。
私は責任を取らない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 受験競争 ドーピング問題 薬物使用)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親の人生vs子どもの人生

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原始社会では、基本的には、子どもは、「親の財産」と
考えられていた。
そう言い切るのは危険なことかもしれない。
だれも原始社会の人がどう考えていたかまでは、わからない。
わからないが、しかしこれは常識的な見方と考えてよい。

「財産」という言葉が悪いなら、「一家の働き手」という言い方でもよい。
その「働き手」が、順送りに伝わっていくから、親たちは安心して、
自分の老後を迎えることができた。
そんため、よほどのことがないかぎり、親のほうから子どもを
手放すというようなことはなかったはず。
「よほどのこと」というのは、親自身の生活が崩壊したようなばあいをいう。

で、「あなたの人生はあなたのもの。あなたの好きなように生きなさい」
と子どもに教えるようになったのは、ごく最近のことと考えてよい。
それだけではない。

社会保障制度のない国では、老後の親のめんどうをみるのは、
子どもの役目と考えられていた。
またそうでないと、「家族」としてのしくみを、
維持することができなかった。

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●私たちの子ども時代

 私たちが子どものころには、こうした(原始性)は、まだ色濃く残っていた。
結婚のとき交わされる結納制度にしても、もとはと言えば、「人身売買」的な発想から生ま
れたもの。
アフリカのある部族は、娘と家畜を交換しているそうだ。

 一方、子どもは子どもで、老後の親のめんどうをみるのは、当然と考えていた。
「当然」というのは、「疑いもしない」という意味。
また外へ出た子どもたちは、毎月、もしくは毎年、ある程度の金銭的な仕送りをするのが、
常識だった。
私も22、3歳のころから、そうしていた。
もちろん親に対して、である。

●子どもに恩を着せない

 子どもに恩を着せない。
これは子育ての基本。
親の(意思)で子どもをつくる。
そこには子どもの(意思)はない。
つまり子どもを産んでしまった以上、その子どもを、よき家庭人として自立させるのは、
親の義務ということになる。

 が、今でも、恩着せがましい子育てをつづけている人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」と。

●親と子

 しかし本当に、「子どもは子ども」と考えてよいのだろうか。
「子どもの人生は、子どもの人生」と、子どもの人生を切り離してしまってよいのだろう
か。

 最近、私は、聴力を完全に失うという病気になった。
幸い、1~2日で、症状は改善したが、そのとき感じた孤立感には、相当なものがある。
「孤独感」ではない。
「孤立感」である。
「だれも助けてくれない」という孤立感。
そこには、もちろん子ども(=息子たち)の姿はない。
仮に生死の境をさまよっても、息子たちが、私のところへ駆けつけてくれるということは
ないだろう。
生活に行き詰ったときも、そうだろう。
そのときふと、子どもたちの視線をどこかに感じた。
冷たい視線だった。
これから先、こうした孤立感は、大きくなることはあっても、小さくなることはない。

●家族

 長男は独身貴族。
二男は、アメリカ在住。
三男は、養子に嫁いだような状態。

 残されたのはワイフだけ。
そのときワイフがいたからよいようなものの、もしワイフがいなければ、私はそのまま独
居老人。

 内閣府(当時)の10年ほど前の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」と答え
た若者は、20%前後しかいない。
たいはんの若者たちは、「経済的に余裕があれば、みる」と答えている。
しかし「経済的に余裕のある人」は、いない。
みな、目いっぱいの生活をしている。
しかもこの「20%」という数値は、どんどんと低下している。

●ふえつづける独居老人。

 実際、数字をあげるのもこわいほど、独居老人がふえている。
そのための施設もあるが、今でさえ、満杯。
従姉(いとこ)の母親も現在は寝たきり状態だが、いまだに施設に入れないでいる。
年齢は85歳。
「私はだいじょうぶ」と高をくくっている人も多いだろう。
が、一度でよいから、自分の足元を見てほしい。
ほんとうに、だいじょうぶか?

 今日もワイフが、どこかの有料老人ホームのパンフをもってきた。
それによれば、入居料だけで、1名、1300万円。
それに部屋代が、2人部屋で、毎月17万円、プラス食事代、1名、12万円。
合計30万円弱。
2人で、42万円弱。
ただし健康な老人のみ、とか。
そういうパンフを見ると、もう息子や孫たちにかまっている余裕はない。
1円でもあれば、自分たちの老後のために使いたい。
私たちは、やるべきことは、やった。
それ以上、私は、何をすべきなのか。

●2人ぼっち

 昨夜も仕事の帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、「怪獣たちのいるところ」という、三流映画。
星など、つけようもないほど、ひどい映画。
その帰り道、私はふと、こう漏らした。

「2人ぼっちだね」と。
それに答えて、ワイフも、「そう、2人ぼっちね」と。

 そう、2人ぼっち。
で、今、私はこう思う。
「これでよかったのか」と。
つまり私たちの子育ては、これでよかったのか、と。
わかりやすく言えば、夏服のまま、山登りにでかけたようなもの。
子育ての最中というのは、そういうもの。
自分がどんな服装をしているかも、わからない。
が、山頂では、冷たい雪が降り続いている。
「ある」と思っていた、山小屋は、そこにはない。
それが現実。

●親と子

 私は親と子の関係について、考え方を改めつつある。
親も人間だが、子も1人の人間という関係は、それなりの社会制度が整った国での話。
今のこの日本で、理想主義に走ることは、まだ時期尚早(?)。
たとえばオーストラリアでは、そうした老人たちが、年金だけで、施設で晩年を迎えるこ
とができる。
そういう制度が確立している。
が、日本では、無理。
毎月42万円も払える夫婦というのは、そうはいない。

 お金のない老人は、壊れかかった家で、あるいは小さなマンションの中で、ひっそりと
暮らすしかない。
が、そのときも、子どもたちは、ぜったいにと断言してよいほど、私やあなたを助けには
来ない。
私やあなたの子どもが、そうだというのではない。
「日本中の若者たちが、老人を助けには来ない」という意味で、そう書いている。

●「子どもはいらない」層

 最近「結婚しても、子どもはいらない」と考えている夫婦が多いとか。
それについては、先日、書いた。
が、ここにきて、私はこうも考えるようになった。
つまり現在の若い夫婦たちは、自分の心を、子どもたちに投影させているのではないか、
と。

 つまり「自分たちだって、親のめんどうをみるつもりはない」。
「だから自分の子どもたちだって、私のめんどうをみないだろう」
「だから子育てなんかしても、損」と。

 あるいは、こうでもよい。
「親たちは、自分たちを育てるのに苦労した」
「苦労といっても、ありがた迷惑なことばかり」
「自分という子どもは親に感謝していない」
「自分の子どもも、やがてそうなるだろう」
「だから私たちは、同じような無駄な苦労をしたくない」と。

 ひょっとしたらそういう(思い)も、「子どもはいらない」という考え方に、どこかでつ
ながっているのではないか。
一方的な見方かもしれないが、それほどまちがっていないと思う。

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