最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2010-01-08 09:03:13 | 日記


●2つのタイプ

 ところがたいへん興味深いことに、何かのことで大損をした人は、そのあと、
つぎの2つのタイプに分かれる。
ひとつは、極端なケチになるタイプ。
もうひとつは、損に対して、おおらかになるタイプ。

 私のことを書いてもあまり意味はないが、損か得かということになれば、私は
自分の人生の中で、損ばかりしてきた。
いまだかって、(もらったお金)と言えば、ワイフの実父が亡くなったとき、義兄から
受け取った10万円だけ。
あとはすべて出超。

 お金だけではない。
いろいろなチャンスがありながら、そのチャンスを生かすことさえできなかった。
いつもあと一歩というところで、身を引いてしまった。
だからときどき、こう考える。
「今さら、何が損か」と。

 おおらかになったわけではないが、損得勘定に、鈍感になってしまった。
で、その一方で、たぶんに言い訳がましいが、こう言って自分をなぐさめる。
「健康で、家族がいるではないか」と。
「たいした人生ではなかったが、思う存分、自分の生きたいように生きることが
できたではないか」と。

●莫大な財産

 損か、得か。
最後に、最近、聞いた話。

 ある妻は、自分の生涯を、夫に捧げた。
夫を愛していたからではない。
家族を大切に考えていたからでもない。
子どもが2人いたが、その子どもたちのためでもない。

 夫の両親がもっていた、莫大な遺産があったからである。
夫婦関係についていえば、子どもたちがまだ小学生のころ、完全に
冷えていた。

 夫の両親は、その妻が、50歳になる少し前に、相次いで他界した。
が、だからといって、夫の両親の財産が、妻のものになったわけではない。
夫の両親の財産は、夫と、夫の弟で、2分した。

 が、夫は、自分が相続した財産を、妻には渡さなかった。
妻が財産目当てに、自分との婚姻関係をつづけてきたことを知っていた。
以来、毎日のように言い争いがつづいた。

 で、そうこうしているうちに、15年が過ぎた。
妻は、現在、65歳前後。
2人の子どもたちはそれぞれが独立し、ほとんど行き来はない。
莫大な財産は、手を伸ばせばすぐそこにあるが、しかしだからといって、それが
どうなのか。
妻は、去年、若年性アルツハイマー病になってしまった。
夫も、軽い脳こうそくを起こし、歩くのもやっとという状態になってしまった。

 損と言えば、これほど損な話はない。
自分の人生そのものを、棒に振ってしまった。
 
●損得論

 資本主義社会になって、損得論が変質してしまった。
金銭的な損得論だけが、ひとり歩きをするようになってしまった。
しかし(生きること)には、もっと別の価値がある。
しかもその価値というのは、金銭的な尺度では、計算できない。
わかりきったことだが、そのわかりきったことが、わかりにくくなってしまった。

 で、最近観た映画に、『クリスマス・キャロル』がある。
自由貿易体制の宗主であるアメリカで、ああした映画が作られるというのも、おもしろい。
あの『クリスマス・キャロル』は、そのわかりにくくなった部分を、鋭くえぐり
出している。

 私たちにとって、何が本当に大切なのか。
生きるとは、本来どういうことなのか。
それを考えていくと、そこに壁のように立ちはだかるのが、損得論ということになる。
言い換えると、その損得論を乗り越えないかぎり、私たちは、その先へ進むことは
できない。

 冒頭で、「損得論は、意外と奥が深い」と書いた意味が、これでわかってもらえた
だろうか。

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Hayashi 林浩司 BW 損得論 ケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●相続制度の崩壊

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本来相続権のない、息子や娘が
親に代わって、相続財産の分与を求め、
裁判を起こす。
そんな例がふえているという。

F県で司法書士をしている学生時代の
友人が、そんな話をしてくれた。

もう少し、詳しく説明する。

親が死ねば、その財産は、配偶者と
子どもに、分配される。
これらの人たちを、相続権者という。

が、その子どもの子ども、つまり孫が、
親をたきつけて、相続財産を争う。
もちろん孫には、相続権はない。
ないにもかかわらず、親をたきつけて、
裁判を起こす。
「親の取り分をよこせ!」と。

ある女性(40歳くらい)は、こう言った。
「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を
分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、
どうして悪いですか」と。

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●孫が親の実家を訴える?

 こうした裁判は、私が若いころには、想像もできなかった。
長子相続制度、家(家督)制度というのは、そのとき廃止されていたが、その意識はまだ
残っていた。
それが社会の常識として定着していた。

「長子相続制度」というのは、長男、もしくは男子が、「家」を継ぐという制度。
女子は、長子相続制度からは、はずされることが多かった。

また「家制度」というのは、「家督制度」とも呼ばれた。
家族(親族)を、「戸主」と「家族」に分け、戸主に統率権限を与えていた制度をいう。
「家」あっての家族ということになる。
同時に、その「家」では、戸主が絶対的な権限を握っていた。

 これら2つの制度は、1947年の民法の大改革によって、廃止されている。
子どもは、みな、平等となった。
つまりそれまでは、「家」を出た者は、当然のこととして、遺産相続権を放棄したものと、
みなされた。
「家族より、家の方が大切」と考えていた。
財産分与を請求すれば、「家」が弱体化する。
そのため財産分与の請求など、常識として、ありえなかった。
むしろ家を出た者は、「本家」を守るため、毎年何かしらの貢ぎ物(=マネー)を
渡すのが習慣になっていた。
私の母ですら、あるとき私にこう言った。
「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 そうした意識の片鱗は、実は私の中にも、残っている。
孫の立場の子どもが、親をたきつけて、親の実家に向かって、財産分与を請求する
ということそのものが、理解できない。
が、実際には、先にも書いたように、そういう事例が、ふえている、・・・という。

●農村社会の連続性

 江戸時代は、きびしい身分制度が敷かれていた。
農民は、生まれながらに農民。
それ以外には、なりえなかった。
が、それだけではない。

人口の90%以上が、農民であった。
そういう社会では、世代の連続性が重要視された。
親が死んだ、だから農業を廃業しますというわけにはいかない。
また代々、親が死ぬたびに、農地を分割していたら、3代、4代もすれば、農地が
こまごまになってしまう。
それでは農業そのものが、成り立たなくなってしまう。
そこで(連続性)を維持するために、長子相続制度や家制度が生まれた。

 本家は、一族を代表して、祭祀を執り行った。
一方、本家を出た者たちは、絶対的な服従を強いられた。

 が、時代が変わった。
子どもたちの権利意識も変わった。
農業といっても、今では専業で農業を営んでいる人は少ない。
しかも都会地域の農地は、宅地に転用したとたん、巨億の財産に変身する。
が、何よりも変わったのは、長子相続制度が廃止され、家制度が廃止されたこと。
長男も二男も、男も女も、平等になった。

●遺産相続の手続き

 が、私は、どうしても納得できない。
子どもが、自分の親の死にあたって、遺産相続権を行使するのは、わかる。
が、孫にあたる子どもが、自分の親をたきつけて、親の実家を相手に、遺産相続を
請求するというのは、私の理解の範囲を超える。

 もう一度、冒頭に書いた女性の言葉を思い出してみてほしい。
その女性は、こう言った。

「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、どうして悪いですか」と。

 あなたはこの意見を読んで、「当然のことだ」と考えるだろうか。
それとも、「おかしい」と考えるだろうか。

 さらにこんな例もある。

●複雑な家族関係

(家族関係を説明するときは、言葉の使い方がむずかしい。
書き方をまちがえると、何がなんだか、わけがわからなくなる。)

 そこであらかじめ、家族関係を説明しておく。

(父親と母親・・・X)には、3人の(子ども・・・Y)がいた。
3人の子どもを、A、B、Cとする。
A、B、C、それぞれの子どもには、2人ずつの子どもがいた。
これらの子ども、つまり孫を、(A1)(A2)(B1)(B2)(C1)(C2)とする。

 こういうケースのばあい、(父親と母親・・・X)が死亡すれば、その財産は、A、B、C
の3人の子どものものになる。

 が、Aという子どもが、親より先に死ねば、Aがもっていた遺産相続権は、(A1)(A
2)が引き継ぐことになる。
配偶者がいれば、配偶者も、引き継ぐことになる。

仮にそのとき(A1)が死亡していて、(A1)に、3人の子どもがいたとすると、
すると遺産相続権は、さらにその3人の子ども(Xからすれば、ひ孫)が、引き継ぐこと
になる。
こうして権利関係は、恐ろしく複雑になる。

 だから法律をよく知っている人は、みな、こう言う。
「遺産相続の手続きだけは、親が死んだら、すぐしろ」と。

 今では農地でも、50年も放っておいたら、だれのものか、わからなくなってしまう。
相続手続きをしようにも、しようがない。
そんな状態になってしまう。
それこそ「日本中をかけずり回って、何十人もの人たちから、印鑑を集めてこなければな
らなくなる」(友人談)。

●平等意識

 が、みなが、みな、すんなりと相続放棄の書類に判を押してくれるわけではない。
当然何らかの分け前を求めてくる。
「分け前をくれなければ、判は押さない」と。

 つまり孫、あるいはひ孫にあたる人たちが、遺産相続を請求するようになる。
こういう世相を、はたして正常と言ってよいのか、どうか?
法律的には、ほかに妙案がないのだから、現行法を支持するしかない。
が、それもだめというのなら、たとえば死んだら、私有財産は、一度すべて国のものにす
るとか、そういう方法を考えるしかない。
しかしそれをするには、民法どころか、国民の意識、さらには資本主義制度そのものまで、
大改革しなければならない。

●矛盾

 端的に言えば、財産は、自分で作るもの。
死ぬまでに、自分で使いきればよい。
自分が死んだら、息のかかったものどうしで、分ければよい。
だから私は、その女性(40歳くらい)に、こう言いたかった。

 「祖父母の財産を請求するくらいなら、親の財産を請求しなさい」と。

 もちろんそんなことは言わなかったが、ほとんど世話をしたこともない祖父母の財産を
請求するほうが、おかしい。
(祖父母のほうは、あれこれと、孫であるその女性のめんどうをみてくれたかもしれない
が・・・。)
おかしいが、やはりそれ以外に方法がないのだから、今の遺産相続制度を支持するしかな
い。

私「では、親は、何と言っているのですか?」
友「親自身は、遺産なんてどうでもいいと言っているんですがね、その子どもたちが、そ
れではいけないと、親をたきつけているんですね」
私「平等意識というのですかね」
友「結局、そういうことになりますね」と。

 世の中も、変わってきた。
今は、その過渡期イコール、混乱期ということになる。
それがこのエッセーの結論ということになる。

(参考:ウィキペディア百科事典より)

●長子相続(ちょうしそうぞく)とは、最初に生まれた子供(長子)が家産を相続する制
度である。ここでいう長子は、長男のみを指し、「長女」が外されることが多く、「男女を
問わず、最初に生まれた子供が相続する」という真の意味の「長子」相続とは言えない例
が多い。相続する家産は、財産のみならず家督や地位をも含んでいた。

●日本国憲法が施行された1947年には、民法が大規模に改正され、家督相続が廃止された。
この時の改正では、長男相続制も廃止されて、配偶者にもいかなる子供にも平等に相続権
を持つことが規定された。

●家制度(いえせいど)とは、1898年に制定された民法(以降、旧民法という)において
規定された家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族
として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達
した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。

(以上、ウィキペディア百科事典より)


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