最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●介護と子供の意識(1)

2010-01-07 11:07:22 | 日記
特集【介護と子どもの意識】

●介護と子どもの意識

+++++++++++++++++

介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。

つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。

(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。

10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしいから。)

++++++++++++++++++

●ジジ・ババ受難の時代

++++++++++++++

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

++++++++++++++

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババへの風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののしる表現が、最近、目につくようになってきた。ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。そんな感じがする。老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、たいへん住みにくい国ということになる。そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということになる。が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言っているうちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いになる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。つまり「余裕がなければ、みない」※と。数年置きに、総理府が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。そこでは、30~40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をしている。見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからない。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。補助金を削減し始めている。10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。単純に計算しても、今は30~40人だが、それが90~120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。またどのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。ケア・センターでは、老人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている! つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。また、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それなりにの(人間)として認められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていはいけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に! 姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。その努力を今から、怠ってはいけない。

++++++++++++++++

古い原稿を再掲載します。

++++++++++++++++

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。

それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者たちの、80~90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何をいまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけでも、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

+++++++++++++++

つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++

●高齢者への虐待

+++++++++++++

やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

+++++++++++++

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11月~04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があったということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。夫が虐待するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということになる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1) 殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2) ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3) 食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4) 財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうした虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こんなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。これはもう、立派な虐待と考えてよい。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだいている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライで、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするようになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えない。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろうか。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

++++++++++++++++++++++

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

++++++++++++++++++++++

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、いわゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られている。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「おかしい」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは言える。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、遅いということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司

コメントを投稿