最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●教師による破廉恥事件を、どう考えるべきか

2011-10-23 19:32:09 | 日記
●「万策尽きた」(教師による破廉恥事件に関して)

+++++++++++++++++++++++++++++

性欲をコントロールすることは、不可能と考えてよい。
研修会や指導会程度で、性欲をコントロールできるようになるとは思わない。
メカニズム的には、アルコール中毒、ニコチン中毒と同じ。
本能に根ざすだけに、線条体に受容体ができやすい。
様態はさまざま。
つまり性癖といっても、その人(男性)がもつ受容体によって、みなちがう。

で、一度受容体ができると、条件反射的に、脳は反応する。
アルコール中毒者が、ビールのコマーシャルを見ただけで、酒が飲みたくなるように、またニコチン中毒者が、他人が吸うタバコの臭いをかいだだけで、タバコが吸いたくなるように、その状況に応じて、猛烈な性欲が発生する。
このとき視床下部からの指令を受け、多量のドーパミンが分泌されるという。
線条体に受容体ができていると、受容体は即、ドーパミンに反応する。

こうした一連の条件反射をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
「理性の府」と呼ばれている。
しかしその「力」には限界がある。
そのことも、アルコール中毒者やニコチン中毒者をみれば、よくわかる。

では、どうするか。

もしどうしても……ということであれば、2つの方法しかない。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触を、禁止する。カナダでは、そうしている。)

残念なことに、この静岡県では、教師による破廉恥事件が多発している。
教育委員会による指導も頻繁に、なされている。
しかしそういう指導を受けたにもかかわらず、この種の事件を起こした教師もいるという。
そこで県の教育委員長は、こう嘆いた。

「万策尽きた」と。

読売新聞の記事を紹介する。

++++++++++以下、読売新聞より(10-22)+++++++++

 静岡県で教師が生徒への強制わいせつ容疑で逮捕されるなど性的な不祥事が止まらず、県教育行政トップの県教育長が「万策尽きた」と発言する事態になっている。

 県教委は、懲戒免職処分を受けた教職員の氏名公表に加え、研修などの対策を打ってきた。
教育現場から教育長に理解を示す声も漏れ、無力感が漂う。
生徒から「誰が生徒を守るのか」「先生は何やっているんだ」と厳しい声が噴出している。

 県立科学技術高校の男性教諭(47)が17日、女子生徒への強制わいせつ容疑で逮捕された事件を受け、県教委は20日、臨時校長会を開催。
AB教育長は「私としても万策尽きた」と苦渋の表情で語り、「学校で連帯感を持った人間関係を作ってほしい」と約120人の校長らに訴えた。

 静岡県内で、校長や教諭がセクハラで懲戒処分されたり、教諭が盗撮やのぞきで逮捕されたりするなど、8月からだけでも5件の性的不祥事が発覚。
県教委は、外部講師による研修やセクハラ根絶のためグループ研修を導入してきた。

 ところが、研修を受けていた高校教諭が9月に女性のスカート内を盗撮した容疑で逮捕。
生徒への強制わいせつ容疑で捕まった教諭も研修を受けている。

 AB教育長は「万策尽きたという言葉は、思わず口に出てしまった」と打ち明ける。
不祥事防止を訴える機会が再三あり、「また同じような状況で同じような話をしなければいけないのか」と無力感に襲われたという。
「適切な言葉でなかったと反省している。
効果的な対策を考えていかなければいけない。
具体策の検討を始めている」と話した。

 県高等学校長協会会長のAS県立静岡高校長は「苦しい心境が表れた言葉」と理解を示す一方、「現場は万策尽きていない。
即効性がある対策はないかもしれないが、まだ努力することはある」と話す。

++++++++++以上、読売新聞より(10-22)+++++++++

●だれが「石もて打てる」のか?

 性欲……この無にして、不可思議な欲望。
たとえば「女性のスカート内の盗撮」。
私のワイフはいつも、こう言っている。
「どうしてあんな(汚い)ところを、男は見たがるの」と。

 そう汚い。
臭い。
その器官は、大便、小便の排泄器官と隣接している。
いくらそうとわかっていても、人(男)はそこに限りないロマンを抱く。
若い男なら、24時間、そのことで頭がいっぱい。
が、だからこそ、人間は、(ほかの動物もみなそうだが)、子孫を後世に残すことができる。
私たちがなぜ生きているかといえば、結局はすべてこの一点に集約される。
子孫を残すため。

 が、その様態は、さまざま
私のことを正直に書く。

 私は大学生のとき、女性の脚(太もも)を見ただけで、興奮状態になってしまったことがある。
そのとき私はたまたま自転車に乗っていた。
当時はまだミニスカートというのが、珍しかった。
で、信号か何かで、止まったときのこと。
前に立っていた女性の太ももが見えた。
風にスカートが舞ったのかもしれない。
明るく輝く、白い脚だった。

 とたん、下半身のほうが勝手に反応してしまった。
理由などない。
当時の私は、そのメカニズムなど、知る由もない。
そういう反応は、健康な男なら、みな、ある。
あって当然。

●様態

 私はこの分野については、あまり詳しくない。
一応、私がスタンダードという前提で考えると、私は女性のスカートの中には興味はない。
ないから、そういう男が理解できない。
だから京都大学の教授(当時)が、手鏡で女性のスカートの下をのぞいたという事件を知ったときも、「どうして?」と思うと同時に、そこで思考が停止してしまった。

 が、私自身は風呂上がりの女性に弱い。……弱かった。
濡れた髪。
甘い石けんの香り。
美しく光る肌。
……とたん、猛烈な性欲がわいてくる。……わいてきた。
 
 こうして「過去形」にするのは、遠い昔の話だからである。
今でも「美しい」とは思うが、性的な反応は、ほとんどない。
足腰は鍛えてきたが、しかしそれでも年齢には勝てない。

 が、そうした自分が正常であるとか、異常であるとかは考えない。
手の指が5本、あるように、目が2つあるように、それは「私であって私でない」と、自分を客観的に見るようになった。

 そうした性欲の存在を知っているからこそ、仮にそれが教師によるものであっても、私は教師を責める気にはなれない。
先にも書いたように、様態は、みなちがう。
たとえば私が親しくしていた友人は、太った女性が好きと言った。
太った女性の尻で、顔を押しつぶしてもらうと、最高の恍惚感を覚えるともいった。
彼は当時、ある通信会社で部長職をしていた。
部下は、50~60人もいた。
もちろん都内の有名大学を出ている。
そういう男でも、そう言った。

 で、指導とか、研修会。
それも結構だが、では、その指導者はどうなのか?、という問題も残る。
教職が聖職とは、今どきだれも思わない。
私自身も思わない。
それともその指導者は、スケベDVDを観たことがないというのか。
不倫や強姦を夢想したことがないというのか。
もしそうなら、私はむしろ、その指導者のもつ「異常性」のほうを疑う。

 この場で、こんなことを宣言するのも馬鹿げていると、自分でも思う。
しかし私はこう宣言する。
「私だって、ふつうの男だ」と。

言い換えると、それぞれの男は、自分がもつ性癖に応じて、性欲を覚える。
それ自体を、どうして「悪」と決めつけることは、まちがっている。
もちろん反社会的な行為は、別である。
相手の女性の心を傷つけたり、あるいは犯罪性のある行為は、別である。

●では、どうするか?

 その答は冒頭に書いた。
教師による破廉恥行為と、その予防については、つぎのように考える。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触を、禁止する。)

 これについては、すでに何度も書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ハレンチ事件(2010年6月18日に、電子マガジンで発表した原稿より)

++++++++++++++++++

数日前、またどこかの教師が、18歳未満の
女性とS交渉をもって、逮捕された。
その教師は、出会い系サイトで、女性と
知り合ったという。
逮捕されたとき、その教師はこう言った
という。
「こんなに簡単にできるとは思っていなかった」と。

「簡単」ということは、「簡単」ということ。
そういったシステムが、アンダーワールドの
世界では、すでに完成している。

+++++++++++++++++++

●悪者?

 こういう事件を見聞きすると、私たちはすかさず、教師を悪者として見る。
たしかに悪者だが、しかし「悪者」と断言することもできない。
正常な(?)男性なら、若い女性に興味をもつのは、当然のこと。
またそうした本能をコントロールするのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
こうした本能は、理性の外にある。

だからといって、その教師を擁護するわけではない。
私が言いたいのは、「誰が、その男性を、石をもって打てるか?」ということ。
最近、ときどき、こんなことを考える。

 つまり男性は、若い女性と遊びたがる。
しかし実際には、若い女性に遊ばされているのは、男性のほうではないのか、と。
たとえばえばタバコがある。
喫煙者は、タバコを吸う。
そのとき喫煙者は、「自分の意思でタバコを吸っている」と思うかもしれない。
しかし実際には、「タバコにタバコを吸わされている」。

 酒にしても、そうだ。
一日の仕事を終え、家に帰って一杯のビールを飲む。
うまい!
暑い日には、なおさらうまい!

 そういうとき、私たちは、「自分の意思でビールを飲んでいる」と思うかもしれない。
しかし実際には、「ビールにビールを飲まされている」。

●ナンパ・ビデオ

 どこかあやしげなビデオショップへ行くと、その種のビデオがズラリと並んでいる。
私も若いころは、そういうビデオをよく見た。
「よく見た」といっても、「ふつう程度に」という意味。
当時はやったビデオに、『洗濯屋のケンちゃん』というビデオもあった。
私たちの世代には、衝撃的なビデオだった。

 そんなある日、ちょうど1年ほど前のこと。
いつも通うビデオショップの裏口に、そういったビデオだけを並べているコーナーがあるのを知った。
それまで10年近くその店に通っていたが、そんなコーナーがあることさえ気がつかなかった。
私は入ったついでに、「ナンパもの」と呼ばれるビデオを1本、借りた。

●ナンパもの

 「ナンパもの」というのは、街角で男たちが若い女性に声をかけ、その女性と最終的には、Sxxするというもの。
「モデルになってください」とか、「水着を試着してくれませんか」とか、そんなことを言って、女性に近づく。
このとき理性というブレーキが働くなら、女性たちは男たちの申し出を断るはず。
しかし女性たちは、男たちについていく。
いとも簡単についていく。
部屋の中に入っていく。
はじめは抵抗するそぶりを見せるが、はじめだけ。
やがてすぐ、本気になっていく。
で、ある一線を越えたとき、女性は、今度は、むしろ積極的に男たちの体を求め始める。

 こうした「ナンパもの」で驚くことは、今では、「中出し」が当たり前ということ。
男たちは、女性の体の中で、射Sする。
もしこのときも、女性たちに一片の理性でも残っていれば、それがどういうことかわからないはずはない。
が、その時点になると、女性たちには、その理性はない。
無我夢中。
されるがままというより、むしろ自らそれを求めて、それに応ずる。

 そういうのを見ていると、先にも書いたように、「男たちが、女性を誘惑している」というよりは、「男たちが、女性に女性を誘惑するよう仕向けられている?」と。
ストレートな言い方をすると、「男たちが、女性を誘惑しているのではない」。
「男たちが、女性に、もてあそばれている」と。
そんなふうに考えてしまう。

●食欲

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
たとえば食欲。

 最近ではどこの旅館でもホテルでも、バイキング料理が多くなった。
そのほうが、人件費が安くすむ。
そこでのこと。
おいしそうな料理がズラリと並んでいる。
そういうのを見ると、「食べなければ損」という、あの卑しい根性がわいてくる。
が、実際には、「食べなければ損」ではなく、「食べたら損(そこ)ねる」。
理性で考えたら、「食べたら損」。
が、そういうとき、食欲と闘うのは、容易なことではない。
いつもなら食べないデザートまで、しっかりと食べてしまう。
2つ、3つと、余計に食べてしまう。

 が、部屋にもどったとたん、後悔の念。
「しまった!」と思う。
「食べたのではなく、食べさせられた!」と。

●一片の理性

 じゅうぶん分別もある男性の教師が、18歳未満の若い女性に手を出す。
もしそのとき、その男性の教師に一片の理性でも残っていれば、そういった女性には手を出さないはず。
が、現実には多くの教師たちが、そういった事件を引き起こし、警察沙汰になり、職場を追われていく。
それまでの名誉も地位も、すべて失っていく。

が、「一片の理性もない」という点では、会ったばかりの男に、体内での射Sを許す女性も同じ。
が、だからといって、そうした教師や女性を責めるのもどうか?
(もちろん擁護もしないが……。)
ともに、その人たちの責任というよりは、その人たちの中に潜む、もっと大きな力によって、操られている。
当人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」など、どこにもない。
そういうふうに考えないと、この問題は理解できない。
 
●自分の意思

 で、こうした人間の一連の行動を見ていると、こういうことが言える。
私たちはなにごとにつけ、自分の意思でしているかのように思っている。
が、実際には、そうするように、仕向けられている、と。
もっと平たく言えば、「操られている」。

 とくに本能と呼ばれる部分についてはそうで、それゆえに理性の力でコントロールすることは、たいへんむずかしい。
不可能ではないが、それをしようとがんばると、心の状態そのものがおかしくなることもある。

 たとえば私のばあいは、「モノ」。
ある特定のモノがほしくなると、終日、そのモノのことばかり考えるようになる。
デジカメならデジカメでもよい。
そうした状態が1、2週間もつづいたりすると、神経そのものが、苛立ってくる。
自分でもその変化が、よくわかる。
が、買ってしまえば、落ち着く。
そのモノを、手の中でいじって遊ぶ。

●生かされている

 私たちは「している」のではない。
「させられている」。
あらゆることがそうだ。
たとえば「生きる」こともそうだ。

今、私はこうして生きている。
一見すると、自分の意思で生きているようにも感ずる。
が、実際には、「生かされている」。
脳の視床下部あたりから、「生きろ!」「生きろ!」という強力な信号が出ている。
その結果として、「生かされている」。

 話をもとに戻すと、冒頭に書いた男性の教師にしても、自分の意思でそういう行為をしたというよりは、「若い女性によって、仕向けられた」と考えられなくもない。

(だからといって、そういう男性教師を擁護しているのではない。
反社会的行為については、弁解の余地はない。
どうか、誤解のないように!)

繰り返しになるが、男も女も、それぞれにもっている本能によって、操られる。
たとえば若い女性が、化粧をしたり、ファッションに気をつかうのも、結局は「男の目」を気にしているからではないのか。
もちろん当の本人は、それを否定するだろう。
「私は男性を誘惑するために、化粧をしたり、ファッションに気をつかっているのではない」と。

●「私」

 こうして考えていくと、私たちはいったい、どこからどこまで生かされ、どこから先で生きているのか、わからなくなる。
もっとわかりやすく言えば、どこまでが「私」で、どこから先が「私でない」のか、わからなくなる。
先に書いたように、「生きている」ことにしても、そうだ。
本当に私たちは、自分の意思で生きているのか?
あるいは、ひょっとしたら、生かされているだけではないのか?

 そういうふうに考えていくと、「私」と言える部分は、ほとんどないのではないかということになる。
話を戻す。

 冒頭で書いた男性の教師にしても、結局は「私でない」部分に操られてしまった。
相手の女性にしても、それは同じだろう。
現在の社会通念からすれば、男性の教師は「悪人」ということになる。
18歳未満だったその女性は、「被害者」ということになる。
しかし私には、「悪人」「被害者」と、決めつけることが、どうしてもできない。

 では、どうするか?

●結局は厳罰主義

 この問題だけは、結局は厳罰主義で臨むしかない。
18歳未満の女性に声をかけられただけで、男たちは震えあがる。
そういう法的な環境を用意する。

 オーストラリアでは、そうした関係を見聞きしただけで、罪に問われる。
見聞きした人には、警察への通報義務が生まれる。
通報義務を怠ったばあい、警察に逮捕されることもある。

 日本も、とくに教職にある者であれば、問答無用式に2年の懲役刑とすればよい。
見聞きして、通報義務を怠った人も、同罪。
そういう形で、理性の欠陥を、補う。
つまり理性によるコントロールには、限界がある。
その限界を認め、それを厳罰主義で補う。
それしか方法はない。

 が、現実には、「教職を追われるなど、すでに社会的制裁を受けている」とか何とか、
理由にもならない理由で、たいていは執行猶予刑になる。
(教職を追われることは、当然のことではないか。)
こうした(甘さ)が、こうした犯罪を野放しにする。
いつまでたっても、跡を絶たない
繰り返し、繰り返し、新聞で報道される。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 厳罰主義 本能と理性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カナダでは……

なお、カナダでは、教師と生徒との接触を、きびしく制限している。

たとえばカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

教育のあり方を、基本的な部分で考えなおす
ための、その参考にしてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過
ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐
をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害
を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本
では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。
欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメ
リカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言
し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出
す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地
ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになって
いる」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこ
で「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてく
れた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 
1999年記

************************

【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ」



 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(以上、2000年ごろ書いた原稿より)

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識 はやし浩司 教育評論 教育論 はやし浩司 教師による性犯罪 破廉恥事件 はやし浩司 ハレンチ行為)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●人生の不可逆性

2011-10-23 12:40:59 | 日記
●10月23日(日曜日)「退職した団塊の世代」

+++++++++++++++++

昨夜午前3時ごろ、ワイフが私を起こした。
「寝損(ぞこ)ねたみたい」と。

睡眠導入剤と精神安定薬をもってきて、
ワイフの口に含ませる。
「寝損ねたときはね、自然体がいちばんいいよ。
無理に眠ろうとすると、かえって眠れなくなるよ」と。

しばらく2人でそのまま横になっていたが、
今度は私が眠れなくなってしまった。
で、ワイフを寝室に残し、私は書斎に。

……こうして今朝を迎えた。
時刻は、午前9時を過ぎていた。
雨の音とジェット機の騒音。
今日は「浜松航空フェスタ」のある日。
つまり自衛隊基地で航空祭のある日。

テーブルでお茶を飲む。
新聞に目を通す。
ワイフに「そのあとは、どうだった?」と聞く。
「そのあとは朝まで、ぐっすりと眠ったわ」と。
で、私はそれを聞き、ウォーキングマシンで30分、汗をかく。

のどかな朝。
日曜日。
今日は、部屋の掃除。
今週、オーストラリアの友人が来る。
現在、台湾の北部を旅行中。
そのあと日本に向かってくる。
昨夜、そんなメールが届いた。

+++++++++++++++++

●ワイフの友だち

 ワイフは現在、週3回、テニスのクラブに通っている。
その中の1つのクラブは、どういうわけか、同年代の人たちが集まっている。
「同年代」というのは、それぞれの夫の年齢をいう。
みな私と同じ、団塊の世代という。

 で、昨夜もワイフとこんな話をした。

私「お前さ、10人のうち、仕事をつづけているのは1人くらいと言ったよね」
ワ「そう、1人くらいね」
私「でね、ぼくは、残りの9人の人たちが気になる。残りの9人の人たちは何をしているの?」
ワ「Nさんのダンナは、一日中、テレビを見ているそうよ」
私「一日中?」
ワ「そうみたい……」と。

 あとは孫の世話をしている人。
ときどき旅行などに行って、息抜きをしている人。
町内会の仕事をしている人。
妻の仕事の手伝いをしている人、など。

 仕事をつづけている人というのは、ずっと自動車の販売会社にいた。
その延長線上で、今も、自動車のセールスをしているという。
歩合制で給料をもらっているとか。

 時刻は午前3時を回っていた。
話をしながら、ワイフの意識がだんだんと遠のいていくのがわかった。
が、そのうち、そのままワイフは眠ってしまった。

 私はそれを見届けたあと、暗い天井に向かって、こう思った。
「10人に1人かア……」と。

 そのあと、私は自分の書斎に入った。

●こりごり

 「私なら、そんな生活、1日も耐えられないだろう」と。
テレビを1時間見ただけでも、「しまった!」と思う。
「時間を無駄にした」と思う。

そう考えれば考えるほど、そういった人たちは、どんな思いで毎日を過ごしているのか、それを知りたくなった。
が、本心を明かしてくれる人は、少ない。
同窓会に出ても、そこまで踏み込んだ話はしない。
……しないというより、たがいに避ける。

 ワイフはこう言った。
「パソコンで遊んでいる人は、1人か2人ね」と。
あるいは「みな、仕事はもうこりごりと言っているみたいよ」とも。

 こりごり?

 サラリーマンの仕事の切なさは、この一語に集約される。
「こりごり」。

 私も仕事で多くの人たちとつきあってきた。
しかしそこに金銭関係がからむと、深い人間関係など、望むべくもない。
「金の切れ目が縁の切れ目」。
いわんや大半の退職者は、リストラ、解雇を経験している。
その瞬間、それまで自分と会社をつないでいた糸は、すべて灰となって消える。
ついでに友人関係も消える。
その人が「こりごり」と言い、仕事をしないからといって、だれがその人を責めることができるのか。

●人生の不可逆性

 しかしそれでも私は心配する。
一度、仕事から離れると、その人は、2度と仕事に戻れなくなる、と。
若いときはまだ柔軟性に富んでいる。
しかし40歳を過ぎると、その柔軟性が急速に消える。
硬化する。
ゴムにたとえると、伸びたまま縮まなくなる。

 そのことは、10日前後の休暇のあとによくわかる。
若いときは、そのスイッチングが簡単にできる。
が、年を取ると、それができなくなる。
休み明けの数日間は、仕事場に向かうことすら、つらい。
調子を戻すのに、数日もかかったりする。

 そう言えば、原稿を書くときもそうだ。
2、3日も書かないでいると、自分の手を重く感ずる。
ミスタイプも多くなる。
その前に、考えそのものが、まとまらない。

 だから脳の水は、つねに流しつづけたほうがよい。
止めたとたん、そこでよどみ、腐る。

 先の同年代の人たちにしても、ひょっとしたら、内心ではこう考えているかもしれない。
「そのうち、できる仕事でも見つかれば、やってみよう」と。

 が、実際には、仕事に復帰するのは不可能。
私の周辺を見ても、3~5年のブランク(休職期間)のあと、仕事に復帰した人はいない。
1年でもいない。

 だから今、あなたが仕事をしているなら、石にかじりついてでも、仕事はつづけたほうがよい。
収入のためではない。
あなたの脳みそのため。
肉体と精神の健康のため。

●老人観察

 50歳を過ぎるころから、私は老人観察を務めてするようになった。
それまでは、老人というのは、私の関心の外にいた。
が、最初に気になったのは、歩き方。
とくに脳梗塞を起こした人の歩き方。

 「右側が不随なのだろうか、それとも左側が不随なのだろうか」と。

 今では見た瞬間、それはわかるようになったが、歩き方に影響を与えるのは、脳梗塞だけではない。
いろいろな病気がある。
病気によって、歩き方も、微妙にちがう。
私は歩き方を見ただけで、その人がどんな病気をかかえているか、おおよその見当がつくようになった。

●寿命

 さらにこうも考える。
「60歳前後の人の健康状態を見れば、その人の寿命も予測できる」と。

 もちろん、がんや脳梗塞などの大病は除く。
しかし60歳前後の人の健康状態を見れば、「ああ、この人は70歳を過ぎて生きるのはむずかしいだろうな」とか、反対に「この人は90歳を過ぎても元気だろうな」とか、そんなことまでわかる。

 言い換えると、老後の健康状態は、60歳で決まる。
たとえて言うなら、街道の関所のようなもの。
60歳という関所を通るとき、それがわかる。

 で、そういう視点で、今度は私自身を観察する。
「私はどうなのか?」と。

 その結果、大病さえなければ、80歳までは生きられるのではないかということ。
が、それには条件がある。
体重を現在の65キロ前後から、60キロ前後に落とすこと。
毎日の運動を欠かさないこと。
それさえ守れば、今のままで、80歳までは生きられるのではないか。

●時刻は12時

 時計を見たら、もう12時!
これから部屋の大掃除。
買い物。
その他、いろいろ。
書斎の階下からは、ワイフが掃除機をかけている音がする。
私も手伝わなければならない。

 ……ということで、今朝はここまで。

 今は、雨もやみ、航空ショーも始まったにちがいない。
鳥のさえずりが、急に耳に飛び込んできた。
暑くもなく、寒くもなく、湿った秋風が心地よい。

2011/10/23朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●不安な時代のカルト教団

2011-10-23 06:02:58 | 日記
【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。
そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。

 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審判の日」と予言して一躍話題の人となった。その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になることもある。
つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。

 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。
人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。
4~5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2004年の3月に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。

 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そんなの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむける。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろんのこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。


●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せなくなりました。週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。

 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、勧誘を始めたことです。

 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の勝手ではないか」と思うかもしれない。しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。今は、どんなことを言っても、受けつけません。親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。


●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味はない。原因のほとんどは、その信者自身にある。もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになってしまう。

 何のための人生? なぜ生きているのか? どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある? どこに求めればよいのか? 何もできないむなしさ。力なさ。そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。何のために、どう生きたらよいのか。心配ごともつきない。自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか? 国際情勢は? 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか? 生きる目的は何か? それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。

 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。

 それは錯覚。幻想。幻覚。亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠陥のない人は、いない。


●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係は、すでに破壊されたとみてよい。夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚を禁止している。またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えている。

 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始めた」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明してみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どうだ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひたすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。無理をしても、ダメ。それこそ5年、10年単位の時間が必要です。頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。


●常識の力を大切に!

今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。信者数もふえている。つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。習慣といってもよい。何を見ても、ふと考えるクセをつける。そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ! みなさんといっしょに、戦うぞ!

 世の正義のため、平和のため、平等のために! ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上になる。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・07・12・20)。

いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされる。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られたり、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もいたという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行くと、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術? ばか! アホ! インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気づかねばならない。私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり! 反論するのも、いや! ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3~6年生)が、占い、まじないを信じていた。今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になっているとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。

 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱりと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じた」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならない。数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約七〇~八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできない。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、ものの考え方を一八〇度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?) 

 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。人間として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼りたくない。私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)
 
 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

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宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。

 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。
 
 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

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宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)
 
 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。

 「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されない。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されない。……あなたは、そんな孤独を知っているか? もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あなたの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出してみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かにする。一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たくし、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。

静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言えばよい。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけることはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。

 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちがいない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくるはず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

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Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司