最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●抑圧された心、悪魔的になる子ども

2011-10-19 11:26:17 | 日記
●ゆがむ子どもの心


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F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)


今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。


つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。


「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。


 一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」


とか、さらっと普通の口調で言ったんです。


「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。


「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。


毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。


5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。


最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。


半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。


どうぞよろしくお願いいたします。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧は悪魔を作る」

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。

その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。

『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)というのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。

 ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも大きな影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。

 もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めているとみる。
が、このタイプの子どもは少なくない。

●I君(小6)のケース

 I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。

 が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。

●M子さん(中1)のケース

 M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。

 が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。

 見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何枚も描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。

 ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。

 M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆがめていた。

●抑圧

 心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)

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よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

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●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

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(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

『●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思春期の子どもの心理

 抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。

 内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。

 思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。

●すなおな子ども

 「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。

 たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。

 お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてしまった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。

 しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。

 その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗りつぶしてしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。

 「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息子がそんなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。

●YSさんのケース

 それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。

 どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦を巻いていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。

 心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を与えろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。

●自我の同一性

 自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」などと言ってくるので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。

 これは反抗期なのでしょうか?


A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致させようとします。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。それが「思春期の反抗」と考えてください。

 (悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするのはしかたないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めているのだ」と、一歩退いて子どもを見ます。

 この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子どもは親の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケースも目立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。

 親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子どものうしろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。

 悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。とたん、肩の荷が軽くなりますよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉として発散させる

 YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。

 あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流していく。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。

 たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。

 そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。

 で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が猛省する。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断すること。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。

 以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。

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Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●富士宮焼きそばを食べに行こう

2011-10-19 09:43:40 | 日記
【富士宮へ焼きそばを、食べに行こう!】(はやし浩司 2011-10月)

++++++++++++++++++

 昼食を・・・と思い、台所へ。
ワイフが、ポツンとそこに座っていた。
「昼ごはんは・・・?」と聞くと、
「柿があるわ」と。

うちの庭でできた柿である。
農薬ゼロ。
皮ごと食べられる。

それを食べながら、「なあ、焼きそばを
食べにいかないか?」と声をかけると、
二つ返事で、「あらっ、いいわ!」と。

私「富士宮焼きそばだよ」
ワ「どこにあるの?」
私「富士宮だよ」
ワ「富士宮まで行くの?」
私「そう・・・」と。

 で、今は、新幹線の中。
浜松から静岡まで新幹線。
静岡から富士まで、在来線。
そこで身延線に乗り換え、富士宮まで。

私「往復の旅費が、12640円。
焼きそばが、1000円・・・くらいかな?」
ワ「ぜいたくね・・・」
私「ホント・・・」と。

+++++++++++++++++




【富士の宮・焼きそば】(うるおいてい)

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●掛川

 乗ったと思ったら、もう掛川。
いつもは在来線。
今日は新幹線。
今週は、大阪のユニバーサルスタジオに行くつもりだった。
が、その日、ワイフは高校の同窓生に会うとか。
しかも天気予報を見ると、全国的に雨。
「あきらアメ(雨)たあ」と言うと、「そうね」と。

 それで富士宮焼きそばとなった。
さあ、みんなで行こう、富士宮焼きそば!
みんなで食べよう、富士宮焼きそば!

●あるコラム

 ある週刊誌に、知人のF氏が、毎週、短いコラムを書いている。
そのコラム。
久しぶりに読んでみたが、???。
論理性がなく、自慢たらしい話。
やたらと漢字が多く、読みづらく、おもしろくない。
おまけに支離滅裂。
全部で、60行足らずのコラムである。
一読して、すぐわかった。

「あぶないな」と。
つまり脳みその働きが、あぶないな、と。

●認知症

 文章が書けないから認知症ということではない。
文章を書くのが苦手という人はいくらでもいる。
しかしF氏はちがう。
大学元教授。
ベストセラー本ももっている。
そういう人が、文章を書けなくなったら、認知症を疑ってみたらよい。
特徴がある。

(1) ことさら古臭い漢字遣いが多い。(読者の立場になって書かれていない。)
(2) 話がくどい。(こまかいところで、へんにこだわる。)
(3) 連続性がない。(話がポンポンと飛ぶ。)
(4) 支離滅裂(突然、だれも知らない中国の四字熟語が飛び出したりする。)
(5) 趣旨が不明(何を言いたいか、よくわからない。)

 その週刊誌の、そのF氏のコラムは、まさにそれだった。
が、「明日は我が身」。

たとえば今朝、私は「メタ認知能力」についての原稿を書いた。
途中で、何を書いているか、自分でもわからなくなってしまった。
BLOGに載せようかどうか迷った。
認知症を疑われてもしかたないような文章だった。

●映画『送り人』

 これは現実の話。
事実。
だからその人たちとわからない程度に、ありのままを書く。

 数か月前、1人の男性が死んだ。
名前をUT氏としておく。
享年84歳。
妻も84歳。
妻のほうは、自活できる程度に、元気だった。

 その男性が危篤状態になったときのこと。
東京に住んでいる息子氏が、叔母から連絡を受け、30年ぶりに、浜松へ戻った。
30年ぶり!
いろいろあったらしい。

 父親は自宅で倒れた。
息子が戻ったとき、(ふつうは「駆けつけた」と書くが、そういう雰囲気ではなかった)、男性の意識ははっきりしていた。
男性と息子氏の間に、母親が立った。
母親は息子氏に、こう言った。
「あんたなんか、帰ってちょうだい」と。

 息子氏は玄関口に立って、母親にこう聞いた。
「親父はどうなんだ! 親父も同じ気持ちか!」と。
そこで母親が父親のところへ行き、息子が来ていると話した。
しかし父親は、一瞬かなりの興奮状態になったあと、首を横に振った。
それを知って、息子氏は、そのまままた東京に帰っていった。

 この話をワイフがしてくれたとき、即座に、私はあの映画『送り人』を思い出した。
その映画の中では、死んだ父親が、最期まで息子との思い出の石を握っていた。

●映画『送り人』

 静岡から、在来線(東海道線)に乗り換えた。
その電車の中で、映画『送り人』の話になった。

私「なあ、あんなことありえないよな」
ワ「そうねえ・・・。ありえないわよね」
私「親父が、そんな石、握って死ぬだろうか」
ワ「ありえないわよね」と。

 その前に、UT氏の話をしていたこともある。

私「あの映画の脚本を書いたのは、若い人だと思うよ。視点が若い人のほうにある」
ワ「そうよね。父親の立場からすれば、息子に捨てられたわけだし・・・」
私「理由はともあれ、息子は親を捨てた・・・。最近の若い人たちは、ささいな理由をこじつけては、親を捨てる」
ワ「この半世紀で、立場が逆転したわね」
私「そこなんだよ。ぼくたちが社会へ出たころは、みな、収入のいくらかは、実家へ送った」と。

●二番煎じ

 UT氏と息子氏の間に、何があったかは知らない。
しかし昔風の言い方をするなら、「30年も親を放っておいて、私は息子です」は、ない。
息子の側は永遠の親の愛を期待するかもしれない。
しかし親側は、別の考え方をする。
神や仏ではない。
その愛にも限界がある。

UT氏にしても、そうだろう。
が、今は、時代も逆転した。
親が子ども(息子や娘)の心配をする。
子ども(息子や娘)が、それを親に要求する。
「親なら親らしくしろ!」と。

 で、話は映画『送り人』に戻った。

私「母親なら、石を握っていたかもしれない」
ワ「そうねえ・・・」
私「が、父親は、そんなことはしない。古い世代の父親なら、なおさら」
ワ「お涙、ちょうだい・・・というわけね」
私「若い人たちなら、泣いただろうね。しかしあの映画は、『マジソン郡の橋』の二番煎じ。ぼくはそう思った」と。

 映画の中では、息子が父親の死に駆けつけると、父親は、息子との思い出のある石を手に握って、死んでいた。

●富士

 電車は富士に着いた。
そこで身延線に乗り換え。
富士宮まで。
(現在、富士宮から先へは、バス運行になっている。)

 ネットを使って、おいしい店をさがそうとしたが、一件もヒットせず。
通信販売で、今では富士宮焼きそばを買うこともできるそうだ。
それはわかったが、店によって味がみなちがうという。
そういう話を、いつか、だれかから聞いたことがある。

 浜松からわざわざ参上した手前、富士宮では、いちばんおいしい店を探し当てたい。
ワイフは「駅前でだれかに聞けばいい」と、のんきなことを言っている。
しかしそんなことで、いちばんおいしい店が見つかるだろうか。
少し心配になってきた。
おまけに、今日は、柿を食べただけ。
腹のほうは、ペコペコ。

 それにもうひとつ気がかりなことがある。
現在、時刻は14:49分。
個人の店だったら、休憩中ということになる。
だいじょうぶかな?

●車内

 日曜日というが、高校生らしき学生の姿が目立つ。
みな、それぞれ乱れた服装をしている。
平気で携帯電話を使っている。
少し前まで、ドアの手前の床に座っていた女性もいる。

 たった今しがた、実に、奇天烈(きてれつ)な恰好をした高校生の一群が通路を通り過ぎていった。

私「あのなあ、富士宮には、チンドン屋学校というのがあるそうだ」
ワ「うそでしょ!」
私「ああ、うそだ」と。

●タクシー

 富士宮駅からは、タクシーに乗った。
運転手に聞くと、「うるおいてい」がよいと薦めてくれた。
(富士宮市淀師415-2:電話0544-24-7155)
駅からは、1150円の距離だった。

●うるおいてい

 タクシーの運転手が薦めてくれただけのことはあった。
おいしかった。
その様子は、ビデオに収めた。
家に帰ったら、編集し、YOUTUBEにUPするつもり。

 で、帰りは、西富士宮駅まで、歩いた。
30分ほど。
それが今日の運動。

 途中、富士の清流か。
川もあり、側溝もあったが、水は清らかに住んでいた。
「このあたりに、友人が経営する幼稚園があったはず・・・」と。
そんなことを考えながら、道を歩いた。

●西富士宮駅

 駅に着いたら、ちょうど電車が発車するところだった。
つぎの電車は、5時7分発。
約50分、待ち。
私たちは交番の前にある、「M-Fuji」という喫茶店というか、雑貨屋に入った。
道路に面したテラスで、紅茶とコーヒーを飲んだ。
時刻は16:49分。
すでにあたりは暗くなり始めていた。
低い雲が、隙間なく天を覆っていた。

 ・・・その前に、こんな事件があった。
駅を出たところで、カバンが落ちているのがわかった。
中を見ると、長野県・・・と書いた封筒が見つかった。
私たちはそれを交番に届けようと、交番に向かった。
で、あと数メートルというところで、一人の男が追いかけてきた。
「私のかばんです」と。

 2、3言、言葉を交わしたあと、私はその男にカバンを渡した。

●帰りの電車の中で

 ところで中華料理店というと、気取った高級店が多い。
料金も高い。
そういう中にあって、本物中の本物の中華料理を食べさせてくれる店がある。
「紅虎餃子店」。
JR浜松駅から北へ、数百メートル。
駅から歩いて7~8分のところに、その店がある。

数日前も、ワイフと2人で、その店で夕食をすませた。
いつ行っても、おいしい。
「本物を食べた」という実感が、食事を終え、外に出ると、どっと湧いてくる。

●和風中華料理店

 もう少しグルメの話をつづける。

 南オーストラリア州の、Dという町へ行ったときのこと。
オーストラリアの友人が、その町に一軒しかないという中華料理店へ案内してくれた。
経営者は、中国人夫婦。
私とワイフは、定番料理をいくつか注文した。
酢豚、ギョーザ、えびのチリソース炒めなど。
が、食べてみて、びっくり。
日本で食べなれた味ばかり。
と、同時に、私はそれが和製中華料理とわかった。
つまり日本のインスタント食品に、適当に食材を加えた、和製中華料理とわかった。
製造元の食品会社名まで、わかった。
「味の素」である。

 私が、「おい、これ、味の素の味だぞ」と言うと、ワイフも素直に、それを認めた。

●タイ風インド料理店
 
 反対にこんなこともある。

 浜松の郊外に、一軒のインド料理店がある。
経営者はインド人とか?
で、そこで私とワイフは、3種類のカレーがセットになった夕食を注文した。

 が、食べてみると、どれもタイ風カレーの味。
「どこかで食べた味だなあ」と思いながら、食べた。
グリーンカレー?
レッドカレー?

 が、やがてわかった。
東南アジア系の食材店で売っている、缶詰に入ったカレーだった。
ある時期、私はエスニック料理が好きで、よくその食材店へ通った。

そのインド料理店では、(多分x10?)、そのカレーをそのまま使っていた。
牛肉や鶏肉は、適当に加えてあったが、ベースとなっている味まではごまかせない。

 が、それでもおいしければ、私は文句を言わない。
しかし食材店で一缶、80~120円前後。
一缶もあれば、4~5人前は作れる。
それを店で、簡単なサラダをつけ、1200円!

 あとで人づてに聞いたところでは、その経営者はインド人ではない。
バングラデッシュ人だったという。
残念ながら、こういうインチキな店は少なくない。

●本物

 もちろんその一方で、本物を食べさせてくれる店もある。
冒頭にあげた「紅虎餃子店」も、そのひとつ。
中国語のほうでは、「紅虎餃子房」となっている。
本物の中華料理を食べてみたいと思う人は、一度行ってみたらよい。
はやし浩司の保証つき。

 「餃子店」という名前がついていることからもわかるように、その店には10種類のギョーザがある。
浜松も「浜松ギョーザ」で、名を売り出している。
が、率直に言って、中国の本場のギョーザには、かなわない。
かなわないことは、10種類のうち、どれひとつをとっても、すぐわかる。

 ところでこれは、何かの雑誌に載っていた話だが、中国には、焼きギョーザというのは、ないそうだ。
(浜松ギョーザと言えば、すべて焼きギョーザ。)
で、その理由が書いてあった。

 中国では食べ残し、古くなったギョーザを、焼きギョーザとして食べる、と。
だから中国人に、焼きギョーザを出すと、出された人はそれを不愉快に思う、と。

 そう言えば、この日本でも、食べ残した刺身は、あとで焼いて食べる。
それと同じ?

●本物論

 本物というのは、どんな世界でも、どんなばあいでも、光る。
それを見た人を、感動させる。

 ただし一言。

 私の30年来の友人に、北京から来た人(現在55歳・男性)がいる。
その人に、紅虎餃子店の話をすると、その人は、こう言った。
「ああ、あれは、日本の味ですよ」と。

……!

 つまり日本人向けに、味を変えている、と。

 そういうものか?
本物を超えたその向こうにある「味」までは、私たち日本人にはわからない。

●10月2日も終わって・・・

 こうして10月2日も、こうして終わりに近づいた。
電車に乗ると、外の景色は一段と、暗さをましていた。
まさに衝動的な旅だったが、それなりに楽しかった。
「一度は・・・」と思いつつ、その「一度」を果たした。
本場の焼きそばを食べた。
これで「富士宮へ焼きそばを食べに行こう」という話はしないだろう。

・・・ということで、富士宮への旅はおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 富士宮やきそば うるおいてい はやし浩司 富士宮焼きそば)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 2011+++++++++はやし浩司

●おい、そこの老人、ずるいぞ!(マガジン10月19日号より)

2011-10-19 09:14:14 | 日記
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     10月 19日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●9月30日

【幼稚園児に方程式を教える】2011年9月30日

●はじめてのチャレンジ!

 今日、幼稚園児を相手に、方程式を教えてみた。
私にとっても、はじめての試み。
おそらく、世界でもはじめての試みではないか?
「できるかな?」という心配と不安は、あった。
それもあって、レッスンの前、いつもになく緊張した。
気合いを入れた。
「やってやる!」という、意気込み。
それがないと、失敗する。
自分でも、それがよくわかっていた。
だから気合いを入れた。
入れながら、「ええい、ままよ!」と、レッスンを始めた。

一度、途中で「このあたりでやめて、ふつうのレッスンに
戻そうか……」と迷った。
しかし子どもたちのほうが、私を支えてくれた。
レッスンに乗ってくれた。

で、結果は、大成功!
めでたく最後まで教えることができた。
幼稚園児が、方程式を解くところまで、指導することができた。
うれしかった。
楽しかった。
またまた幼児のもつ能力のすばらしさに、驚いた。
これがあるから幼児教育は、やめられない!

今回は、高画質版で、YOUTUBEにUPした。
私にとっても、記念すべき録画となった。

(1)
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(2)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/Pcnf41FFqEA?hl=ja&amp;fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(3)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/pctLwPEzeSY?hl=ja&amp;fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(4)
<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/WkI1mwfMUJ4?hl=ja&amp;fs=1" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 幼児に方程式 方程
式のレッスン 実験教室 幼児に方程式を教える 方程式の学習 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●近所の老人

+++++++++++++++++++++

私の兄が、ボケたときのこと。
兄が67、8歳のときのことだった.
兄は、近所のあちこちで、おかしな行動を繰り返した。

植木鉢の葉を摘んでしまう。
小鳥を籠から逃がしてしまう。
ゴミを他人の家の隅に、捨ててしまう。
車のナンバープレートに落書きをする。

そのつど、近所の人たちから、苦情が届いた。
同じく、そのつど、私たち家族は身を切られるようなつらい思いをした。

それから7、8年。
今度は逆の立場になった。
私の近所に、少し頭のボケた人がいる。
あちこちで、おかしな行動を繰り返している。

近所といっても、私の教室のある地域でのこと。
たとえば道路脇にじっと立ち、私の教室の生徒が出入りするのを、見つめるなど。
男性。
75歳前後。
そのつど私は、「何か用ですか?」と声をかける。
声をかけたとたん、サッと振り向いて、去っていく。

こういうことが、ここ1、2年の間に、何回もあった。
が、そのたびに、私は兄のことを思い浮かべた。
黙った。

その男性……。
どこのどういう人か、よく知っていた。
20年ほど前には、ある時期、毎日のように会っていた。
が、断絶した。
私がその男性の信仰を批判したのがきっかけだった。
以後、私のところへやってきては、「林さん、あなたは地獄へ落ちる」と言った。
ほかにもいろいろあって、私はその男性から遠ざかった。
……というより、無視して、避けた。

それはともかくも、家族も、きっとつらい思いをしているにちがいない。
その気持ちはよくわかった。
が、とうとう、実害が現れるようになった。
その男性が、私の教室の前に立ち、生徒たちに声をかけるようになった。
ワイフにも、声をかけるようになった。

「林さんは、まだいるかね?」とか、「まだこの教室をやっているかね?」とか。
意味のない質問である。
よほど私のことが気になるらしい。

で、ワイフに相談すると、ワイフはこう言った。
「私たちだって、ああなるかもしれないから……」と。
つまり許してやれ、と。

やがてその男性を生徒たちが気味悪がるようになった。
「また、あのおじいさん、立っている!」と。
が、今回、つまり数日前、生徒に話しかけたのが、私は許せなかった。
私のことを、あれこれ、聞いていたという。
もちろん危害を加えるような男性ではない。
それはよくわかっていたが、私は電話した。

電話口に、その店の従業員が出た。
私は、最初は穏やかに、話した。
が、その従業員も、神経質になっていた。
あちこちで、何かのトラブルを起こしているにちがいない。
私が何かを言うと、即座に反論してきた。

「言っても、すぐ忘れます」「私が言っても、聞きません」とか。

すなおに「すみません」とでも言ってくれれば、私も救われる。
が、そう反論されると、こちらとしては、強く出るしかない。

「ともかくも、ですね、私の教室の前に立って、教室を見上げるような行為だけは、やめ
てください。
それと生徒に話しかけるのもやめてください。
生徒たちが気味悪がっています。
私が言いたいのは、それだけです」と。

相手の女性はまだ何か言いたそうだったが、私は、電話を切った。
気分はよくなかった。
兄のことがその男性にだぶった。
その従業員のつらさが、よくわかった。

……「明日は、わが身」。
ボケた人でも、温かく迎える。
迎えて、私たちの仲間に入れてやる。
それが理想。
それはよくわかっている。
わかっているが、現実は、そんなやさしくない。

+++++++++++++++++++++

●32インチテレビ

 昨夜、32インチ液晶テレビを買ってきた。
近くのショッピングセンターで、3万2000円前後で売っていた。
シャープのAQUOS。
現在、韓国のサムスン製の27インチモニターを使っている。
その替わりに、……ということで買ってきた。

 モニターは大きければ大きいほど、使いやすい。
21インチより、27インチ。
27インチより、32インチ。

 しかしテレビ用はテレビ用。
パソコンにつないでみたが、文字がどうも荒い。
いろいろ調整してみたが、どうも荒い。
そこでHDMIでの接続をあきらめ、アナログで接続してみた。
少し改善した。
しばらく、これで使ってみる。

【読者のみなさんへ】

★パソコンには、パソコン用のモニターのほうがよい。
パソコンとパソコン用モニターを、デジタルで接続する。
ただし27インチまでは、安いものがあるが、それを超えると値段が4~5倍にはね
あがる。
文字を打つときは、モニターは大きければ大きいほど、よい。
  そのほうが疲れない。

●生き様

 生き様を変更して、もう2年になる。
2年より、もう少し長いかもしれない。
それまでは「老後」を意識して、何かにつけ小さく生きようと心がけてきた。
「コンパクト」という言葉を使う人もいる。
「老後はコンパクトに生きるのがよい」と。
が、今は、ちがう。
「どうして小さく生きなければならないのか」。

 歳を取ったからといって、小さく生きる必要はない。
死ぬまでの命。
その命に、年齢はない。
年齢制限もない。
死を意識して生きる必要もない。
死の準備をする必要もない。
年齢というのは、あくまでも数字。

 今日できることは、今日、する。
懸命にする。
明日は、その結果としてやってくる。

●爽快感

 たしかに体力は弱ってくる。
気力も弱ってくる。
それは、今、私が経験しつつある。

 しかし一方、こんな喜びもある。
たとえば昨夜も、怠けた心にムチを打って、自転車にまたがった。
30分ほど、全力で走った。
家に戻るころには、全身、汗で濡れていた。
額からは、ポタポタと汗が落ちていた。
それは「運動した」という満足感より、「怠けた心を叩きのめした」という満足感。
もしあのとき、「今夜は疲れているから、運動をやめよう」と、やめてしまっていたら、今
ごろは敗北感を味わっていたことだろう。

 その敗北感が、不愉快。
それを知っているから、自転車にまたがる。
あえて自分にムチを打つ。
その爽快感。
その爽快感がたまらない。

●「週刊新潮」(10月6日号)

 週刊新潮(10月6日号)を読む。
「大増税のその前に一言、言いたいことがある」という特集。
それを読みたかった。

 内容は、
(1)国会議員の定数を半分にせよ。
(2)宗教法人に課税せよ。
(3)医師の優遇税制を見直せ。
(4)学校法人の減免措置を見直せ。
(5)公務員の天下りを見直せ。
(6)特別会計400兆円を見直せ、ほか。

 一読したあと、「ホウ~」と、息だけが漏れた。
どれもすでに知っている話だが、だからといって、どうにもならない。
だれも動かない。
その前に、だれも怒らない。
だから何も変わらない。

言うなれば、こうした記事は「ガス抜き」のようなもの。
国民が日ごろ感じている不平、不満を、こうして週刊誌が代弁する。
それを読んで、私たちは、「これで何とかなる」という淡い希望をいだく。
あるいは「だれかが、何とかしてくれるだろう」という淡い期待をいだく。
つまりそのままこの問題を、自分から切り離してしまう。
だから「ガス抜き」。

 その証拠に、こうした問題は、10年後も解決していないはず。
むしろ悪化しているはず。
賭けてもよい。
というのも、どの問題も、すでに20~30年前から、あった。
いまだに何一つ、解決していない。
解決していないばかりか、むしろ悪化した。

●コオロギ

 昨日、山荘の庭で、コオロギを10匹ほど捕まえた。
成虫になる、やや前の大きさ?
それを今日、自宅へもってきて、自宅の庭へ、放した。

 数年ごとにそうしているが、数年もすると、コオロギの数が減ってくる。
今年は、1匹しか、自宅の庭で鳴かない。
どこかさみしそう……。
ということで、10匹ほど、自宅の庭へ、放した。

 例年だと、これから秋が深まるにつれ、にぎやかに鳴き出すはず。
楽しみ。

●プルトニウムの発見

 福島第一原発の事故地から、45キロも離れたところで、放射性プルトニウムが発見さ
れたという。
それについてNHKラジオは、簡単に事実を伝えたあと、「(たいへん重い)プルトニウム
がそんなに遠くで発見されたことに驚いている」「改めて放射性物質が広く拡散されている
のがわかった」などと、報道していた(2011年10月1日)。

 しかしこれは、「?」。
放射性プルトニウムは、すでに4月の段階で発見されていたはず。
何かのニュースでそう知ったのを覚えている。
それに対して当時の枝野官房長官は、「重い金属なので、遠くへは飛びません」などと言っ
ていたはず。

 プルトニウムの比重は、約19。
たしかに重い。
しかしいくら重くても、微細であれば、風に舞って飛び散る。
大きさは、大腸菌ほど。

 プルトニウムの毒性は、他の放射性物質の比ではない。
たった一個(大腸菌の大きさ)でも肺に入ると、そこにとどまって肺の細胞を破壊しつづ
ける。
肺ガンを引き起こす。

 つまり私のような素人にも、そんなことまでわかる。……わかるようになった。
が、NHKラジオは、その毒性にまでは言及しなかった。
本来なら、そこまで報道して、NHK。

 で、その放射性プルトニウムはどこから来たか?
もちろん1号機や2号機ではない。
プルサーマル発電を試みていた3号機。
3号機から来た。
つまり3号機は、やはり爆発していた!
原子力発電事故で、最悪のことが起きたと考えてよい。

 この先、どんな被害が出てくることやら。
それを考えると、ゾッとする。
「避難勧奨地区が、解除されました」と聞いて、喜んでいるばあいではない。
改めて原子力発電所、とくにプルサーマル発電所には、強く反対したい。

●おい、そこの老人! ずるいぞ!

 老人たちよ、もっと声をあげよう。
もっと行動しよう。
死の待合室で、おとなしく椅子に座って並んでいてはいけない。
「自分さえよければ」と、小さな世界に閉じこもっていてはいけない。
私たちがすべきことは、今まで生きてきた「生」を、つぎの世代に還元すること。
藤沢市で塾の教師をしている池田英雄先生が、そう教えてくれた。

 ……私の知人の中に、55歳で退職、以後30年間、自分の家の庭いじりだけで過ごし
ている人がいる。
(この話は、本当だぞ!)
元国家公務員。
が、そういう生活を、けっして理想の老後生活と思ってはいけない。
この30年間を、1日にして生きてきただけ。

 大切なことは、「還元する」こと。
でないと、私たち老人組は、やがて社会の粗大ゴミ程度では、すまなくなる。
廃棄物からじゃま物。
そうなったら、私たちの居場所すらなくなる。

 私たちは私たちで、社会の中に、自分をしっかりと組み込んでいく。
近所の空地の草刈りでもよい。
ゴミ拾いでもよい。
そういう形で組み込んでいく。

 で、そういう人たちの決まり文句は、ただひとつ。
「私たちは払った分を、返してもらっているだけです」と。

 つまり在職中に支払ったお金を、年金として返してもらっているだけ、と。
しかしこんな話は、ウソ。
ウソであることは、みな、知っている。

 もしそんな老人が、あちらにも、こちらにもいて、若い人たちの目に付くようになった
ら、私たちはどうなるか。
いや、若い人たちは、どう考えるようになるか。
それをほんの少しでも想像してみればよい。
それが私たちの近未来像ということになる。

 さあ、老人たちよ、もっと声をあげよう。
もっと行動しよう。
死の待合室で、おとなしくしていてはいけない。

 もう一度、「週刊新潮」を読んでみよう。
そこには、こうある。

(1)国会議員の定数を半分にせよ。
(2)宗教法人に課税せよ。
(3)医師の優遇税制を見直せ。
(4)学校法人の減免措置を見直せ。
(5)公務員の天下りを見直せ。
(6)特別会計400兆円を見直せ、ほか。

 どれもこれも、私たち老人組が作った、悪習、悪法ばかり。
その責任を取るのは、私たち。
それとも、私たちは、死が近いことをよいことに、「尻をまくり、逃げて」よいのか?
自分だけ、こっそり、豊かな年金生活をしていてよいのか?

 おい、そこの老人!
ずるいぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 鵠沼 池田英雄先生)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●10月01日夜記(2011)

++++++++++++++++++

今日は雑務+昼寝で終わってしまった。
これといった成果は、なし。
10月の第1目というのに、さえない過ごし方。
こんなことで、10月も終わってしまうのか。

台所では、ワイフがギョーザを焼いている。
その臭いが、書斎まで、入ってくる。
夕食は近い。

++++++++++++++++++

●「週刊ダイアモンド」(2011-10-1号)

 おととい「週刊ダイアモンド」(2011-10-1号)を買ってきた。
もちろんそれだけではない。
経済誌ばかり、このところ、立て続けに買って読んでいる。
その下地ができていたこともある。
この方面にかなり詳しくなってきた。
が、今回、その「週刊ダイアモンド」を読んで、頭の中がすっきりと整理できた。

 特集は『世界失速』。

第1幕……「サブプライムローンとリーマンショック」
第2幕……「世界同時不況と景気刺激策が残した禍根」
第3幕……「欧州ソブリン危機と米国国債格下げの衝撃」
第4幕……「世界同時株安と円高を招く欧米景気の失速」
第5幕……「ギリシャ支援で足並み揃わぬユーロ加盟国」
第6幕……「景気失速の米国にのしかかる財政赤字」
第7幕……「日本国債の格下げとふくらみつづける借金」
第8幕……「インフレ過熱と成長鈍化に悩む新興国」
第9幕……「欧米の景気失速に巻き込まれる日本・新興国」
最終幕……「リーマンショックの再来、世界はどうなる?」

 たいへん読みやすく、わかりやすかった。
データ類(グラフなど)は、すべてイラスト化してあった。
専門用語にしても、そのつど説明がしてあった。

ページを追うごとに、「なるほど、そうだったのか」「だからこうなったのか」と、感心す
ること、たびたび。
「世界失速」に感心したのではない。
文章に、感心した。
これだけうまく文章をまとめられるライターというのは、そうはいない。
ライターとしても、トップクラスのライターではないか。

 で、今、世界経済は、第1幕から始まり、それぞれが連続性をもちながら、最終幕に向
かって、「失速の道」を歩みつつある。
それが「週刊ダイアモンド」を読んで、よくわかった。
ありがとう、「週刊ダイアモンド」誌さん!

(比較して失礼だが、週刊「東洋経済」誌(9/17号)は、読みにくく、わかりづらい。
特集ごとに、難易度の差がはげしく、読んでいても疲れる。
子どもが使う問題集にたとえていうなら、簡単な問題と難問がごちゃまぜになっていると
いった感じ。)

●熱いときが買い時

 「経済誌を立て続けに買って読んでいる」というのは、本当の話。
それには理由がある。

 何でも年齢のせいにするのはつらいが、私の年齢になると、こんな現象が現れる。
ふとしたきっかけで、頭が冷えてしまう。
冷えたら最後、頭が働かなくなる。
つまりものごとが、どうでもよくなってしまう。

 だから何かのことで興味と関心をもったら、「このとき!」とばかり、そこへ自分のもて
るエネルギーを集中させる。
それを逃すと、ここにも書いたように、頭が冷えてしまう。
そうなると、モノも書けなくなる。
で、今は「国際経済」。

●趣味

 私のようなタイプの人は、少なくないようだ。
先日も何かの本を読んでいたら、私のような人間で、出会った。
その人も、「周期的に趣味が変わる」と。

 ……で、私は若いころからそうで、ひとつのことに夢中になると、それだけを徹底的に
追求する。
が、やがてある程度のところまでくる。
くると、そこで飽きてしまう。

 こうして私の趣味は、長くて1、2年、短くて数か月で変化していく。
木工から熱帯魚、ハーブ栽培から魚釣り、模型作りから畑作などなど。
一通り、すべてをしてきた。
「すべて」といってよいほど、あらゆる分野に手を出してきた。

 現在はパソコンだが、これだけは、もう30年以上もつづいている。
(最初にコモドール社のPET2001を買ったのが、25、6歳のころ。)
奥が深いというか、底が見えない。
日進月歩で、どんどんと変化していく。
ついていくだけで、たいへん!
プラス、おもしろい。

 が、よく自分を観察すると、パソコンの世界でも同じことが起きているのがわかる。
デジカメにこり出すと、頭の中はデジカメでいっぱい。
ビデオカメラにこり出すと、頭の中はビデオカメラでいっぱい。
それがやはり周期的に変化していく。

●結局は、アメリカ

 ということで、今は、「国際経済」。
恐いが、おもしろい。
どこかの幽霊屋敷にでも入ったような気分(失礼!)。
が、総じて見れば、こういうこと。

 地球がもっている資源、食糧生産能力、それに「豊かさ」にも限界があるということ。
それを世界中の人が、奪い合っている。
もちろん強い国と弱い国がある。
そういった国々が、今、ここにきて急速に入れ替わり始めている。
その混乱が、今回の「大失速」(ダイアモンド誌)の元凶ということになる。

 で、最終的に生き残る国は、どこか?
今の状況を見るかぎり、やはりアメリカということになる。
「やっぱり、もつべきものは、米ドル」と。
これが今のところ、私が得た結論ということになる。

(この日本については、あまりにも悲観的なので、ここには書けない。ゴメン!)

●生的エネルギー

 要するに、「~~をしたい」というのは、それ自体が「生的エネルギー」(ユング)。
生きる力。
原動力。
その生的エネルギーを感じたら、それを逃してはいけない。
逃したとたん、ジジ臭くなる。

 「~~がほしい」「~~を見たい」「~~へ行きたい」でもよい。
それを逃してはいけない。

 そうでなくても年ごとに、生的エネルギーは、弱くなっていく。
弱くなっていくからといって、そのままにしておいてはいけない。
闘う!
闘って、生的エネルギーを奮い立たせる。

 で、今週(近々)の目標。

(1)大阪のユニバーサルスタジオへ、ワイフと行く。
(2)幼児クラスで、正負の数と計算の仕方を教えてみる。
(3)「猿の惑星・ジェネシス」を観に行く。
(4)11月からの講演のレジュメを、全面的に更新(UPDATE)する。

 「どちらをしようか迷ったら、両方ともする」が、現在の私のモットーになっている。
遠慮することはない。
やりたいことがあれば、すべてする。
『鉄は熱いうちに叩け』という。
それをもじるとこうなる。

『何でも、熱いうちに、やれ!』と。
いつまでがんばれるか、自信はないが、がんばる。
がんばるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●寒い朝

+++++++++++++++

急に秋らしくなってきた。
寒い。
もともと私は、寒さに弱い。
(このところ暑さにも弱くなってきたが……。)

つらいのは眠る前。
頭が熱くなり、足が冷える。
そういうときは枕を高くし、足下に布団をかける。
夏場でも、ときどきそうすることがある。

が、脳みそには、気温が低い方がよい。
コンピューターと、よく似ている。
コンピューターも、気温が低い方がよい。
今の今も、半袖のパジャマで、ブルブル震えている。
が、頭の働きは、よい。
ネットでニュースを読んでも、そのつど、
バチバチと火花が脳の中で散る。

今日は、10月3日、月曜日。
手元の気温計は、21度Cを示している。

+++++++++++++++

●光速を超えた素粒子ニュートリノ

 少し前、素粒子ニュートリノが、光速を超えて飛び回っているのが発見された。
「約730キロ離れた国立研究所の検出器で観測した結果、光速より60ナノ秒(1億分
の6秒、ナノは10億分の1)速く到達したのを確認した」(毎日jp)というのが、その
ニュース。
当初は、「アインシュタインの特殊相対性理論をひっくり返す、大発見」と、もてはやされ
た。
が、しばらくすると、「計器の誤差ではないか」という疑問が、あちこちの学者から提起さ
れるようになった。
「速い」といっても、「1億分の6秒」。

 しかしここはコロンブスの卵。
こう考えれば、両者の矛盾を解決することができる。
つまりアインシュタインの説く特殊相対性理論の中で論じられる「光」とは、実は「素粒
子ニュートリノのことであった」と。
さらに暴論的に書くなら、こういうことになる。

 アインシュタインの時代には、素粒子ニュートリノはまだ発見されていなかった。
だから光を基本にものを考えたが、これからは素粒子ニュートリノを基本にものを考えれ
ばよい。
『この宇宙に、素粒子ニュートリノより速い物質はない』と。
あるいは『素粒子ニュートリノの速度は、一定』でもよい。

 そうすればアインシュタインの特殊相対性理論をひっくり返さなくてもよいし、今回の
実験結果を、「計器の誤差」と決めつけなくてもよい。

 たとえばあの野口英世。
顕微鏡を使って一生懸命、ある病原体を発見しようとしたが、できなかった。
当時の顕微鏡では、ウィルスまで見ることはできなかった。
だから野口英世は野口英世なりに、自分の知りうる範囲で、研究をつづけるしかなかった。
アインシュタインも、同じような立場ではなかったか。

 もっとも光と素粒子ニュートリノとの関係については、私は知らない。
同一の範囲にあるものなのか。
それともまったく別のものなのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●小沢一郎氏vs司法

 小沢一郎氏が今回の裁判についての結果を、批判している。
自分の3人の部下が、有罪になった。
罪状は、「資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反」。
それについて「民主主義の世界では、考えられないこと」※と。

 3人の部下が有罪になったことで、小沢一郎氏は、かなり不利な立場に立たされる。
それはわかるが、行政府を構成する実質的な支配者である小沢一郎氏が、個人的立場であ
るにせよ、司法を批判するのは、許されない。
三権分立の精神に、まっこうから違背する。

 で、今回、「金(マネー)の出口」が、裁判所で争われた。
が、本当の問題は、「金(マネー)の入り口」。
4億円という現金である。
それがどういう経路を経て、小沢一郎氏の懐(ふところ)に入ったか。
(うち1億円については、贈賄側の土建業者が、それを認めている※。
一方、小沢一郎氏は、「タンス預金をしていた、そのお金」と弁明している。)
私たちは、それを問題にしているし、それを知りたい。
つまり金(マネー)の出所。

 さらに言えば、「本当に4億円だけだったのか」という疑問も残る。
一連の流れからすると、「4億円どころではなかった」と私は推測する。
が、もしそうなら、それこそ「民主主義の世界では、考えられないこと」ということにな
る。
今回の判決について、裁判官は、つぎのように断じている。

「……小沢事務所は談合を前提とする公共工事の本命業者の選定に強い影響力があり、影
響力を背景に公共工事の受注を希望する企業に多額の献金を行わせていた。規正法の規制
の下で、引き続き企業からの多額の献金を得るため、他人名義の寄付を受け、報告書上、
明らかにならないよう虚偽記入した」(判決要旨より)と。

注※「「大変びっくりした。何の証拠もないのに推測に基づいて決めてしまうのは民主主義
国家では考えられない」と批判した」(Yahoo News)と。
注※当時の水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、
04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言して
いる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●野田内閣

 野田内閣の性質(性格ではなく、性質)が、少しずつ明確になってきた。
TBS-iは、つぎのように伝える(一部抜粋)。

『……「事務次官会議の復活、まさにこれが官僚依存であります」(自民党 石原伸晃 幹
事長、9月26日)と。

 「“脱官僚依存”の政治を今こそ」(鳩山由紀夫 首相【当時】、2009年9月)
 「“政治主導の貫徹”“脱官僚依存”」(菅 直人 首相【当時】、去年7月)』と。

 鳩山由紀夫元首相や管直人前首相は、「脱官僚」を旗印にあげた。
が、野田首相は、その「逆」に進んでいる。

 数日前、官民の所得格差が、2倍程度になっているという報道(中日新聞)が、あった。
で、人事院は、0・2%程度の給与引き下げを勧告したが、たったの0・02%?
管直人前首相は、「20%」という数字をあげていたはず。
20%から0・2%。
実質、100分の1!
年収850万円の国家公務員のばあでも、たったの1・7万円!

 野田総理への期待感が、急速にしぼんでいくのが、自分でもよくわかる。
残念!


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


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●メタ認知能力(改)

2011-10-19 09:00:25 | 日記
【メタ認知能力】

●10月2日

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今朝、過去に自分が書いたいくつかの
原稿に、目を通してみた。
そのひとつが「メタ認知能力」について
のもの。


もともとは数学の世界で生まれた言葉
というが、心理学の世界でも広く使われて
いる。
「メタ」というのは、「超越した」とか
「高度な」という意味である。


つまり「私を超えた視点で、私を認知する能力」、
それを「メタ認知能力」という。


たとえばほとんどの人は、ほとんどのばあい、
「私は私」と思って行動している。
しかし残念ながら、そのほとんどは、「私で
あって私でない」。
フロイト流に解釈すれば、私たちはその根源に
潜む、リビドー(Libido)(ラテン語で「欲望」を
意味する)によって、操られているにすぎない。


わかりやすい例としては、若い女性が(男性でも
よいが)、化粧する姿を思い浮かべてみればよい。
どの女性も(男性でもよいが)、「自分で考え、
自分の意思で、化粧をしている」と思っている。
しかし実際には、その奥に潜むエネルギーによって、
(フロイトは「性的エネルギー」と呼んだが)、
操られているだけ。


そうした「私」を、より客観的に、私を超越した
立場で、高度な次元から認識する。
その能力を、「メタ認知能力」という。


もっともこれは私の解釈によるもので、まちがって
いるかもしれない。
だったら、「メタ」という言葉をやめてもよい。
「私を超越した認識能力」という意味で、簡単に、
「超自己認知力」と言い替えてもよい。
どうであるにせよ、つまり言葉の問題は別として、
「私」を、私を超えた次元から認知するのは、
とても重要なことである。
それができるかどうかで、人間は自らを、「動物」と
切り離すことができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 リピドー(Libido) メ
タ認知 メタ認知能力)


++++++++++++++++++++


●煩悩(ぼんのう)


 「欲望」といえば、「煩悩(ぼんのう)」ということになる。
それについて2007年7月4日のBLOGに書いた記事をそのまま、ここに転載する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●煩悩(ぼんのう)


+++++++++++++++


仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。


そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。


+++++++++++++++


 仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。


ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。


そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。


 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。しかし無知といっても、「知識のな
さ」を言うのではない。
「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。


 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨ん
だり、ねたんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどった
り、ふまじめになったりする」(「仏教聖典」)という。
つまり、自分を見失ってしまう。


 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世
の3つの火」と位置づける。
これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。そういう例は、多い。


 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」と
いう意味のことか。
わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。貪欲な人は、たしか
に見苦しい。


 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。義父を思いやる、
やさしい心からそうしているのではない。
その財産が目的である。義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してき
た。


 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。
その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。
そのあと様子がおかしくなるという。
しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。


 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。
その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。
私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。
仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、ど
なったり、暴れたりすることをいう。


 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。
たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。
K国の金xxにも、怒りを感じている。
元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。
さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。


 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。
つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうで
ない。


 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。
しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。
ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
 

 では(道理)とは何か。現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。
人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。
他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い
人という。


 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。
考えて、考えて、考えぬく。
パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。
中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語
(?)する人がいる。
しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。


 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。


 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるとい
う。「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の
3つの悪い行為に導くことになる」(「仏教聖典」)と。
つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 

 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。


 悪いことをしないから、善人というわけではない。
よいことをするから、善人というわけでもない。
私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。
悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。
またそういう人を、善人という。


 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。
この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。
「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。


私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
煩悩論 パーリ 仏教聖典)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●無明と愛欲


 私はもともとこうした教条的な言い方が、好きではない。
原始の世界では、それなりに説得力もあったかもしれない。
しかしものごとを教条的に並べてしまうと、それ以外の部分が、排斥(カット)されてし
まう。


 それはともかくも、仏教の世界では、「ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩
悩。そしてその根本はといえば、『無明』と『愛欲』であると教える」(仏教聖典)。
わかりやすく言えば、私たちは常に、「無明」と「愛欲」に、よいように操られているだけ
ということになる。
感情と性欲を例にあげるまでもない。


●モヤモヤ


 そこで改めて、自分を見つめ直してみる。
方法は簡単。
静かに目を閉じ、脳の中でざわめくモヤモヤとした思いに、耳を傾けてみればよい。


 ……怒り、喜び、不安、心配、希望、期待、夢、嫌悪……。
そうしたものが、混然一体となって、そこでモヤモヤとしているのがわかる。
このモヤモヤとしたものが、そのつど、状況に応じて脳の表層部分に浮かびあがってくる。
それが感情、あるいは行動となって現れる。


 で、今度は、その逆の操作をしてみる。
「なぜ、そうなのか?」と。
わかりやすく言えば、モヤモヤしているものの原点を探ってみる。


が、それは簡単なことではない。
ここでいうモヤモヤというのは、無数の糸が、複雑に絡(から)み合っているような状態
をいう。
モヤモヤの原点を探るためには、それぞれの糸を、一本ずつ、ていねいにほぐさなければ
ならない。


 そこで再び、静かに目を閉じ、脳の中を整理してみる。


●脳


 が、脳というのは、それほど器用にできていない。
たとえば慢性的な不安や心配がつづくと、サイトカインというホルモンを分泌する。
それが脳全体に広がる。
で、そういう状態になると、「陰性感情」(フロイト)のみが優性になる。
平たく言えば、不愉快なことばかりが、脳に浮かんでくる。


 もちろんその反対のこともあるが、つまり脳というのは、その一部で喜びを感じ、別の
一部で怒りを感ずるということができない。


 で、現在の私の脳は、その陰性感情に支配されている。
寝起きにみた悪夢が影響しているのかもしれない。
不平や不満、心配や不安、怒りや恨みが充満している。
それほど強くはないが、全体として、モヤモヤとしている。


 そこで私は深呼吸を繰り返す。
繰り返しながら、そこへ「陽性感情」を注入する。


 「今日も健康だ」「今度の講演先では、○○温泉に泊まろう」「幼児に方程式の解き方を
教えるという実験は成功した」「昼からワイフとドライブに行こう」と。
もっとも効果的な方法は、私のばあい、幼児たちに接すること。
接したとたん、陰性感情は吹き飛んでしまう。
が、だからといって、それで「私」がわかったことにはならない。


 ……どうであるにせよ、モヤモヤの奥にあるものを探るのは、容易なことではない。


●メタ認知能力


 結論から先に言えば、「私」を知ることは、それほどまでに難しいということ。
中には「私のことは私がいちばんよく知っている」と豪語する人がいる。
が、そういう人こそ、本物のバカ(失礼!)と断言してよい。
何も知ろうとしないから、「知っている」と錯覚しているだけ。


 では、どうするかということになるが、それが「メタ認知能力」ということになる。
が、それについては、たびたび書いてきた。
今朝読んだ、自分の原稿をここに掲載する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【メタ認知能力】


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か


++++++++++++++++++++++


メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))


++++++++++++++++++++++


●メタ認知


メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J・H・Flavell)によって1970 年代に提唱され
た。


メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。
メタ認知的知識
とは、メタ認知の中の知識成分を指す。
メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知
識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることがで
きる。
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。
メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。
メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき
(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知
の点検(checking)などが含まれる。
メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる。


困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。
似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず
解いてみることが手掛かりになることがある。
また、問題の解決に使えそうな法則なども
思い出し、解決に向けた道筋を描く。
解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。
間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。
このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を
発揮すると考えられる。


そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。
訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に
立たない。
適度な難易度の問題を解決することが必要である。
従って、パターン暗記に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられ
る。
その意味で、生徒が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙い
が実現できれば、メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)


+++++++++++++++++++++


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)


 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。


 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。


ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。


●メタ認知能力


 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。


●メタ認知


(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
 (1) 人間の認知特性についての知識、
 (2) 課題についての知識、
 (3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。

(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
 (1) メタ認知的モニタリング、
 (2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 さらに、

(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予
想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。

(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる、と。


●実益


 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。


『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考え
られる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと
考えられる』と。


 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、
メタ認知能力は力を発揮する、と。


 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。


●因数分解


 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

(注:ただしたいへん読みづらく、意味がよくわからない点もあるので、注意! はやし浩司)


7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標
を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ? abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするの
を防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。


++++++++++以上、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


●因数分解(例)


 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。


私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) - abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。


(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。


 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。


が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。


 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。


つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。


●高度な知的活動


 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。

 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5~6問、練習させる。


そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)


 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。


 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。


 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)


●メタ認知能力の応用


 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。


●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!

(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)


+++++++++++++++


この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。


+++++++++++++++++


●食欲とメタ認知能力


 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。


 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。


●意識を意識する


 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。


たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。


空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。


 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。


 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。


●2つの働き


 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。


 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。


 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。


●知的能力


 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。


 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。


 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。


●自己管理能力とメタ認知能力


 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。


 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。


「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。


 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。


●スーパーバイザー


 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。


 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。


 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。


 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。


●うつを知る


 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。


(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。

 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)


 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。


 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。


 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。


●メタ認知能力


 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。


「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。


(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)


 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』(ソクラテス)ということにもつながる。


 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。


 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


●終わりに(2011/10/02記)


 私は私を知っているか?
私を超えたところで、「私」を知っているか?
いま、ふと、私はそんなことを考えた。
が、答は、「NO!」。
始終、「無明」と「愛欲」に振り回されているだけ。


 なぜそうなのかということについては、たぶん、ほかの人よりは少しはわかっているか
もしれない。
しかし「少し」だけ。
何とも言えない、敗北感。
残りの人生は、平均余命から計算すると、あと15年と少し。
たったの15年。
脳みそも不可逆的にボケていくだろう。
つまり時間切れ。


 しかし……。
釈迦やイエス・キリストは、どうしてあんな短い期間に、「私」を知ることができたのだろ
う。
最後に、ふとそう思った。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 メタ認知 私を知る 
煩悩論)