松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

東京谷中の「カヤバ珈琲」

2014年04月30日 16時33分16秒 | 日記
私が古い町並みを歩きはじめたのは、あくまでもこれからの新たな家とまちづくりを考えるためです。ただそうはいいながら、やはり古い家や町並みが消えていくのをみると、何とかしなければと感じます。



東京・谷中の「カヤバ珈琲」の保存運動は示唆に富んでいます。「カヤバ珈琲」は大正5年築。震災や空襲にも耐え、ずっと親しまれてきました。しかし後継者がいなくなったことや、相続が発生したことから、所有者は解体することに決めました。そこで地元有志は何とか考え直してくれるよう運動を始めました。

たしかに所有者の気持はよくわかります。固定資産税や維持費がかかります。最初はよくても、しだいに重荷になってきます。私も経験者です

所有者の解体意思はなかなかゆるがなかったようです。

そこで、保存派のひとたちは役所に相談しました。しかし「買い取ると維持費がかさむ」と役所は応じません。

そこにNPOが登場します。所有者に納得してもらえるスキームを考え提案しました。
まず、建物管理はNPOが行い、珈琲店を経営する希望者をさがし、貸し出します。賃貸料が納税分を上回ることが条件です。そうすれば所有者の負担はぐっと軽くなります。

さらにNPOは定期借家制度を利用しました。ある一定の期間がたったら地主に返却するよう契約書に明記したのです。これは所有者を安心させました。さらに修繕費用や維持費は借主側の負担にしました。

そこで所有者は納得し、方針を転換しました。

いまや「カヤバ珈琲」は谷中のシンボルとなりました。私が昨年立ち寄ったときには満員で入れなかったほどです。



谷中の事例は多くのことを教えてくれます。さまざまの立場のひとが、持主の要望にこたえられるような解答を考えてあげれば、保存への糸口がみつかるのではないでしようか。




魔王の最期の日記・・・・・佐渡の両津郷土博物館

2014年04月29日 07時48分57秒 | 日記
両津から小木、宿根木に往く途中、「両津郷土博物館」の看板があった。妙にそれが気にかかっていたので、帰りに立ち寄った。

加茂湖を中心にした両津の人々がどうやって時代の流れに適応してきたのか、よくわかる展示だ。とくに水との関わりかたは、舟運に関心をもつ私にとって、とてもおもしろかった。満足して帰ろうかと思ったそのとき、ふと小さなガラスケースが目に止まった。

日記だ、こ、これは魔王最期の日記ではないか。見たい、何としてもみたい。動悸がした。

すぐに教育委員会に飛び込み、Nさんにぜひにと頼みこんだ。魔王の一次資料を手にするのは、じつは初めてだ。手にとる。大きい。B5の分厚い「本」だ。そして重い。開く。大きな字だ。まるで毛筆のように大ぶりの字だ。これほど太い万年筆があるのだろうか。独特な字体だ。縦はまっすぐにおろすが、曲げやはらいは鋭角的で、この人の精神のあたたかさと激しさに似ている。

日記をめくった。昭和11年2月26日の欄。「革命軍」の文字に二重線が引かれ、脇に「正義軍」と書き直されている。

2月28日。「大海ノ波打ツ如シ 午後一時 祈願」
この後4時頃、魔王は身柄を拘束され、ふたたび還ることはなかった。日記の空白を埋める者はもはや永遠に失われたのだった。これが、この文字が魔王の絶筆か、そう思うと、涙がとまらなかった。かわいそうな魔王。

私は社会人2年目から毎年、魔王の故郷・佐渡を歩いた。それは魔王の隻眼が遠くみつめていた国家にずっと魅力を感じ、浪漫的詩人のやさしさにひかれたからだった。法的正義の虚妄に傷ついた精神を、佐渡に癒されたいと思ったのかもしれない。

それはともかく、事件から一年以上たった昭和12年8月19日、魔王は刑死した。遺骨は厳重な管理下におかれ、ようやく故郷・佐渡に帰ったのは、処刑から4年が経った昭和16年、日本が戦争に踏み切ろうとする直前のことだった。

博物館を後にして、真念寺に行ってみた。ここの故村山住職の手元には魔王自筆の御布施袋と著作がのこされていたと知り、話を聞いたことがあった。しかし今は後を継ぐ者が途絶え、廃寺となっている。Nさんによれば、係累は佐渡を離れてしまったのだという。

挑戦・・・・・佐渡宿根木(3)

2014年04月27日 20時28分36秒 | 日記
宿根木の家々は明治以前の美しい面影を今にのこしている。それはなぜなのだろうか。

もちろん家屋を大事にして手入れを怠らなかったからだ。しかし地域での生計が立ちゆかなくなれば、家をかまうことなどできない。住み慣れた地でさえ離れていかなければならない。

かつて西廻り航路の繁栄によって栄えた宿根木も、航路の廃止とともに衰退した。産業構造をそのまま放置しておけば、宿根木は完全な廃村になり、家々は廃屋になってしまったろう。しかしそうならなかった。いったい何があったのか。

たまたま石瀬佳弘さんの論文を読んだら、そのあたりの事情がわかった。

明治の終盤、宿根木は産業構造を大転換することを余儀なくされた。住民は農業を選んだ。廻船を待つ受身の三次産業からものをつくる攻めの一次産業へと舵を切ったのだ。大正5年のこと、吉が沢や称光寺川から水路を掘って水を引いた。米をつくろうと住民はみんな開田に熱をそそいだ。その中心にいたのが高津昇之助だった。

宿根木は縦井戸には適さなかったらしい。そこで昇之助らは断層に向かって横井戸を掘り、湧水を引こうとする大胆な計画をした。しかしハイリスクのため、なかなか資金が集まらない。たいへんな苦労をした。井戸掘り工事がすすみ、ようやく水が音を立てて流れでたときには、昇之助らはほっとしたにちがいない。ともあれ、宿根木はここに産業構造をがらりと変え、ふたたび成長のエンジンをまわしはじめた。

そうした挑戦が宿根木の古い家屋を今にのこしたのだった。

船大工の余技・・・・・佐渡宿根木(2)

2014年04月21日 21時25分26秒 | 日記
山育ちのせいか、船大工という仕事がどうもよくわからない。家屋をつくる大工とどこがちがうのか、想像するしかない。

命をまっさきに考えるかどうか。それが船大工と他の大工との違いのように思う。船が浸水や転覆したら、乗組員は助からない。だから船大工は材料をを慎重に吟味して、すこしでも危険だと思えば使わないだろう。家屋の場合は節や穴、曲がりなどもうまく使えば、飾りにすることもできるのと対照的だ。


みなとの博物館ネットワークフォーラムHP

宿根木の船大工は、江戸末期に五人の棟梁、それに多くの弟子がいたと記録されている。わずか百メートル四方の狭い地域に、造船技術がぎゅっと詰まっていたわけだ。毎日の生産活動のなかで、船には向かない新古の材料が相当量、廃棄されたはずだ。

「捨てたり燃やしたりするのは、もったいない。家に使おう」、だれからともなくそう言い出したにちがいない。そこまではわかる。



しかし宿根木の家屋は、外壁の下見板が横にではなく縦にはってある。防水には不向きな張り方を採用した理由がわからない。ちなみに腰板は造船の残材だ。色彩はとぼしく簡素だ。舟釘を使っているのがめずらしい。影響力ある船大工の棟梁が遊び心で始めたのだろうか。

気づくのは、板の留めかただ。舟釘も使っているが、使わずに木片を組み合わせて留めているのも少なくない。こうした住宅構法ははじめてみた。あるいはこれが船大工特有の技術なのかもしれない。

ところで、宿根木に船大工が集まったのはなぜか。需要があったからだ。大きな弁財船を注文する船主が多くいたのだ。狭い集落のなかで、需要と供給が高いレベルで手を結んでいた。

船主は全国に大きな価格差があるのを利用して、たとえば北海道のニシンを安く買い叩いて北前船に積み、瀬戸内に運んで高く売りさばいた。一度の航海で得た利益は1億円とも2億円ともいわれる。全盛期の宿根木には「佐渡の富の三分の一が集まった」。

たしかに石橋、石畳、石塔、石鳥居の材料は美しく高価な瀬戸内産だ。船主住宅の大きく贅沢な木材も遠隔地から大きな海船で運ばれたものだ。



狭い入江には、白い石杭が7本立つている。安永5年(1776)に瀬戸内から運ばれた御影石で、ここに千石船をつないだ。「白坊主」と呼ばれてきた。この石杭をみたら、さすがに一世紀以上昔にタイムスリップする感じになった。宿根木を歩くと、多くのひとが同じ夢をみるのではないだろうか。



隈研吾への共感

2014年04月20日 18時57分39秒 | 日記

東北の被災地を何度か歩いて感じたのは、無秩序に住宅がつくられていることへの疑問だった。
都市計画もなく、色もかたちもバラバラだ。

「百年後に観光資源になる町づくりができる機会なのに」。
そう強く思った。

隈研吾「つなぐ建築」を読んでいたら、はっとした。
こう述べている。

住まいと同時に、どうかせぎ、どう暮らすかも、デザインしないといけない。そのときに、いまのポスト工業化社会では、観光と生産を同時に考える必要があります。観光と生産のあり方と、人びとの住む場所を連動させなきやだめなんです。その三つを切り離して考えて、箱型住宅が並ぶひどい風景ができてしまったら、将来何百年も観光地にならない。ということは仕事も生まれない、ただの刑務所をつくっているだけです

同感だ。