松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

和井内の墓・・・秋田県鹿角市

2014年10月26日 16時25分39秒 | 日記

上級武士の屋敷町だった

 

和井内貞行夫妻の墓は毛馬内の仁叟寺にある。見てみたいというと、「案内しますよ」と鹿角先人顕彰館の小田嶋館長がおっしゃったので、ご厚意に甘えることにした。仁叟寺は顕彰館すなわち和井内本家からまっすぐ歩いて数分である。この通りは元は上級武士の屋敷町であった。

境内は赤や黄色の木々が美しい。寺の横が墓地になっている。斜面の一番上には立派な墓がある。藩主の墓だという。和井内家の墓地は上段にある。家老職であったからだろう。数年前にカロウトを新しくしたようだ。戒名をみると、貞行は「開湖院」。なるほど魚ではなく十和田湖を開いた偉人として、当時の住職は考えていたのだろう、絶妙だ。

私のような外部の者にはわからないが、鹿角地方のひとにとって十和田湖はアイデンティティーなのかもしれない。内藤湖南の「湖南」とは十和田湖の南部の意味であるし、その父「十湾」とはそのままずばり十和田湖のことなのである。

ところで、和井内貞行の享年をみて、はっとした。五十八歳と刻まれている。あれ、たしか六十をこえていたはずだったが。いま自宅で調べてみたら、やはり享年は六十五歳である。これは何かのまちがいではないだろうか。もうひとつ、妻のカツ子は正確にはどうも「カツ」だったようだ。

和井内家の墓のそばに内藤家のもある。これをみて気づいたのは、死者はずっと仏になっていたのに半世紀ほど前から「翁」や「大人」など神に変わっていることだった。深入りはさけるが、湖南の思想が一族に影響をおよぼしたものであろうか。そうだとすればどのようなかたちをとって影響したのだろうか。

 曹洞宗仁叟寺


和井内神社に立ちすくむ・・・十和田湖畔・大川岱集落

2014年10月25日 16時09分08秒 | 日記

和井内貞行は偉人だと子供のころからずっと思ってきた。しかし、どうもすこしちがう、貞行よりも妻のカツ子のほうが地元では尊敬されていたのではないかとここ数か月間考えるようになった。その根拠は和井内神社だった。カツ子の逝去まもなく神社が建てられたときの呼称は「勝漁神社」。すなわちカツ子の「勝」と十和田湖の「漁」からとったものだったからだ。

はたして私の考えは正しいのか。しらべるために十和田湖畔・大川岱の「和井内神社」に行ってみた。和井内神社は道路の脇にある。小さな鳥居をくぐると、杉木立になっている。十和田湖はもう初冬だ。赤や黄色の落ち葉をさくさくと踏んでいくと、左手に神社の縁起が墨書してある。読むと、地元民はカツ子によって救われ、敬慕の念を篤くしたときちんと書いてった。カツ子の没後しばらくして貞行が亡くなると合祀した、とも。明らかに神社の主祭神はカツ子である。叙位叙勲の名誉にあずかった貞行も、この神社に関するかぎり、脇役にすぎない。ここ数か月間の考えは正しかったのだが、あまりにもあっさりと判明してしまって、拍子抜けしてしまった。

社殿の周囲をまわってみた。小社とはいえ、本殿拝殿をもった木造の立派な社殿である。おそらくなかは外観よりも荒れているだろう、補修には相当の費用がかかるにちがいない。とはいえ、地元の女性にきいたところでは「大川岱集落では人が減って空き家が増えた。いまや中学生は駐在さんの息子ただ一人、小坂の街なかの学校へタクシーで往復通学している。若い人は一度出ていくともう戻ってこないから、年寄りばかりになる」。地元にはとても神社を支える経済的余裕などない。「限界集落だからね」と女性はつぶやいた。和井内貞行夫妻が漁業と観光との先鞭をつけ、一時期はにぎわった十和田湖畔・大川岱。しかし現実は甘くない。再興をめざすのは困難だろう。だれもいない和井内神社の境内に立つていると、冷たい風が音を立てて吹いた。


ヒメマスに会う・・・十和田湖

2014年10月25日 09時52分53秒 | 日記

十和田湖はどんよりと曇っていまにも降りだしそうだ。水際に立つと寒い。ダウンを持ってきてよかった。ふ化場への魚道の入口は幅が1mほど。この入口に体長20数センチの魚がびっしりと泳いでいる。おお、これがヒメマスか、かわいいではないか。魚道の水が湖に勢いよく注ぎこみ、ひとすじの流れをつくっている。よくみると、その流れにゆらゆらと動く細長いかたまりがある。ヒメマスが遡上する順番を待っているのだ。ときおり、しぶきをあげてはねる。

コンクリートの魚道はいたるところ、ヒメマスの群れだ。足を入れれば、どれか踏んづけてしまう。小さな段差をひとつまたひとつと跳ね上がっていく。明治のときもこうやってヒメマスは押し合いへし合い、生まれた川の水をめざして戻ってきた。サケ(ヒメマスは陸封型の紅鮭)は母なる流れを忘れない。和井内貞行が選んで成功した魚がコイやワカサギなどでなく回帰性を持つサケであったことは、私たちのロマン感情を激しくゆすぶるものがある。「魚だ、魚がもどってきた」、そう和井内貞行は叫んだろう、まちがいなく。そう確信させるものが、いま目の前の光景に、ある。

遡上したヒメマスはカゴのなかに入る仕組みになっている。漁協の係のひとが冷たい水に手を入れて、ひとつひとつ選別する。オスとメス、メスならば抱卵しているかどうか見分けるらしい。赤いのがオス。圧倒的にオスのほうがすくない。作業を見ていて飽きない。

今夜は雪だなと漁協の係のひとがつぶやいた。今年のヒメマスは多いがそろそろ終わりに近づいているようだ。ああ、間にあった。来てよかった。

ふ化場近くから十和田湖をのぞむ。

魚道の入口

魚道。一番下の段差を1匹のヒメマスがジャンプしている

 


和井内を継ぐ者・・・秋田県鹿角市

2014年10月19日 20時07分23秒 | 日記

鹿角や十和田湖に行ったら、聞いてみたいことがある。「狂人のようにあらたな事業にとりくんでいる若者はいないか」と。もちろん自身が好きで打ち込むのでなければ長続きしないが、社会という公につながっていくような指向性をもった人物はいないのだろうか。

鹿角の小中学生は和井内貞行について学習するようだ。たしか先人顕彰館の壁には感想文がはられていた。和井内伝説にふれて成長した人たちが、「わたしは和井内さんと同じようにこの地域が好きだ、だからここでみんなで安心して暮らしていける方法を考えていきたい」と動きはじめたならば、鹿角も十和田湖も息を吹きかえすだろう。和井内貞行・カツ子夫妻につぐ第二の「郷土の偉人」となる可能性もある。

鹿角市立十和田中学校のHPをみた。「開拓精神」、いいスローガンだ。鹿角の小中高生・若者よ、未来を切り開け。


和井内貞行伝説をこえて・・・青森県十和田湖

2014年10月17日 17時40分30秒 | 日記

和井内貞行夫妻が十和田湖でヒメマスの増養殖に成功し、十和田湖観光を開発して以来、十和田湖周辺は観光客でにぎわった。盛期には数百万人のひとがおとずれ、ホテルや飲食店・土産物屋が軒をつらねた。しかし観光客が半減してしまったため、ホテルや遊覧船の廃業や倒産があいつぎ、廃屋が増えている。地元でも手をこまねいているわけではなく、雪と氷の光景を売り物にして通年営業をめざしたり、行政にたよってあらたな観光拠点をつくったりして努力してはいるものの、客足はもどっていないという。

和井内夫妻二柱の神を祀る和井内神社は十和田湖畔にある。正確な地名は「小坂町十和田湖大川岱」である。神社は明治40年に地元・大川岱のひとたちによって社殿が創られて以来、ずっとまもられてきた。ご祭神をみせてもらえないかと地元関係者にきいたところ、意外なこたえがかえってきた。

「社殿のいたみがはげしくて危険なため、なかはお見せできない。修理するにも、いまは大川岱は人口がへってしまって。和井内さんの子孫が住んでいるかぎり放っておくわけにはいかないのだが、なにせ・・・」

ううむとうなってしまった。たしかに十和田湖周辺から人足が遠のいて地域産業が衰退すれば、人口がへり、寺社を支えることはできなくなってしまうのは無理はない。しかし死後百年近くたってもなお鹿角ばかりか秋田県のひとびとの心のどこかにまだわずかではあっても生きている和井内貞行夫妻をさらにこれからも語りついでいくことはできないだろうか。

大川岱集落の人びとが和井内夫妻を神に祀ったのは、困ったときに何の見返りも要求せずに助けてくれたことと、あらたな地域産業を興してくれたことへの感謝の気持ちがあったからだろう。和井内夫妻が神だったから祀ったのではない。ありがたい人物だから永く記憶しておきたいと思ったため、「神社」という形式を借りたにすぎない。時代状況が異なれば、仏教の形式を使ったかもしれない。大事なのはそうした民衆の精神に注目することである。

和井内神社を創った大川岱集落の「物語」は貞行を主人公にするもののようにとらえられてきたが、私がこれまでみてきたかぎりでは、じつはそうではなく、カツ子に重心がある。事実、「勝漁神社」はカツ子のために創られたものであり、貞行の叙位叙勲は神社創建のあとのことだった。私はこれまでの見方を修正したい。カツ子の人生にスポットをあてて、もういちど和井内「貞行」伝説を考え直してみたら、あらたな物語が生みだせるのではないだろうか。それは、人にとって地域とは何かという根本的な問いと深くかかわり、十和田湖畔や鹿角地域を再生する動きにつながっていくにちがいない。