松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

隈研吾への共感

2014年04月20日 18時57分39秒 | 日記

東北の被災地を何度か歩いて感じたのは、無秩序に住宅がつくられていることへの疑問だった。
都市計画もなく、色もかたちもバラバラだ。

「百年後に観光資源になる町づくりができる機会なのに」。
そう強く思った。

隈研吾「つなぐ建築」を読んでいたら、はっとした。
こう述べている。

住まいと同時に、どうかせぎ、どう暮らすかも、デザインしないといけない。そのときに、いまのポスト工業化社会では、観光と生産を同時に考える必要があります。観光と生産のあり方と、人びとの住む場所を連動させなきやだめなんです。その三つを切り離して考えて、箱型住宅が並ぶひどい風景ができてしまったら、将来何百年も観光地にならない。ということは仕事も生まれない、ただの刑務所をつくっているだけです

同感だ。

船大工の余技 佐渡宿根木(1)

2014年04月20日 07時45分10秒 | 日記
小木民俗博物館で北前船をみて上機嫌になったまま、車に乗った。すぐに下り坂になる。「お、いよいよだな」。右手下に黒っぽい屋根がいくつもかたまっている。「ここが宿根木だ」。

車からおりて眺めると、グローブのなかにあるボールのような集落だ。グローブじたいが小さい。1haほどの狭い地域に110棟ほどの家が肩を寄せ合っている。よくみると、屋根は板葺きで石が重しになっている。昔の姿に復原されたのだ。

駐車場に停めて歩く。いきなり目の前に、細い竹でできた垣。強い潮風を防ぐ「風垣」だ。結界のようであり、おそるおそるくぐった。

道は狭い。家と家との間にはすきまがないほど建て込んでいる。シンプルな総二階だ。外観に個性がないとの批判もあるが、実態は違う。同じものはひとつもない。それに屋内は個性を競っている。

石畳の小路をひとりで歩いていると時間感覚がなくなってしまう。この不思議な感覚はどこかで抱いたことがある。あれはどこだつたろうか。そうだ、島根半島の美保だった。美保神社から仏国寺までの200mほどの径には、各地から船で運ばれた緑色の凝灰岩が敷きつめられており、濡れると幻想的に青くなる。この「青石畳通り」が整備されたのは江戸後期。ちょうど北前船の隆盛期だった。宿根木をたった北前船は途中いくつかの港に立ち寄り、美保港に着いたものもたくさんあったろう。心を寄せる女に佐渡土産を渡す水主の姿もみられたかもしれない。海路は物も人も心もつないだ。



さて、いまは宿根木だ。めざすのは「清九郎家」。清九郎は廻船二隻を所有し、宿根木一番の船主だった。建物は切妻総二階、妻入り。築は安政5年(1858)。梁も柱も太い。ただ、梁は加工されて、ほぼ直前になっている。柱は角が落としてある。すごいのは塗だ。随所が柿渋塗や漆塗だ。建物の外観は簡素質朴だから屋内にカネをかけるやりかたが一層きわだつ。

しかし、加賀橋立の酒谷家や久保家とくらべると、こぶりだ。橋立では「中の上」といわれた酒谷家住宅(1878年築)でさえ、30畳の大広間、二つの仏壇をおさめる仏間をはじめ17の部屋を持つている。「清九郎」がいくら宿根木一番といっても、くらべものにならない。いったいどこに理由があるのだろうか。