松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県横手市増田・・・・・美しい人

2014年07月31日 10時53分58秒 | 日記
JR「こまち」は秋田に入った。横手市役所から送ってもらった資料にもう一度目を通す。増田独特の内蔵や化粧した建物外観が美しい。じっと見ていると「え、増田はこんなにきれいになったんですか」と隣席の50代くらいの女性が驚いた声をあげた。

結婚して今は千葉に住んでいるらしいその女性は、増田の外れに一人住まいの母親が心配になってひさしぶりに帰省したのだという。増田が景観整備をして昔の町並みを取り戻しつつあることを知らなかったようだ。説明してあげると「うれしいです」と笑った。

佐藤又六家に着いたのは約束の11時をすぎていた。「マタロク カメラ」との看板がかかっていたから、昔は写真館だったのだろう。佐藤さんは70代の笑顔をたやさない物腰のやわらかい人だ。奥様もまた笑顔のきれいなきびきびした人だ。若いころはさぞかしきれいな人だったろうと内心おもった。

「よい日本の家とは何か」をさがして、これまで日本の各地を歩いてきた。家をみることが目的なのだが、やはり人もみる。もちろん好みというものはあくまでも個人的なものにすぎない。そのことは重々承知の上でいえば、日本の美人の宝庫は青森の津軽から秋田にかけてではないだろうか。数年前に弘前を中心に何度か歩いたとき、何度もふりかえった。なによりもある美しい人をみて心がざわついた。



「秋田美人」。私が「秋田美人」のイメージをつくったのは木村伊兵衛の撮った一枚のポスターによってだった。右すこし前を向いた若い女性がいる。農作業用の着物をきちっと着て、菅笠のあごひもはきりりと締めている。凛とした意志のつよさを感じさせる美しい姿だ。モデルになった柴田洋子さんは増田近くの大曲角間川に住んでいて、木村伊兵衛の眼にとまった。撮影した昭和28年の当時、柴田さんはまだ高校生だった。プロのモデルになるようすすめられたが固辞し、結婚して渡米、77歳で亡くなったという。いまこの一文を書くにあたって、柴田さんのことを調べてみて、え、そんなに昔の写真だったのかと驚いている。私はずっと以前から秋田女性をみるとき、心のすみのどこかで木村伊兵衛の撮った柴田さんと比較してきたからだ。それほどあの写真は色あせていない。いや美は永遠の力を持つというだろうか。

佐藤又六夫妻の話を聞きながら、そんなことを考えていた。


横手市増田の内蔵

2014年07月21日 09時30分54秒 | 日記
秋田に用事があるので、ついでに横手市増田に足を延ばそうかと思っている。増田は「内蔵」が現存しており、昨年重要伝統的建造物群に指定された。秋田では角館につづいて二つ目である。

横手市の重伝建担当者のかたに名前と立場を名乗って、聞いた。内蔵が必要とされるほどの大量のカネが増田に落ちたのはなぜか、それは海陸川三つの道によって説明できないか、古い家や町並みが今日までのこったのはなぜか、建築史的特徴は何か、という点に私の関心はあるので、その旨お話しした。ついては増田のどなたかにお話を聞きたいと。


横手市HPより

それならば佐藤又六さんがよいと思いますとのことだった。佐藤又六家は主屋が明治前期に宮大工によってつくられた。切り妻の妻入り、3階建てである。主屋は吹き抜けになっており、太い梁や桁が井桁に組まれた小屋組み構造になっているという。それだけ聞いただけでも見たくなってしまう。

自分ですこし調べてさらにおどろいた。佐藤家は増田銀行の創立者の一人であった。増田銀行はその後合併を繰り返して現在は北都銀行になっている。今回の用事というのも北都銀行の関係者に会うことだったので、奇縁だなと感じた。

横手市は増田の重伝建指定をテコにして観光客の誘致をもくろんでいるようだ。しかし観光客は物珍しいうちはどっと押しかけるが、話題性がなくなればさっと引いていく。滞在時間もだいたい2時間前後そこそこでカネを落とさず、さっと温泉街に向かっていく。増田のひとたちはいま盛り上がっているようすなので、どうかリピーターが来るまちづくり、地元でカネが循環するシステムをつくりあげて欲しいと思う。さて今回はどんな出会いがあって、どんな話になるのだろうか。

「親方」の響き

2014年07月06日 09時23分22秒 | 日記
「7代目のつくった家を8代目がリフォームし、そして今度はおれがリフォームしたんです。一人の職人として思うんですが、二人ともいい仕事です。柱も建具もまったく狂いがありません」。9代目はそう語った。



秩父市のA工務店は寛政2年(1790年)創業というから、じつに220年以上にわたって大工を営んできた。数代前までは社寺建築を手がけたが、いまは住宅のみ。身内7名をふくめ十数名の体制でこなしている。9代目は大手ハウスメーカーでの設計部勤務をへて家業にもどった。



「図面は外注しません。私と親方で描きます」。父の8代目を「親方」と呼ぶ。いい響きだ。尊敬がこもっている。

「うちはプレカットも使いますが、手刻みをやります。弟も一緒にやっているし、おじさんたちも一緒にやっているんで、技術が継承できるんでしょうね」。なるほど、家業というのは仕事に対する責任感、技術の継承などの点でレベルを高く保つことができる。近代的な大所帯の会社組織には欠落しがちな点である。



施工例の写真を見せてもらった。8代目がいう。
「この家の梁はね、一本の丸太から取ったんですよ。自然の曲りを利用しています」。
ああ、これだ、奥能登の時国家、輪島市黒島の角海家、加賀市橋立の久保家、佐渡宿根木の清九郎家、飛騨高山の吉島家、古く美しい家は例外なく反り返った太い梁を使っていた。 
こうした伝統技術は建売やプレハブ会社には、ない。

9代目が横から言った。
「親方はボルトを使わないんです。ボルトはぐっと締まるんですけれども、ポキンと折れるんです。でも釘は曲がるだけで折れない。だから釘を使うんです」。

帰りの車中でしきりに思ったのは、こうした工務店こそ地域にのこってほしい、ということだった。

画像はA社HPより

鮎の道・・・・・嵯峨鳥居本

2014年07月03日 08時11分29秒 | 日記

京都の嵯峨鳥居本。山あいの集落だ。しかしここは「漁業」に従事する者もあったと記されている。これが不思議でならなかった。そこで自宅に戻ってしばらく後に、鳥居本町並み保存館の松本さんに電話できいてみた。



「保津川の活き鮎をいったんここでおろして、水を換えてから洛中に運んだのではないですか」と松本さん。やわらかな京都弁が心地よい。400年つづく庄屋の家らしい。

鮎は食べますかと聞いた。「ええ、今のことですから、スーパーで買うてきます、滋賀(近江とは言わなかった)の鮎です、活きたままいうわけにはいきまへんが」。なるほど今でも鮎を愛でる文化は京都に根強いようだ。

唐突ながら、天皇が即位するときに用いる「万歳幟」には、五尾の魚と瓶が刺繍されている。この魚は鮎である。神武東征のさい戦勝を占うに用いたのが鮎だったという日本書紀の記述にもとづいているといわれる。

だからというわけではないだろうが、鮎をとる長良川の鵜匠は皇室からだいじにされ、今でも宮内省の公務員としての位置づけをされている。


岐阜市HPより

16世紀の山科善経の記録をみると、食卓にのぼった淡水魚は「鮎(干鮎、鮎白干)」とあり、中世において鮎が塩焼きや加工品として普通に食されていたことを証言している(吉田元『日本の食と酒』)。

脱線するが、徒然草にはおもしろい箇所がある。

「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんこそあれ。鮭の白乾、何条事かあらん。鮎の白乾しは参るらぬかは」(182)

鮎を天日干しにしたものを帝はめしあがるのだから、鮭を白乾しにして何が悪いのか、と供御役は憤っているわけだ。たしかにと言いたいが、それはともかくこの時代、干鮎は宮中メニューの定番だったとみることができるだろう。

京都の食文化は鮎を重視してきた。自然、鮎の消費量は多かった。

鮎を京に運ぶ道はいくつもあった。岐阜長良川からの道、京北からの道、保津川からの道、近江からの道、吉野からの道。遠距離輸送は鮎を弱らせるため、白干や熟れ鮓に加工して運んだようだ。


平宗本店HPより

鮮度の高いのはやはり保津川鮎だろう。水量も豊かで数もとれる。その鮎は桶に入れられて人の手でだいじに運ばれたと思われる。鳥居本まではおよそ30分というところだろう。ここで鮎は酸素を十分に吸ってからふたたび木桶に入れられ、広沢池を横にみながら洛中に入ったのだろう。

鳥居本の「漁業」とは、こうして「鮎の中継地」だということに落ち着いた。

ああ、鮎が食べたくなった。わが祖先は京都には縁がなかったはずだが、どこかに鮎を求めるDNAがあるのかもしれない。寄居の名亭「鮎の宿・京亭」の鮎飯。おもえばよだれがでる。

Are you AYU?


埼玉県HPより


観光の無情

2014年07月02日 18時27分40秒 | 日記

観光協会HPより

福島県大内宿、岐阜県馬籠宿、岐阜県白川郷。伝統的な建物を観光資源にした町づくりをし、内外から多くの観光客を呼びこんでいる。私が訪ねたときも、団体客や家族連れ、若いカップル、外国人などが多く歩いていた。


観光協会HPより


白川郷夜間照明実行委員会HPより

大内宿を歩いていたとき、「こんにちは」という大きな声に驚いた。地元の中学生だった。大内宿は戦後しだいに人口が減り存続さえ危ぶまれたが、いまや観光産業だけで地域経済が成り立ち、子どもを育てることが可能になったのだ。率直にうれしい。

しかし、と思う。観光客が求めているのは地域の歴史や民俗を知ることではない。「レトロ」なテーマパークなのだ。いかに飽きさせず、いかに楽しませてくれるかがだいじなのだ。たとえていえば、ディズニーランドのサービスレベルにより近いと思えばリピーターになるが、ほど遠いと感じれば二度とくることはない。

古い町並みの代表格は重要伝統的建造物群だろう。百カ所をこえている。しかし、何割かは観光地としては生き残れまい。たとえば能登黒島。ここは北前船の寄港地であり、曹洞宗の総本山・総持寺の表玄関だった。角海家の造りや調度品、書画などをみると、黒島がかつて栄えたことがわかる。じつくりと歩けば、さまざまなことを思わせる。私は好きだ。しかし、ここには土産物屋も蕎麦屋もカフェもない。能登にきた観光客がついでにおとずれ、数十分で黙って去っていく通過点にすぎない。多くの人は二度とこないだろう。

地方の古い家屋や町並みをのこすのはだいじだ。しかし行政が予算をつけるだけでは、地域の再生にはつながらない。地域の住民が普通に生活する姿が観光資源になり、落ちたカネが地域に循環してみんなの暮らしが豊かになる仕組みを考えないと、町並みだけがのこってゴーストタウンになってしまう。私は加賀市の山間部で、赤瓦が美しく煙出しが懐かしいけれども無人となった東谷集落を訪れ、そうした思いを強くしたものだった。