松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

北海道支笏湖の「アキヒメ温玉ライス」

2014年09月29日 21時39分54秒 | 日記

明治35年、和井内貞行のもとに届けられたヒメマス(カパチェッポ)の卵は北海道支笏湖産。青森港に着いたあとは陸路をたどって碇ヶ関経由で十和田湖に運ばれた。明治38年に移殖が成功し、和井内貞行は郷土の偉人になる。

ところでヒメマスはいったいどんな魚なのか。正直いえば、見たこともたべたこともない。どんな味なのか、いちど口にしてみたい。そんな思いをもっていたら、先日のNIKKEIプラス1に「アキヒメ温玉ライス」なる料理が載っていた。山のかたちをしたご飯がうすいピンク色で美しい。

支笏湖産のヒメマス料理だという。生まれた水に帰ってきたヒメマスは採卵すると役目が終わり「ホッチャレ」として捨てられていた。しかし何としても惜しい。そこで地元飲食店では捨てられるヒメマスを使って特色ある料理ができないか試行錯誤をくりかえした。行きついたのは、ヒメマスをフレークにすることだった。フレークをご飯とまぜてふんわりした山をつくりそこに空洞をつくり、そっと温玉をしのびこませる。食べたことはないのだが、スプーンで桜色の山をくずすと温玉とからみあって絶妙の味になるらしい。

アキヒメというのは「秋のヒメマス」のこと。ヒメマスは陸封型の紅マスで、支笏湖では「カパチャッポ」省略して「チップ」と呼ばれてきたが、和井内貞行が十和田湖に移植したさいに「ヒメマス」と呼称してからはそのほうがブランド力をもってしまい、今では本家本元に逆移殖されたのだ。魚の呼称ひとつにも人間のドラマが反映している。


支笏湖温泉旅館組合HPより


青森市「ゆうぎり」の酒談

2014年09月25日 08時00分16秒 | 日記
青森駅に近い「ゆうぎり」でT先生と歓談した。魚がうまいし、田酒もうまい。酒がしだいにまわり、冗舌になるのは自然のなりゆきだ。「弘前はよかった」という言葉からはじめた。

なぜですか、とT先生。発見があった、とこたえる。


弘前城 弘前市HPより

おもったとおり、秩父宮は津軽では伝説になっている。寺山修司の父・八郎は選ばれて宮の警護官をつとめていたが、その足取りがすこしつかめた。それに対馬勝雄・末松太平の面影。佐藤正三も興味深かった。町なみもみごたえがあるし、なによりも女性が美しい。

そうらしいですよ、津軽の女性は美人だといいます。T先生はまずそこに食いついた。そこで私はひとくさり。だが美女論はしょせん机上の空論。すぐに話題がつきた。

その前月、ガンダムの安彦良和さんと縁あって、ある離島で二日間一緒だった。話を聞くと、安彦さんは弘前大学で学生運動にのめりこみ、脱落した。その悔いが、作品群を貫く主題になっているという。それはともかく彼が学生だったとき、弘前にはそうした暴れる学生をみながらおそらく複雑なおもいを抱く人がいた。名を佐藤正三(1914ー1968)という。

佐藤はすこし年長の西田税、渋川善助、末松太平らの2.26事件関係者と深く関わっていた。事件後は禁錮1月6月、執行猶予4年の刑に処せられたのち、戦争、応召そして敗戦をくぐり、戦後は弘前市の行政に勤めた。文章も残している。

安彦が弘前大学に入学したのは1966年4月のこと。まもなく運動にはいり、1968年に「ベトナムの平和を守る会」を結成する。そのとき佐藤は弘前市教育次長の立場にあって、「教育」という観点から大学の学生運動をじっとみつめていたとおもわれる。かつて2.26事件関係者と深くまじわり「東北を救え」という主張に胸を熱くした佐藤のことである。すぐ近くの弘大ではげしく政治運動をくりひろげる学生(安彦もそのなかにいた)を観て、何も考えないわけがない。昭和維新と全共闘との同質性や異質性についてどう考えたのだろうか。

T先生はガンダム世代だ。うむうむとうなずきながら、静かに聞いてくれる。この人のいいところだ。

ここは「ゆうぎり」。話しているうちに肴が出ている。ホタテの焼き物。陸奥湾では養殖がさかんだ。今日水揚げされたものが今ここに並んでいる。大きい。しこしこしたヒモの部分が好きである。また田酒を飲む。



もしも、と話をついだ。佐藤は60年安保についてはコメントしているが、全共闘についてはまとまったものを書いていない。もしも書いていれば、近代日本思想の可能性が浮かびあがったかもしれない。

そうですね、とT先生。

しかし佐藤にはそうした時間が残されていなかった。すでに末期のガンであり、その年1968年の12月には亡くなってしまった。残念だった。いっぽう安彦は1970年に運動から離脱して弘前をあとにする。もちろん二人が交叉した可能性はない。

そういうと、T先生は黙って田酒をぐいとあおった。私も飲み干した。隣の酔客は地元の公務員だろうか、にぎやかな津軽弁が耳に響いた。


西田酒造店HPより

青森市「ゆうぎり」で田酒を飲む

2014年09月23日 08時18分30秒 | 日記
3年前の10月、青森県弘前市をたずねた。弘前駅から図書館まで歩いた。名棟梁・堀江佐吉のつくった建物があちらこちらにのこっており、感動が連続する。美しい町だ。

秩父宮様に関する資料をみせてほしいと図書館にはあらかじめお願いしてあった。用意されていた資料には付箋が貼られ、便宜がはかられていた。これには感激した。古い資料を読んでいると、昭和10年から11年師走までの1年数ヶ月、宮様がここでどのように過ごし何を観たのか、弘前の人びとがどのように接していたのか伝わってきて、胸が熱くなった。いずれ弘前の秩父宮様や町なみについてはふれることもあるだろう。

長い時間資料を読み、図書館をあとにした。弘前駅から青森駅にむかう。ホテルでシャワーを浴びたあとに、青森市の大学で教えるT先生が迎えにきた。うまい店に行こうといわれたので、二つ返事でこたえた。駅近くの路地に「ゆうぎり」(017-722-3972)はあった。知らなければ、入らない店構えだ。

座敷の奥に座った。まずビールで乾杯。お、でてきた。アンコウのとも和え。ううむ、茨城で食ったどぶ汁みたいだ。アンコウは小魚、イカ、タコ、ナマコ何でものみ込んでしまう深海のブラックボックスだ。味が深い。つづいてウニ、舌の上にのせると、じわーっと甘みがしみてくる。うまいものは甘いのだ。アワビ。ああ、このコリコリ感、たまらん。出雲大社のご神体は巨大なアワビだとラフカディオ・ハーンが書いていた。日本人は昔からこのアワビを珍重がり、憧れていた。そのDNAは山育ちの私にも脈々と継がれている。T先生も黙々とたべている。いつの間にか、ビールは日本酒にかわる。「田酒」だという。いまや青森市の造り酒屋は1社になつてしまつたらしいが、気を吐いている。ああ、うまいものを気兼ねなく飲み食べられることのなんと幸せなことか。アンコウのように出てきたものを胃にのみ込んでひとまず落ち着いたところで、T先生と話しはじめた。
画像はYahoo!ロコより転載

偉人のかげに・・・和井内カツ子のこと

2014年09月21日 22時58分30秒 | 日記
和井内カツ子刀自命

わいないかつことじのみこと、そう読む。命すなわち神である。十和田湖畔に鎮座する和井内神社の祭神である。この神が祀られたのは1907年(明治40年)、逝去のすぐあとのことだった。地元の人びとの懇願によって、すでに仏になっていたカツ子の御霊は神にもなった。

和井内貞行は十和田湖でヒメマスの増養殖に成功し、死後は正七位に叙せられた鹿角の偉人である。貞行が神に祀られるのは理解できる。

いっぽうカツ子は貞行より15年ほど早くに没している。カツ子は特段の功績があったわけではなく、叙位叙勲とも縁がなかった。いわば光輝あふれる貞行のかげにいた人である。それにもかかわらず、人びとはカツ子に光をあて、あえてそのための神社(勝漁神社、のち和井内神社と改称)をつくり、その御霊を祀った。なぜだったのだろうか。

いまは予断にすぎないが、貞行の美談とされていることが、じつはカツ子の意志によってなされていたのではないか。そしてそのことを、人びとは知っていたのではないか。そう考えるのは、佐藤勝蔵という一本の補助線を引いてみるからである。

高瀬博『秘録・和井内貞行』を読んで、カツ子が地域共同体との関わりのなかで、リアリティをもって登場する場面は二度ある。最初は、鯉泥棒を捕まえて許さないと怒る貞行に許してやるよう説得し、泥棒には情理をつくして諭した場面。一部始終をみていた勝蔵はすっかり感銘し、その後だれに対しても「和井内のおかみさんにはかなわない」と話し歩いた。もうひとつは、ヒメマスの養殖に成功した明治38年、カツ子が凶作に苦しむ村びとを気の毒がって、魚をわけてやるよう貞行に進めた場面。このとき勝蔵がどのように関わったか明らかではないが、すでに和井内家に深く出入りしていた勝蔵が和井内家内部の実情を知らないわけはない。「みんな、和井内のおかみさんには足を向けては寝られないぞ」くらいはふれまわったろう。

こうしてみると、地域共同体との関わりに心をくだき、和井内家の方向を主導していたのは、貞行ではなく、カツ子のほうだった。そうした事実を、人びとはよく知っていたのだ。勝蔵の口を通じて。

だから、カツ子が亡くなると、神として祀りたいと村びとが口々に懇願したのは自然なことだった。カツ子は貞行のかげにあった人ではなく、カツ子こそが自分たちを抱きとめてくれた人であると人びとは信じていたのである。

いまの私はそんな予断を持つている。正しいかどうか明らかにするために、もう一度鹿角に行きたい。



吉原、浅草を歩く・・・駒形どぜう

2014年09月17日 20時00分34秒 | 日記

吉原遊郭が廃止されたのは昭和33年。もちろん私は悪所通いをした経験はない。しかし時代劇や小説をみると、そこは独特な空間であったようにおもわれる。京都や金沢などに面影をのこす茶屋建築と通じる様式があったとみられる。現在の吉原を撮った写真をみると、いまでもわずかながら当時の建築がのこっているようだ。先日、大阪でのセミナーをおえたのち飛田新地を案内されて「ジャパニーズ飾り窓」におどろいたものだから、もしかしたら吉原にも昔日の雰囲気くらいはあるのではないかと思ってもいる。

事実はどうなのか。百聞は一見にしかず。そこで歩いてみた。浅草駅に降りて、いちおう浅草寺へ。ここは秩父と縁がふかい。江戸時代、大奥の女性は秩父札所巡りをするかわりにここ浅草寺にもうでた。秩父札所34か所の代参場として公認だったのだ。ただ、それがどんな理由にもとづいていたのかわからない。境内を歩いていたら秩父・三峰神社の末社があった。そうか、浅草寺も三峰神社(むかしは神仏混交)も天台宗で、三峰神社は関東の総本社だったのだ。そういう補助線を一本ひくと、浅草寺と秩父との関わりがわかるのかもしれない。

それはともかく千束方面に歩いた。「吉原大門」とある。往時このまわりは堀がめぐらしてあったはずだが、面影はまったくない。すこしゆくとソープ街だ。すごい数だ。値段もシステムもまちまち。午前10時だというのに軒並み営業しているのには、おどろいた。

いやそれはともかく、この一角には昔の面影はのこっていないのか。じっくりみたが、ない。店舗はビルであり、色やかたちはそろっていない。町なみを形成していない。正直、これにはがっかりだった。やむなく浅草寺方面にもどる。ちようど昼飯どき。おもいついて「駒形どぜう」の暖簾をくぐる。意外に閑散としている。

どぜう鍋を注文。ついでにビールも。さらに骨せんべいも。歩いたから、ビールがうまい。骨せんべいのパリパリ感がまたこたえられない。お、鍋が出てきた。これを最初に食ったのは新入社員のときだった。実習先の支店長が、ご馳走してくれたのだった。がんばって社長をめざせと支店長ははげましてくれたが、私は辞めていまは零細企業のオヤジである。結局、支店長の投資はムダになってしまったことになる。悪いことをした。

うう、うまい。どじようとゴボウは絶妙なとりあわせだ。ネギは深谷ネギか、手切りか機械切りか、気になるが、まあともかく目の前のどじょうを食う。はふはふ、ああビールがうまい。秋の味だ。


ところで、ここの建物はいい。一階は長い板を真ん中にはさんでゴザにすわるようになっている。隣とは近くて、しかもそこそこ離れている。窓を開け放って外気をとりこんでいる。昭和の築らしいが、周辺のビルに負けずに堂々胸をはっている。

左隣に若いカップルがすわった。話がはずんで笑顔がまぶしい。いいなあ、これからの夢がある。ふたりを横目でみながら、刻みねぎをたっぷりとのせてどぜうを口に押し込んだ。