青森駅に近い「ゆうぎり」でT先生と歓談した。魚がうまいし、田酒もうまい。酒がしだいにまわり、冗舌になるのは自然のなりゆきだ。「弘前はよかった」という言葉からはじめた。
なぜですか、とT先生。発見があった、とこたえる。
弘前城 弘前市HPより
おもったとおり、秩父宮は津軽では伝説になっている。寺山修司の父・八郎は選ばれて宮の警護官をつとめていたが、その足取りがすこしつかめた。それに対馬勝雄・末松太平の面影。佐藤正三も興味深かった。町なみもみごたえがあるし、なによりも女性が美しい。
そうらしいですよ、津軽の女性は美人だといいます。T先生はまずそこに食いついた。そこで私はひとくさり。だが美女論はしょせん机上の空論。すぐに話題がつきた。
その前月、ガンダムの安彦良和さんと縁あって、ある離島で二日間一緒だった。話を聞くと、安彦さんは弘前大学で学生運動にのめりこみ、脱落した。その悔いが、作品群を貫く主題になっているという。それはともかく彼が学生だったとき、弘前にはそうした暴れる学生をみながらおそらく複雑なおもいを抱く人がいた。名を佐藤正三(1914ー1968)という。
佐藤はすこし年長の西田税、渋川善助、末松太平らの2.26事件関係者と深く関わっていた。事件後は禁錮1月6月、執行猶予4年の刑に処せられたのち、戦争、応召そして敗戦をくぐり、戦後は弘前市の行政に勤めた。文章も残している。
安彦が弘前大学に入学したのは1966年4月のこと。まもなく運動にはいり、1968年に「ベトナムの平和を守る会」を結成する。そのとき佐藤は弘前市教育次長の立場にあって、「教育」という観点から大学の学生運動をじっとみつめていたとおもわれる。かつて2.26事件関係者と深くまじわり「東北を救え」という主張に胸を熱くした佐藤のことである。すぐ近くの弘大ではげしく政治運動をくりひろげる学生(安彦もそのなかにいた)を観て、何も考えないわけがない。昭和維新と全共闘との同質性や異質性についてどう考えたのだろうか。
T先生はガンダム世代だ。うむうむとうなずきながら、静かに聞いてくれる。この人のいいところだ。
ここは「ゆうぎり」。話しているうちに肴が出ている。ホタテの焼き物。陸奥湾では養殖がさかんだ。今日水揚げされたものが今ここに並んでいる。大きい。しこしこしたヒモの部分が好きである。また田酒を飲む。
もしも、と話をついだ。佐藤は60年安保についてはコメントしているが、全共闘についてはまとまったものを書いていない。もしも書いていれば、近代日本思想の可能性が浮かびあがったかもしれない。
そうですね、とT先生。
しかし佐藤にはそうした時間が残されていなかった。すでに末期のガンであり、その年1968年の12月には亡くなってしまった。残念だった。いっぽう安彦は1970年に運動から離脱して弘前をあとにする。もちろん二人が交叉した可能性はない。
そういうと、T先生は黙って田酒をぐいとあおった。私も飲み干した。隣の酔客は地元の公務員だろうか、にぎやかな津軽弁が耳に響いた。
西田酒造店HPより
なぜですか、とT先生。発見があった、とこたえる。
弘前城 弘前市HPより
おもったとおり、秩父宮は津軽では伝説になっている。寺山修司の父・八郎は選ばれて宮の警護官をつとめていたが、その足取りがすこしつかめた。それに対馬勝雄・末松太平の面影。佐藤正三も興味深かった。町なみもみごたえがあるし、なによりも女性が美しい。
そうらしいですよ、津軽の女性は美人だといいます。T先生はまずそこに食いついた。そこで私はひとくさり。だが美女論はしょせん机上の空論。すぐに話題がつきた。
その前月、ガンダムの安彦良和さんと縁あって、ある離島で二日間一緒だった。話を聞くと、安彦さんは弘前大学で学生運動にのめりこみ、脱落した。その悔いが、作品群を貫く主題になっているという。それはともかく彼が学生だったとき、弘前にはそうした暴れる学生をみながらおそらく複雑なおもいを抱く人がいた。名を佐藤正三(1914ー1968)という。
佐藤はすこし年長の西田税、渋川善助、末松太平らの2.26事件関係者と深く関わっていた。事件後は禁錮1月6月、執行猶予4年の刑に処せられたのち、戦争、応召そして敗戦をくぐり、戦後は弘前市の行政に勤めた。文章も残している。
安彦が弘前大学に入学したのは1966年4月のこと。まもなく運動にはいり、1968年に「ベトナムの平和を守る会」を結成する。そのとき佐藤は弘前市教育次長の立場にあって、「教育」という観点から大学の学生運動をじっとみつめていたとおもわれる。かつて2.26事件関係者と深くまじわり「東北を救え」という主張に胸を熱くした佐藤のことである。すぐ近くの弘大ではげしく政治運動をくりひろげる学生(安彦もそのなかにいた)を観て、何も考えないわけがない。昭和維新と全共闘との同質性や異質性についてどう考えたのだろうか。
T先生はガンダム世代だ。うむうむとうなずきながら、静かに聞いてくれる。この人のいいところだ。
ここは「ゆうぎり」。話しているうちに肴が出ている。ホタテの焼き物。陸奥湾では養殖がさかんだ。今日水揚げされたものが今ここに並んでいる。大きい。しこしこしたヒモの部分が好きである。また田酒を飲む。
もしも、と話をついだ。佐藤は60年安保についてはコメントしているが、全共闘についてはまとまったものを書いていない。もしも書いていれば、近代日本思想の可能性が浮かびあがったかもしれない。
そうですね、とT先生。
しかし佐藤にはそうした時間が残されていなかった。すでに末期のガンであり、その年1968年の12月には亡くなってしまった。残念だった。いっぽう安彦は1970年に運動から離脱して弘前をあとにする。もちろん二人が交叉した可能性はない。
そういうと、T先生は黙って田酒をぐいとあおった。私も飲み干した。隣の酔客は地元の公務員だろうか、にぎやかな津軽弁が耳に響いた。
西田酒造店HPより