松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県小坂町・・・・・小坂鉱山事務所と久原房之助

2014年08月30日 16時38分15秒 | 日記



小坂鉱山事務所は道の先に忽然とあらわれた。意匠と大きさ。ルネサンス風のすばらしい建築だ。壁面には三角形の窓飾り、屋根には飾り窓が三つ。正面中央にはサラセン風バルコニー。まるでレースのような繊細な透かし彫りだ。らせん階段はケヤキ造りで、アクセントになっている。天然秋田杉造りの3階建て。おもわずうなった。いまこれだけのものをつくるならば百億円をくだらないだろう。建築された明治38年当時の藤田組の財力と心意気を感じる。



画像はすべて小坂町HPより転載

 
じつは明治20年代から30年代当初にかけて、藤田組にはとても建築に投資するような余裕はなかった。それどころか事業所閉鎖の危機にあった。土鉱が枯渇したのだ。当時の鉱山経営の責任者・久原房之助の任務は「敗戦処理」だったのだが、独断で無視した。かれは復興させようともくろんだ。目をつけたのはさまざまな鉱物が混じり合った「黒鉱」から純銅をとりだすことだった。黒鉱ならば豊富に埋蔵されているし、銅は戦争特需も望めたからだった。

そのために技術者をスカウトしたり開発チームをつくったりした。

黒鉱には純銅が3%ふくまれている。そこで開発チームは3%すべてをとりだそうとしたが、製造コストが合わず、事態は進まなかった。業をにやした久原は「1%でもいいではないか」と一喝したという。その結果「黒鉱自溶製錬法」が開発され、明治35年からは本格操業をはじめた。この技術革新により小坂鉱山は銀山から銅山へ生まれ変わった。その後、事業は順調に栄え、ルネッサンス風の鉱山事務所も新築された。大正時代になると小坂は人口2万数千人、秋田第二の都市になった。
 
久原は経営資源を集中的につぎこみ、大胆な決断をした一流の経営者である。だが私が久原に関心をおぼえたのはすこしちがった側面である。

久原は在任中におもしろいことをやっている。発送電をおこない、電気機関車を敷設し、上水道を完備した。事務所、厚生施設としての病院・康楽館の構想も久原のものだったといえよう。かれは後年「黒幕」といわれあまり評判がよろしくないが、小坂時代には違った顔がのぞいている。かれの頭には何か独特の社会観があったかのようである。

秋田県鹿角市毛馬内・・・・・内藤湖南と和井内貞行

2014年08月25日 10時29分28秒 | 日記
秋田県鹿角市毛馬内の先人顕彰館をおとずれた。展示の中心は内藤湖南と和井内貞行である。

湖南は狩野亨吉に招かれて京都帝大文科大学(京都大)に奉職、東洋史学の基礎をつくった大知識人である。わたしなども学術文庫の『日本文化史研究』を読んでどきりとした記憶がある。いっぽう和井内については、十和田湖でヒメマス養殖に成功した人として小学校のときに伝記を読んだことがある。このふたりを同列に扱っていることに、正直、違和感をおぼえた。湖南のほうが上だろうと内心おもったのだ。



ところが館長のていねいな説明を聴きながら、いや待てよと思いはじめた。たしかに湖南は東京や京都では著名かもしれない。しかし湖南はみずから望んだわけではなかったが、故郷を出てしまった人である。その業績が中央ではどんなに高く評価されても、毛馬内の人々にいったい何をもたらしたのだろうか。

和井内は毛馬内に生まれ育った。鉱山勤務のときに「十和田湖に魚がいれば海から遠い毛馬内でもみんなが新鮮な魚を食える」と考え、そこから養殖業に乗りだしたといわれる。迷信にもとづく中傷、回帰しない魚、せっかく増えたら密漁。苦難の連続であったが、和井内は屈しなかった。貧窮のどん底にあってカバチェッポ(ヒメマス)に賭けた。放流後3年目の秋に、待ちにまったヒメマスの群れが「水しぶきをあげて」帰ってきたときの光景はいま聞いても感動的である。

和井内は毛馬内を離れることがなかった。その65年の生涯をみてふしぎなのは、困窮のさなかにあっても凶作のときには地元の人々に漁を開放していることだ。どう考えるべきか。これは和井内の事業が私欲から生まれたものではなく、毛馬内の人々の生活をよくするという「公」の精神にもとづいていたことを明らかに物語っている。やはり和井内貞行は「偉人」だったのである。


いずれも鹿角市HPより転載

平成22年12月の秋田県議会で、佐竹敬久知事は西湖でクニマスが発見されたという報道にふれてこう述べた。

「私自身ヒメマスの和井内貞行の血を引く者であります」

どこか誇らしげでさえあった。

群馬県高崎市・・・・・ブルーノ・タウト、井上房一郎そして田中角栄

2014年08月22日 09時13分52秒 | 日記
日本建築史を考えるとき、ブルーノ・タウトの名前ははずせない。タウトが桂離宮や伊勢神宮などの伝統建築を高く評価してくれたから、わたしたちは日本の建築に誇りが持てるのだ。

さて、タウトが祖国を追われて、朝鮮から日本海を渡り、敦賀に到着したのは1933年(昭和8年)5月3日のことだった。翌日、タウトは陸路をたどって京都に桂離宮をたずねた。雷に打たれたような心境になったらしく「泣きたくなるほど美しい」と日記に書いた。くしくもこの日はかれの53歳の誕生日だった。


wikipediaより転載

ちょうどこの日、まだ日陰には深い雪の残る新潟県で、満15歳の誕生日をむかえた吃音で人一倍汗かきの少年がいた。かれはのちに戦後の日本を建設する。


少林山達磨寺HPより転載

タウトは群馬県高崎市の井上房一郎の庇護をえて、高崎市のはずれにある少林山達磨寺に住むようになった。6畳4.5畳の狭い離れであったが、高台からの眺めはすばらしく付近を散策するにもうってつけである。タウトはこの土地が気に入って、1934年(昭和9年)から日本を去る1936年(昭和11年)秋までのつごう2年3か月間をここ「洗心亭」に住んだ。離日するにあたっては「私の骨は少林山に埋めてほしい」とさえいいのこしている。

ところで、タウトが達磨寺に住みはじめるすこし前から、寺の西側丘陵には「白衣観音」をつくる計画が持ち上がっていた。中心人物は房一郎の父、井上工業社長だった。



設計は翌1934年東京池袋の建築事務所に依頼された。まもなく模型が完成したと、井上工業東京支店に連絡があった。そこで、この春に入社したばかりの若い社員が指示を受けて、自転車で池袋に向かい、汗をかきながら大事に持ち帰った。よほど印象深かったのだろう、「忘れられない思い出」とかれは後にふりかえっている。田中角栄だった。


Wikipediaより転載

角栄は数年で井上工業を辞め、起業、その後は猛烈なスピードで総理への階段を駆け上がっていく。その足跡をふりかえってみると、ある意味で「戦後日本の建設」だった。

さて、家業を継いだ房一郎はずっと角栄を支持し、角栄もよく応え、ために井上工業は年商500億を超える業績をあげたこともあった。地方ゼネコンとしては驚くべき数字だった。

井上房一郎は若い頃は文学・芸術や音楽に傾倒し、戦後には高崎文化の花を咲かせた。高崎文化の偉大なパトロンといってよい。バブルがはじけた1993年、その偉大なパトロンは94歳で亡くなった。すでに病に倒れていた田中角栄もその半年後に亡くなった。

私は一度だけ房一郎をそばで見たことがある。すでに晩年のときだった。高崎市の哲学堂で松本健一さんがセミナー講師に呼ばれたときだ。主催者として房一郎が挨拶に立った。上品な人だった。若い頃は随分盛んだったのではないかと思えるほど色の残り香がした。運転手つきの外車に乗って、帰っていった。

建築家タウトの日本滞在中の足跡を調べていたら、思いがけず、タウトと角栄が高崎の房一郎を軸にしてつながっているのに気がついた。

手も足も出ない、のではない。人と人とは手を結ぶ。少林山で買った真っ赤なダルマを手にしながらつくづくそう思う。

猛暑の閑話休題

2014年08月20日 20時12分30秒 | 日記
昨夜、F先輩と懇談。かれは曹洞宗古刹の住職で、若い頃には米国に派遣され十年間布教活動した。今は境内で句会やコンサートを行っている。味わいのある人だ。

米国人は「哲学」の一つとして仏教に関心を示したという。たしかに仏教は文献にはことかかない。読むにたえる。ふと思う。私がお世話になり影響を受けたS宮司は京大教授もつとめた神道界の理論家として知られ、国際神道を提唱している。神道には経典というようなものはないのに、米国人に受け入れてもらえるのか。疑問を住職に問う。「記紀があるじゃない」と住職。「あれは経典とよべますか」、「まあアニミズムはそもそも緩やかなものだがね」と住職。しだいに禅問答のようになっておひらきになった。

このところ仕事の煩悩が多い。今日は思いきって気分転換に自転車を走らせることにした。往復40km、いつものコース。暑い、噴き出る汗が眼に入って痛いが、爽快だ。ところが復路、突然バースト。まだ家までは十数キロあるが、2、3時間歩けば着くだろう。それもまたよしと受け容れた。


JAうごHPより

ところが、だ。自転車を押しながら1時間ほど歩いたところで、信じられないことにシューズの底が剥がれた。片足は裸足で歩いてみたが、何しろ路面は焼けた鉄板のようだ。とても歩けない。すでに暑さで頭もクラクラしている。みると、近くに鎮守の杜があった。とりあえず境内に避難した。ありがたいことに神社というのはかならず木陰と水がある。うまく造られている。神仏分離以前の神社の姿はよくわからないが、大筋では変わっていないだろう。江戸時代に行き来した旅人も夏の暑い盛りにはすこし歩いてはこうした神社の森で一息ついたにちがいない。ベンチに横になり杉木立の合間から空を見あげると不思議に帽子をかぶつた着物姿の老人の姿が浮かんだ。宗教的体験ではない。秋田のことを考えつづけていたからだろう。秋田に死んだ菅江真澄のようだった。しだいに身体の熱が冷めてなんだかうとうとする。すると手足が猛烈にかゆい。蚊の大群だ。神は血を忌み嫌うのだが、蚊はおかまいなしに吸い続ける。不届き千万だ。しかしあわてて逃げようにも裸足である。冬季の蚊のごとく動きがとれない。おもわず天を仰いだ。

タクシーを呼ぼうとしたが、なにしろカネを持つていない。おまけに、短いスパッツに裸足。いかにも怪しい。そこで、困ったときの神頼みならぬ友人にSOSしたところまもなく車で迎えにきてくれて、事なきを得た。他力本願である。

身体は地獄の灼熱に焼かれてひりひりと痛む。どうも私は信心が足りないのかもしれない。

秋田県大館市・・・・・狩野亨吉の思想

2014年08月17日 11時00分02秒 | 日記
車がすこし坂をのぼると、正面はお屋敷であった。「門構えも立派ですね、ここはもと武家屋敷街ですか」と聞くと、「久保田藩の支藩があった」と山田福男さんはこたえた。なるほど、住所は「大館市三の丸」だ。

「あ、そこだ、そこに停めて」と山田隊長。塀に「狩野亨吉」の名前の入ったレリーフ。庭にはバラが咲き乱れている。ここで、亨吉は慶応元年(1865)代々佐竹藩士で漢学者をつとめる狩野家に生まれた。しかし明治元年に大館は南部藩に攻めこまれ、幼い亨吉は家族ともども大館から追われた。その後、父良知の出仕にともなって明治9年に上京、府一中、予備門(一高)、帝大という近代日本の学歴エリートの道をまっすぐに歩いていく
明治25年に帝大院を卒業すると同時に四高教授となり、五高教授をへて明治31年には一高に移り校長を明治39年までつとめ、同年京都帝大文科大学の初代学長に就任した。学長となった狩野はじしんの「鑑定眼」のみを信じて、「正規な」学歴のない内藤湖南と幸田露伴を教員にまねいた。そのため周囲との軋轢が生じたという。



しかし、狩野のまっすぐな歩みはここまでだった。望みさえすれば地位も名声もカネも手に入る前途がひらけていたのに、すべてを放り投げてわずか1年ほどで市井に隠棲してしまう。あっけにとられるとともに、じつに痛快でもある。

狩野はずばぬけた蔵書家であり読書家でもあったが、文章はおどろくほどすくない。ましてや私を語る文章などはのこしていない。したがって、狩野が隠棲した理由は推測するしかない。

狩野が当時無名の安藤昌益の主著を入手したのは明治32年ごろだったというから、一高の校長時代にあたる。最初は昌益を「狂人」とおもったらしい。しかし考察をつづけ「狂者ならざるを信ず」となった。そこで昌益を世にだそうとしたようだが「当時の社会的状況を考慮して公表をためらって」いるうちに大正12年の関東大震災で資料の大半が焼失してしまった。その経緯は「安藤昌益」(昭和3年公表)のなかで述べている。そのまま信じれば、狩野は一高の校長時代からずっと秘密裡に昌益の思想を考えつづけていたわけである。

言葉によって自身を変えていこうとする特性をもつ人は少数ながらいつの時代にもいる。書物と真剣にむきあいながら知らずに著者と対話をくりかえしているうちに、そうした人は相手と同化していく場合がある。狩野もそうだったのではないか。

畑を直接耕す生産者を、昌益はみずからの思索の原点にすえ、何も生産しない者を批判した。徳川家康にさえも批判の槍を収めなかった。激越なのである。その槍は為政者ばかりではなく、知識人にも突きつけられた。文章を書くことは「自然」を誤る最初の一歩だと考えたからだ。この考えを読み解いて、近代日本の学歴エリート道のど真ん中を走ってきた狩野は大きな衝撃を受けただろう。自己否定になるからだ。しかし狩野は昌益を肯定し高く評価した。ここが狩野亨吉の立派なところである。そう考えてみると、狩野が生産に関わらない地位や名声を惜しげもなく放りだして研究に没頭したのは、もしかしたらあとを追う覚悟があったからではないだろうか。

それでは狩野独自の思想はどうなるのかという疑問がわくかもしれない。しかし、かれはじしんの「鑑定眼」のみを信じて「忘れられた」昌益を表に出すことによって、自身をみごとに表現したのである。昭和初期という思想検閲が厳しくなりつつあったときに、自然世を賞賛する一見アナーキーな昌益を世に問うことは、相当な覚悟を必要としただろう。それが狩野独自の思想ではなかったろうか。


狩野の役回りは「鑑定眼」によって安藤昌益を発掘し、内藤湖南や寺田露伴を拾い上げることにあったといえるかもしれない。狩野はその役をよくつとめた。

近代日本の学歴エリートは狩野だけではない。ある意味、たくさんいる。しかし何もかも捨てて、姿まで消そうとつとめながら、後世の人がそれを許さず、その名をなつかしく記憶にとどめようとしたのは狩野亨吉くらいではないだろうか。

思いだした。昨年T先生と八戸市の昌益資料館に行ったときのこと。昌益の顔はノツペラボーだった。昌益もまた狩野と同じように顔をのこそうとしなかつたのだ。