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小坂鉱山事務所は道の先に忽然とあらわれた。意匠と大きさ。ルネサンス風のすばらしい建築だ。壁面には三角形の窓飾り、屋根には飾り窓が三つ。正面中央にはサラセン風バルコニー。まるでレースのような繊細な透かし彫りだ。らせん階段はケヤキ造りで、アクセントになっている。天然秋田杉造りの3階建て。おもわずうなった。いまこれだけのものをつくるならば百億円をくだらないだろう。建築された明治38年当時の藤田組の財力と心意気を感じる。
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画像はすべて小坂町HPより転載
じつは明治20年代から30年代当初にかけて、藤田組にはとても建築に投資するような余裕はなかった。それどころか事業所閉鎖の危機にあった。土鉱が枯渇したのだ。当時の鉱山経営の責任者・久原房之助の任務は「敗戦処理」だったのだが、独断で無視した。かれは復興させようともくろんだ。目をつけたのはさまざまな鉱物が混じり合った「黒鉱」から純銅をとりだすことだった。黒鉱ならば豊富に埋蔵されているし、銅は戦争特需も望めたからだった。
そのために技術者をスカウトしたり開発チームをつくったりした。
黒鉱には純銅が3%ふくまれている。そこで開発チームは3%すべてをとりだそうとしたが、製造コストが合わず、事態は進まなかった。業をにやした久原は「1%でもいいではないか」と一喝したという。その結果「黒鉱自溶製錬法」が開発され、明治35年からは本格操業をはじめた。この技術革新により小坂鉱山は銀山から銅山へ生まれ変わった。その後、事業は順調に栄え、ルネッサンス風の鉱山事務所も新築された。大正時代になると小坂は人口2万数千人、秋田第二の都市になった。
久原は経営資源を集中的につぎこみ、大胆な決断をした一流の経営者である。だが私が久原に関心をおぼえたのはすこしちがった側面である。
久原は在任中におもしろいことをやっている。発送電をおこない、電気機関車を敷設し、上水道を完備した。事務所、厚生施設としての病院・康楽館の構想も久原のものだったといえよう。かれは後年「黒幕」といわれあまり評判がよろしくないが、小坂時代には違った顔がのぞいている。かれの頭には何か独特の社会観があったかのようである。