松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

鳥の世界

2015年04月17日 09時50分14秒 | 日記

サギの仲間だろうか、白っぽい大きな鳥が二羽、生家裏の林に巣作りをしている。見上げていると、青空をゆっくりと旋回しながら別の鳥が舞い降りて近くの木にとまった。何をしているのだろうかと観ると、枯れ枝を加えたり巣のほうへ羽ばたいたりしている。どうやら求愛行動のようだ。つがいのオスらしき鳥はクエックエッと警戒音を発している。しかし件の鳥は意に介せず求愛行動をやめない。

ううむと唸ってしまった。巣作りをしているということはすでに夫婦になったということだろう。それをまさに白昼堂々横取りするというのはどうもなあ


バイオマス発電・・・投資案件か地域再生か

2015年02月21日 10時16分15秒 | 日記

バイオマス発電のベンチャー企業と打ち合わせした。まず数字から入る。出力500kwのプラントをつくるのに約6億円かかる。売電価格は現在32円(kwh)。年間の売電収入が約1億1000万円。

ここまでの考え方は太陽光発電と変わらない。ただ大きく違うのは太陽光発電は燃焼装置や回転装置などを持たない静止プラントだということだ。バイオマス発電は、燃料の木材チップを投入し燃焼を管理し焼却廃材を搬出するという一連の作業が必要になる。人手がいるのだ。24時間運転ならば5人ほどのスタッフが必要だ。1人の年収300万円とすると給与が約1700万円程度発生する。

燃料チップもただではない。おおよそ1tあたり7000円ほど。年間6000tほど必要だから購入費は4200万円。メンテナンス費用が約1800万円。7年に1度はエンジン交換するがこの費用が約6000万円。

要するに運転コストが発生する。このコストを売電収入から差し引くと、約4,000万円が事業者の手元にのこるわけだ。単純な利回りでみれば6.6%だからアパート並みだろうか。投資案件としてみれば、まあまあというところだろう。ただし発電だけで見ればそうしたシミュレーションになるが、もしも排熱回収すれば格段に採算性は高くなる。発電効率は25%だが、熱電併給にすれば最大効率は75%に上昇するからだ。もっとも土地の購入コストなどを考えれば、魅力はその分減る。

こんなやりとりをしながら、はっとした。バイオマス発電はあらたな雇用を生むのだ。さらに日本の森林を守ることにもつながる。こうした点をどう考えるかだろう。

税金を投入しないで、プラントが稼働でき、雇用を生み、森林が維持できるのならば、バイオマス発電事業は私欲のための「投資案件」としてもだが、それよりも公共性の観点から「地域再生」として位置づけてもいいのではないだろうか。


富山から信州へ・・・鰤街道

2015年02月19日 10時07分00秒 | 日記

信州諏訪の妻の実家では年越しのさいブリをだしてくれた。なぜブリ?

富山湾でとれたブリは飛騨高山に牛で送られ、つぎに人の背に載せ替えられて野麦峠を越えた。そして平地の松本経由で諏訪盆地に向かい、食卓に乗ったのだった。長い旅だった。

信州人にとってブリは海からではなく雪をいだいた高い山から来るものと意識されていたのではないだろうか。今日の輸送網からはとても想像しにくい。しかしたかだか百年前のことである。

氷見観光協会HPより


富山市岩瀬・・・生きている集落

2015年02月09日 15時58分28秒 | 日記

富山市岩瀬地区は人口が減っているものの、15歳以下の子どもがいる。小中学校がある。商店、居酒屋、造り酒屋、病院、書店もある。空き家もすくない。街角では中年の主婦が立ち止まって長いおしゃべりを楽しんでいる。まちはまだ生きている。これがうれしかった。

むかし北前船で栄えた集落は、近代化の流れからとりのこされて、老人ばかりになってしまったところも少なくない。それなのに岩瀬が生きているのはなぜなのだろうか。

森家住宅は明治11年に建てられ昭和25年に大原総一郎に譲渡されている。その年、倉敷レーヨン(現クラレ)富山工場が東岩瀬に建設されたおり、岩瀬をたずねた大原社長が森家住宅を気に入ってしまったからである。大原は住宅を宿舎として「晏山寮」となづけた。当時は日本全体が戦後の好況に乗るときだった。工場も活況を帯び、多くの工場労働者があつまった。整備された富山港には外航内航の商船がひんぱんに出入りした。

富山湾は陸から沖にむかうとストンと深海に落ちる。だから深海を好むホタルイカが生息しているわけだ。喫水線の深い大型船には、こうした深い港が必要だ。岩瀬地区は自然条件にめぐまれていた。いっぽう能登黒島、加賀橋立、佐渡宿根木、新潟出雲崎いずれも遠浅の湊であったから、近代とともに登場した大型洋船が立ち寄ることはできず衰退した。

今日、海路をとおって富山港に出入りする内外航の商船は年間約900隻。そうした海の道が、北陸自動車道(陸の道)や鉄道(鉄の道)とリンクして利便性を高めている。その結果、富山市の海岸線には大小さまざまな工場がならぶ。船による出入は、完成自動車・金属くずなどを輸出し、原油や石油製品を輸入する。また原油・水を移出し、石油製品・原油を移入している。かつて廻船問屋街だった岩瀬地区の裏手ではこうした商船がまぢかに見られ、大型トラックが行きかっている。

海辺のまちが栄えるのは、後背地にしっかりとした製造業があり、大型船が出入りできる深い港をもつことである。そうした条件を岩瀬地区(富山港)は持ち合わせている。大原総一郎が森家住宅を買い取ったのも、工場に近かったからである。山奥深くや産業のない孤島ならばとてもその気にはならなかったろう。岩瀬はめぐまれていたから、多くの古い家屋が今も使われているのだ。今日の日本の家屋をそのようにしていくためには、はていったいどうしていけばよいのだろうか。


富山市岩瀬・・・・・北前船の時代にもどる

2015年02月06日 10時41分31秒 | 日記

富山市岩瀬は江戸時代後期から明治のころまで北前船の寄港地だった。北海道のニシンや昆布などを満載した船が南下し、京都や大阪・瀬戸内の特産品を積んだ船が北上する途中に、ここ岩瀬に立ち寄った。物資の補給や地元の荷物の積み込みなどは廻船問屋が請け負った。

また岩瀬は加賀藩の領地であり、米や木材を江戸や大坂に積みだす港でもあった。船が到着するたびに歓声があがり、料飲食・風俗・旅館などはにぎわった。しかし一攫千金をねらう者はそうした船員相手の商売ではなく、北前船のオーナーになろうとした。リスクはあるが、当たれば莫大な利益がとれたからだ。1航海が無事に終わると現在の価値で数億円の利益が船主のふところに入ったともいわれる。廻船問屋みずからが船主になることもあった。

岩瀬の中心には旧北国街道がとおっており、その港側には、廻船問屋が軒をつらねた。間口は7間程度だが、奥が深い。ずっと奥は船着き場につながっていた。一番の長者は馬場家、次が森家だったらしい。どちらも北前船のオーナーでもあった。

森家住宅に入った。見上げると小屋組みが美しい。飛騨高山の吉島家住宅には劣るが、能登・黒島や佐渡・宿根木などの北前船主の住宅よりは立派である。森家の特徴は小豆島から運んだ御影石を土間に敷き詰めていることと、桜の浮かび上がるような模様をいかした天井、それに柱のないガラス戸だ。遊び心が効いている。

森家の裏に向かうと土蔵があった。扉には見事な鏝絵が描いてある。職人の心意気だ。通り抜けると海に接している。もちろん今では北前船は見られないが、かわりに重油を運んできたタンカーがゆっくりと弧を描きながら接岸するところだった。数百トンの重油を積んで、喫水線ぎりぎりの状態だ。

海岸に沿ってすこし歩くと、渋い暖簾がかかっていた。「野村商店」とある。「棒鱈煮つけ」の文字に心が躍った。のれんをくぐると、ニシンの昆布巻きもある。北前船が運んだ北海道のニシンや棒タラ、昆布などを加工し食べた百年二百年前にもどったようだ。歴史感覚とはこのようなものかと頭がくらくらした。