高田宏『日本海繁盛記』を読んで、すぐに加賀市橋立に行った。案内は、NPOで活躍している瀬戸達さんに頼んだ。
橋立は元々は半農半漁の貧しい集落だった。しかし17世紀に西廻り航路が開かれて、橋立にも大きな船が寄港するようになると、しだいに住民も刺激を受けて、なかには船主になる者もあらわれたようだ。18世紀半ばのことだ。
酒谷長平宅は明治9年(1876)の築で、いまは資料館になっている。敷地千坪、建坪二百と広い。なかに入ると、30畳の大広間はじめ部屋数17。土蔵と物置が8棟。真宗地帯は一般的に仏間にカネをかけるが、酒谷家はとくに立派だ。さらに、材料や調度品は高価なものを各地から取り寄せている。
これほど贅を尽くした酒谷家でさえ、橋立では「中の上」だったと聞いて、驚いた。
10haほどに100戸ほどが暮らした橋立。北前船が約200年間にこの小さな集落におとしたカネは「2000万両」(高田宏)だという。さらにおどろいた。
橋立をみて以来、これが北前船主の集落の基準になった。
さて、佐渡に戻ろう。
橋立は元々は半農半漁の貧しい集落だった。しかし17世紀に西廻り航路が開かれて、橋立にも大きな船が寄港するようになると、しだいに住民も刺激を受けて、なかには船主になる者もあらわれたようだ。18世紀半ばのことだ。
酒谷長平宅は明治9年(1876)の築で、いまは資料館になっている。敷地千坪、建坪二百と広い。なかに入ると、30畳の大広間はじめ部屋数17。土蔵と物置が8棟。真宗地帯は一般的に仏間にカネをかけるが、酒谷家はとくに立派だ。さらに、材料や調度品は高価なものを各地から取り寄せている。
これほど贅を尽くした酒谷家でさえ、橋立では「中の上」だったと聞いて、驚いた。
10haほどに100戸ほどが暮らした橋立。北前船が約200年間にこの小さな集落におとしたカネは「2000万両」(高田宏)だという。さらにおどろいた。
橋立をみて以来、これが北前船主の集落の基準になった。
さて、佐渡に戻ろう。