松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

莫大な富をもたらした北前船  加賀橋立

2014年04月09日 22時12分49秒 | 日記
高田宏『日本海繁盛記』を読んで、すぐに加賀市橋立に行った。案内は、NPOで活躍している瀬戸達さんに頼んだ。

橋立は元々は半農半漁の貧しい集落だった。しかし17世紀に西廻り航路が開かれて、橋立にも大きな船が寄港するようになると、しだいに住民も刺激を受けて、なかには船主になる者もあらわれたようだ。18世紀半ばのことだ。



酒谷長平宅は明治9年(1876)の築で、いまは資料館になっている。敷地千坪、建坪二百と広い。なかに入ると、30畳の大広間はじめ部屋数17。土蔵と物置が8棟。真宗地帯は一般的に仏間にカネをかけるが、酒谷家はとくに立派だ。さらに、材料や調度品は高価なものを各地から取り寄せている。



これほど贅を尽くした酒谷家でさえ、橋立では「中の上」だったと聞いて、驚いた。

10haほどに100戸ほどが暮らした橋立。北前船が約200年間にこの小さな集落におとしたカネは「2000万両」(高田宏)だという。さらにおどろいた。

橋立をみて以来、これが北前船主の集落の基準になった。

さて、佐渡に戻ろう。

北前船のイメージ原型 高田宏『日本海繁盛記』

2014年04月09日 08時14分24秒 | 日記
千葉県・佐原を歩いて気づいたのは「舟運」だった。私の関心が次に向かったのは、近世から近代にかけて舟運の花形になった北前船だった。

いくつか本にあたった。もっともわかりやすかったのが高田宏『日本海繁盛記』(岩波新書、1992年)だ。高田は石川県加賀市大聖寺に生まれた。かつて西廻り船の寄港地として繁栄した町だ。自然、子どもの頃から北前船のことを聞きながら育った。出版、分筆業に進み、大聖寺を離れた高田ではあったが、故郷への想いは絶ちがたかったようだ。『日本海繁盛記』と題しているものの、高田の眼差しはあくまでも大聖寺にやさしく注がれている。好感がもて、北前船や西廻り航路についてのイメージの原型はこれによってつくられた。