松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

無に帰すな

2014年03月30日 06時59分14秒 | 日記
家をつくるとき、こんなキッチンにしよう、あんなデザインにしようとみんな希望に燃えている。
自身や家族の「いま」をどう生きるかしか考えていない。

住宅金融を通じてそうした姿をながめながら考えるようになった。

一人っ子同士の夫婦が住宅を持つケースはすこしずつ増えている。
こうした夫婦はいずれ30年ほど経つと、合計3戸を持つことになるだろう。
双方の親の住宅を相続することになるからだ。
想い出もあるから、はじめは別荘代わりにして、せっせと行き来する。
しかし維持には手間もカネもかかる。
しだいに持て余して、貸したりもするが、最後は売るケースが多い。
売ると、ほとんどの場合は更地になる。
2棟の家屋が取り壊されて無に帰るわけだ。

同じことは繰り返される。
自分たちの作った住宅はいつか子どもに相続され、おそらく持て余されて、やがて無に帰っていく。

現状では、それでいいと諦めるしかない。

しかし、もったいない。
いまにのこっている古い町並みは、客を呼び込む観光資源になっている。
古い家屋に住む者は蕎麦屋・土産物屋として食っていくこともできる。
もちろんテナントにもできる。
資産価値があるのだ。

そうしたことが念頭にある。
あらたな家とまちづくり、中古住宅の流通などの課題が、
私の目の前に押し寄せている。
どうすべきか。


飛騨高山 大野さんのこと

2014年03月28日 08時11分41秒 | 日記


二度目の飛騨高山往きにあたり、観光案内人に依頼した。木造建築に詳しい人、という条件をつけて。

約束の場所でお会いしたのは大野さん。70代だろうか、朗らかな人柄だった。三町や下ニ之町の古い町並みを中心に丁寧な説明を聞いた。一緒に歩きながら、よもやま話になる。大野さんはずっと漆器の下地職人だったという。

全国各地の伝統的建造物群を歩くと、いたるところで漆器産業にであう。江戸時代に諸藩が奨励したからだろう。ここ高山も例外ではなく、木目を生かした春慶塗を競争力ある地場産業に育て上げた。高山の町家や民家には漆が細やかに使われていて、はっとすることがあるが、それは漆の技術が地域に普及していたことを物語っている。

しばらく漆談義を続けるうちに「高山まちの博物館」に着いた。「高山はむかし城下町でして」と大野さんはいう。博物館の北側は一段高くなっているが、そこには武家屋敷群があった。しかし維新後に取り壊されたという。

「ではその後はどうなったんですか」と目の前の住宅街を観ながらたずねると、「はあ、人がまた住み着いたわけですが、あの人たちは武士の子孫ではありません」と大野さん。その口ぶりには、地元にずっと住み続ける者だけが持つ微細な感情があった。

高山は古い町並みを観光資源にしたまちづくりに取り組み、成功した。欧米、台湾、東南アジアなどからも多くの観光客を呼びこんでいる。しかし古い町並みがただあるだけでは、浮気な客心を引き続けていことはむずかしい。そんな私の内心を見透かしたかのように、大野さんが言った。

「あと30年後には高いビルも電柱もなくすことに(条例で)決まっています。これからつくる家はこれからの人の身長や生活に合わせた規格のものにしなければいけません。家々の連なりはデコボコになってはダメで、面を合わせます。そうすればここ高山の町並みは新しい伝統になっていくでしょう。」

思わず隣の顔をみると、「もっともそのときは私は生きておりませんがの。そうなって欲しもんです」。そういいながら、高く笑った。

これ以上の言葉はなかった。


飛騨高山  根づくみやこの建築文化 

2014年03月26日 23時34分11秒 | 日記
飛騨高山をたずねた。江戸期以降は城下町として、また飛騨地域の商業の中心としても栄えた。狭い通りをはさむ両側の町家は軒が低い。切妻屋根の平入りだ。2階の桁が1階のよりも前にぐっと出ているのは、2階屋根の雪をそのまま下まで落とすためだろう。おもしろいのは用水の位置だ。落雪がそのまま入るような仕組みになっている。まるでカラクリだ。桁先を白く塗るのは、高山郊外の集落や隣の飛騨市古川町にも見られ、飛騨地方の特徴になっている。洗練された意匠、手の込んだ町家が色やかたちをそろえて密集しているのは、さすがだ。



意外かもしれないが、飛騨は奥深い山間地にありながら最新の建築文化に接していた。たとえば奈良時代の757年に制定された養老令には「人頭税を免除するかわりに里ごとに10名の匠丁を都にさしだせ」とあり、はやくもこの時代に飛騨は都の建築文化の担い手であったことが知れる。かれら匠は宮殿の造営や修理を受け持ち、その技量は朝廷に保証されるものだった。

飛騨の工は絵師・百済川成との芸術対決において、まずカラクリ建築によって川成を当惑させたけれども、つぎは逆に川成の描いた生々しい死体の襖絵に仰天させられたという愉快話が、「今昔物語」にのっている。これなどは、芸術の一分野たる建築界において、飛騨匠はトップの座にあったことを物語っており、まことに興味深い。

飛騨高山の巧妙なからくりや洗練された意匠の町家は、そうした永年のすぐれた建築文化の伝統のもとにつくられたといってよい。

ミサワ 千代治の家

2014年03月24日 22時26分41秒 | 日記
大手ハウスメーカーの商品はよくまとめられているのに、個性や挑戦がない。

そう思っていたら、ある商品にであった。ミサワホームが1978年に発表したG2型だ。越屋根を乗せた切妻屋根、深い軒、合掌造りを思わせる傾斜、真壁白漆喰のような外観だ。


驚いた。日本の棟梁の伝統がここに生きているのだ。企画型工業商品でもできるじゃないか。三沢千代治はやるな、そう思った。

そこで三沢さんに手紙を書いた。すぐにご本人から連絡があり、お目にかかれた。大手ハウスメーカーのなかで、個人の体臭を感じる「作品」を世に問うたのはミサワホームだけですというと、三沢さんはニッコリ笑った。そして「君、時間はあるか」と尋ねてきた。はいと答えたら、車に乗れということになった。

それから数時間、三沢さんは都内の美しい家や町並みを案内してくれた。なぜこの通りは美しいのか、なぜ生垣は美しいのかと解説までついた。いちいち腑に落ちる話だった。

三沢さんは残念ながらミサワホームを逐われたが、いままだ「日本の美しい家」を追い求めている。新たなブランド「HABITA」にはかつてのG型のDNAが受け継がれているのだ。

ちなみに三沢さんの故郷十日町市の新旧とりまぜた建築は私がいまもっとも注目しているものだ。三沢さんとKARL BERGSさんとが「日本の家」について対談をしてくれたら、どんな話が聴けるのだろうか。


卯建を競う・・・・・岐阜県美濃市

2014年03月23日 18時25分50秒 | 日記
岐阜県美濃の市街地を歩きはじめてすぐに気づいたのは「卯建(うだつ)」だった。切妻屋根の妻側の壁を屋根より高くして、その上に小さな瓦屋根をかけてある。隣家からの類焼を防ぐためのものだといわれる。



卯建じたいは古い町屋などにはしばしば見られるもので、とりたてて珍しいものではない。しかしここのは規模と意匠において他にまさっている。空にむかって優雅な弧をえがく「むくり」のものもあれば、卯建の先に化粧瓦をつけたものもある。化粧瓦は鬼瓦・破風瓦その下に懸魚瓦という三段構造になっている。カネと手間をかけている。美濃の商家は競ったにちがいない。実用をこえて見栄を張りあっている。部屋の造作や中庭にもふんだんにカネをつかっている。町並みがじつに見応えある。



「このカネはどこからきたのか」ふと思った。

美濃にカネを落としたのは「紙」だった。すでに奈良時代には作りはじめており、地域には生産・流通ノウハウが豊かに蓄積されていた。江戸時代になって生活レベルが全体的にあがると、消費地も用途も増えた。「みのがみ」はとくに障子紙に使われ全国的な代名詞になった。各地の生産地間のはげしい競争に勝ち抜いて、美濃は富をたくわえた。資料によればそう読める。


美濃和紙ブランド協同組合の「武井工房」より転載


だがどこかおかしい。私はやはり1300年の伝統をもつ有名な和紙産地の職人の生活をすこし知っているが、みな貧しい家に住んでいた。家族経営の紙漉きにまではカネは分配されなかったのだ。

美濃の紙つくりの特徴は原料のコウゾやミツマタを供給する後背地を持たなかったことにある。そこで活躍したのが原料を仕入れて零細農民や職人に卸す紙問屋だった。さらに紙問屋はできあがった紙を農民や職人から買い取って流通網にのせた。資金力をもった問屋は弱い立場の農民・職人を相手に優位な商いを二度できた。



くわえて美濃の紙商人は中山道はじめ陸運にめぐまれ、豊かな水量をほこる長良川舟運にも恵まれて、運送コストをおさえることができた。自然、莫大な富を手に入れたのだった。



いま私の目に映っている「卯建」の家の多くは元紙問屋のようだ。たしかに美しい町並みだ。意匠はじめ学ぶべき点は多い。しかし、あるべき庶民の住宅をさがしている私にとっては受け入れられないこともまた多かった。