松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

船大工の余技 佐渡宿根木(1)

2014年04月20日 07時45分10秒 | 日記
小木民俗博物館で北前船をみて上機嫌になったまま、車に乗った。すぐに下り坂になる。「お、いよいよだな」。右手下に黒っぽい屋根がいくつもかたまっている。「ここが宿根木だ」。

車からおりて眺めると、グローブのなかにあるボールのような集落だ。グローブじたいが小さい。1haほどの狭い地域に110棟ほどの家が肩を寄せ合っている。よくみると、屋根は板葺きで石が重しになっている。昔の姿に復原されたのだ。

駐車場に停めて歩く。いきなり目の前に、細い竹でできた垣。強い潮風を防ぐ「風垣」だ。結界のようであり、おそるおそるくぐった。

道は狭い。家と家との間にはすきまがないほど建て込んでいる。シンプルな総二階だ。外観に個性がないとの批判もあるが、実態は違う。同じものはひとつもない。それに屋内は個性を競っている。

石畳の小路をひとりで歩いていると時間感覚がなくなってしまう。この不思議な感覚はどこかで抱いたことがある。あれはどこだつたろうか。そうだ、島根半島の美保だった。美保神社から仏国寺までの200mほどの径には、各地から船で運ばれた緑色の凝灰岩が敷きつめられており、濡れると幻想的に青くなる。この「青石畳通り」が整備されたのは江戸後期。ちょうど北前船の隆盛期だった。宿根木をたった北前船は途中いくつかの港に立ち寄り、美保港に着いたものもたくさんあったろう。心を寄せる女に佐渡土産を渡す水主の姿もみられたかもしれない。海路は物も人も心もつないだ。



さて、いまは宿根木だ。めざすのは「清九郎家」。清九郎は廻船二隻を所有し、宿根木一番の船主だった。建物は切妻総二階、妻入り。築は安政5年(1858)。梁も柱も太い。ただ、梁は加工されて、ほぼ直前になっている。柱は角が落としてある。すごいのは塗だ。随所が柿渋塗や漆塗だ。建物の外観は簡素質朴だから屋内にカネをかけるやりかたが一層きわだつ。

しかし、加賀橋立の酒谷家や久保家とくらべると、こぶりだ。橋立では「中の上」といわれた酒谷家住宅(1878年築)でさえ、30畳の大広間、二つの仏壇をおさめる仏間をはじめ17の部屋を持つている。「清九郎」がいくら宿根木一番といっても、くらべものにならない。いったいどこに理由があるのだろうか。




訃報届く・・・・・ S先生のこと

2014年04月16日 07時09分22秒 | 日記
学生時代に担任だったS先生が亡くなった。

あることで進むべき道がわからなくなり、もう大学をやめようと思ったことがある。S先生に相談すると、黙って聞き続けてくれた。

「よく言われることだが、法律は道具にすぎないよ」

妙に説得力があり、退学は何とか踏みとどまった。

研究室の先輩には検察官が多かったが、公安畑の先輩からはよく冷やかされた。
「おまえのその眼つきは、俺が相手にしている連中と同じだぞ」。
たしかに内心には鋭くとがったものを抱え込んでいた。
価値自体ではない法律よりも、危険と可能性に満ちた近代日本思想に傾斜していったのは必然だったと思う。

卒業後もS先生とはときどきお会いすることがあり、手紙もしばしばいただいた。そのつど考えていたことを話したり書いたりした。竹内好に触れたこともあった。先生からの手紙の最後はいつもきまって「ご自愛なさい」と結んであった。

何年か前、先生の最終講義があった。そのとき、私はふたつのことを知った。ひとつ、先生は最初法律をめざして文一に進んだが、思うところあって、文学部を卒業したことだ。もうひとつ、在外研究のときにカバンに忍ばせていったのが武田泰淳だったことだ。S先生は泰淳の「滅亡について」に好意をもって言い及び、ナチスやドイツロマン主義に批判的に関心をもっていたことを述べたのだった。



そうした最終講義を聴きながら、二十年以上にわたる交流のなかでS先生がずっと伝えようとしてくれたことは何だったのか、あらためて思わずにはいられなかった。


君は絶望的な現実にぶつかり、しかしそれを妖しい手段で克服しようとして、浪漫派やロマン主義的な人に接近していった。弱者の常としてそれはやむを得ない。ただ、健康だろうか。現実をあるがままに受け入れよ。そして自身の生をだいじにしながら、考えよ。どんなに弱々しく見える言葉でも、それこそが健康だ。君が竹内好のことにふれたとき、僕は泰淳との関係からすこし安堵してみることができた。むかし君が僕のところに駆け込んできたときに「法律はあくまでも道具にすぎないのであって、生きる目的そのものでは、まったくない」と話したことを覚えているか。あれは、恥ずかしながら、わが体験でもあった。わかってくれたかい。

S先生が私に伝えようとしたのは、おそらくそうしたことだった。

いい先生だった。つぎは私がだれかの先生になることだ。それをもって供養としたい。

北前船にであう 佐渡国「小木民俗博物館」

2014年04月13日 17時42分39秒 | 日記
美しい町並みは小木にはなかった。いささか気落ちして、車で数分の宿根木に向かった。

高台に開かれた田畑を両脇にみながら走ると、右側に大きな建物がある。「小木民俗博物館」。ここに展示されている北前船にあいたかったのだ。

ずんぐりした大きな船だ。「白山丸」という。帆柱は折りたたんであったが、太く長い一本柱だ。船底には厚い床板が張ってあり、バランスをとるために瀬戸内産の御影石がおいてある。これが日本の各地に富と文化をもたらした北前船か、はじめて観た。

船は安政5年(1858)に宿根木で建造された「幸栄丸」の図面を忠実に再現したものだ。全長24m、最大幅7mの512石積、帆は何と155畳だという。この大きさでも、北前船としては中型だったというからおどろく。

木造建築に関心があるからかもしれないが、私がとっさに感じたのは日本の船大工だった。無名のかれらの遺した立派な仕事のことだった。

繁栄の跡  佐渡小木

2014年04月13日 09時52分33秒 | 日記
高台から下ると小木港に入った。思ったよりずっと大きい。大型船も出入りしている鉄とコンクリートの港だ。

もっとも私の関心はこうした場所ではなく、地域の人々が生活する場所にある。車を移動した。

小さな商店が軒をならべ、老人が買物袋をぶらさげている。車の窓をあけると、ぷんと潮のにおいが鼻をついた。長靴をはいた漁業関係者らしき人がせわしく歩く一方で、猫は悠然としている。日本の港町どこでも見られる光景だ。

しかし、ありふれた光景をみにきたわけではない。ここにどれほど多くの富が蓄積されたのか、建築をとおして感じ取りたいのだ。

小木は近世になってから二度にわたって産業構造を変えた。1601年から相川にて金の採掘が始まり、小木はその積出港と定められた。宿屋・飯屋・食品業者・馬方・鍛冶屋・船大工。小木の経済は潤った。ただ、出雲崎までの行き来はあくまでも御用船であり、経済効果は限定的だったと思われる。これが最初。

二度目は1672年の西廻航路の開通。北前船は一般的には沿岸近くをつたったが、風と潮に恵まれれば、東北の港から一気に日本海の沖に出て、佐渡を中継してから能登半島にたどりつく海路もあった。この意味は大きい。小木は佐渡の窓口として日本海経済圏、あるいは関西経済圏とつながったから、生活必需品や高付加価値商品を売買する商業・流通業がさかんになった。大きな富が落ちたはずだ。

しかし私が歩いたかぎり、加賀橋立でみた北前船主の豪壮な住居に匹敵するようなものはひとつもなかった。そればかりではない。日本海の向こう出雲崎にひろがる切妻屋根の美しい庶民の住宅もここにはない。年が経つにつれ劣化する町並みにすぎなかった。

莫大な富をもたらした北前船  加賀橋立

2014年04月09日 22時12分49秒 | 日記
高田宏『日本海繁盛記』を読んで、すぐに加賀市橋立に行った。案内は、NPOで活躍している瀬戸達さんに頼んだ。

橋立は元々は半農半漁の貧しい集落だった。しかし17世紀に西廻り航路が開かれて、橋立にも大きな船が寄港するようになると、しだいに住民も刺激を受けて、なかには船主になる者もあらわれたようだ。18世紀半ばのことだ。



酒谷長平宅は明治9年(1876)の築で、いまは資料館になっている。敷地千坪、建坪二百と広い。なかに入ると、30畳の大広間はじめ部屋数17。土蔵と物置が8棟。真宗地帯は一般的に仏間にカネをかけるが、酒谷家はとくに立派だ。さらに、材料や調度品は高価なものを各地から取り寄せている。



これほど贅を尽くした酒谷家でさえ、橋立では「中の上」だったと聞いて、驚いた。

10haほどに100戸ほどが暮らした橋立。北前船が約200年間にこの小さな集落におとしたカネは「2000万両」(高田宏)だという。さらにおどろいた。

橋立をみて以来、これが北前船主の集落の基準になった。

さて、佐渡に戻ろう。