松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

富山市岩瀬・・・生きている集落

2015年02月09日 15時58分28秒 | 日記

富山市岩瀬地区は人口が減っているものの、15歳以下の子どもがいる。小中学校がある。商店、居酒屋、造り酒屋、病院、書店もある。空き家もすくない。街角では中年の主婦が立ち止まって長いおしゃべりを楽しんでいる。まちはまだ生きている。これがうれしかった。

むかし北前船で栄えた集落は、近代化の流れからとりのこされて、老人ばかりになってしまったところも少なくない。それなのに岩瀬が生きているのはなぜなのだろうか。

森家住宅は明治11年に建てられ昭和25年に大原総一郎に譲渡されている。その年、倉敷レーヨン(現クラレ)富山工場が東岩瀬に建設されたおり、岩瀬をたずねた大原社長が森家住宅を気に入ってしまったからである。大原は住宅を宿舎として「晏山寮」となづけた。当時は日本全体が戦後の好況に乗るときだった。工場も活況を帯び、多くの工場労働者があつまった。整備された富山港には外航内航の商船がひんぱんに出入りした。

富山湾は陸から沖にむかうとストンと深海に落ちる。だから深海を好むホタルイカが生息しているわけだ。喫水線の深い大型船には、こうした深い港が必要だ。岩瀬地区は自然条件にめぐまれていた。いっぽう能登黒島、加賀橋立、佐渡宿根木、新潟出雲崎いずれも遠浅の湊であったから、近代とともに登場した大型洋船が立ち寄ることはできず衰退した。

今日、海路をとおって富山港に出入りする内外航の商船は年間約900隻。そうした海の道が、北陸自動車道(陸の道)や鉄道(鉄の道)とリンクして利便性を高めている。その結果、富山市の海岸線には大小さまざまな工場がならぶ。船による出入は、完成自動車・金属くずなどを輸出し、原油や石油製品を輸入する。また原油・水を移出し、石油製品・原油を移入している。かつて廻船問屋街だった岩瀬地区の裏手ではこうした商船がまぢかに見られ、大型トラックが行きかっている。

海辺のまちが栄えるのは、後背地にしっかりとした製造業があり、大型船が出入りできる深い港をもつことである。そうした条件を岩瀬地区(富山港)は持ち合わせている。大原総一郎が森家住宅を買い取ったのも、工場に近かったからである。山奥深くや産業のない孤島ならばとてもその気にはならなかったろう。岩瀬はめぐまれていたから、多くの古い家屋が今も使われているのだ。今日の日本の家屋をそのようにしていくためには、はていったいどうしていけばよいのだろうか。


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