松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

船大工の余技・・・・・佐渡宿根木(2)

2014年04月21日 21時25分26秒 | 日記
山育ちのせいか、船大工という仕事がどうもよくわからない。家屋をつくる大工とどこがちがうのか、想像するしかない。

命をまっさきに考えるかどうか。それが船大工と他の大工との違いのように思う。船が浸水や転覆したら、乗組員は助からない。だから船大工は材料をを慎重に吟味して、すこしでも危険だと思えば使わないだろう。家屋の場合は節や穴、曲がりなどもうまく使えば、飾りにすることもできるのと対照的だ。


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宿根木の船大工は、江戸末期に五人の棟梁、それに多くの弟子がいたと記録されている。わずか百メートル四方の狭い地域に、造船技術がぎゅっと詰まっていたわけだ。毎日の生産活動のなかで、船には向かない新古の材料が相当量、廃棄されたはずだ。

「捨てたり燃やしたりするのは、もったいない。家に使おう」、だれからともなくそう言い出したにちがいない。そこまではわかる。



しかし宿根木の家屋は、外壁の下見板が横にではなく縦にはってある。防水には不向きな張り方を採用した理由がわからない。ちなみに腰板は造船の残材だ。色彩はとぼしく簡素だ。舟釘を使っているのがめずらしい。影響力ある船大工の棟梁が遊び心で始めたのだろうか。

気づくのは、板の留めかただ。舟釘も使っているが、使わずに木片を組み合わせて留めているのも少なくない。こうした住宅構法ははじめてみた。あるいはこれが船大工特有の技術なのかもしれない。

ところで、宿根木に船大工が集まったのはなぜか。需要があったからだ。大きな弁財船を注文する船主が多くいたのだ。狭い集落のなかで、需要と供給が高いレベルで手を結んでいた。

船主は全国に大きな価格差があるのを利用して、たとえば北海道のニシンを安く買い叩いて北前船に積み、瀬戸内に運んで高く売りさばいた。一度の航海で得た利益は1億円とも2億円ともいわれる。全盛期の宿根木には「佐渡の富の三分の一が集まった」。

たしかに石橋、石畳、石塔、石鳥居の材料は美しく高価な瀬戸内産だ。船主住宅の大きく贅沢な木材も遠隔地から大きな海船で運ばれたものだ。



狭い入江には、白い石杭が7本立つている。安永5年(1776)に瀬戸内から運ばれた御影石で、ここに千石船をつないだ。「白坊主」と呼ばれてきた。この石杭をみたら、さすがに一世紀以上昔にタイムスリップする感じになった。宿根木を歩くと、多くのひとが同じ夢をみるのではないだろうか。



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