松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

ひとつひとつの家と町並み全体

2014年05月30日 09時03分13秒 | 日記
「お客様はわがまま。好き勝手に要求してもらっていい。我々の会社はそのとおりに家をつくるだけ」。
そう、某中堅ビルダーの社長は言った。

地元工務店は数区画の土地を分譲した。南欧風の住宅がある。隣はログハウスだ。もうひとつは和風だ。色もまちまちだ。「何で」と聞くと、お客様の要望だからと社長は答えた。

それで「よい家」ができるのだろうか。どこかで違和感をおぼえる。




ある政治思想史家は「私と公」の関係についてこう述べている。

「個人の尊厳」を唯一の理念にした欠陥は、そのことを重んずるあまり、私の価値、私の権利、私の利益というものを独走させてしまった・・・・・・・・「私がよければよい」という精神の問題がある・・・・・・・・「私」と一対であるべき「公」の位置づけがありません

そうだ、これではないか。

家は個人の所有だから、好き勝手に作ってもよいということはならない。無国籍の、のっぺらぼうの家ばかり並んでよいのだろうか。周囲の町並み全体との調和をはかりながら、つくらなければならない。


そして、周囲との調和をはかることは、個々の家をつぶすことにはならない。私が観てきた美しい伝統的住宅は、全体との修景を加えられていたが、まったく同じ家はなかった。かえって、ひとつひとつが強烈に自己主張していた。

円環・・・・・広島県福山市鞆の浦

2014年05月23日 08時58分40秒 | 日記
よい日本の家とは何か具体的に考えていこうとしたのは4年ほどまえのことだった。そのころ、出版社を経営する知人の忘年会で、半年ぶりにM先生にお会いした。先生は、世界遺産を選定する日本イコモス国内委員会主査という要職にある。酔ったいきおいもあって、先生にお聞きしたところ、「重要伝統的建造物群をみたらきっかけがつかめるかもしれないよ」と助言をいただいた。

それから全国にある重伝建地区中心に歩きはじめた。テキストはない。深い霧のなかをとぼとぼと、しかし志の灯りだけを頼りにあるがままをみた。半年ほどたったある日に転機があった。千葉県香取市佐原の町並みを歩いていたときだった。陸の道、海の道、川の道という三つの道が佐原の家を、町並みをつくったのではないかと思った。

その後も各地を歩き、いまは百か所を超えた。これらの住宅と町並みがいつ、なぜ成立し、なぜ古い住居を残してきたのか思うとき、三つの道のネットワークは重要であるし、わかりやすいのではないかと考えている。山奥の集落でさえ、川の流れは海に通じているから、かならず海の道とのネットワークを考えないといけない。

近世以降の海の道は千石船が行き交った。このことは何度かふれた。大きな帆を上げて海を滑る千石船はロマンティックであるが、しだいに細部にこだわるようになってきた。一度の航海でいくら儲けたのか、そのカネは寄港地にいくら落ちたのかというカネの問題、船大工はどこがメッカだったのかという技術の問題、北前船はどの航路をたどったのかなど、関心はきりがなくひろがる。



北前船は北海道などから日本海沿いに南下し、下関から瀬戸内海に入り、大坂などに着けた。日本地図を指でたどってみる。次の港への距離や地形などをみれば、日本海沿いの寄港地はすぐに推測できる。ただ、瀬戸内海に入るとわからない。寄港できる島や湊が多すぎるのだ。芸予諸島は中国と四国とをつなぐ無数の飛び石のようになっており、航路を妨げたにちがいないが、逆にすべてが寄港地だったかもしれない。




芸予諸島からすこし大坂寄り、ぐっと瀬戸内海に突き出たところがある。ここはまちがいなく天然の良港だったにちがいない。広島県福山市の鞆の浦だ。調べてみると、たしかにずっと古い時代は主要港であり、近世、北前船などの弁財船も立ち寄ったが、しだいに通過するようになって寄港地としての性格は薄れた。さらに明治以降は鉄道にも敗れた。しかしそのことがかえって幸いして、近世の面影をとどめる家と町並み、さらには開発されない自然が残されたという。世界遺産登録への運動がさかんである。





この夏、岡山に行く予定があるので、すこし足をのばして鞆の浦に行ってみようか。M先生は鞆の浦の保存活動に深く関わっている。これも縁かもしれない。





写真はすべて福山観光コンベンション協会HPより

深き湊・・・・・丹後の宮津と舞鶴

2014年05月18日 14時21分30秒 | 日記
丹後の宮津と舞鶴。隣り合わせだ。ともに日本海からの入口をきゅっとすぼめた巾着のような湾を形成しており、近世から明治ころまでは北前船の寄港地として栄えた。どちらの町が大きかったのか、頼れる資料は手元にないが、もしかしたら宮津のほうが栄えていたかもしれない。



しかし今や差は歴然としている。舞鶴のほうが人口は4倍ほど大きい。町を歩いてみても活気がちがう。その差は何に由来するのか。かつて大きな富をもたらした北前船に注目してみよう。

北前船(弁財船)が栄えたのは、まず地域間の価格差をうまく利用したことだった。産地で安く買い取った商品を消費地に運び高く売りつける。いまとちがって地域ごとの実売価格が知られないから、うまくやれば暴利をむさぼることができた。

もうひとつは安全な航路があらたに開発されたことだった。海路を使えば、大型の弁財船
は約150トンの荷物を、コストのかからない風力だけで早く運ぶことができた。しかも乗組員はわずか10数名だった。人馬による従来の運送力は馬1頭で約135キロであるから150トン運ぶには千数百頭を要し、しかも大量の馬方も必要としたことを考えると、海の道が陸の道よりいかに低コストだったかわかるだろう。

「海はもうかる」。そうしたビジネス情報にふれたひとたちは海辺に住む者も奥山に住む者も廻船ビジネスに競うように投資した。盛期には、日本海を行き交う廻船だけでも数千隻あったのではないか。

宮津にも舞鶴にも毎日多くの北前船が寄港し、船員相手の宿・遊郭、食材や燃料卸、補修の船大工・鍛冶屋、地元産品を高く売り込み他地域産品を安く買い取ろうともくろむ問屋などが発達した。一般に、船主は投資家でありみずからも問屋でもあったから、その居宅は資金力にものをいわせた豪壮なものとなった。

しかし明治以降、海の道は急速にすたれた。鉄の道に敗れたのである。鉄道は天候に左右されずに、時間に正確に、大量の荷物を、安全に輸送できたからだった。宮津も舞鶴も北前船の寄港地としてではなく産業構造をあらたに構築する必要に迫られた。





しかし天運は舞鶴にくだった。軍港として選ばれたのである。宮津の名誉のためにいっておくと、それは宮津が軍港招致活動という人的努力においてやぶれたということではない。砂が堆積して遠浅の、天の橋立のある宮津湾は風光明媚ではあるが、竜骨を持って喫水線の深い軍艦(洋船)が出入りするには不適だった。船底が海底をこすってしまう。宮津港は水深が浅いから、深い舞鶴港には勝てなかったのである。

宮津と舞鶴が隣り合わせでともに往時は栄えながら、近代以降の経済発展が大きく分かれたのは、たんに水深の差という自然的条件にあったといってもよい。





夕刻、舞鶴にて、まずビジネスホテルをとって外にでた。どしゃ降りだ。アーケード街に駆け込み、構えのしっかりした「池屋」にとびこんだ。店主の風貌をみて思わずぎょっとした。おそるおそる注文した品はしっかり作られている。こわいがうまい。雨足が強く客は入って来ない。しだいに熱燗がまわって気も大きくなったので、店主に話しかけた。意外にも話し好きだった。笑うと目と顔がやさしい。舞鶴を、丹後を愛する人だった。うまかった、楽しかった。強雨という自然的条件で貸切状態になったのは、まさに天運ともいうべきものだった。

竜骨と喫水線・・・・・丹後舞鶴港

2014年05月15日 09時37分48秒 | 日記
京都府舞鶴市の引揚記念公園は高台にある。ここに立つと、舞鶴港がいかに複雑に入り組み、いかに波が静かなのか、よくわかる。また、高い山からいきなりストンと海に落ちていることから、水深もありそうにみえる。事実、深い。



左手にみえる施設は海上自衛隊の基地だ。ゆっくりと出入りする自衛艦は5000トン級だろうか。このクラスの喫水線は5m以上と、深い。深いというのは、もちろん「和船」と比べての話だ。



和船はお椀を大きくしたような構造になっている。近世から明治頃まで日本海中心に活躍した千石船もまた「和船」であり、基本的にはお椀船である。

一方、「洋船」は船首から船尾まで船底の中心に竜の背骨のような形をした構造材が通っている。「竜骨(キール)という。自然、船底は下にとがったような形になり、喫水線が深くなる。復原力が大きく、少しくらい傾いても転覆しない。和船がしばしば転覆したのと対照的だ。外洋に出るにはこうした洋船のほうがずっと有利だ。

もっとも、わが和船をかばうと、その構造的弱点が近世以降の日本各地の港に富と文化を均しくもたらしたことは言っておかなければならない。和船は外洋に出ないで、海岸線沿い近くをはい伝うように航行した。波や天候がすこしでも荒れるとすぐに最寄りの湊に避難した。このため、湊はあまり間隔をあけずに数多くつくられた。街道沿いの宿場町が旅人の安心のためにおよそ2、3里ごとに小刻みに整備されたのと同じだった。港が数多くつくられた結果、地域独自の習俗文化が行き交う人々によって他地域の港にきめ細かく伝わり、産物も他国の港経由でその後背地にまで広く運ばれた。もしも和船が出港してからいきなり外洋をめざしてしまったならば、寄港地はぐっと間引きされ、習俗文化や産物の伝わりかたはもつと荒っぽかったにちがいない。

ともあれ、明治以降、喫水線の深い洋船が主流になると、従来の遠浅の港は使い物にならなくなった。それが、北前船の寄港地の多くがすたれた理由のひとつだった。

しかし、舞鶴港は水深があるために大型船を受け入れることができ、北前船の寄港地としての役目は終えても、今度は軍港として栄えた。昭和23年6月、ナホトカから一隻の船が着いた。信濃丸、喫水線約7m、6000トン級だった。甲板には大きく手をふる男たち二千名の姿があった。

そのなかにわが父もいたのだった。カザフスタン・アルマータから生還した父は、一晩舞鶴ですごしたのちまっすぐに故郷に帰り、死ぬまで外へ出ようとしなかった。


丹後宮津の「富田屋」

2014年05月13日 07時53分00秒 | 日記
昨年の九月、丹後の宮津市で昼をとった。「富田屋」。宮津出身の若手社員からすすめられていたのだ。

各地に行ったとき、食物にはこだわる。といってもB級なのだが、少しくらい時間をかけて車を飛ばしてでも、目的の店に向かう。妥協はしない。

繁盛する店は構えからしてちがう。味のある暖簾、選んだ門戸、刈り込んだ植え込み、打ち水、盛り塩。だらしなくない。

さて、富田屋の入り口はどんな風情を醸していたのか。大きな狸のやきものがどんと座っていらっしゃった。ううむ、ここは大衆食堂だなというのが、第一印象だった。胸のボタンをひとつはずし、腕まくりをして暖簾をくぐった。

熱気だ。充満する焼き魚の臭いと煙り。あたりをはばかることのない大きな笑い声。せわしなく客の間を行き交う注文取り。「食う」という行為に人はこれほどまでの情熱をそそぐものかとあらためて感心してしまう。いや、感心などしている余裕はない。つぎつぎに来客があり、まごまごしていると食えなくなってしまう。分厚い一枚板のテーブルにひとつだけ空いた席に割り込んだ。メニューをみると「焼魚定食」が目についた。「すいません」と声をあげたが注文取りの女性はふりむかない。恥も外聞もない、食わなければどうにもならない。大きく手をあげて「おおいこっち、焼魚定食」とどなる。左隣でうまそうな煮魚をつついていた男が一瞬ギョッとしたように顔を上げたが、また下を向いて一心不乱に食い始めた。

この喧騒のなかの不思議な安堵感。ぬるいお茶をすすりながら待った。どんとおかれた皿には大ぶりのサンマの開き。もう秋だ。脂がのってうまそうだ。あれ待てよ。もう一枚ある。なんだこれは。アジだ、アジの開きだ。え、二枚もあるのか。これで、な、なんと600円。ううん、これだな、この費用対効果のアンバランス、客にリスクをとらせない心にくいサプライズこそ、店主の心意気なんだな。ご飯はいまひとつなのだが、まあそれはご愛嬌というものだろう。

魚はパリッと焼けて、薄塩がほんのりと心にしみる。あっという間に平らげた。ぐっとぬる茶を飲み干して、後で待つ次の人のために席をたった。しめてツーコイン。

わが情熱の丹後体験はこうして上々のスタートを切ったのだった。ああタンゴ、タンゴ。