ぶうりんの希望の種まき新聞

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喪失について

2011年10月06日 | コラムDEぶうりん 転載
2011年7月31日記載記事

先月の交通事故で、16年連れ添ってきた「愛車マーチ」を失ったことは既に書いた。
でも今は、新しいマーチと仲良く連れ添っている(つもり)。
カセットテープが聞けなくなったことは未だに大きな損害に感じるけれど、以前乗っていたマーチの兄弟と思えば愛着も増す。
同じくして事故の後、「健康な身体」も失ってしまうのかと悲観してきたが、頚椎捻挫による頭痛はほぼ無くなった。
耳鳴りが続いてはいるが、首と肩の痛みが無くなれば、ほぼ健康な身体に戻ることになる。
毎日犬と一緒に約1kmを朝夕2回歩いているし、首と肩と腕の体操も欠かせない。
以前より健康的な生活といえるかもしれない。
そんな感じで、私はかなり喪失感を回復してきている。
私が「喪失感を回復した」と感じることができるのは、たぶん私が、周りの人たちに、何度も何度も自分のつらさ悔しさを語ってきたからだと思う。
それは、聴いてくれる人達がいたからに他ならない。
一緒に活動している仲間はもちろんのこと、近所のおじさんもおばさんも、「そりゃぁ、大変だったね」と共感して聴いてくれるし、リハビリのときに針治療をしてくれる針灸士の先生も「そうですか」と痛みを受け止めてくれる。
話は変わるが、私はもう一つ大切なものを失った。
16年間一緒に暮らしてきた猫が死んだ。
「魔女」ではないかと家族で語ることもあった猫だったので、自ら死期を悟って「魔女の国に帰ったのだろう」と、家族で悲しみを乗り越えようとしていたが、一週間ほどして近所の人が「あんた方の猫がうちの庭で死んでるぞ」と教えに来てくれた。
「魔女の国に行っている筈だ」という、ありえない想定をいきなり覆されて、おじさんの言うことは頭の中では理解できたが、自分の気持ちはその言葉を理解しようとしなかった。「そんなはずはない、ミミがすぐ近所で死ぬはずが無い」
おじさんは私に、「猫が死んだぐらいでいちいち泣くな」と言った。
おじさんにとっては悲しくもなんとも無いことかもしれないけれど、私たち家族にとってはとても悲しいことなんだよ。
と教えてあげたかったけど、言えなかった。
泣くのをやめて、ミミの遺体を引き取って帰ってからまた泣いた。
私はすぐ泣く。すると娘がいつも「お母さんもう泣かないで」と言う。
たぶん、自分の悲しみに加え、お母さんの悲しみにまで寄り添わなければいけないことがつらいのだと思う。

東日本大震災によって、多くの人々が大きな喪失感を抱えることになった。
家族を失ってしまった人
住む家が失われてしまった人
思い出の品々を失ってしまった人
子どもの頃あそんでいた風景を失ってしまった人
いつも安心して暮らす「安心感」を奪われた人・・・
人によって、喪失してしまったものは様々だ。
しかし、その失ってしまったものを「大きい小さい」と比較することはできない。
もちろん、他人が比較するべきではない。
テレビ報道などで、被災地の人達・子どもたちが気丈に生きている様子を見ると、私は不安になる。
「この人達の喪失感はどこに置いてきたのだろう・・・」と。
もちろん、生きていかなければ、生活していかなければならないのだから、そんなこと言ってられないのかもしれない。
でも人は時には、自分の喪失したものについて、悲しみや怒りや不安を語り聴いてもらえる「安心な場所」が必要なのだと思う。


在りし日のミミとマーチ
オレンジのシャツを着ているのは息子、後ろを向いているのは、愛犬ルークです。
(写真は、息子の許可を得て掲載しています。ルークには許可を得ていませんが取り合えず伝えました。)

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