沖縄県民に対して「国外・県外」移設の期待を持たせながら、鳩山首相自身が設定したタイムリミットである5月末を目前にして、辺野古を移転候補地とする合意が日米両政府の共同声明において確認されたことで、鳩山政権発足以降、外交政策をめぐる議論においてほぼ独占的な争点となってきた普天間飛行場移設問題は、沖縄県や名護市などの地元自治体の失望感と、福島大臣の罷免さらに社民党の連立離脱の不可避化という代償を伴う形で一応の決着を見るという後見の悪さを残すことになった。
国際政治あるいは外交に関する交渉は、藤原帰一が指摘するように、国内政治の次元に加えて「国際関係における合理性という別の尺度」を考慮に入れなくてはならないため、妥協点を探る作業の複雑さが増すことになる(『新編 平和のリアリズム』岩波書店, 2010年: 380頁)。さらに今回の場合、連立政権内部の政治ゲームも加味されることによって、いっそう複雑で、最適解を見つけ出すためにかなり高度な指導力が問われる状況にあったといえる。このようなアメリカ・沖縄・社民党の3者の錯綜する利害を認識し、調整し、関係当事者すべてが納得のいく妥協や合意を見つけ出す困難に直面した結果、鳩山首相の選択したのはアメリカとの関係を優先する従来の路線であった。「基地の縮小や撤去」を求める声と「日本およびアジアの安全にとって日米安保は不可欠」と主張する声、別言すれば国内政治の論理と国際政治の論理が対抗関係にあるとき、双方の論理をどのような配分で折衷させ、納得できるような妥協点を見出すのかは、政治的・外交的手腕が問われる状況を作り出す。これまで自民党政権の場合であれば、冷戦構造の存在や、「安全保障問題は政府の専管事項」との前提に立って、アメリカとの合意(国際公約)をできる限り修正することなく地元自治体に受け入れさせるかという観点から、主に地域振興というアメをちらつかせながら交渉が進められてきた。国際政治の論理を優先し、国内政治の論理を馴致する構図である。前述したように、沖縄や社民党の反対論を尻目にアメリカとの合意を先行させた鳩山首相の判断も結果的にこの構図に則ったものであるといえる。
他方で、国際政治の論理を変更不可能な所与のものとして理解するのではなく、むしろ国内政治の論理を一種の外交カードとして用いることで国際政治の論理に修正を加える構図もありうるだろう。こうした外交交渉は、ときに性急な国民世論の暴走を招き、国益を損なわせることになる可能性を孕んでいる点で外交交渉に携わる関係者や外交史に精通した識者たちには不評であり、それゆえに国際政治の論理を修正することに慎重な態度が一見したところ国際政治の現実を直視していると評価される傾向にある。しかしながら、問題なのは、このような国内政治の論理に対する慎重な態度自体ではなく、慎重さが懐疑や軽蔑、あるいは無視に転移し、国内政治の論理を考慮の外に置く態度が自然化されてしまう点である。米軍基地問題に関していえば、すくなくとも沖縄の基地負担を軽減するという政策方針自体に反対の声は聞かれないにもかかわらず、基地問題を日常政治の次元で捉える視点が国民の間で共有されているかといえば、「総論賛成・各論反対」に終わった先の知事会が象徴するように、それには程遠く、むしろ国際政治の論理を上位に置く認識を側面から支え、正当性を付与する(無自覚な)共犯関係を成り立たせている。
「最低でも県外移設」を掲げた鳩山首相の方針は、国際政治の論理に対抗し、その修正を可能とするような国内政治の論理を醸成する機運を高める契機となりえたかもしれなかった。それゆえ国際政治の論理にほぼ無条件に従う形での決着は期待を抱かせた分だけ大きな失望や批判をもたらした。しかし沖縄に米軍基地が当面の間必要であること、そして抑止力としての機能を無視できないといった国際政治の論理を受け入れた場合であっても、沖縄の基地問題が議論される文脈を日米関係に限定せずに、広く東アジア全般の国際関係を今後どのように描き、それを土台として平和と安定の地域秩序を作り上げていくための政策構想と結びつける形で沖縄の基地負担問題を捉え返すならば、すくなくともこれほどまでの失望感と非難が集中することもなかったのではないか。日米関係の文脈を通してみれば、国際政治の現実を前にして基地の縮小や撤去の可能性が実現不可能と先験的に排除されてしまうが、文脈をずらすことによって、国際政治の「現実」とされるものを構成する要素が前景化し、変更不可能と思われていた「現実」を変えていく手掛かりが見えてくるだろう。そしてこうした視点に立つならば、鳩山首相がめざす「対等な日米関係」や「駐留なき安保」、あるいは「東アジア共同体」も単なる理想論として片付けられることなく、長期的な政策構想の中に組み込まれたアイデアという意味合いを持ち、その実現に向けた真剣な議論を喚起することにつながるであろう。
以上の議論を敷衍するならば、鳩山政権は次の2点において、日米関係さらには東アジア国際政治全般に関する方針を明確化することによって、基地問題の解決の糸口を示すことができたであろうし、日米同盟の抱えている課題やあるべき将来像に向けた議論を活発化させる機会の窓を切り開くことができたのではないだろうか。すなわち第1に、朝鮮半島や中台海峡など潜在的紛争要因を抱える東アジアにおいて、日米同盟が(抑止力を含めた)一種の安定化装置として機能していることを認めるとしても、とにかくアメリカとの関係を維持することを一義的に考えるような外交が続く限り、そして北朝鮮や中国を(潜在的)脅威とみなす認識が変わらない限り、沖縄の米軍基地の存在理由は説得力を持ち続ける。今回の普天間移設問題を対米関係の文脈に限定して考える根底に流れる国際政治認識においては、潜在的脅威とされる北朝鮮や中国をあくまでも日米同盟の枠組みの彼岸に留めて、抑止対象とみなす一方で、中朝両国が同盟の此岸に引き寄せる能動的な外交の可能性についてシニカルな態度に終始する現実追随主義が魅力的に映ってくる。たしかに(潜在的な)紛争要因が存在する限り、それに対処するための同盟を維持し、強化することは当然の策であろう。しかしそれは日米と中朝の潜在的な対立構図が今後も不変であることを当然視する発想であり、そこに対立構図を協調のそれに変えていこうとするための政策理念・構想・手段を内包するような想像=創造性に富むアプローチを見出すことはできない。換言すれば、沖縄に米軍が存在する根拠やそれを支える論理に説得力を付与している北朝鮮や中国という東アジアの潜在的な脅威・不安定要因を取り除く外交政策と関連付けて、論点を提起する必要があったように思われる。日米同盟の維持を何事にも優先する姿勢は、東アジア地域の平和の問題に背を向けた別様の「一国平和主義」にすぎず、きわめて狭量な国際政治認識に基づくものである。このような言説を再検討したうえで、東アジア全体の国際関係の文脈に日米同盟や沖縄の基地問題を位置づけて、沖縄の負担軽減が可能となる具体的条件を提示し、それに向けた取り組みの行程を暫定的であれ示すというような外交政策の構想力が欠けている点こそが鳩山政権への批判として有効であり、また建設的だといえるだろう。
第2に、沖縄の米軍基地が提起するもっとも喫緊の問題は、基地周辺で生じる米兵による犯罪行為や騒音・環境被害といった日常生活に深く関わっている。これは、国家安全保障ではなく、まさに人間の安全保障に属する問題だと言い換えることができる。日本政府が外交の柱としている人間の安全保障を必要としているのは何も途上国の人々だけではない。人間の安全保障の対象を国境線で区別することは偽善に他ならない。もちろん基地の撤去こそがこの問題の根本的な解決であるが、それが近い将来において望めない以上、次善の策として追求すべきは日米地位協定の改正などによって地元住民の生活環境を改善し、負担を軽減することであろう(なお3月24日の参院予算委員会で鳩山首相は地位協定の改定に言及している)。沖縄の米軍基地が戦略的に不可欠であり、撤退する選択が考えられないならば、日本政府は対米交渉において地位協定の改正や運用の厳格化を求め、それを実現させることに真剣に取り組むべきであり、アメリカが享受している便益に見合うだけの費用を支払ってもらうことで「対等な日米関係」への一歩にもなるだろう。「思いやり予算」に象徴されるようにアメリカにとって日本は非常に利便性の高い基地受入国であるが、米軍基地の便益と費用のバランスシートを今一度検討してみる必要がある。
米軍が沖縄に駐留することを地政学的あるいは戦略的な観点で正当化する論理の前提を再審する政策構想が第1の議論だとすれば、第2のそれは、地政学的な論理を認めた上で、それが破綻しないギリギリの線を見定めた上で駐留コストを引き上げる交渉戦略である。東アジアの地政学的状況を変化させる長期的な展望を視野に入れながら、短期的には基地周辺に居住する人々の安全を保障する施策を充実させていくことが求められる。このことは、米軍基地の撤去を直ちにもたらすものではない意味で、地元住民の不満は依然として残るが、段階的な行程表を作り、その実現のために必要な行動を採ることが提示できるならば、今回のような全面的な拒絶や批判を招く結果に至らなかったかもしれない。
「日米関係は重要だ」という言説は日本外交の一面を突いているものの、それに拘束され、外交政策上の選択の幅を自ずから限定してしまう危険性も孕んでいる。そのことは、28日最終合意文書が採択されたNPT再検討会議における日本の存在感が、メディアの関心が普天間問題に集中したこともあり、薄いことに端的にうかがえる。「唯一の被爆国」という日本の外交資源は、アメリカの核抑止政策に依存してきたため、戦後有効に活用されてきたとはいいがたいが、オバマ大統領の「核なき世界」演説をきっかけに、核軍縮をめぐる議論の活発化する機運が高まっている現状において、日本外交にとっての機会の窓が広く開かれている(たとえば2010年2月の日豪両政府による共同声明「核兵器のない世界に向けて」などはその一環だろう)。東アジアの不安定要因として北朝鮮の核問題が注目され、それゆえに沖縄の基地が必要であるという論理が説得力を持って受け入れられているが、核軍縮分野において積極的な外交政策を推進することは、間接的に東アジアの国際政治を規定する対立構図を緩和し、沖縄の米軍基地の縮小(や撤去)をも射程に入れた将来展望を準備することになる。こうした並存する政策課題を相互に関連付けて提示することができれば、日本外交を拘束している条件を緩和し、選択肢を拡充することにつながるであろう。
国際政治あるいは外交に関する交渉は、藤原帰一が指摘するように、国内政治の次元に加えて「国際関係における合理性という別の尺度」を考慮に入れなくてはならないため、妥協点を探る作業の複雑さが増すことになる(『新編 平和のリアリズム』岩波書店, 2010年: 380頁)。さらに今回の場合、連立政権内部の政治ゲームも加味されることによって、いっそう複雑で、最適解を見つけ出すためにかなり高度な指導力が問われる状況にあったといえる。このようなアメリカ・沖縄・社民党の3者の錯綜する利害を認識し、調整し、関係当事者すべてが納得のいく妥協や合意を見つけ出す困難に直面した結果、鳩山首相の選択したのはアメリカとの関係を優先する従来の路線であった。「基地の縮小や撤去」を求める声と「日本およびアジアの安全にとって日米安保は不可欠」と主張する声、別言すれば国内政治の論理と国際政治の論理が対抗関係にあるとき、双方の論理をどのような配分で折衷させ、納得できるような妥協点を見出すのかは、政治的・外交的手腕が問われる状況を作り出す。これまで自民党政権の場合であれば、冷戦構造の存在や、「安全保障問題は政府の専管事項」との前提に立って、アメリカとの合意(国際公約)をできる限り修正することなく地元自治体に受け入れさせるかという観点から、主に地域振興というアメをちらつかせながら交渉が進められてきた。国際政治の論理を優先し、国内政治の論理を馴致する構図である。前述したように、沖縄や社民党の反対論を尻目にアメリカとの合意を先行させた鳩山首相の判断も結果的にこの構図に則ったものであるといえる。
他方で、国際政治の論理を変更不可能な所与のものとして理解するのではなく、むしろ国内政治の論理を一種の外交カードとして用いることで国際政治の論理に修正を加える構図もありうるだろう。こうした外交交渉は、ときに性急な国民世論の暴走を招き、国益を損なわせることになる可能性を孕んでいる点で外交交渉に携わる関係者や外交史に精通した識者たちには不評であり、それゆえに国際政治の論理を修正することに慎重な態度が一見したところ国際政治の現実を直視していると評価される傾向にある。しかしながら、問題なのは、このような国内政治の論理に対する慎重な態度自体ではなく、慎重さが懐疑や軽蔑、あるいは無視に転移し、国内政治の論理を考慮の外に置く態度が自然化されてしまう点である。米軍基地問題に関していえば、すくなくとも沖縄の基地負担を軽減するという政策方針自体に反対の声は聞かれないにもかかわらず、基地問題を日常政治の次元で捉える視点が国民の間で共有されているかといえば、「総論賛成・各論反対」に終わった先の知事会が象徴するように、それには程遠く、むしろ国際政治の論理を上位に置く認識を側面から支え、正当性を付与する(無自覚な)共犯関係を成り立たせている。
「最低でも県外移設」を掲げた鳩山首相の方針は、国際政治の論理に対抗し、その修正を可能とするような国内政治の論理を醸成する機運を高める契機となりえたかもしれなかった。それゆえ国際政治の論理にほぼ無条件に従う形での決着は期待を抱かせた分だけ大きな失望や批判をもたらした。しかし沖縄に米軍基地が当面の間必要であること、そして抑止力としての機能を無視できないといった国際政治の論理を受け入れた場合であっても、沖縄の基地問題が議論される文脈を日米関係に限定せずに、広く東アジア全般の国際関係を今後どのように描き、それを土台として平和と安定の地域秩序を作り上げていくための政策構想と結びつける形で沖縄の基地負担問題を捉え返すならば、すくなくともこれほどまでの失望感と非難が集中することもなかったのではないか。日米関係の文脈を通してみれば、国際政治の現実を前にして基地の縮小や撤去の可能性が実現不可能と先験的に排除されてしまうが、文脈をずらすことによって、国際政治の「現実」とされるものを構成する要素が前景化し、変更不可能と思われていた「現実」を変えていく手掛かりが見えてくるだろう。そしてこうした視点に立つならば、鳩山首相がめざす「対等な日米関係」や「駐留なき安保」、あるいは「東アジア共同体」も単なる理想論として片付けられることなく、長期的な政策構想の中に組み込まれたアイデアという意味合いを持ち、その実現に向けた真剣な議論を喚起することにつながるであろう。
以上の議論を敷衍するならば、鳩山政権は次の2点において、日米関係さらには東アジア国際政治全般に関する方針を明確化することによって、基地問題の解決の糸口を示すことができたであろうし、日米同盟の抱えている課題やあるべき将来像に向けた議論を活発化させる機会の窓を切り開くことができたのではないだろうか。すなわち第1に、朝鮮半島や中台海峡など潜在的紛争要因を抱える東アジアにおいて、日米同盟が(抑止力を含めた)一種の安定化装置として機能していることを認めるとしても、とにかくアメリカとの関係を維持することを一義的に考えるような外交が続く限り、そして北朝鮮や中国を(潜在的)脅威とみなす認識が変わらない限り、沖縄の米軍基地の存在理由は説得力を持ち続ける。今回の普天間移設問題を対米関係の文脈に限定して考える根底に流れる国際政治認識においては、潜在的脅威とされる北朝鮮や中国をあくまでも日米同盟の枠組みの彼岸に留めて、抑止対象とみなす一方で、中朝両国が同盟の此岸に引き寄せる能動的な外交の可能性についてシニカルな態度に終始する現実追随主義が魅力的に映ってくる。たしかに(潜在的な)紛争要因が存在する限り、それに対処するための同盟を維持し、強化することは当然の策であろう。しかしそれは日米と中朝の潜在的な対立構図が今後も不変であることを当然視する発想であり、そこに対立構図を協調のそれに変えていこうとするための政策理念・構想・手段を内包するような想像=創造性に富むアプローチを見出すことはできない。換言すれば、沖縄に米軍が存在する根拠やそれを支える論理に説得力を付与している北朝鮮や中国という東アジアの潜在的な脅威・不安定要因を取り除く外交政策と関連付けて、論点を提起する必要があったように思われる。日米同盟の維持を何事にも優先する姿勢は、東アジア地域の平和の問題に背を向けた別様の「一国平和主義」にすぎず、きわめて狭量な国際政治認識に基づくものである。このような言説を再検討したうえで、東アジア全体の国際関係の文脈に日米同盟や沖縄の基地問題を位置づけて、沖縄の負担軽減が可能となる具体的条件を提示し、それに向けた取り組みの行程を暫定的であれ示すというような外交政策の構想力が欠けている点こそが鳩山政権への批判として有効であり、また建設的だといえるだろう。
第2に、沖縄の米軍基地が提起するもっとも喫緊の問題は、基地周辺で生じる米兵による犯罪行為や騒音・環境被害といった日常生活に深く関わっている。これは、国家安全保障ではなく、まさに人間の安全保障に属する問題だと言い換えることができる。日本政府が外交の柱としている人間の安全保障を必要としているのは何も途上国の人々だけではない。人間の安全保障の対象を国境線で区別することは偽善に他ならない。もちろん基地の撤去こそがこの問題の根本的な解決であるが、それが近い将来において望めない以上、次善の策として追求すべきは日米地位協定の改正などによって地元住民の生活環境を改善し、負担を軽減することであろう(なお3月24日の参院予算委員会で鳩山首相は地位協定の改定に言及している)。沖縄の米軍基地が戦略的に不可欠であり、撤退する選択が考えられないならば、日本政府は対米交渉において地位協定の改正や運用の厳格化を求め、それを実現させることに真剣に取り組むべきであり、アメリカが享受している便益に見合うだけの費用を支払ってもらうことで「対等な日米関係」への一歩にもなるだろう。「思いやり予算」に象徴されるようにアメリカにとって日本は非常に利便性の高い基地受入国であるが、米軍基地の便益と費用のバランスシートを今一度検討してみる必要がある。
米軍が沖縄に駐留することを地政学的あるいは戦略的な観点で正当化する論理の前提を再審する政策構想が第1の議論だとすれば、第2のそれは、地政学的な論理を認めた上で、それが破綻しないギリギリの線を見定めた上で駐留コストを引き上げる交渉戦略である。東アジアの地政学的状況を変化させる長期的な展望を視野に入れながら、短期的には基地周辺に居住する人々の安全を保障する施策を充実させていくことが求められる。このことは、米軍基地の撤去を直ちにもたらすものではない意味で、地元住民の不満は依然として残るが、段階的な行程表を作り、その実現のために必要な行動を採ることが提示できるならば、今回のような全面的な拒絶や批判を招く結果に至らなかったかもしれない。
「日米関係は重要だ」という言説は日本外交の一面を突いているものの、それに拘束され、外交政策上の選択の幅を自ずから限定してしまう危険性も孕んでいる。そのことは、28日最終合意文書が採択されたNPT再検討会議における日本の存在感が、メディアの関心が普天間問題に集中したこともあり、薄いことに端的にうかがえる。「唯一の被爆国」という日本の外交資源は、アメリカの核抑止政策に依存してきたため、戦後有効に活用されてきたとはいいがたいが、オバマ大統領の「核なき世界」演説をきっかけに、核軍縮をめぐる議論の活発化する機運が高まっている現状において、日本外交にとっての機会の窓が広く開かれている(たとえば2010年2月の日豪両政府による共同声明「核兵器のない世界に向けて」などはその一環だろう)。東アジアの不安定要因として北朝鮮の核問題が注目され、それゆえに沖縄の基地が必要であるという論理が説得力を持って受け入れられているが、核軍縮分野において積極的な外交政策を推進することは、間接的に東アジアの国際政治を規定する対立構図を緩和し、沖縄の米軍基地の縮小(や撤去)をも射程に入れた将来展望を準備することになる。こうした並存する政策課題を相互に関連付けて提示することができれば、日本外交を拘束している条件を緩和し、選択肢を拡充することにつながるであろう。