constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

三たび「戦間期」の再来について

2010年03月04日 | nazor
冷戦の終焉に伴う世界政治の流動化、換言すれば後景化していく旧秩序と前景化しつつある新秩序の移行期をいかに把握するのかをめぐって、さまざまな認識枠組みが提示されてきた。「戦間期」の比喩で把握する視座もそうした認識枠組みのひとつであり、以前2度にわたりその内容に関して若干の検討を加えた(「『戦間期』の再来」2006年6月20日、および「『戦間期』の再来・追補」2007年6月15日参照)。その後の世界情勢を見るならば、イラクやアフガニスタンの出口戦略が依然として不透明な「対テロ戦争」に加えて「100年に一度」と形容される金融危機によるグローバル経済の混乱は、物質および規範の両面で圧倒的な優位性を保持していた超領域的権力主体であるアメリカの凋落を物語り、ひとつの時代の終焉、あるいは転換期の第2段階に世界が突入していることを印象付ける。そしてこの「アメリカ後の世界」(ファリード・ザカリア)がいかなる理念や構想、そしていかなる秩序や制度によって支えられるのかを考えるにあたって、とりわけ現代世界が抱えている危機に対する適切な処方箋を探求する際に、危機の収束に失敗し、第二次大戦という破局に至った1930年代の世界が歴史の参照点として改めて浮かび上がってくる。このような問題関心を背景にして、国際関係の現状ならびに今後の展開を議論するうえで「戦間期」あるいは「危機の20年」という比喩の魅力が増しているように思われる。以下では、「戦間期」あるいは「危機の20年」に言及している代表的な論考を概観する形で、三たび「戦間期」について考えを巡らせてみたい。

イギリスの国際政治学者で、批判的安全保障研究の論者としても著名なケン・ブースは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを象徴的な始点として現在を「新たな危機の20年」にあるとみなし、それは21世紀前半に世界が直面する全般的な危機の一部を構成するものであると論じる(Ken Booth, Theory of World Security, Cambridge University Press, 2007.)。かつての「危機の20年」が第二次大戦に帰結したように、「新たな危機の20年」もまた、現代世界が直面している脅威に迅速で根本的に対応しなければ、21世紀半ばまでに重大な破局(the Great Reckoning)を迎えるだろうと警告を発する。すなわち「全体であれ、あるいは個別であれ、人類社会にとっての新たな危機の20年の挑戦は、今世紀の来るべき10年間に、普遍的で不可欠な価値にしたがって将来の方向性、優先順位、政策に関して本質的な決定を下すことである」(403、強調原文)。そして重大な破局に帰結する危機を3種類(epochal/structural/decisional)に分けた上で、ブースは、喫緊の決定を有する危機(decisional crises)として、安全保障の脅威、グローバリゼーションのもたらす弊害、環境や人口問題の悪化、ガヴァナンスの機能不全、そして宗教原理主義の台頭を挙げて、これらの課題に見出される「病理的兆候」に対して適切な診断と決定を下す必要性を強調する。

同じく「危機の20年」という比喩を用いて冷戦後の20年を把握するのが田中明彦『ポスト・クライシスの世界――新多極時代を動かすパワー原理』(日本経済新聞出版社, 2009年)である。アメリカ同時多発テロを始点とするブースの「新たな危機の20年」論に対して、田中のそれは、ベルリンの壁が崩壊した1989年を始点として、2008年の金融危機を最終局面とする点で時間的なズレがあるが、危機の最終局面にある世界が破局に突き進んでしまうのか、もしそれを克服したとき現れる世界、つまり表題の「ポスト・クライシスの世界」はいかなるものなのかを考察することを目的とする点でブースと問題関心を共有していると見てよいだろう。それでは田中は「新たな危機の20年」の特徴をどのように描いているのだろうか。E・H・カーが1920年代の国際政治を彩った理想主義的な見方を「蜃気楼」と呼んだことを手がかりにして、田中は、「新たな危機の20年」において「蜃気楼」に該当するエピソードとして「単極の世界」および「市場原理主義」の登場と退場を挙げ、そしてこの2つのエピソードを底流で支え、ときに促進していたのがグローバリゼーションであると指摘する。また現在の金融危機が、1930年代の経済危機のように、軍事的なそれに転化していく可能性、また破局を回避できた後に見えてくる世界を「多極の世界」と捉えて、なかでも依然として大きな影響力を保持するアメリカと、台頭著しいアジア(とくに中国)との関係をいかに築いていくべきかが論じられている。

ブースと田中の議論が世界政治という大きな枠組みに焦点を当てたものであるのに対して、冷戦の主役であったロシア(ソ連)とアメリカ(そして国際関係との関わり)を対象にして「戦間期」あるいは「危機の20年」の比喩を用いる議論も登場している。リチャード・サクワは、ポスト共産主義のロシア、とりわけプーチン政権のロシアと西側諸国との相互不信が増幅する「新冷戦」状況を考察し、ロシアと西側との間に根本的なイデオロギーや利害の対立争点が欠けている点で「新冷戦」はかつての冷戦と同一視するべきではないと指摘する(Richard Sakwa, "'New Cold War' or Twenty Years' Crisis? Russia and International Politics," International Affairs, vol. 84, no. 2, 2008. )。そしてサクワは、新冷戦の勃発をめぐる議論に注意を奪われるあまり、より重要な課題が軽視されていると論じる。すなわちロシアや中国といった新興諸国をいかにグローバルな枠組みに包摂していくのかという課題である。第一次大戦後のヴェルサイユ体制に対する「持たざる諸国」ドイツ、イタリア、日本の抱く不満を受け止め、適切に対処し、それらを取り込むことに失敗した帰結がもうひとつの世界戦争であったことを想起するならば、冷戦の非対称的な終焉によって超大国の地位から転落したものの、石油や天然ガスなどのエネルギー資源を武器に再び台頭してきたロシアとどのような関係を構築すべきなのかという課題は、まさに「危機の20年」の状況と類似する面がある。根本的な争点における対立にまで至っていない「新冷戦」状況に比べると、大国としてのロシアの威信を損なわずに、西側の規範構造に準拠した行動原則への順応をいかに進めていくのかが問われているのであり、この課題に失敗したとき待っているのは、ちょうど「危機の20年」が世界大戦に帰結したように、グローバルな破局ではないかと論じる(同様の趣旨として、田中: 61-65頁も参照)。

一方、村田晃嗣は、レーガン以降の四半世紀のアメリカ政治外交を考察する中で、「二重の戦間期」という見方を提示している(『現代アメリカ外交の変容――レーガン、ブッシュからオバマへ』有斐閣, 2009年)。「二重の戦間期」は、微妙なズレを孕むものの、ほぼブッシュ(父)とクリントン政権期の12年間に相当する。第1の戦間期は、ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日とアメリカ同時多発テロが起こった2001年9月11日、すなわち世界戦争(冷戦)と世界内戦(対テロ戦争)とに挟まれた12年間である。第2のそれは、1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦争とに挟まれた12年間である。前者が世界史的な意味合いを有する年を基準点としているのに対して、後者はアメリカとイラク、より直裁的にいえばブッシュ父子とサダム・フセインの(私怨を孕んだ)関係によって規定されている。そして「この『二重の戦間期』の二重性をどう評価し、この期間を短いとみなすか、長いとみなすかで、イラク戦争の評価は大きく異なる」(88頁)と指摘する。村田の「二重の戦間期」論は、アメリカの文脈に焦点を絞ることによって時間の幅が短く設定されているが、それは田中の「新たな危機の20年」論における「単極の世界」および「市場原理主義」それぞれの登場から絶頂に至る時期と重なり合う。さらにいえば「二重の戦間期」の先例はアメリカ史に見出すことができる。つまりアメリカが直接的に戦争に関わったヴェルサイユ(1919年)からパールハーバー(1941年)までの22年間を第1の戦間期とするならば、それぞれウィルソンとルーズヴェルトの2つの民主党政権に挟まれ、経済的な繁栄を謳歌した共和党政権の12年間を第2の戦間期とみなすことができるだろう。

ところで高坂正堯は、1972年発表の論文「二つの戦争、二つの頂上会談」で、「1960年代の半ば以降、アメリカが国際政治の中心的問題でないものに精力を浪費し、中国が国際政治の舞台から姿を消していたこと」を指して「道草」と呼んだ(『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年: 76頁)。高坂の主眼は、1960年代初頭の世界政治に見られた多極化傾向(仏中の核武装や中ソ対立の表面化)が、「道草」を経由したことによって、1970年代においてどのような形で(再)浮上してくるのか、そして多極化時代の特徴である多元化と階層化が進展する1970年代の世界における日本外交のあり方を再検討することにあった。「道草」の比喩を通して見えてくるのは歴史における連続性と変化である。同じ政策理念や構想が時差を経て実行に移されるときに重要となってくるのが、時間の浪費ともいえる「道草」の間に生じた変化を正しく認識できるか否かである。高坂の「道草」の比喩で、村田のいう「二重の戦間期」の後者、すなわち対イラク戦争をめぐる戦間期を捉え返してみたとき、どのような示唆が導かれるであろうか。対イラク戦争をめぐる「戦間期」をまさに「道草」の字義通りに時間の浪費と理解し、2つのイラク戦争の置かれた文脈状況を無視して同一線上で捉えたのが、ブッシュ(子)政権の、とりわけネオコン思想に傾倒した政策決定者たちであり、それは「道草」に内在する連続性と変化に対する鋭敏な感覚を欠いたものであったといえるのではないだろうか。

2003年のイラク戦争を支えたアメリカの世界戦略構想の大枠は、よく知られているように、1991年の湾岸戦争後にポール・ウォルフォウィッツを中心に作成された「国防計画指針」に求められる。ブッシュ(父)の再選失敗によって直ちに現実化されることはなかったが、その世界戦略構想は、クリントン政権の外交政策に不満を抱く在野の(共和党系)言論人を中心に強い影響を及ぼし、ブッシュ(子)政権の誕生とともに、構想を現実化する機会が到来したわけである。そして軍事力の圧倒的なまでの優位性に象徴される物質的な面でも、また民主主義や市場経済の理念の正統性という規範的な面でも、アメリカの政策理念・構想を円滑に実行に移すことができる環境が「戦間期」の12年間で整備されていた。その意味で「道草」は単なる時間の浪費以上にアメリカにとって有意味な期間であったともいえる。このような「道草」の恩恵を受け、また同時多発テロを奇貨とする形で対イラク戦争へ向かう道が開かれていったが、「道草」の期間に生じた変化は、アメリカにとって好ましいばかりではなく、むしろ2つの対イラク戦争に対してまったく異なる意味づけを施す変化を伴っていた。すなわち対テロ戦争の延長線上で世界内戦状況の只中で起こったイラク戦争の意味合いは、冷戦という世界戦争の終幕で起こり、古典的な意味での国家間戦争であった湾岸戦争とは異なり、そこには戦争形態の質的な変化が介在している。たしかに「戦間期」を通じて軍事革命(RMA)による戦争行為の非対称性は限りなく高まり、アメリカの武力行使の形態を指して「新しい戦争」とみなす議論もあるほどである。その点で、世界戦争から世界内戦へという戦争観念/形態の変容にアメリカが鈍感であったわけではない。しかしながら、イラク戦争を軍事面だけに限定せずに、体制転換および民主化といった政治経済社会構造の変革を包括した政策パッケージとしてみた場合、戦後復興に対する楽観的な展望や自爆テロなどの抵抗運動の軽視など明確な出口戦略を欠いていたことは明らかで、それは「道草」の間に生じた変化に十分な注意を払っていなかった証左でもある。

さらに「道草」の比喩を応用するならば、田中が言う「新たな危機の20年」の第1エピソード「単極の世界」を「道草」と把握することができる。すなわち「二極の世界」の終焉は、「単極の世界」に接続する必然性はなく、「多極の世界」の出現も十分ありえたし、その可能性を予測し、国際関係の不安定化を指摘する議論もあったことは周知のとおりである。そして現在「単極の世界」が退場した後に到来するのが「多極の世界」であるとすれば、「単極の世界」と重なる「新たな危機の20年」は「道草」だったといえるのではないだろうか(もちろんG2論のように米中の「二極の世界」の出現する可能性も排除できないが)。

したがってこれから前景化してくる「多極の世界」とはどのようなものなのかについて検討を加える必要がある。たとえば、田中は、「多極の世界」が不安定で戦争になりやすいという国際政治学でよく知られた議論を取り上げて、19世紀から20世紀前半の「多極の世界」と比較した場合、21世紀の「多極の世界」が軍事力の意味変化、経済的相互依存の深化、民主主義規範の普及という3つの傾向を特徴としているため、戦争に至る可能性はかなり低下していると指摘する(田中: 95-106頁)。また比較対象をより近い過去に求めて「多極の世界」の内実を考えることもできる。すなわち「多極の世界」とは何かという静態的位相ではなく、「単極の世界」から「多極の世界」に向かう趨勢、すなわち「多極化する世界」という動態的位相に目を向けたとき、ひとつの参照点として1960年代から1970年代の時期が浮かび上がってくる。冷戦史としての20世紀後半の世界政治を捉えたとき、いわゆるデタントの時代は、「多極」に向かいながらも、「多極の世界」へと直結しなかった未完の時代だったと捉えることができる。あるいは冷戦の中休みという意味での「戦間期」ともいえるし、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を契機とした第二次冷戦が1960年代から進展する多極化の趨勢における「道草」の一種であったともいえる。いずれにしても「多極の世界」に向かう道程は、単線的ではなく、その過程で下される(政治的)決定しだいで逆行する可能性を潜ませている。

この点について再び高坂の論考「二つの戦争、二つの頂上会談」を補助線として、「多極化する世界」において直面する外交課題とはいかなるものかについて考察を進めるとき、現在との類似性が浮かび上がってくる。とくにそれは日米関係の領域において顕著である。2009年9月の政権交代による民主党政権発足後、外交政策における争点となったのが普天間基地の移設問題に象徴される日米関係であり、日米合意をめぐる鳩山政権の曖昧な態度に日米関係の「危機」を看取する議論が相次いだ。普天間基地に関する日米合意をめぐる混迷状況を日米関係全般の危機と等値するような情緒的な「危機」論が叫ばれる状況は、ちょうど同じく1970年代のそれと相通じるものがある。高坂の次の文章にある「繊維製品の規制問題」を「普天間基地問題」に置き換えてみれば、構図の類似性を容易に看取できる。「日米関係の危機ということがしきりに叫ばれながら、危機の内容や理由はほとんど論じられていない。ただ焦燥感と疑惑が存在し、繊維製品の規制問題など具体的な事件に危機の理由が求められてしまっている」(84頁)。

また高坂は、多元化と階層化を特徴とする多極化時代には同盟関係の変化は必然的だと指摘し、1962年から1964年にかけて執筆されたキッシンジャーの論文を手がかりとして日米関係に求められる変化の内実を考察する。高坂によれば、キッシンジャーの追求する中心的課題は「アメリカの『一方的な行動』と同盟国ヨーロッパの『無責任』という悪循環をいかにして打破するか」(85頁)であり、アメリカとの同盟関係に縛り付けるような「統合」ではなく、安全保障を自立的に追及できる行動であり、そのような行動の「調整」であるという。そしてニクソン=キッシンジャーの目指す同盟関係の調整問題が「道草」を経て構想から実践に移されたときに、日本はどのように対応するのか、その態度を明確化することが求められると指摘する。とはいえ、高坂は次のように指摘し、安易な同盟強化論に一定の留保を付している。つまり「もっとも、こうした基本政策についての態度を明確にすることは、必ずしも安全保障協力を物理的に強化することを意味しない。…それが望ましいものかどうか、また唯一の方法であるかどうかは、議論の余地がある」(87頁、強調原文傍点)。また普天間基地問題をめぐる鳩山首相の優柔不断さに対して批判が投げかけられ、強い政治リーダーシップを求める声がある。しかし「多極化する世界」において求められるのは強いリーダーシップだけでなく、変転する状況の機微を見極め、判断する姿勢である。再び高坂の言葉を引くならば、「今や国際政治は急激に再編成に向かって動き始めた。それ故に、われわれは発言のはっきりした政治家を必要とするようになっているのである。/もっとも、発言がはっきりしているとは、派手であるということではない。…。変動するもののなかで、なにが日本にとって重要な影響を与えるか、日本がなすべきことはなにか、またできることはなにかを、冷静に、そして深く考えることが求められるのである。しかも、それと共に今後の政治家には、明確な発言をする能力が求められている。そうした能力を兼備することは、疑いもなく難しい」(93頁)。

いずれにしても依然として明確な世界秩序が見えてこない現状にあって、「戦間期」の比喩は一定程度の説得力を持ち続けるであろう。そしてその先に見え始めている「多極の世界」において、日本がどのような外交目標を定め、展開していくのかは不明確なままである。「二極の世界」と「単極の世界」においてそれなりの成果を挙げてきた日本外交にとって、「多極の世界」は、規範的な意味合いでの古典外交の知恵と術が要求される時代であり、未知の領野だといえる。すくなくともこれまでの外交路線の延長線上に未来を投影することはできないことだけでは明らかだろう。
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