独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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  公園で法然と親鸞を想う(2)          公園小父さん

2017-04-01 16:31:26 | 日記
 私にとって子供時代から、親鸞聖人の名には馴染みがあった。母方のおばんつァん(祖母)は、いつも着物の胸元に小さく折り畳める経文を仕舞っていて縁側などで見ていた。床に入ってから側に寝ている私に「あんたさんを、守ってくださるからね」と言ったのを憶えている。
 母の実家には聖人自らが彫ったといわれる木彫の御真像があった。それは大きな仏壇の中央にあり、おばんつァんから聴いていた名前だったので、傍らでひそひそ言い交わす話から分かったのである。その後高校を終えた頃伯父の書き付けのコピーが手に入り、それは明治二十年頃、茨城県のお寺さん(寺名、番号はここには明記しない)が事情があって、同県柿岡の如来寺さんの仲立ちで、京都の本願寺からも何人も僧都さん方も参列されて譲度式が行われた事が記るしてあった。
 母が、「お前が云うから貰って来てやったよ」と豆粒ほどの御真像の映った写真をもらってきてくれた。代も替わり、また、こちらとしても気軽に顔を出せないような境遇事情もあり、もうお目にかかる事もできない。しかし私は拡大鏡に額を張りつける様にして、長時間見続けることもあるのである。
 そんな信心深い家系血筋の母であったが、配偶者が新興宗教に入ると母も従った。三十年間もつづいたのだから生半可なものではなかった。配偶者(吾が父)が逝くと間もなく母も亡くなった。期せずして11月28日は親鸞聖人と同じ命日である事を知り、さては親鸞聖人が迎えに来たのかと、ひとり悦に入っていたのだが、別冊太陽『親鸞』を見ていて、弘長二年(1262)親鸞九十歳入寂。11月28日は太陽暦では(1263)1月16日と記録あり膨らんでいた風船はたちまちしぼんでしまった。
 それはさておき、親鸞の事を、当方、原始太陽独り信者としては、大宗教組織の教祖というより人間として仰望しているのである。彼は存命中、公室や公儀から目をかけられた法然とは違い、何一つ浮かばれなかった。それは彼が望んだ事でもあった。それは、彼の心の内は、まばゆい程の光耀で一杯だったからだと思う。そのことで充足していたのだ。だから、
 「某(それがし)閉眼せば、加茂川に入れて、うほ(魚)にあたふべし」と言い遺した心境は、大事なのは魂で、脱け殻は、どうでもいいということなのである。
 この、狂気をはらんだ、一触即発の時代を生きて行かねばならないこれからの人達である。これらを、高校生の倫理教材に選定したこと、教える方も教わる方も、どちらにとっても幸せなことである。
 宇宙も、自然界も、社会も、人間も不確定要素だらけである。しかし実はこの教材自体が不確定、不確実要素でいっぱいである。見てはいけないもの、知ってはいけないもの、それらで充満し、立ち塞がるようにしているのが人生である。頭ばっかりで経験不足である。頭を軽んじているのではない。偏向がいけないのだ。そういう時代傾向にある。そういう偏向時代に、この『経験の書』は打って付けの教材である。この倫理教材、大賛成!! 花冷えだが、それもまたよい。

 
 






              
  

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