【切腹や仇討ちは、現世の緊張して生きる非人間的な作法に 叶った生き方のつらさから、のがれる手段であって、これを縦糸とし、愛情や、その他の感情をむき出しに出来ないつらさ苦しさからくるヒポコンデリー症状を横糸として織りなす、人間束縛の物悲しくも悲愴きわまりない錦であった。
それは、土佐の絵師、絵金の描いた生首や、血の吹き出る斬り取られた腕、はらわたの飛び出した屍人、幼児をさらわれていくのを狂乱して見守る母親の、悲惨さを充分含んでいる。
絵金の絵画は、人間の特殊状況における異常体験の描写である。たしかに、あの三百年は異常体験だ。この期間を経て日本人は、すっかり万葉の精神構造と体質を歪め崩してしまった。この三百年の悪夢の時代以前の人間と、以後の人間とでは、これでも血のつながりのある同一の民族なのだろうかと疑いたくなるくらい大きな相違がある。江戸氷河期は、同時にそこに堅固に築き上げられていた社会の脆弱さを、そこここに露呈していたことも事実であった。間歇的に吹き出た心ある人々の危機感は『自然真営道』のような出版されることのない著作となって結果し、狂歌となって巷に落書きされた。丸山真男が『日本政治思想史研究』の中で、「いかなる盤石のような体制もそれ自体に崩壊の内在的な必然性を持つことを徳川時代について実証することは、当時の環境においてはそれ自体大袈裟に言えば魂の救いであった」と書く時、かくれたラディカルな思想や、アンダーグランドの思想としての狂歌の狙った役割を、期せずして彼は説明したことになる。人間が個人としての次元で凍結していた江戸三百年が人間の手に成るものすべてに危機状態を招来してきたことは想像するに難くない。社会が安定していればいる程、人間の個人としての次元は荒廃の度合いを増していく。社会がその秩序を強めれば強めるほど、個人の領域は絶望的に乱れていく。社会の堅固さは人間個人の脆弱さの証である。確かな個人、即ち『旧約聖書』が繰り返し[昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれる]という自然の気道に直結した「私」を抱いた人間は、どのような文明社会の虚飾におおわれた人間をもその仮面を剥ぎ取って脆弱な本質を洞察してしまう。己が目撃した事実を率直に表白することの許されていなかった当時の人々当時の人々は辛うじてそれを狂歌に託したのであった。
この三百年の呪いと傷の痛みは、この宇宙時代に入っても、今なお、日本人の生活の中にたくましく息づいている。伝統とか、日本人の誇りとして、我々が高くかかげ、誇らしく抱いているものは、三百年の冷たい流刑地で身についた習慣であり、歪められてしまった体質であり、いじけた心で信じようとする不具者の意識なのである。しかしわたしは、今ここで、日本人が、この三百年の悲惨な経験をご破算にして、その彼方に健全に存在している、万葉の伝統に立ち返らなければならないことを主張したい。王朝時代も、戦国時代も、その政治形態がなんであろうと、その文化の進展具合がどうであろうと、そのようなこととは無関係に、当時の人間個人は、かなりゆとりをもって生きていた。
牛乳を飲み、床板の部屋に靴のまま出入りし、筒袖の着物、つまり、上衣とスラックス乃至はニッカポッカー型ズボンをはき、椅子に座り、観音開きのドアの付けられた部屋に、みすと呼ばれたカーテンをはりめぐらし、玄関に当たるところは、西洋の家屋のそれと同じで、ステップ(入り口の階段)があり、ドアまたはカーテンの内側には床板が敷き詰められていて、パッセージ(玄関の内側の部分)があった。
当時の帽子は、ハンチング、ベレー帽、三角帽などをたやすく連想させてくれるし、男女の愛の表現などもすっかり今日の西洋のそれを想わせてくれる。我々が今日、日本的なものだと、考えていたものは、そのほとんどすべてが、徳川三百年間の異常体験という悲惨さの極限状態の中で身につけ好むようになったものばかりである。床の間の位置と上座と下座の関係は幾何学の公式よりもはっきりしていて、これを破る勇気のある者はいないし、畳に座るという、人体の骨格や筋肉の仕組みから言えば最も不自然で健康のためにも良くない姿勢が、日本人の美徳の一つになっていることは泣くにも泣けないほど悲しい事実だ。三百年の悪夢の中で培われたものではなく、それ以前のものである茶道の自由さ、千利休の自由さ、独創性に富んだ人間らしさは、徳川の世に入って、化石化して、最も緊張度の激しい、恐ろしい環境を繰り広げていった。
自由人が、生活人のあそびとしてやるならよいのだが、そのような、人間を生かすことのない立ち居振る舞いの作法一切が、一糸乱れずに行われなければならないというところに傷の深さがある。外人が、あぐらをかき、左手の親指と人差し指の先で、茶碗をひょいとつまみ上げて、一寸苦いね、と言ってごくんと飲む態度の中になら、茶も生きてくるが、ゴンチャロフが見て腰を抜かして震え上がった能面のような顔をしてお茶の作法をやられたんでは、みじめで仕方がない。どいつもこいつも、蝋人形のような表情をして茶の作法をやるところに滑稽さは尽きないとも言える。私自身、茶道は大好きだ。茶杓さえ自分の手で、これはと思った竹でつくりあげる私である。だが、だがそれは利休の独創的な生き方の中でのみ受けとめるものである。伝統と組織をつくっている茶道の連中とは、屁の匂いさえはっきり違っている。三百年の悪夢に関係しないものなら、すべて良いものばかり。
山鹿素行や大村益次郎が目撃した武士達の在り方は、あの時代の人間崩壊のバロメーターであった。土を耕すこともせず、物を造り商売することも、教えることも、戦うこともしない武士達の生活は、文明の痛みをそのまま具現した生き方であった。先祖代々定められた禄高にしがみついて、為すこともなく一生を了る武士達の日々の暮らしは否応無しに形式化しない訳にはいかなかった。社会が生み出す非人間的なしがらみに囚われて、窒息寸前の状態に置かれていた精神の息衝き。形式の重みに耐え、しがらみに囚われて苦しむ悲劇は江戸期を克明に特徴づけている。文明が陥った人間悲劇の極限の一つとして武士階級の生き方を見ることが出来る。今日、社会保障制度のほとんど完備した環境の中で生活が安定している市民の生き方は、武士階級の禄高制度とその悲劇的本質において一脈通じている。生活が社会保障に依って安定すればする程、人間本来の宿命である冒険や実験的要素を孕んだ行動から遠ざかり、予め用意されていた道を、地図を頼りに無難にたどることになる。無難であるということは、人間が己の内奥において自我を放棄したことを意味しているのだ。生活の不安を背負い、汗を流して働き、果敢に挑まなくてはならない未知の前途がある限り、人間は堕落しないでいられる。危機感を失った人間は精神のリズムを乱している。人間の最も肝心なところで重大なものを失っている。武士階級に生きる人々のあの不幸を私は二度と繰り返すつもりはない。全く保証されることなく、ひたすら力の限り生き抜く素朴な人間でいるつもりだ。それ以外に人間はどんなに頑張ってみたところでまともに生きられはしない。野の生物たちに、一体どのような生存の保証が与えられているというのか? そこには何一つそういった気配は見られない。保証がないからこそそれはひたむきに雲の柱と火の柱を見つめて生きる。それより他に生きられる未知がない。どれほど精巧なコンピューターも、渡り鳥やホーミングの本能を具えた鳥や魚の機能を凌駕することはない。自然に服従することではなく、自然の気道を己の生命体の中に取り込むことに依って、文明が見失っている安定に入ることが出来る。
万葉の人間の大らかさ、自由な精神と、生き生きとした情感、あふれんばかりの語調のなめらかさと炎のような激しさ————私は今、彼等の人間像の中に日本人本来の姿を見出している。 万葉讃歌(5)につづく
それは、土佐の絵師、絵金の描いた生首や、血の吹き出る斬り取られた腕、はらわたの飛び出した屍人、幼児をさらわれていくのを狂乱して見守る母親の、悲惨さを充分含んでいる。
絵金の絵画は、人間の特殊状況における異常体験の描写である。たしかに、あの三百年は異常体験だ。この期間を経て日本人は、すっかり万葉の精神構造と体質を歪め崩してしまった。この三百年の悪夢の時代以前の人間と、以後の人間とでは、これでも血のつながりのある同一の民族なのだろうかと疑いたくなるくらい大きな相違がある。江戸氷河期は、同時にそこに堅固に築き上げられていた社会の脆弱さを、そこここに露呈していたことも事実であった。間歇的に吹き出た心ある人々の危機感は『自然真営道』のような出版されることのない著作となって結果し、狂歌となって巷に落書きされた。丸山真男が『日本政治思想史研究』の中で、「いかなる盤石のような体制もそれ自体に崩壊の内在的な必然性を持つことを徳川時代について実証することは、当時の環境においてはそれ自体大袈裟に言えば魂の救いであった」と書く時、かくれたラディカルな思想や、アンダーグランドの思想としての狂歌の狙った役割を、期せずして彼は説明したことになる。人間が個人としての次元で凍結していた江戸三百年が人間の手に成るものすべてに危機状態を招来してきたことは想像するに難くない。社会が安定していればいる程、人間の個人としての次元は荒廃の度合いを増していく。社会がその秩序を強めれば強めるほど、個人の領域は絶望的に乱れていく。社会の堅固さは人間個人の脆弱さの証である。確かな個人、即ち『旧約聖書』が繰り返し[昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれる]という自然の気道に直結した「私」を抱いた人間は、どのような文明社会の虚飾におおわれた人間をもその仮面を剥ぎ取って脆弱な本質を洞察してしまう。己が目撃した事実を率直に表白することの許されていなかった当時の人々当時の人々は辛うじてそれを狂歌に託したのであった。
この三百年の呪いと傷の痛みは、この宇宙時代に入っても、今なお、日本人の生活の中にたくましく息づいている。伝統とか、日本人の誇りとして、我々が高くかかげ、誇らしく抱いているものは、三百年の冷たい流刑地で身についた習慣であり、歪められてしまった体質であり、いじけた心で信じようとする不具者の意識なのである。しかしわたしは、今ここで、日本人が、この三百年の悲惨な経験をご破算にして、その彼方に健全に存在している、万葉の伝統に立ち返らなければならないことを主張したい。王朝時代も、戦国時代も、その政治形態がなんであろうと、その文化の進展具合がどうであろうと、そのようなこととは無関係に、当時の人間個人は、かなりゆとりをもって生きていた。
牛乳を飲み、床板の部屋に靴のまま出入りし、筒袖の着物、つまり、上衣とスラックス乃至はニッカポッカー型ズボンをはき、椅子に座り、観音開きのドアの付けられた部屋に、みすと呼ばれたカーテンをはりめぐらし、玄関に当たるところは、西洋の家屋のそれと同じで、ステップ(入り口の階段)があり、ドアまたはカーテンの内側には床板が敷き詰められていて、パッセージ(玄関の内側の部分)があった。
当時の帽子は、ハンチング、ベレー帽、三角帽などをたやすく連想させてくれるし、男女の愛の表現などもすっかり今日の西洋のそれを想わせてくれる。我々が今日、日本的なものだと、考えていたものは、そのほとんどすべてが、徳川三百年間の異常体験という悲惨さの極限状態の中で身につけ好むようになったものばかりである。床の間の位置と上座と下座の関係は幾何学の公式よりもはっきりしていて、これを破る勇気のある者はいないし、畳に座るという、人体の骨格や筋肉の仕組みから言えば最も不自然で健康のためにも良くない姿勢が、日本人の美徳の一つになっていることは泣くにも泣けないほど悲しい事実だ。三百年の悪夢の中で培われたものではなく、それ以前のものである茶道の自由さ、千利休の自由さ、独創性に富んだ人間らしさは、徳川の世に入って、化石化して、最も緊張度の激しい、恐ろしい環境を繰り広げていった。
自由人が、生活人のあそびとしてやるならよいのだが、そのような、人間を生かすことのない立ち居振る舞いの作法一切が、一糸乱れずに行われなければならないというところに傷の深さがある。外人が、あぐらをかき、左手の親指と人差し指の先で、茶碗をひょいとつまみ上げて、一寸苦いね、と言ってごくんと飲む態度の中になら、茶も生きてくるが、ゴンチャロフが見て腰を抜かして震え上がった能面のような顔をしてお茶の作法をやられたんでは、みじめで仕方がない。どいつもこいつも、蝋人形のような表情をして茶の作法をやるところに滑稽さは尽きないとも言える。私自身、茶道は大好きだ。茶杓さえ自分の手で、これはと思った竹でつくりあげる私である。だが、だがそれは利休の独創的な生き方の中でのみ受けとめるものである。伝統と組織をつくっている茶道の連中とは、屁の匂いさえはっきり違っている。三百年の悪夢に関係しないものなら、すべて良いものばかり。
山鹿素行や大村益次郎が目撃した武士達の在り方は、あの時代の人間崩壊のバロメーターであった。土を耕すこともせず、物を造り商売することも、教えることも、戦うこともしない武士達の生活は、文明の痛みをそのまま具現した生き方であった。先祖代々定められた禄高にしがみついて、為すこともなく一生を了る武士達の日々の暮らしは否応無しに形式化しない訳にはいかなかった。社会が生み出す非人間的なしがらみに囚われて、窒息寸前の状態に置かれていた精神の息衝き。形式の重みに耐え、しがらみに囚われて苦しむ悲劇は江戸期を克明に特徴づけている。文明が陥った人間悲劇の極限の一つとして武士階級の生き方を見ることが出来る。今日、社会保障制度のほとんど完備した環境の中で生活が安定している市民の生き方は、武士階級の禄高制度とその悲劇的本質において一脈通じている。生活が社会保障に依って安定すればする程、人間本来の宿命である冒険や実験的要素を孕んだ行動から遠ざかり、予め用意されていた道を、地図を頼りに無難にたどることになる。無難であるということは、人間が己の内奥において自我を放棄したことを意味しているのだ。生活の不安を背負い、汗を流して働き、果敢に挑まなくてはならない未知の前途がある限り、人間は堕落しないでいられる。危機感を失った人間は精神のリズムを乱している。人間の最も肝心なところで重大なものを失っている。武士階級に生きる人々のあの不幸を私は二度と繰り返すつもりはない。全く保証されることなく、ひたすら力の限り生き抜く素朴な人間でいるつもりだ。それ以外に人間はどんなに頑張ってみたところでまともに生きられはしない。野の生物たちに、一体どのような生存の保証が与えられているというのか? そこには何一つそういった気配は見られない。保証がないからこそそれはひたむきに雲の柱と火の柱を見つめて生きる。それより他に生きられる未知がない。どれほど精巧なコンピューターも、渡り鳥やホーミングの本能を具えた鳥や魚の機能を凌駕することはない。自然に服従することではなく、自然の気道を己の生命体の中に取り込むことに依って、文明が見失っている安定に入ることが出来る。
万葉の人間の大らかさ、自由な精神と、生き生きとした情感、あふれんばかりの語調のなめらかさと炎のような激しさ————私は今、彼等の人間像の中に日本人本来の姿を見出している。 万葉讃歌(5)につづく