独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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   万葉讃歌 (4)          佐藤文郎

2019-04-12 22:33:11 | 日記
【切腹や仇討ちは、現世の緊張して生きる非人間的な作法に 叶った生き方のつらさから、のがれる手段であって、これを縦糸とし、愛情や、その他の感情をむき出しに出来ないつらさ苦しさからくるヒポコンデリー症状を横糸として織りなす、人間束縛の物悲しくも悲愴きわまりない錦であった。
 それは、土佐の絵師、絵金の描いた生首や、血の吹き出る斬り取られた腕、はらわたの飛び出した屍人、幼児をさらわれていくのを狂乱して見守る母親の、悲惨さを充分含んでいる。
 絵金の絵画は、人間の特殊状況における異常体験の描写である。たしかに、あの三百年は異常体験だ。この期間を経て日本人は、すっかり万葉の精神構造と体質を歪め崩してしまった。この三百年の悪夢の時代以前の人間と、以後の人間とでは、これでも血のつながりのある同一の民族なのだろうかと疑いたくなるくらい大きな相違がある。江戸氷河期は、同時にそこに堅固に築き上げられていた社会の脆弱さを、そこここに露呈していたことも事実であった。間歇的に吹き出た心ある人々の危機感は『自然真営道』のような出版されることのない著作となって結果し、狂歌となって巷に落書きされた。丸山真男が『日本政治思想史研究』の中で、「いかなる盤石のような体制もそれ自体に崩壊の内在的な必然性を持つことを徳川時代について実証することは、当時の環境においてはそれ自体大袈裟に言えば魂の救いであった」と書く時、かくれたラディカルな思想や、アンダーグランドの思想としての狂歌の狙った役割を、期せずして彼は説明したことになる。人間が個人としての次元で凍結していた江戸三百年が人間の手に成るものすべてに危機状態を招来してきたことは想像するに難くない。社会が安定していればいる程、人間の個人としての次元は荒廃の度合いを増していく。社会がその秩序を強めれば強めるほど、個人の領域は絶望的に乱れていく。社会の堅固さは人間個人の脆弱さの証である。確かな個人、即ち『旧約聖書』が繰り返し[昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれる]という自然の気道に直結した「私」を抱いた人間は、どのような文明社会の虚飾におおわれた人間をもその仮面を剥ぎ取って脆弱な本質を洞察してしまう。己が目撃した事実を率直に表白することの許されていなかった当時の人々当時の人々は辛うじてそれを狂歌に託したのであった。
この三百年の呪いと傷の痛みは、この宇宙時代に入っても、今なお、日本人の生活の中にたくましく息づいている。伝統とか、日本人の誇りとして、我々が高くかかげ、誇らしく抱いているものは、三百年の冷たい流刑地で身についた習慣であり、歪められてしまった体質であり、いじけた心で信じようとする不具者の意識なのである。しかしわたしは、今ここで、日本人が、この三百年の悲惨な経験をご破算にして、その彼方に健全に存在している、万葉の伝統に立ち返らなければならないことを主張したい。王朝時代も、戦国時代も、その政治形態がなんであろうと、その文化の進展具合がどうであろうと、そのようなこととは無関係に、当時の人間個人は、かなりゆとりをもって生きていた。
 牛乳を飲み、床板の部屋に靴のまま出入りし、筒袖の着物、つまり、上衣とスラックス乃至はニッカポッカー型ズボンをはき、椅子に座り、観音開きのドアの付けられた部屋に、みすと呼ばれたカーテンをはりめぐらし、玄関に当たるところは、西洋の家屋のそれと同じで、ステップ(入り口の階段)があり、ドアまたはカーテンの内側には床板が敷き詰められていて、パッセージ(玄関の内側の部分)があった。
 当時の帽子は、ハンチング、ベレー帽、三角帽などをたやすく連想させてくれるし、男女の愛の表現などもすっかり今日の西洋のそれを想わせてくれる。我々が今日、日本的なものだと、考えていたものは、そのほとんどすべてが、徳川三百年間の異常体験という悲惨さの極限状態の中で身につけ好むようになったものばかりである。床の間の位置と上座と下座の関係は幾何学の公式よりもはっきりしていて、これを破る勇気のある者はいないし、畳に座るという、人体の骨格や筋肉の仕組みから言えば最も不自然で健康のためにも良くない姿勢が、日本人の美徳の一つになっていることは泣くにも泣けないほど悲しい事実だ。三百年の悪夢の中で培われたものではなく、それ以前のものである茶道の自由さ、千利休の自由さ、独創性に富んだ人間らしさは、徳川の世に入って、化石化して、最も緊張度の激しい、恐ろしい環境を繰り広げていった。
 自由人が、生活人のあそびとしてやるならよいのだが、そのような、人間を生かすことのない立ち居振る舞いの作法一切が、一糸乱れずに行われなければならないというところに傷の深さがある。外人が、あぐらをかき、左手の親指と人差し指の先で、茶碗をひょいとつまみ上げて、一寸苦いね、と言ってごくんと飲む態度の中になら、茶も生きてくるが、ゴンチャロフが見て腰を抜かして震え上がった能面のような顔をしてお茶の作法をやられたんでは、みじめで仕方がない。どいつもこいつも、蝋人形のような表情をして茶の作法をやるところに滑稽さは尽きないとも言える。私自身、茶道は大好きだ。茶杓さえ自分の手で、これはと思った竹でつくりあげる私である。だが、だがそれは利休の独創的な生き方の中でのみ受けとめるものである。伝統と組織をつくっている茶道の連中とは、屁の匂いさえはっきり違っている。三百年の悪夢に関係しないものなら、すべて良いものばかり。
 山鹿素行や大村益次郎が目撃した武士達の在り方は、あの時代の人間崩壊のバロメーターであった。土を耕すこともせず、物を造り商売することも、教えることも、戦うこともしない武士達の生活は、文明の痛みをそのまま具現した生き方であった。先祖代々定められた禄高にしがみついて、為すこともなく一生を了る武士達の日々の暮らしは否応無しに形式化しない訳にはいかなかった。社会が生み出す非人間的なしがらみに囚われて、窒息寸前の状態に置かれていた精神の息衝き。形式の重みに耐え、しがらみに囚われて苦しむ悲劇は江戸期を克明に特徴づけている。文明が陥った人間悲劇の極限の一つとして武士階級の生き方を見ることが出来る。今日、社会保障制度のほとんど完備した環境の中で生活が安定している市民の生き方は、武士階級の禄高制度とその悲劇的本質において一脈通じている。生活が社会保障に依って安定すればする程、人間本来の宿命である冒険や実験的要素を孕んだ行動から遠ざかり、予め用意されていた道を、地図を頼りに無難にたどることになる。無難であるということは、人間が己の内奥において自我を放棄したことを意味しているのだ。生活の不安を背負い、汗を流して働き、果敢に挑まなくてはならない未知の前途がある限り、人間は堕落しないでいられる。危機感を失った人間は精神のリズムを乱している。人間の最も肝心なところで重大なものを失っている。武士階級に生きる人々のあの不幸を私は二度と繰り返すつもりはない。全く保証されることなく、ひたすら力の限り生き抜く素朴な人間でいるつもりだ。それ以外に人間はどんなに頑張ってみたところでまともに生きられはしない。野の生物たちに、一体どのような生存の保証が与えられているというのか? そこには何一つそういった気配は見られない。保証がないからこそそれはひたむきに雲の柱と火の柱を見つめて生きる。それより他に生きられる未知がない。どれほど精巧なコンピューターも、渡り鳥やホーミングの本能を具えた鳥や魚の機能を凌駕することはない。自然に服従することではなく、自然の気道を己の生命体の中に取り込むことに依って、文明が見失っている安定に入ることが出来る。
 万葉の人間の大らかさ、自由な精神と、生き生きとした情感、あふれんばかりの語調のなめらかさと炎のような激しさ————私は今、彼等の人間像の中に日本人本来の姿を見出している。 万葉讃歌(5)につづく

   万葉讃歌 (3)          佐藤文郎

2019-04-10 09:30:56 | 日記

  文郎さん
 元気ですね! 言葉、ひとつひとつの中に 大自然のエネルギーが 躍動していましたよ! 君の手紙の中の———、四月、ぜひ おいで下さい! あたたかい日の光の中で あなたと おそらく 最後のかたりあいが 出来るでしょう! この人生で 出合えた頃 とても しあわせでした! 
 人生バンザイ!
 合う日まで————。              上野霄里
     
(水彩でわすれな草の絵が、描いてあり、紅子とは、奥様の雅号でしょうか)

 こころと言葉が一致しているというのは、こういう文のことです。「出合えた頃」とありますが、六十年前です。私は親不孝をかさねただけではないですね。また「最後のかたりあいが———」とありますが、「まだ行ってないのか、お前一人だけだぞ」と至る所からきこえてくるようです。一年に一度、上野先生をかこんで、懇親会がおこなわれます。沖縄から、九州から、四国から,島根県から、盛岡から、衣川から、しかし東京にいて、のんびりしている私は毎回欠席しています。今年は、這ってでも、懇親会と別行動になっても、行くつもりでいます。昔から、私が、呂律が回らず、口籠っていると、先生は、一語聞いただけで、分かるらしく、話そうとしているお粗末な内容を完全な物にして聞き取って下さるのです。恐ろしい位の察知能力なのです。「最後に、かたり合いが」などとはとんでもないです。まだまだ先生には、人生の深淵について教えて頂かなくてはいけません。今日も又、万葉集や万葉歌人について、このあとつづけるのですが、六十年前の作とはおもえませんね。この本を岩手県のいちのせきで、刊行をみたとき、沖縄から北海道、日本全国からこの本を読んだ色々な方が先生に会いに訪ねて見えましたね。初めは出版のことなど、誰も信じないでしょうが、全く念頭になく、先生は広告紙の裏に書いた物を二十枚程、毎日私と、重度の障害があり、椅子に座ったきりの、しかし特別な才能に恵まれた鈴木幸三さんに読んで聞かせていました。しかし、この本の内容は、放っておいても、ひとりで、足が生えて、活字になって、広い世界に飛び出して行く運命と言うか、必然性をもっていましたね。力強い音読に、涙を流したり、励まされたり、そうかとおもうと、自分が云われているのかと、青ざめ、唇の端をわななかせたりしました。奇蹟がおきて、数年後に出版されるのですが、それでも不思議なのは、先生も私もこれで一儲けしようなどとは考えませんでした。何十年経ってもそんな気分はおきません。三十年前、先生の著作をまとめて一億円でどうだ、といって来た人を、先生は断った出来事は懇親会に集まる人達の間では知られている事です。金銭の価値とは別の、金銭では換算出来ない永遠の価値を先生は考えておられるし。すでに得ておられますね。私にもわかります。金銭は使えばなくなりますが、先生から教わったイノチは、エネルギーとしか表現出来ませんが、素晴らしいものです。百%精神的なものです。私が手に入れた魂魄は、だいぶ、輝きも薄く形もいびつですが、それでも永久に清々しい思いで、わが胸の奥で輝き続けるはずです。それでは、そろそろ先生が琵琶法師のごとくに言霊で語る万葉の世界の貴人達に会いに行くことにします。
 上野霄里著『単細胞的思考』
  ◯第一章 原生人類のダイナミズム ——原始的人間復帰への試み——
◆ゴンチャロフの水晶体(万葉集のポエジーをメデアとして)前回からつづく。
 【———彼等は、自らが日本人の原形質であることを、歌の言葉に託して、今日の我々の胸に向かって証言しているのだが、我々の胸の真空管もトランジスターも、とうに切れてしまっている。出力は大きいのだが、肝腎の配線が狂っている。だが一度この社会から葬られ、この世代の最大の敵となりこの世の最低の愚か者となり果てる瞬間から、元通り配線が直り、真空管が働き始める。常識家にとって万葉集は何の意味もない。
 徳川三百年の鎖国の歴史、これはトインビーやウエルズ始め、多くの外国の歴史家たちが、戸惑い悩む不思議な事件であった。この地上に、三百年もの長い期間にもわたって、何千万人(当時の人口)かの人々が独裁政治の下で、何も言わずにじっとうずくまっていた例は他に見られない。思えば、何とも納得のいかない事件で在った。この三百年間、日本人は、陽の当たらぬ牢獄に閉じ込められて服役していたわけだ。何ら正当な理由と罪状なしに、無理矢理に、このじめじめした牢獄に幽閉されていたのである。ロシア人、ゴンチャロフが、会ってその異様さと無表情さ、形式張った中味の無い立ち居振る舞いといったものに、驚き呆れ返ったのはほかでもない、三百年の囚人生活ですっかり人間本来のうるわしい姿と、たくましい機能と、生きているにふさわしい溌剌とした精神を麻痺させられてしまっていた幕末の日本人だったのである。彼は、日本人のなれの果てに出遭った。腰を抜かしておどろいたのも無理は無い。三百年の流刑を了えて戻ってきた囚人が、その時代の感覚をそなえているはずがあるまい。三百年前の生活を、化石のように反復してきた罪人にとって、三百年後の新しい時代が恐ろしく、しかも油断のならないものとして、思わず知らずさっと身構えるのも至極当然のことではないか。
 ゴンチャロフは、そういった、三百年の重労働をつとめあげて、悪魔島から戻って来た、世にも奇怪な囚人に出遭ったのだ。ハリスもビゴーも、日本人に出遭って度肝を抜かれたことを、だらしないと責められないはずだ。自由に生きていた人々にとって、当然、思わずしめしてしまう反応であった。
 徳川三百年の牢獄生活で、日本人はどのようにかわっていったか。恋愛感情を表現することは男子として恥ずかしいことと思うようになり、愛し合って連れ添った仲であっても、妻が、その五十年の夫婦生活の中で納得することは、夫が一、ニ度しか愛情を、それとはっきり示すことはなかったという事実である。そして、その一、ニ度の愛情表現さえ、おそらく亭主本人にとっては、どうかしたもののはずみで、心にもなく取り乱してそうしてしまったのであって、それさえ大いに恥じるといった具合だ。
 男の誇るべきことは仕事だとか、大義に殉ずることだとか、そんなご大層なことを言って、結局は間に変貌していったのだ。
 西洋人が、日本人は我々と違って、肉体の感覚が薄いのかと勘ぐりたくなるほど、平気で、しかもあっさりと切腹をした時代がつづいた。その実、実際に腹など切ってはいない。四十七士の時には、短刀の代わりに、三方に載っていたのは扇子だったと記録されている。そして、切腹人が、儀礼的に、作法に従って扇子を短刀に擬して、おしひろげられた腹に突き立てる瞬間、背後に立っている介錯人の大刀が素速く宙を走り、首を打ち落とした。全く痛みを感じない瞬間的殺人法。
 例え本物の短刀で切腹の座についたとしても、短刀が腹に当てがわれる瞬間に、タイミングよく首が打ち落とされた。武士の情。いい言葉だ。武士は相見互いと固く信じて彼等は互いに助け合ったのだ。痛くて苦しいだろうとよく分かっていたのだ。だから、武士の情がこの上なく美わしいものとして、さむらい達の心を締めつけていた。武士道のリリシズムがここにある。
 だが、この武士の情は、決して口外してはならないものであった。切腹の実状は、つまり、短刀が実際には腹をえぐりとることをせず、死の苦しみにもだえさせないように、介錯人が気を利かしてしまうといった事実は、決して口外されなかった。切腹とは、従って、人間以上の不思議な力に支配された儀式として、部外者の印象に残される結果となった。
 それにしても、死ぬということ、身も心も転倒していて自殺して果てていく者は別として、堂々と、死んでいる切腹人の心境は、大きな謎だ。単なるさむらいの意地だけが仕向ける業であろうか。単なる純粋な忠誠心だけであれだけのことが出来るものであろうか。単なるお家大事といった、今日のサラリーマン意識があれほどの大胆さを与えるものだろうか。いや、決してそうではない。そう考えることは、余りにも感傷趣味に流れた、日本人以外の人間にのみ許さされる解釈の仕方である。我々日本人には、こういった見方が、どのような理由からしても、決して許されてよいはずがない。私は、ここで、はっきりとそのことを言わなければならない。
 武士達のあの切腹とか、それに類した他の大胆不敵に見える生き方もよくよく観察してみれば、三百年の不自然な緊張の連続である生活の中で、当然心に感染しなければならない筈の、ヒポコンデリー症状の一面であり、ヒステリー症状の側面であった。
 仇討ち、自決、出家して世捨て人になる行為、これらは直接的に武士の健康な行為、深い宗教的行為とみなされていた悪夢の三百年は別として、今日、我々は自由な眼でもって、悪質な病気の末期症状とみなければならない。夫婦は決して離婚してはならぬものと信じ込み、愛してもいず、尊敬してもいないくせに生涯連れ添うなどといった生き方も、ノイローゼの重症患者のしそうなことである。社会的義務のために自己を葬り去る。自由人にとって夫婦が一生連れ添っていられるのは、生涯二人が互いに魅力を発見し合い、新鮮な気持ちで愛し合っていける時のみに限られなければならない。そうでなかったら別れるべきだ。自分を殺してまで夫婦になっているなど、牢獄生活よりも辛いものとなる、ましてや子供が可哀想だからなどといって行われる不義は許されてはならない。愛情もないくせに、別れることもせずにじっと我慢しているような、自己のない両親などいない方が、子供は、孤児にはなるとしてももうすこしは、ましな愛情と誠実さにかこまれて育てられる環境に入っていくはずである。親としての妙な想い過ごしはきっぱりと捨てて、もう一度自分をみつめてみるべきだ。こういった偽善の夫婦は、今日いくらでもいる。いや、大半の夫婦が多かれ少なかれこういった要素を皮膚の一枚の下にはらんでいる。いつそれが爆発するか余談をゆるさない。
 そういう訳で、現代人の表情に生気がなく、何をやらせてもびくついた態度になるのも当たり前のことである。三百年の牢獄生活の痛みと歪みは、今日、我々の心身に歴然としてその痕を残している。
 ヒステリックに、腹に短刀を突き立てたノイローゼ気味の主君の仇を討つ時、彼等は、「あなうれし 心は晴るる 気は晴るる この世の月にかかる雲なし」
 とうたえたのは、分かり過ぎるほどよく分かる心境だ。切腹して果てる瞬間、打首にされる瞬間、仇を討ちとったその瞬間、彼等は、生まれてからずっと緊張のしずくめであった状態から解放されて、思わず知らず、ほっと深い吐息をもらしたのである。心の底から、あなうれし———と嘆声をあげることが出来た。
 その点、比較的自由に、自分をさらけ出して生きた町人の一部や、職人達はひどく死を怖れ、土壇場の、打首になる瞬間まで、助けてくれー、と悲鳴をあげ、もがきつづけた。緊張のしどおしの役人達は、何とあさましい根性の奴だと、こういう未練がましい罪人を軽蔑の目で眺めたことだろうが、彼等の心境には、矛盾の渦が坂巻きくるっていたはずである。】万葉讃歌(4)へつづく

   万葉讃歌(2)           佐藤文郎

2019-04-08 11:59:28 | 日記
 年金の仲間はコバヤシさんといいます。時々将棋をさす相手でもあります。若い頃ボクシングをやっていたそうです。鼻の骨が折れているんだそうです。頭もボンヤリとして,意識が遠のいでいくような、しょちゅうそのようになるそうです。しかし将棋は強い。私は一度もかったことがありません。追いつめた、こんどこそ勝ったと思っても、いつのまにかまけてしまうのです。もうひとりの中年氏は体型がまんまるいので、丸サンと呼んでいたらそのまんま丸サンになって、呼べばへんじをするようになりました。あと元ヤーさんの竹さんがいます。めったに姿を見せませんが、歌が好きで図書館に現れた時はかならずカラオケにつきあわされます。「兄弟仁義」とか「とんぼ」が彼の持ち歌です。私はもっぱら「恋人よ」一曲しか唄えません。
 「名文談義」は、もちろん何時もの調子で与太をとばしたのです。私はよくはなしをするので、センセイを知っていて、みんなは“うえの”とよんでいます。彼等の間では一目おかれていて、ふざけた事を普段いっていますが、みな読書好きで“うえの”の著書も読んでいるのです。また、ヘンリー・ミラ―についてもよく知っているのです。しかし普段の会話にはでません。名文も彼等はそんなものどうでもよいのです。文章より大事なものは、それを書いている人間の生活態度や人生経験や行い、そしてそれらに対する情熱であることを知っているのです。文章にはそれが出るというより、出ないようでは文章ではないとおもっているのです。こっちの方が名文とか、あれより、こっちが名文だなど美人コンテストではないのだから、実際そういった人がいました。『単細胞的思考』は私が薦めた訳ではないのに読んでいるのです。ブログに書いた“万葉讃歌”を読んで、「いけず! 途中で止めたりしちぁ、だめン、だめよ,バカン」と丸ちゃんに云われてしまいました。
 そういうわけで、万葉讃歌(2)をつづけることにしました。
 その前に、上野霄里せんせいの、普段着のすがた、仮装行列から離れた所で生きておられる様子をお見せ致しましょう。私宛の葉書ですが、不自由な手で必死にはこんだ万年筆の字体ですが、棲んでおられる世界が、精神のたたずまいが、おのずと伺えるこころ洗われるようなおはがきに思わず……。
  佐藤文郎様
 少しばかり 春の匂いがする風が 吹きはじめました。人間の生命も 虫も 花の生命も 大自然の中では まったく 同じですね。利こうな人間だけが 戦ったり なげいたり いたみ くるしみ ねたみ ののしっていますね! 一度 文化 文明から 人間は 離れなければいけないようです! 毎日 すなおに 物を考えて行く 人間でありたい! このいのち 万歳!
                            霄里 
 ○前回の上野霄里著『単細胞的思考』
第一章 
 ◉ゴンチャロフの水晶体(万葉のポエジーをメデアとして)
——中略につづく。
 【我々が、従来誇っていた、日本人の誇りが単なる幻影に過ぎなかったと自覚する勇気が唯一の前提となって、初めて万葉集が正しく詠まれ、味わわれる、そうでないかぎり、これらのぼうだいな量の歌に含まれた過激な言葉の一つ一つは、或る時代の、得体の知れない人間経験を経て生み出された、極特殊なもの、非現実的なもの、人間生活の限界をはみだしたものとしてしか受け取れなくなってしまう。
 万葉集を、本当に血をわきたたせるものとして味わうためには、先ず、その人間が、自殺をして果てなければならない。今迄の日本人としての抱負の一切をすてさらなければならない。これは激烈な進歩、向上の歩みだ。
 おそらくは、江戸時代の始め頃からであろうが、万葉時代の日本人の心は、大きくゆがめられてしまった。群雄が各地におさまって、創造的な政体と、独創的な支配力を示していた前江戸期には、まだ、万葉の心が残されていた。徳川家康というあの男の示した人格は、現代社会を構成している大半の要素に通じていて、それは、集団をすっきりと、うまい具合に指導し始め、集団体操を続けさせていくことが出来るが、そのために、個人はどれほどの被害をこうむったことか。つまり、個人の創造的な生き方と、集団のすっきりとした在り方は、決して両立することのないものなのだ。畳の上に、四角張って座り、上座と下座が定まった時、人間は、個人の姿を、そのまま露呈することを怖れるようになり、個人の言葉を語ることを罪悪視するようになった。個人はもはや、そのままでは、何ら正当化されず、どのような美徳も生み出したり出来ないものとなっていった。個人は、どの方向から見ても、間違いなく悪であり、不届きな存在としてその身を甘んじるよりほかに仕方がなかった。
 そうした〝個人〟というものにたいするりかいの在り方は、徐々に個人にまつわる一切の価値を罪悪視するようになっていった。個人は弱いものといった最初の感覚は、遂に、個人を核とする一つの巨大な悪魔をつくっていった。個人はもはやどのような立場から見ても正当化されることはなくなってしまった。個人は、れっきとして存在しながら、決して表面にあらわしてはならないもの、絶対にほのめかしてはならないものとしてあつかわれてきている。
 誰もが、個人を持って生まれてきていることは事実だ。そしてそれが例え、死の様相を呈していようとも、そうでないとしても、とにかく、日々の生活の中で、身の内に感じとっているものなのだ。これは否定できない。その事実を認識する心が人間を一層暗くする。日本人の暗さはここにある。そしてこれは、世界中どこに行っても同じであるかも知れない。そういった、個人を犠牲にして成立っている伝統や正義、文化を、一体、何故、誇りにしなければならないのか。これは重大な問題だ。これが納得出来ない限り、人間は、決して、他のどのようなことにも、まともな思索や議論、そして行動をする資格はないのである。
 個人の欠如を見事に正当化しているのが文明一般の働きである。しかも、それを何ら疑わずに信じ込んでいる人間が、今日も大半を占めている。
 〝個人〟は傷つき、亡び、風化してしまっていて、その屍が、累々と人間の精神の内壁にこびりつき、うずたかく堆積している。沖積世、洪積世代の物悲しげな歌が、低く澱み、氷河のペースで流れる流れがある。ひどく緩慢で、同時に、限りなく激しい流れ。
 しかし万葉集の中では、個人が無傷のままで遺されている。傷だらけの人間が無傷なものを眺めてもいたずらに溜息がもれるばかりだ。全く自分とはかけはなれた別天地の生物を眺めるようにこれを眺めている。】次回につづく

   万葉讃歌           佐藤文郎

2019-04-06 20:56:19 | 日記
 実は、前回書いた筆者の拙文の中に「センセイの、天下一品と私が認める日本語…」と書いたことについて、図書館で知りあった同じ年金仲間が、「そういう貴重な文章をぜひ読んでみたい、なぁみんな(笑い)」と言い出した。(そんな物あるわけがないと顔にかいてある)天下一品のことだが、たしかに、言うだけなら、“乞食の粥”には米粒がないと云うからな」
「重湯よりわるい、湯(言う)だけ、と云うことか」と、もう一人の中年。
「そうだよ、じいさんが、天下一品と太鼓判を押した日本語を、その出典も合わせて紹介しなよ。漱石よりも、鴎外よりも名文だと云う事にならないと…」
「お望みとあれば紹介しよう。名文とは,こういう物のことを云う、唯一無二さ。そして、語録ノートから披露するとしよう。千を下らない例文の中から一文をここに掲げることにする。
「勿体つけずに、前置きはもういいから、早く,始めた、はじめた、迷文でなければよいが…」
 じつは、こういう書き出しで先生の『砂嘴(さし)のアレゴリイー』という文章を用意したのでしたが、どうしたわけか、そのブログ原稿が“投稿”できなかった。機器が受け付けなかった。何度やってもできなかった。(また、イタズラか?)とも思った。我が身とおなじでPCも古ぼけたので愈々がたが来たかと思いもした。冗談だが……。
 そんなことで十日ほど経った頃、思いがけないことが起きたのである。このたびの、新元号が発表になったのである。新元号が発表になっただけなら別段どうということもないのだが、その『令和』が〖万葉集〗からの典拠であると知って、老いぼれのPCに活をくれて、もう一度再投稿してみようと思い立ったのである。この時点でどうなるかはまだ分かりません。やってみるだけです。
 そのセンセイとは、上野霄里先生のことです。丁度今から五十年前に出版された本です。その時からまた四十年後に、東京中野にある「明窓出版」という出版社から復刻された『単細胞的思考』。一章から九章まであるのですが、その第一章に、先生ご自身が万葉集と出会われた時の感動的な読後感想を書いておられます。もちろん、こちらもダイヤモンド級の名文ですので、差し替えてこちらに致すことにします。
 筆者の前座役はこのへんで終わりにいたします。霄里先生の内奥からの歓びに溢れた万葉集讃歌に触れてください。紹介するのはほんの導入部だけですが、これから原文で当たる方も現代文で通読される方も、かならずや参考になるのではと思います。その独特で特異な感性と理解の深さに驚かれるでしょう。そうです。まずともにその新鮮な広がりを見せた大らかな世界にびっくり仰天してください。
 機械の調子よ、持ち直してくれ! と祈るばかりです。(掲載については、昨日、上野霄里先生に連絡を入れております)。
 
○第一章 原生人類のダイナミズム  ———原始的人間復帰への試み——
  ◆ゴンチャロフの水晶体(万葉集のポエジーをメデアとして)
【とても寝ていられないくらい嬉しいのだ。この感動、この興奮、この新鮮な気分はどうだ! 長らく求めていた真の友に出遇ったよろこび…まさにこれだ。
 今朝は、外はまだ薄暗いというのに起きてしまった。とても寝てはいられないぐらい嬉しいのだ。何という心の軽やかさだ。 何と快適に血液がかけめぐっている身体だ。何と心臓の調子がいいことよ! まるで、天国のパスポートを手に入れ、ヴィザを手に入れたような幸せな心境である。
 万葉集! 万葉集の中の短歌は、以前にも、何度か読み、諳誦し、歌人の名前のいくつかも口馴れていた。だが、こういったものが、今までは、一寸も私の実生活には結び付かなかった。
 山部赤人と口ずさんでみても、紀郎女と口ずさんでみても、それは全く私個人とは無関係であった。第一、万葉の歌を教え、講義する教師の表情や言葉が、実にやつれ、しなびたものであった。どうしてこんな面倒くさいものをやらねばならないのだろうと、不平不満のみがつのっていった。
 万葉集は私にとって、ひどく退屈きわまりないもの、難解なもの、いやに乙にすました、気取ったものとしてしか映らなかった。王朝時代の朝廷貴族が行った文化大事業として編纂されたものであって、それも長年の歳月が費やされ、四千五百首にものぼる歌があつめられているという程度にしか理解していなかった。
 貴族達がうたった歌となると、当然それは、今日流に置き換えて考える時、ひ弱で、理屈っぽく、むやみに権力をかさにきた、インテリどものあそび事のように想像してしまう。私も長らくそう考えていた。王朝時代のあの大らかさ、自由さと口では言っても、それには、決して、実感がこもることがなかった。
 たまたま、地方の歴史にまつわる、みじかいエッセイを書くので、引用しなければならない短歌を、万葉集の中にさがしていた。目次がなく、索引がないので、上下二巻に分けられている万葉集を一頁一頁丹念に開いて、目を通していかなければならない羽目になった。しかしそれが大いに幸いした。エッセイを書くことに対する熱意もさることながら、思わず知らず声を大にして、向いに座っている妻に読んで聞かせ、その大意を、私流の激しい口調と、洪水のような量の単語の数で、表現する始末だった。
 実に一つ一つの短歌が激しさに溢れているのだ。貴族が編纂したとはいえ、それは決して貴族のあそびではなかった。乞食さえ、堂々とうたっているではないか。自分のはらわたが、死んだ後、塩辛になって天皇の口をたのしませるとうたっているのだ。これが、きれいごとの、うわべをかざった御上品な作品と言えようか。夫を流罪にされた犯罪人の妻も、まるで、紅海のほとりに立ったモーゼの姉ミリアムのように、何らはばかることなく胸一杯にうたっている。夫を取り去られた妻の怒りと悲しみが、その歌の、印刷されている頁が破れんばかりの激しい口調でうたわれている。
 万葉の歌人達は、恋にも情事にも、何ら、言葉に衣を着せなかった。堂々と心のたけを歌にあらわした。実にすばらしい時代だった。そして、これを書いた文字は大陸の文化を盛った漢字であって、当時の一般庶民には手のつけられない代物であった。さしずめ、今日に例えるなら、日本人が、フランス語かラテン語で作品の一切を書いて出版したということになろうか。
 大衆性などといった問題は一切眼中になかった。そこに、万葉集の永遠性が見られるのだ。
 もし、万葉集が、当時、誰にも彼にも分かるものであったとしたら、今日、全く無意味なものになり果てていたことは間違いない。そういった大衆へのアピールは全くしていない。
 今日、真の実験的文学や、他の諸芸術、諸宗教が一般的でないとしても、この意味で考える時、充分、そこには正当性があると言わねばならない。結局、目の前の死人にわからせようとして、その意図に当てはめられて書かれる文章は、各時代を通じて、生きている人間に納得させる力を放棄しなければならない運命を負っているのだ。
 敏達天皇以後の、仏教に熱中し、驚喜した時代は、日本が若々しく成長し、たくましく生い立っていく時期であった。日本全体は、特に、為政者達は、急進的な開国論者であり、国際的視野の持主で合った。明治維新のそれよりも。比較的に言えば、その度合いは、はるかに上のはずだ。一体、どうして、あの時代の人達はあのように自由で、言葉が心と直結していたのだろう。現代の人間が、何事も控え目で、言うことが心と裏腹で、すべてが仮装行列のようになっているのは、どうしてであろう。いつ頃から我々は。万葉時代の素朴さを失ってしまったのか。もし、今日、万葉の貴人達、それも乞食も犯罪者の妻も含めてのことだが、彼等と同じ生き方をするなら、大馬鹿者と罵られ、単純過ぎるとわらわれるだろう。事実、世界中の偉大な魂の持主は、古い時代の自由さを失わずに生活してきたので、このような不当なそしりと待遇を、ほとんど一人の例外もなしにうけている。
 私は、今迄ずっと日本人であることを拒否しつづけてきた。本当に生きるために、じぶんが自分の主人として、最も自分らしく活きるためには、日本人としての美徳は害であることを悟っていた。だから、文明の最悪の反逆者、伝統の最大の不穏分子として自らを任じてきた。だが今、私の考え方は、少しかわった。万葉集の自由なたましいの息吹に触れてかわってきた。私は最も日本人らしく生きようとしているのだ。私は、最も伝統を重んじる理想的な保守主義なのだ。いや、ずうっと前々からそうだったのだ。私は万葉時代の素朴で大らかな精神と、燃えるような躍動と、煮えたぎるような感覚の自由な振るまいを身に付けている。私は、万葉集の素肌に、こうして触れることに依って、日本人であるという事実に、限りない誇りを抱けるようになった。私は、生まれながらにして、万葉の歌人達の、あのセックスの強烈な匂い、感情の自由奔放さが身についていた。不幸にして、死人で埋まっている現代にあって、私のそういった美徳と長所が、調子のよ過ぎる私の良心の不注意であやうく摘まれてしまうところであった。
 私自身、私の全生涯を通して、四千五百首の熱烈な歌を大らかに、口を大きく開いてうたわなければならない。私はそのために生まれてきたのだ。それ以外に、私に生まれてきた目的と意味はない。私は、私なりに生きようとすれば、どうしても、万葉歌人の狂乱と人生謳歌におち込んでしまうことは火を見るより明らかなことだ。
 私は、それをひどく喜んでいる。これは私に与えられた特権だ。私は、これを大いに誇らなければならない。
 万葉集の一つ一つの歌をあじわいつつ、私は、思わず知らず、ポロポロと涙をこぼしてしまった。何と言うダイナミックな情感だ! 何という美しい人間の感動だ! これらがすべて、歌の端々に溢れ、漲っている。この尊いエネルギーを、当時の一般人達に分からせようとして、少しでも減らしてよいという理由がどこにあったろう。
 私もまた、今日、私の時代に在って、私の書くものの中に濃縮されている人間回復、死人回生のエネルギーを減らして迄、大衆にもてはやされるものにさせようとは毛頭考えない。私が万葉歌人と、その編纂者達と同じ心境に立って悪いという理屈がどこにあるというのか。心のままに万葉の歌の一つ一つを、想いのたけを尽くして語り、詠み、味わっていくつもりだ。心ある読者ならば、私とともに、心洗われよ。真理を尊いものと信じている人ならば、力を与えられるがいい。人生に意味を持たせたい人は、何かを掴みとるがいい。自分が自分自身でありたいと願っている人は、ここで、万葉の言葉の魔力にふれて、奇蹟に近い体験をするがいい。——中略——】(まだまだ先生のメッセージはつづきますが、私の紹介はここまでにします)。








ウソを吐く必要のない人          公園ぢいさん

2019-02-09 19:01:26 | 日記
 そんなひとがいるものだろうか。わたしのセンセイがそうである。出逢って六十年になるが、若い頃の四年間は毎日のように出かけ、顔を合わさぬ日はなかった。その後故郷を飛び出し、三十年に四度ほどお会いしたが、私の方が消息ふめいの間が長かったので音信も途絶えがちだったにしても、ほんとうにウソはいらないのである。お会いしても受話器を通してもウソはひつようがなく、森林浴のようにセンセイのことばをあびながら実感出来るのである。
 もちろん、センセイだけではないが、しかしセンセイは、私に“言論の自由”というものを制限なしに許してくださるのである。そういう人は他にいなかった。そういう意味でセンセイは憲法そのものである。思想としてソレを掲げて来たわけではなかったが、日本国憲法第21条の真の意義を証明してくださったひとである。私にとって実感できるものとなったのである。
 私にはそのホウがたいせつなのである。生きて行くうえでそれが直接、空気のつぎにだいじなのである。まず聞いてくれる。まずしゃべらせてくれる。すぐ異をカブせてきたり、さえぎったりはしないのである。そして、ぜんぶ肯定しない場合は、大きな袋でまず受けとめてくれる。
 私以上にセンセイのほうが腹蔵なく話してくださるのである。他の人なら話しに触れる事をはばかることを話してくれる。その話しによどみがないのである。ごまかしがないのである。それを聞いて私も澱みがないように、隠さない様にとなっていった様に思う。
 公園を歩いていても、衣食住いじょうにだいじなことを教わったとおもうのである。しかし当然衣食住を得るために、家族をまもるために生きて来たのは言うまでもない。しかしそのことが幹であったことはなかった。幹は、センセイの教えであった。そうでなかったら、今、いままでで、最低のどん底の一人暮らしをしていられるわけはない。食べる事や、住むことや、着るものをまっさきに考える男で居たら、しょぼくれた老体で嘆いてばかりいたことだろう。
 センセイとお会いすれば、喉チンコがみえるような大きな口で笑い合うのである。お会い出来ないときは、その様子を思い浮かべてひきつったようにわらうのである。思い出には事かかないからだ。偉大なセンセイに疑いをもったことはない。腹のなかみを見せているし、見ているからである。そのうえで、主要三か国の通訳ができ、アラビア語ラテン語、ギリシャ語などにも本国人なみに書いたり話したりできるのである。それなのにセンセイの書く文章には、外来語も和製外国語もほとんど使われない。私のように、なまじ知らない者が、多用する傾向にある。こまったことだ。
 そしてセンセイの天下一品と私が認める日本語である。私が認めてもなんの価値も無いと言うかもしれないが、そういわれても私は感じたまま、今まで言ってきた通りである。“達意の文章”である。澱みがない。隠蔽とは真反対の言葉である。五十過ぎて、脳出血、六十過ぎて今度は動脈瘤という大病をされた。退院してから一年間、話す事も書く事もできなくなり、奥さんの運転する車に乗って風景を見ているだけだったが、そのうちに、奥様の献身的な指導で、また一年かけて話す事、読む事、かく事が、御病気前の八割がた回復するまでになったのである。一昨夜、電話で五年ぶりにお話合いが出来た。堰を切った様にお話をするセンセイがおられた。
 あらためて、センセイをひと言で云い表せば、「ウソを吐く必要のない人」ということになる。ふり返れば五十年まえも同じであった。そう思っていた。センセイの髭の笑顔が見たくなった。