竹林の愚人  WAREHOUSE

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大江山鉱山

2007-06-07 06:13:56 | BOOKS
和久田 薫 「大江山鉱山」 かもがわ出版 2006.08.15. 

酒呑童子伝説で知られる大江山の与謝野町に鳴滝不動明王がある。その近くに小さな石塔が建っている。大江山のニッケル鉱山で亡くなった中国人を供養するために、終戦の翌年「日本冶金工業」が建立した「中華人病没者供養塔」だ。 陸軍は兵器用の鋼材に不可欠なニッケルの国内生産化を、アルミニュウム合金の工業化をなしとげた森矗昶に熱心に勧め、1935年(昭和10年)森は大江山でニッケルの採掘を始めた。大江山ニッケルの製錬工場は橋立の内海沿岸にあり、大型船が内海に入れない為、昭和12年には伍堂商工大臣が邪魔な天橋立を切り取ると言い出した程に、政府や軍部からの後押しで進められた。1943年(昭和18)12月、政府は「軍需会社法」を施行。日本冶金工業は大江山ニッケル工業を吸収合併し、加悦鉄道も傘下に入れ、ニッケル鉱土の採掘から兵器製造までの国家総力戦を担う一貫生産体制を確立した。大江山のニッケルは神奈川県の「川崎製造所」に運ばれ、「NK鋼」という特殊鋼となり、戦車の装甲板を打ち抜く徹甲弾として、最終的には65万発を軍に納入された。 資金や資材は潤沢だが、戦線の拡大による相次ぐ徴兵で労働者不足は深刻な問題だ。そこで、不足する労働力を補うために中国人を日本へ強制連行し、大江山鉱山などで働かせることにした。 昭和14年、日本政府は閣議で朝鮮人内地移住を決定し、朝鮮の警察が主になって集めた朝鮮人を現地で採用し日本へ連れて来た。終戦までに戦時動員(強制連行)された朝鮮人の総数は約67万人と推定されている。また、連合軍捕虜も1943年(昭18)8月には岩滝製錬工場前の収容所に約700人を収容して働かせた。 会社が昭和21年3月に、外務省に提出した大江山鉱業所『華人労務者就労顛末報告書』によると、中国人はちょうど200人だった。「労工狩り」や拉致によって各地で捕えられた中国人たちを「華北労工協会」などに監禁後、「俘虜収容所」に移送。名称を「労工訓練所」として、一般住民や捕虜の強制連行・労働を禁じた国際法を切りぬけるために訓練したと見せかけ、労務者と偽って日本へ連行した。1944年(昭和19)10月21日200人の中国人はこの町の鉱山労働者となった。 『外務省報告書』によると、日本へ強制連行された中国人は合計38,935人。使役した企業は35社。事業場数は235。死亡者は6,830人(死亡率17.5%、)であった。中国人は敵国人、最劣等民族として「排除」され、鉱山の施設配置とその住居構造に、日本人-朝鮮人-中国人の序列が存在し、中国人宿舎は非人間的に作られ、電流を流した鉄条網と高さ2~3メートルの塀に囲まれた。 敗戦後、「土木建築業」界が中国人や朝鮮人を使役して損失を多く出したと、政府に補償を要求。政府は昭和20年12月、閣議で中国人及び朝鮮人を使用した企業に対し、早々現在の換算で約459億円の支給を決定した。200名の中国人を使役した日本冶金工業も、77万1000円を受け取っている。戦争は多くの企業に壊滅的なダメージを与え、不本意な産業活動を強いた。しかし、軍需産業に携わった企業の場合は戦時中の施設や技術力を「遺産」に戦後の企業発展につなげたものが多く、大企業へのぼりつめた。 一方、中国人約4万人、朝鮮人約67万人が日本へ戦時強制連行・労働させられたが、日本政府と使役企業は、戦後、その労働と生活、賃金の支払い、死亡者の状況等を詳細に調査、公表せず、謝罪も補償もしなかった。戦後13年もたった1958年、酷寒の北海道の山野に隠れ住んでいた一人の中国人が発見された時、(東条内閣の商工大臣として石炭を増産するため中国人強制連行を実施した)岸信介総理大臣は「不法滞在者」として国外退去を命じている。 「国際人権法」は“戦争犯罪に時効はなく、国家が被害者個人に対しても賠償責任がある”とする。2004年現在までに中国人強制連行をめぐる訴訟は12件。企業との和解は、「大江山裁判」2004年9月)と「花岡裁判」(2000年1月)の2件のみで、あとは棄却されており、政府は一貫して「国家無答責」や「時効」を盾に戦争責任を認めていない