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会津武士道

2007-06-30 04:11:54 | BOOKS
中村彰彦 「会津武士道」 PHP研究所 2007.01.12. 

会津藩は、江戸幕府が開かれてから約半世紀後の17世紀半ばには、徳川将軍と幕府を佐けて260余年におよぶ徳川の平和の基礎を築きました。中期の18世紀後半には、天明の飢饉の被害も加わって藩財政が破綻同然となったにもかかわらず、財政、軍事、教育などの改革を断行して他藩の模範となるほどでした。そして、19世紀に入ってからはみずから進んで唐太や稚内などの北辺警備につき、国家に貢献しょうと心掛けました。ペリー来航前後には江戸湾警備も担当して国家を守ったにもかかわらず、その後、戊辰戦争に敗れたため賊軍と貶められ、滅藩処分になってしまうのです。 会津藩主松平容保は京都守護職として、御所を警護していた文久3年(1863)、「8月18日の政変」が起きます。長州藩と過激な尊王攘夷派の公卿たちが偽勅を全国に送って攘夷親征の大軍を起こすことを画策。孝明天皇が不忠きわまりないと内命し、開戦に至ることなく、尊攘激派の七卿と在京の長州藩士が京から追放されました。孝明天皇は容保の忠誠に喜び、10月9日宸翰と和歌2首を下しました。翌元治元年(1864)激昂した長州藩は、7月19日、約3,000の兵をもって御所へ攻め寄せ、「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発。もっとも熾烈な戦いとなったのが御所の蛤門で、会津藩は死傷者50余人を出しています。これは公武合体派兵力のうち最多の死傷者数です。孝明天皇はこれに激怒して、7月23日、長州追討の勅命を発しました。長州は3人の家老、国司信濃、福原越後、益田右衛門介を無理やり切腹させてその首を差し出し、謝罪しました。のちに戊辰戦争で彼らが「家老の首を3つ持って来い」と厳命したのは、あきらかに私怨を晴らすためでした。 明治時代に靖国神社が創設され、禁門の変で天皇を守った会津藩の戦死者が合祀されたのは明治時代末になってから。逆に、御所に大砲や鉄砲を発砲した側の久坂玄瑞(長州藩士)や真木和泉(元久留米藩士)らは、靖国神社に早くから祀られています。 会津藩では藩主も藩士も会津武士道をまっすぐに貫き通した結果、徳川家と天皇家からもっとも信頼される藩となったわけです。しかし、禁門の変から第一次長州追討戦の頃を境にして、歴史のベクトルが変わりました。慶応2年(1866)12月25日、孝明天応が享年36で崩御しました。いまだに毒殺説が根強く囁かれて居ます。 会津に押し寄せた新政府軍は約3万の兵力で鶴ヶ城を包囲攻撃し、9月22日、会津藩は降伏開城。禁門の変以降の会津藩の戦死者は3,014人。旧幕府軍および奥羽越列藩同盟の戦死者総数は4,650余名ですから、会津藩だけでその実に3分の2を占めていました。 藩士や家族が死屍累々となっていたとき、半年以上も遺体の収容を許さなかったのは福井藩士久保村文四郎でした。酷薄な久保村は、ある庄屋が白虎隊士の遺体を埋葬したところ、「もう一度掘り出して捨てて来い。またやったら打ち首だ」とまでいったのです。 明治政府は白虎隊十九士の忠孝精神を称揚し、野矢常方の歌とともに国定教科書に紹介するなどして、会津武士道を巧みに教育に利用しました。国定教科書『小学国史』の中では会津藩を“逆賊”呼ばわりし、会津人を差別しつづけたにもかかわらず、です。 会津人は徹底的に差別され、警察や軍隊で採用されるようになると、会津人を薩長土肥の出身者が監視するシステムができあがっていました。長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は、会津出身者はどんなに功績を立てても大佐までしか昇進させないという大方針を採っていました。 秋篠宮と紀子さんの御成婚が決まったとき、「かつて会津松平家から勢津子さまが秩父宮家へ嫁いだら、今度は旧藩士池上家から妃殿下が誕生した」と会津の人たちは喜びました。天皇家が会津藩は賊徒ではなかったと認めて下さったのです。