竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

日本軍のインテリジェンス

2007-06-03 06:37:45 | BOOKS
小谷 賢 「日本軍のインテリジェンス-なぜ情報は活かされないのか」 講談社 2007.04.10. 

陸軍参謀本部が本格的な軍事情報部である第2部を設置し、組織的に情報収集活動を開始したのは日露戦争の後、1908年のこと。イギリスでは秘密情報部〔SISまたはMI6)と防諜部(MI5)が誕生している。 1931年の満州事変を契機に陸軍は中国大陸における暗号解読活動を開始した。陸軍は、米国務省のグレー、ブラウン、ストリップといった外交暗号を解読し、対英通信傍受にも時折解読に成功していたが、陸軍のターゲットはあくまでソ連であった。対米暗号解読に参謀本部が本腰を入れるのは太平洋戦争が激化する1943年7月になってからだ。陸軍はもともと米英可分の方針で対米戦を戦うつもりがなく、対ソ連インテリジェンスに膨大な労力を費やしていた。そのため敵である米軍の実態をほとんど知らないまま太平洋戦争に突入してしまう。  海軍が通信情報に目をつけたのは日露戦争の最中。海軍の情報組織は1909年以来、一貫してアメリカをターゲットとして、通信情報や人的情報の資源を投入していたが、軍令部第三部五課の人員は10名を超えることはなかった。アメリカのブラウン・コードは1938年に解読したが、ストリップ暗号は陸軍からの情報もなく解読できずにいた。 1942年6月ミッドウェイの勝負の分かれ目は日本海軍D暗号(米側は1N25と呼称)解読の結果であった。山本長官撃墜事件(海軍甲事件)、また機密書類を紛失した1942年1月の伊号124潜水艦撃沈、1944年4月の海軍乙事件など。陸軍暗号は戦争終盤まで連合国側に解読されることはなかったが、ミッドウェイ作戦において暗号が解読される前兆があったにもかかわらず、日本側の防諜意識の甘さから放置され、敗北を喫することになる。 本来、情報業務とは長年の経験と専門知識が物をいう一種の特種技能だ。しかし陸海軍では理解されず、海軍では1940年から45年の間に5人もの情報部長が入れ替わっている。また陸海軍は、情報分析のために外部の有識者に頼る姿勢にも欠けていた。同じ時期の英米は、民間の知識、特に大学からの人的資源を最大限に活用して情報分析にあたらせ、アカデミックなシンクタンクの様相を呈していた。陸海軍の指導層は、情報分析の重要性に関して理解を示さなかったのだ。 日本軍の場合、「作戦重視、情報軽視」の考えが根強く、情報部の孤立は作戦部の情報無視の独走を招いた。部隊レベルでも、1939年のノモンハン事件の際、関東軍の作戦立案者が第二課の敵情判断を無視して独善的な作戦を展開した。陸軍の情報部門に対する冷淡さは、当時最も洗練された情報教育機関であった陸軍中野学校に対しても同じであった。 本来、情報畑以外の人間が情報分析・評価を行っても、大抵は間違えるもの。その決定的な判断ミスは三国同盟の調印だ。参謀本部の作戦部はドイツに対する厳密な調査を行わず、松岡洋右外相や軍部はドイツの力を過大評価したまま政策を進めていった。 作戦部と情報部の意見の相違は、終戦が近づくにつれてピークに達し、通信傍受や新聞などから「撃沈された」はずの艦船が行動しているとの情報は、士気に影響すると退けられ、米空母「レキシントン」は6回、「サラトガ」は4回も撃沈された。その報告に天皇は「サラトガが沈んだのは今度でたしか4回めだったと思うが」と苦言を呈すありさま。 現在、日本には、内閣情報調査室、防衛省情報本部、自衛隊の各幕情報部、公安調査庁調査第二部、警察庁外事情報部、外務省国際統括官組織、海上保安庁警備課など、コミユニティーは細分化され、各組織はそれぞれ独自に情報収集を行っている。日本のインテリジェンス・コミュニティー全体で使われる予算は推定1,000億円。アメリカのインテリジェンス全体の予算が年間3兆円強、イギリスが3,000億円程度と比べて少ない。 現状のインテリジェンス・コミュニティーを組織的に機能するようにしないと、戦前と同じ轍を踏むことになる。