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Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

ベクシンスキー画集、ようやく復刊!

2009年01月22日 | 美術鑑賞・展覧会
エディシオン・トレヴィルからベクシンスキーの画集が再復刊されました。



トレヴィルのオンラインショップ(ただいま3000円以上購入で送料無料)のほか、
Amazon.comでも取り扱いが始まりましたが、今現在の売れ行きランキングでは

1位 ─ 本 > アート・建築・デザイン > 画家・写真家・建築家 > 外国人画家
1位 ─ 本 > アート・建築・デザイン > 絵画 > 西洋画
3位 ─ 本 > アート・建築・デザイン > 絵画 > 画集

と結構な好調ぶりを見せています。
本全体のベストセラーでも1,201位ですから、この種の本としてはかなりのもの。

この画家については「究極映像研究所」発、「ひねもすのたりの日々」経由で知り、
現物を東京都現代美術館で閲覧して「復刊されたら絶対買おう」と決めていたので
今回さっそく手元に取り寄せました。

shamonさんもブログで書かれてましたが、税込み4,000円となかなかお高いし
収録された図版もサイズがやや小さめですが、黒い地にエンボス調で型押しが
施されたカバーは、装丁好きの琴線に触れるものがあります。
このカバーのデザインは竹智淳氏。トレヴィルの本をはじめ、写真集から
マンガまで、いろいろな本を手がけられてるデザイナーさんです。
この岡本綺堂の怪談集なんかも、かなりイケてる装丁だと思いますよ。

ベクシンスキーといえば、グロテスクによじれた肉体や、巨大な生物の死骸を
連想させる建造物といったモチーフが特徴的。
しかし私の関心は「肉体変容・損壊」などの描写よりも、むしろその背景に見える
茫漠とした光景の広がりにあります。

たとえば果てなく広がった空と海の先や、黒に変わる前の深々とした宇宙の青。
それらの持つ底知れない広さや深さのほうに、私は強く惹かれました。
生物とも建造物ともつかないミイラ状の姿にも、そこに至るまでの時間の経過を
想像してみたとき、グロテスクさだけでなくそこに表現された時間的なスケールの
大きさを感じて、奇妙な畏怖を覚えてしまいます。
この空間的・時間的な感覚の広がりが、ベクシンスキー作品に独特の威厳とか、
日常と隔絶した美しさといったものを与えているのではないでしょうか。

そして狂気と背中あわせのいびつな崇高さもまた、「センス・オブ・ワンダー」を
激しく刺激するものです。
たとえば、スタージョンの小説に見られるエロスとグロテスク、狂気と孤独感を、
ベクシンスキーの作品に重ねてみるというのも面白いかもしれません。

・・・などというゴタクはともかく、単に気持ち悪いというだけでは済まないような
超絶的ヴィジョンを持った作家であったことは間違いありません。
確かに怖い絵だけど、そういう絵でなければ見せてくれないような光景もまた、
この画集の中に存在するのです。

ベクシンスキーにマニエリスムやシュルレアリスムとの近縁性を見出しつつ、
それらの系譜に直接位置づけることを否定した永瀬唯氏の尖った解説も必読。
特にモチーフにおいてマグリットとの類似を指摘した部分が興味深かったです。

そして最後に、その永瀬氏が2005年の復刊時に寄せた解説文からの引用を。

「日本におけるベクシンスキー再臨の最大の理由は、復刊を望むファンたちからの
 熱烈な声であった。
 おめでとう、遅れてきた日本のベクシンスキー愛好者諸君。
 ここにはまさに、その情熱にこたえるだけの傑作の数々が収められている。」
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アンドリュー・ワイエス逝く

2009年01月17日 | 美術鑑賞・展覧会
今日17日の朝刊で、ワイエスの訃報を読みました。
記事を読んだところでは、16日に自宅で大往生を迎えたようです。

shamonさんもブログで書かれてましたが、つい先月に展覧会を見たばかりの作家が
きのう亡くなったと知らされるのは、なんとも複雑な気持ちです。
展覧会を見ながらその長寿ぶりを話題にしていた矢先の出来事に、人生の無常さを
改めて思い知らされました。

「アンドリュー・ワイエス-創造への道程(みち)」展は、Bunkamuraから場所を移して
今月4日からは愛知県美術館で開催中。
この作品展がワイエス存命中で最後の、そして逝去後最初の展覧会になると思うと
なんとも感慨深いものがあります。
その盛況ぶりについて、亡くなる前のワイエスは聞かされていたのでしょうか。
「あなたの作品は、遠い日本で今も変わらず愛されていますよ」と。

ワイエスという作家は、アメリカという国における芸術と精神性の最も良い部分を
絵画として表現し続けてきた人物でした。
彼の逝去で、またひとつ「良きアメリカ」の象徴が失われた気がします。合掌。
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没後40年 レオナール・フジタ展

2009年01月13日 | 美術鑑賞・展覧会
上野の森美術館で開催中の「没後40年 レオナール・フジタ展」に行ってきました。

フジタといえば乳白色の女性像が知られていて、たしかにあの色は魅惑的なのですが
画面を支配する退廃的なムードが私にはどうもなじめず、これまで敬遠気味でした。
それが今回足を運ぶ気になったのは、フランス帰化に先だって描かれた後期の作品群を
最近になって雑誌やTVで知ったから。
私にはこちらのほうが親しみやすく、これは実物を見なくちゃということになりました。

会場展示はフランスでの初期作品から世評を得た裸婦像を経て、大作「争闘」と「構図」の
連作へと続き、その後に晩年の作品が集められています。

初期作の人物画は顔も体も細長く、モディリアーニやシャガールを思わせてビックリ。
その後に続く裸婦像は色の使い方こそフジタ独特のものですが、表情の描き方などは
少しコクトーの線描に似てる感じもします。
同時期の芸術家から影響を受けつつ、自分なりのスタイルを模索して行ったフジタの姿を
これらの作品から読み取れるかもしれません。

展示の中盤を締めるのは、大作「構図」と「争闘」の連作。
人体の激しい群舞で、むき出しとなった人間の野生をこれでもかと見せつける作品ですが
フジタの場合は表現が比較的フラットなため、モリモリの筋肉とムチムチの女体の乱舞も
さほどイヤミな感じにならず、むしろ吹っ切れたような清々しさすら感じました。
彼の場合はむしろ裸婦像のほうが、その白い肉体が背徳や退廃の気配と結びつくことで
独特のエグさを醸し出しているようにも思いますね。
横には各部を構成する闘士たちの下絵が展示されていますが、相手を担ぎあげる男や
腕十字をキメている男が描かれていて、フジタって柔道に通じてたのかもしれないという
ちょっとした発見もありました。

闘いという共通モチーフでこの後に続くのは、猫たちの闘争を描いた作品2作。
正直なところ、大作2点よりこちらのほうが凝縮された生の迫力に満ちていると感じました。
特にベルナール・ビュフェ美術館から来ている「猫」は、猫たちとそれが取り合う海産物の
異様なまでにリアルな描写に圧倒されます。
逆にリアルすぎて、見てるうちにだんだん笑えてきちゃうのがご愛嬌なんですが(^^;。

後半に展示された晩年の作品たちは、特に子供と宗教画の多さが印象的。
フジタは晩年になってようやく「心から描きたいもの」に巡りあったのだと思わせるほどの
充実した内容でした。
彼の描く子供たちは大人びていて少し怖いけど、そのヒネた感じもやっぱりかわいらしい。
「アージュ・メカニック」や「フランスの富」などは、フジタ・チルドレンの魅力が光ります。

そして最後に、本展覧会で最も注目していた宗教画たちの展示。
キリスト教への改宗やフランス帰化というフジタのプロフィールを聞かされると、なんとなく
うさん臭い目で見たくなるところですが、実際に絵を見れば考えがガラッと変わります。
古典的な宗教画やルネサンス絵画のモチーフに誠実な画風を見ると、フジタという人は
心底からヨーロッパ人になったんだなー、というのが伝わってくるんですよ。
エコール・ド・パリや戦争画を経てようやく見つけた自分の居場所、フジタにとってのそれは
西洋絵画の伝統の中に自らを位置づけることだったように思うのです。
「花の洗礼」や「聖母子像」、そしてキリストの磔刑を描いた作品からは、これらを描くことで
自分の人生と画家としての仕事を見つめなおそうとする、作者の強い想いが感じられます。
フランスに渡り、フランスを描き、遂にフランスの魂を得た一人の芸術家。
この最後のパートこそ、フジタという人の内面に最も迫るものだったと思いました。

さて、私の選ぶ今回のベスト作品は、創世紀で有名な「イブ」を描いたものです。


かつての乳白色とはやや異なる透き通った肌の色と、高貴な横顔に惚れました。
バックにわさわさといる動物たちも、南国的な楽園ムードの演出に一役買ってますが
イブの頭上には不吉な蛇の姿が・・・う~ん、この後が楽しみだ(^^;。
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数寄の極み「森川如春庵の世界」

2008年11月22日 | 美術鑑賞・展覧会
三井記念美術館で11月末まで開催中の「茶人のまなざし~森川如春庵の世界」に
行ってきました。

この森川如春庵という人物、16歳にして本阿弥光悦の黒楽茶碗「時雨」を入手、
さらに19歳で光悦の赤楽茶碗「乙御前」も所持と、茶人としても目利きとしても
恐るべき経歴を誇る超大物数寄者の一人。
しかし世を去るにあたり、そのコレクションの多くを寄贈した名古屋市に対して
一般に公開するのを禁じたためか、広く世評に上ることがありませんでした。
かくいう私も、3月ごろに見た「新日曜美術館」と「芸術新潮」3月号を読んで
この大人物を知ったわけですが。

まあコレクションもすごいけど、人物もまたスゴイんですよ。
名古屋の大地主の家に生まれてから92歳で亡くなるまで、一生働くことなく
茶と数寄の道を追求したというんですから、まさに趣味人の鑑。
人間だれしもこういう人生を夢見るものですが、それを実際にやってしまって
なおかつ周囲の尊敬を集めていたというのが、スゴイところ。
晩年には勲五等にも叙されてるというのが、さらに輪をかけてスゴイところです。

さて、この門外不出のコレクションが、約40年の沈黙を破って世に現われたのが
今回の「森川如春庵の世界」展です。

3月に名古屋博物館で開催された内容からやや点数は減ったものの、一目見たいと
切望していた「乙御前」をはじめとする名品たちが、いよいよ東京にお目見え。
さらに国博の「対決展」でも拝見した「時雨」に加え、瀬戸黒茶碗の最高峰である
「小原女」も登場、さらに特別ゲストとして三井が所蔵する国宝の「卯花墻」まで
見られるという、まさに国焼茶碗の頂上決戦という様相です。
茶碗好きがこれを見ずして、何を見る!といわんばかりの内容じゃありませんか。

さて、念願かなってついに対面した「乙御前」のすばらしいこと!
朱色とも橙色とも見える赤く柔らかな肌の色、全身にまとった貫入の優雅さ。
一方で見込をのぞくと、高台が碗の底を突き上げんばかりに盛り上げており、
まるで地の底から山が盛り上がってくるかのようなダイナミックさを感じます。
器形は見る角度によって、丸く見えたり扁平に見えたりと変化に富んでおり、
いつまで見ても飽きることがありません。

とりわけ強烈なのが口づくり。ゆったりしているように見えて実は強い造型意識に
統制されている、緊張感に満ちた形をしています。



奔放に弾け飛びそうな創造力と、それを茶碗の形に収めようという自制の力。
そのギリギリの釣りあいが、「乙御前」の姿に結実していると感じました。
今まで見た光悦茶碗では、「時雨」「雨雲」を超えて最高と思える一作。
ずっと期待して対面を待ち続けた甲斐がありました。

この「乙御前」の斜め向かいに置かれていたのが、瀬戸黒茶碗「小原女」。
瀬戸黒そのものが希少な碗で、私もこれが瀬戸黒初体験でした。
この「小原女」も、今は人手に渡っていますが、元は如春庵愛蔵の品。



どてっとした形に見えて、実はかなり薄づくり。そのアンバランスさがいい。
その大きさと見込の深さ、黒々としているのに不思議と親しみを感じる色合い、
硬そうにも柔らかそうにも見える器形など、見どころの尽きない茶碗でした。

黒楽の「時雨」は、次の間に展示。



「対決展」のときよりじっくり見られたおかげで、高台まわりから立ち上がる
黒釉の筆づかい、「乙御前」と同じように角度によって変わるシルエットなど
新たな見どころをいくつも発見できました。
ある意味「雨雲」以上にストイックさが際立つ茶碗です。

さらに角を曲がると、他の展示から離れて「卯花墻」が。
ぽつんと置かれているのが災いして、目もくれず通り過ぎるお客さんの姿を
何人も見ました。おいおい、会場唯一の国宝だってば。



でもこの「卯花墻」、やや小ぶりなうえに一見すると目立たないんですよね。
よく見れば織部的に豪快な作行きなんだけど、厚がけの志野釉のおかげもあって
やはり全体的にはぽってりと穏やかな雰囲気。光悦碗とは対極ですな。
こういう人好きのする碗は、見るより使ってこそ真価を発揮する気がします。

それにしても、この森川如春庵といい、いま畠山記念館で取り上げられている
益田鈍翁といい、やはり尋常な眼力の持ち主ではありません。
凡人が勘違いで自分の非凡さを誇示するのとは次元の違う「感性の鍛えられ方」に
つくづく唸らされました。
ここまでいかないと、人を感動させる「数寄」の域には到達できないんだなぁ。

実業家としても活躍した益田鈍翁と違って、純粋に「好き=数寄」を極めることで
名声を得た如春庵こそ、究極の数寄者なのかもしれません。

茶碗以外にも棗や香合などの茶道具、茶道具との取り合わせで使われた書画など
一級の美術品が多数展示されていました。特に篠井秀次の真塗中次は必見です。
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本日はマグリット生誕110周年

2008年11月21日 | 美術鑑賞・展覧会
さっきGoogleを見ていてはじめて気づきました。
記念日にふさわしく、Googleロゴがマグリット作品のコラージュになっていて
これがまたかなりのカッコいい作品に仕上がってます。



背景は「ゴルコンダ」から借用、真ん中のOの部分は「人の子」の顔ですね。
そしてGoogleのロゴ自体は、「大家族」を思わせる青空の切り抜きになってます。
Googleのトップページで見られるのはたぶん本日限定ですが、これまで登場した
ホリデーロゴを集めたサイトがありますから、見逃した場合は後日More Google
Holiday Logosで検索すればOK。
(英語版Googleで探した方が早めに見られるみたいです。)

むかし教科書で「アルンハイムの領地」を見たときは、この絵のどこがいいのか
首を傾げたもんですが、あるとき新聞で「ピレネーの城」を見て以来、ころっと
マグリット好きになっちゃいました。
いやはや、人間どこでどう転ぶやらわからないもんです。

でもいまだにその「ピレネーの城」の実物は見ていないのでした。
もうこの絵が日本に来ることはないのだろうか・・・。
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遥かなるワイエスの道程

2008年11月19日 | 美術鑑賞・展覧会
Bunkamuraで「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」展を見てきました。

大琳派展のきらびやかで装飾性あふれる世界とは一転して、土をそのままカンバスへ
塗りこめたかのような、茶色の風景たち。
琳派とは対照的な世界なのですが、水彩に見られるにじみの使い方はなんとなく
琳派お得意の「たらしこみ」を思い出させるところも。

荒涼としたフロンティアと、そこで慎ましくもタフに生きる普通の人々。
ワイエスの緻密な描線と卓越した配色の妙技は、大地の土臭さや荒々しさを描いても
決して絵の品格を貶しめることはなく、むしろ描かれた対象の内面にある潔癖さや強さ、
そして気高さなどを、見るものに強く感じさせます。
素朴な風景を優れた描写力で表現したワイエスは、アメリカの精神的な原風景を、
芸術の域にまで高めた作家といえるでしょう。
それはかつてTVドラマ「大草原の小さな家」が、実直なアメリカ開拓民の日常生活を
丹念に描き、現代の視聴者から熱烈な支持を受けたことにも通じる気がします。

さて、展示作の中でも特に心に残ったのは、大きな石を描いた「火打ち石」という絵。



天と地を分ける境界に、生き物のように横たわる石の存在感が圧倒的でした。
石の手前に見えるのは貝殻など、かつて海に生きていたものたちのなれの果て。
右側には上へと傾斜していく斜面、そして左手には波を立てて荒れる海の姿が。

石はその場所にあって何事もなくそこにあり続けるようであり、またはついさっき
海から上がってきたか、それともこれから海へと帰っていくかのようでもあります。
この石を手前の貝殻と対比することにより、この光景を「生物と無生物」の境界線が
限りなく近づいた場所に見立てるというのも、なかなか楽しいものです。

この「火打ち石」の横には、製作する過程で描かれた下絵や、鉛筆による習作が
並べて展示されていました。
鉛筆による習作はワイエスの線の緻密な美しさをよく表しており、ある意味では
完成作以上にワイエスらしい傑作だと思います。
一方、下絵の段階では石の上に一羽の水鳥がとまっており、この「火打ち石」が、
完成した作品から受けるイメージよりずっと小さく構想されていたのがわかります。
水鳥を取り払ったのが正しい判断だったのは、完成作を見れば一目瞭然。

今回のワイエス展ですが、副題に「創造への道程」とあるとおり、展示作品の多くは
ワイエスの代表作と呼ばれる数々の作品の下絵や習作として描かれたもの。
同じ光景を構図を変えて何度も何度も描き、一番気に入った場面を完成させるという
創作過程を知ることで、ワイエスが入念な構想と準備を行って作品を構成しているのが
よくわかりました。
ただし「クリスティーナの世界」や「さらされた場所」といった作品の習作を見た後に、
完成品の写真パネルだけがぽつりと置かれているのは、やっぱり寂しいですけど。
いつか完成品を見られる日はくるのだろうか・・・。

展示作品の中では唯一の裸体画である「そよ風」。
老いや貧しさ、過酷な暮らしで厳しい表情を見せる人々が多い作品の中にあって
若い女性を描いたこの一作はひときわ異彩を放っていました。
がらんとした薄暗い室内に延びる娘の茶色い影。他の作品でも見られるその茶色も、
この作品では窓からのそよ風の形に揺らめき、どこか若々しい生気を帯びています。
女性の裸体は生々しく描かれていますが、それが日常風景の中に置かれることによって
エロスよりも純粋な女性美が強調され、まるで古典主義の絵画を見ている気になるのが
おもしろかったですね。

ドイツ兵の鉄カブトに収穫された松ぼっくりが詰め込まれた「松ぼっくり男爵」。
素朴な日常という枠を守りながら、アメリカという国を象徴する「移民」と「戦争」を
画題に取り入れてみせた、意欲的な作品だと思いました。
ドイツ軍独特のヘルメットと松ぼっくりの取り合わせがユーモラスであり、ワイエスの
国籍や出自にとらわれない人柄を伺わせるところもあります。
労働の場面を直截的に描くよりも、収穫物や休憩する人の姿を多く描くことによって、
働くことの苦しさよりもそこから得られる恵みをより強く印象付けるという表現方法が
ワイエス作品の特徴のひとつだと思いますが、この作品にもそれがよく表れています。

今回の作品展は、ワイエスの画業を振り返るというよりも、「91歳でいまなお現役」な
ワイエス自身の創作エネルギーを、その仕事ぶりから感じ取るためのイベントかも。
ビデオでも元気な姿を見せていたワイエス。100歳といわずそれ以上に長生きして、
ずっと現役を続けていって欲しいと思います。
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大琳派展を見てきました

2008年11月01日 | 美術鑑賞・展覧会
東京国立博物館で開催中の「大琳派展」に行ってきました。

本当はもっと早い時期に行きたかったけど、ここまで延ばし延ばしにしたのは
展示替えで4つの「風神雷神図」が揃うのを待っていたから。
そのかいあって、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の「風神雷神図屏風」に加えて
鈴木其一の「風神雷神図襖」がそろい踏みという豪華な内容を堪能できました。

さて、この4点の展示スペースには、左から順に宗達、光琳、抱一、其一の順に
作品が並べられ、三方をぐるりと風神雷神が取り囲む形で展示されていました。
4作の真ん中へんに立ってまわりをぐるっと見渡すと、なんとも壮観です。
しかも其一の「風神雷神図襖」の後には、光悦の黒楽茶碗「雨雲」が展示され、
ここでもさりげなく風神雷神のテーマが反復されているという心憎さ。
この「雨雲」を五つ目の風神雷神に見立てると、この展示スペースの四方全部が
風神雷神に囲まれているということになります。

会場配置はおおよそこんな感じ。

琳派の系譜を「風神雷神」というキーワードでつなげるという巧みな演出意図が
この配置に隠されているようにも見えますね。
こういう読みができるのも、企画展ならではのおもしろさだと思います。

宗達と光琳の風神雷神は、夏の「対決展」でも見ていたけれど、抱一と其一の作は
今回初めて見ることができました。
デザインとしての風神雷神を確立した宗達と、それを誠実に写しながら自分なりに
アレンジして見せた光琳に対し、抱一の写しは結構ラフにも思えます。
でも逆に考えると、正確に模写するよりも光琳の特徴をざっくり掴むことにこそ
抱一の狙いがあったのかな、というようにも感じられました。

その抱一の弟子である其一になると、風神と雷神はもはやパターンの確立した
ひとつのデザインとして描かれ、二神の周りに描かれる風や雲の空間描写に
より力が入っているようにもみえます。
4つの風神雷神を一度に見ることで、本展の副題である琳派の「継承と変奏」を
よりわかりやすく感じられるというのも、この展示のよいところです。

そして4作の「風神雷神」に比肩するほどの存在感を放っていたのが、光悦作の
黒楽茶碗「雨雲」でした。
Casa BRUTUSで当代の樂吉左衞門氏が「光悦の黒楽で第一の作」と評したのも
なるほどと思わされる、傑作中の傑作です。
器形や口辺のへら取りもすごいけど、特にすばらしいのは茶碗の正面に施された
黒釉の鋭い筆づかい。稲妻とも嵐とも思える表現には、眼を奪われました。
緊張感と神秘性という点では、「風神雷神」の本質に最も近い作品と言えるかも。

さて、この展覧会の看板は「風神雷神図」ですが、その他の作品も名品ぞろい。
全部書いてるとキリがないのですが、中でも個人的に印象深かったのは、光悦の
赤楽茶碗「峯雲」、宗達の杉板絵「白象図」、光琳の「波図屏風」などですね。
尾形乾山の「染付金銀彩松波文蓋物」は、今まで見た乾山陶で一番よかった。
売店で小型のレプリカが出ているのを見て、思わず買いたくなってしまいました。

酒井抱一は「夏秋草図屏風」のしっとりした雰囲気もいいですが、やはりこの人は
四季花鳥を描いた作品が一番好きですね。特に丸っこい朝顔がかわいらしい。
金銀彩で眼がくらんだ後にこういう絵を見ると、ひときわ気分が和みます。
鈴木其一も花鳥図がいいんだけど、師匠の抱一よりさらに様式化が進んでいるのが
この人のよさであり、モノによってはやや即物的に見えるところでもあります。
でもそのわかりやすい鮮やかさや見たときの心地よさこそ、琳派の洗練と成熟が
行き着いた境地かもしれません。
リズム感のある構図取りとくっきりした色使いは、まるでテクニカラーの映画を
見ているようで、非常にモダンな印象を受けました。

日本美術史に大きな流れをつくった「琳派」の系譜を一望にしながら、作家ごとの
類似点や相違点を見比べることができるという、なんとも豪華な展覧会。
会場はとにかく混みまくってますけど、それでも行くだけの価値はありました。
ただし全部見るのに時間がかかるので、気力と体力もそれなりに消耗しましたが(笑)。

そうそう、平常展でも宗達や抱一、乾山の関連作品が展示されていますので
そちらもオススメです。
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ハンマースホイは静かに暮らしたい

2008年10月11日 | 美術鑑賞・展覧会
ヴィルヘルム・ハンマースホイ。
デンマークの知られざる名匠が、いま上野の国立西洋美術館で
静かな注目を集めています。
先日、そのハンマースホイ展に行ってまいりました。

あくまで外向きでなく、内側に注がれる視線。
この展覧会を見て、そんな印象を受けました。
ハンマースホイという人は、描きたいものしか描かないというスタイルを
頑なに貫き通した人物のようです。
肖像画も「対象がどんな人物かを知るくらい親密でないと描けない」と
ごく限られた人しか手がけなかったそうですし。
でもその作風は見る側に対して押し付けがましいところがなくて、
こちらとしてはリラックスして鑑賞できるものでもありました。

うしろ姿の人物やがらんとした部屋を多く描いたこと、ほの暗いタッチで
灰色がかった画面を描く作風から、寂寥感やメランコリーという形容詞が
使われがちな作家ですが、私が受けた感じはちょっと違います。

たとえば本展のキービジュアルのひとつ「背を向けた若い女性のいる室内」。


確かに暗くて地味でとらえどころがないかもしれません。
でもその一方で、対象の無防備さ、銀盆や陶製ボウルといった日用品、
そして室内のやわらかい光に、この空間の「親密さ」を感じとることも
できるのではないでしょうか。
作家が好ましく感じた光景を、見たとおりに描き出そうとする試みこそ
ハンマースホイにとっての「芸術」だったのではないかと思います。

そんな「芸術」が行き着いたひとつの到達点が「誰もいない室内」。
その代表作が「白い扉、あるいは開いた扉」です。


ドアが開いていることから「人が去った後」のようにも見えますが、
この絵が描かれた当時、ハンマースホイはここで暮らしていたはず。
写実的ではありますが、この絵は現実の光景から調度品を減らして、
さらに生活者まで消してしまった「脳内の光景」ということになります。
ハンマースホイは決して「見たままに」描く作家ではないのです。

そして調度品も人も消え去った部屋には、静謐さと生活の痕跡だけでなく
画家自身がそこに佇んでいるような気配も感じられる気がします。
というか、見ている自分が「画家の目」になってしまったような気分。
そういう意味で、ハンマースホイの絵には「そのまま引き込まれそう」な
奇妙な引力も感じられます。

「ピアノを弾く女性のいる室内、ストランゲーゼ30番地」

何も載っていない皿が、かえって印象に残りました。
ここから皿も家具も人も消していけば、「白い扉、あるいは開いた扉」のような
画面に行き着くのかも。なにもないからこそ、印象に残るという物もあります。

絵が暗いのは室内だから?と思うと、そうでもありません。
室内ほどではないけれど、「ライアの風景」という絵でも、画面はやはり
灰色がかっています。


北欧の光ってこんな感じなのかな?とも思いますが、晴れた日の草原が
ここまで全体的にもや~っとしている、ということもないでしょう。
むしろハンマースホイはこのくらいの光が好きなんでしょうね。
これもやっぱり「脳内補正」されてる絵のひとつではないかと思います。
このもやっと感、見続けているとだんだん気持ちよくなってくるんですよ(笑)。

実に不思議な魅力を持つハンマースホイ作品ですが、その作品を一点だけ見て
この作家特有の「色」を見定めるのは難しそう。
彼の画業をまとめて見られる今回の展覧会は、数少ない好機です。
印象派とも象徴派とも一味違う作風を、ぜひご堪能あれ。

公式サイトではハンマースホイが住んでいた住居をCGで再現する
「ハンマースホイの部屋」が公開中。
構図が立体的なハンマースホイと3D画像は相性バツグンです。

http://www.shizukanaheya.com/room/index.html

見られるPC環境の人は、まずこれで予習するといいかも。
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わが麗しのオフィーリア

2008年09月27日 | 美術鑑賞・展覧会
渋谷bunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」に行ってきました。

ミレイといえば何をさておき「オフィーリア」が頭に浮かびますが、今回はこの代表作に加えて
ラファエル前派を抜けた後の作品なども含め、約70点の絵画が展示されています。
以下、本展における注目作品をご紹介。

《オフィーリア》
ラファエル前派の特徴に「徹底した写実主義」がありますが、聖書や架空の物語の世界までも徹底して
リアルに描き込んでしまうため、それらの作品は単なるリアルさを越えた非現実性も漂わせています。
その代表と言えるのが、ハムレットに材を得た名作「オフィーリア」。


この絵の写真を初めて見たときの衝撃は忘れられません。
すごく美しいのに、なんだか見てはいけないものを見たような感覚。
それからずっと実物を見たいと願っていた絵を、ようやく目にすることができました。
これだけでもう感無量というものです。

水を吸ったドレスが画面右側の枯草と土の色に近づいており、水に広がった髪の色が
頭上の倒木の茶色に対応しているなど、今まさに自然の懐へと還っていく姿を感じさせる
色の構成がすばらしい。
極端な描き込みで画面を圧縮し、オフィーリアに独特の浮遊感を与えている技法もユニークです。
「死と狂気」という主題をこれほど美しく画面に固定した絵画は、他にないのでは。

《両親の家のキリスト》
聖家族の姿をリアルに描いて、製作当初は冒涜的とさんざんに非難された作品。
この絵の描き込み、実は「オフィーリア」よりすごいかもしれません。


会場では、まずイエスの手についた血のリアルさを見てください。
それから衣や足、テーブルについた血の跡のリアルさを辿っていくと、画面全体のすみずみに至るまで
徹底した写実性が貫かれていることに気づきます。
壁の木目やテーブルの足の継ぎ目まで描き分ける細かさ。しかもこの絵は現実の光景ではないのです。
このマニアックさ、やはり単なる写実主義者では片付けられません。

《マリアナ》
私が今回一番気に入った絵。何回見ても、出るのはため息ばかり。


女性の服の青と肉感的なポージングがたまりません。イタリア彫刻のようなダイナミックさにうっとり。
ミレイは素材の描き分けがうまいですが、この絵でもステンドグラスや床板、窓の外の石塀に至るまで
細かな描き分けがされています。

《きらきらした瞳》
こちらのお嬢さんは赤いインバネスコートを着ています。


タイトルどおりのきらきらした瞳は、鑑賞者を射抜くような力強さを感じさせます。

《ハートは切り札》
これまたみっしりと描き込まれた圧縮画法で、3人の女性が前に押し出されてくる感じ。

左の女性から順に視線を追っていくと、最後に右端の女性がこっちを見ることに。
なんだか自分がその場に居合わせるような気分にさせられます。
上の絵もそうですが、ミレイは視線の使い方がうまい。

《露にぬれたハリエニシダ》
まるでドイツロマン派の絵みたいな、神秘的な風景画。


実在の風景というより、精神の奥にある光を描いたような作品だと思いました。
繰り返しになりますが、ミレイが単なる写実画家でないということを示す一例だと思います。

「オフィーリア」をはじめとする傑作が見られるだけでなく、英国ヴィクトリア朝における
最重要作家の実像に触れることができる、必見の展覧会です。
驚異の描き込みと美しい女性は、実物を見ないと真価がわかりません。
これはぜひ現物を見て、そのすごさを体験してください!
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フェルメールとデルフトの仲間たち

2008年09月19日 | 美術鑑賞・展覧会
東京都美術館で開催中の「フェルメール展」に行ってきました。

「絵画芸術」が来る予定だったのに、突然の貸し出し中止でガッカリですが
それでも7点という展示数は驚異的。
何しろ全世界のフェルメール作品のうち、実に1/5が日本にあるんですからね。
ある意味、北京オリンピックよりもいろいろと狙われやすいんじゃないかと・・・。

余談はさておき、昼ごろ会場についてみると入場まで10分待ち。
まあこのくらいは予想の範囲でしたが、帰る頃には既に列もありませんでした。
会期が長いからか、台風のせいで出足が鈍ったのか・・・。

中に入ると、さすがに人が多いです。この美術館はハコも狭いし天井も低いので
壁沿いに人が溜まってしまうと圧迫感がキツイんだよなぁ。
壁の説明書きで時間をとられるのはイヤだし、どうせカタログ買うつもりなので
立ち止まって解説を読んでる人はすっ飛ばして、絵の前へと直行。

最初はフェルメールと同時代に同じデルフトで活躍した画家たちの作品から。
昨年の新美で開催された「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」は
「風俗画の系譜」という軸線に沿って作品を並べたためか、どこかまとまりを欠く
印象もありましたが、今回は時代も技法もフェルメールと近い作家がそろっており
観る側の視点が変にブレることもありません。
デル・ヘイデンの描くデルフト市街もよかったけど、個人的にはハウクヘーストや
ファン・フリートの描いたデルフト新教会がゴシック建築好きのココロをワシ掴み。
バンバンと並んだ列柱にヴォールト天井の様式美がたまりません。

この後に控えるは、「フェルメールに極めて強い影響を与えた」かも知れない作家、
ピーテル・デル・ホーホのコーナーです。
ホーホのおもしろさはその空間構成、特に画面が入れ子構造っぽい作品が多いこと。

一例として「食糧貯蔵庫の女と子供」を見ると、右と左で深さの違う画面が描かれ、
さらにその右奥の部屋に開いた窓があるという入り組み方。
リアルなんだけど、どこかエッシャーっぽい不思議さも感じさせる所があります。

ちなみに子供に飲ませてるのはビールだそうです。
麦芽を含んだビールは栄養価が高く、当時は栄養飲料としての役割もあったみたい。

光と影の使い方などもフェルメールに近いと思わせるこのホーホ、後世の鑑定では
5点もフェルメールに間違えられた作品があったそうです。
カタログ内でその画風について「高潔さ」「誠実さ」と表現している部分がありますが
それはフェルメール最良の作品たちにもそのまま当てはまるものだと思います。

さて、いよいよフェルメールの展示エリアへとやってきました。
ここからは一作ずつ寸評していきます。

まずは初期の大作「マルタとマリアの家のキリスト」。
うわぁ絵がデカっ!小さい画面で微妙な描写にこだわるというフェルメールの印象とは
ちょっと違いました。
でもキリストを描いても後光の輝きが控え目なあたりは、やっぱりリアル指向の表れかな?
ならフェルメールが後に風俗画家へと転向したのも無理ないですね。

続いてやはり大判の「ディアナとニンフたち」。
「高潔さ」「誠実さ」の画風は、神話作家としても不向きだったみたい。
神様を描いてるにしてはやっぱり地味ですし、この手の作品としては「らしさ」が不足かと。
ただしディアナの足元でうつむくニンフの顔は、確かにフェルメールっぽいです。

次は今回一番見たかった「小路」。
風景画にしては小さいな~。微細な描きこみも、こう人が多いとじっくり見られないし。

でもこの絵は楽しい。レンガの赤をベースに絶妙な色配置がされていて見飽きないし、
壁に開いた戸口もフラットな画面に奥行きを与えています。
ホーホの「食糧貯蔵庫の女と子供」と同様、この戸口もそれぞれ深さが異なっていて
単にリアルなだけではない、少し不思議な空間を感じさせます。
平面的な構図と視覚的なトリック、レンガ、建物、窓、ドア、そして空に雲という
パーツ構成のせいか、なんとなくマグリットを思い出させる絵でもありました。

続いては「ワイングラスを持つ娘」。
蟲惑的な表情を浮かべる娘と下心たっぷりで彼女に迫る男。
奥で仏頂面の男は既に振られた後なのかな?
昼メロっぽいドラマを感じさせるあたり、さすがは風俗画家。
やっぱりこの人、聖書や神話よりも俗な人間を描くほうが向いてます。
三者の位置関係がなんだかぎこちない気もするけど、まあいいや。

お次は「リュートを調弦する娘」。
これは目が暗さに慣れてから見るのをオススメしたい。
パッと見では画面の暗さでわかりにくいけど、よく見ると娘さんの表情の豊かさや
暗くなってきた部屋の巧みな表現がわかってきます。
きっと一生懸命リュートを練習していたら、いつの間にか日が落ちてきたんでしょう。
娘さんの「あれっ、もうこんな時間?」的な表情が実にいい。特に目線が絶妙。

続いて「手紙を書く婦人と召使い」。
「絵画芸術」の代打でやってきた感じの作品ですが、絵としての格は決して劣りません。
パキーンとした明暗のつけ方、日常の光景から印象的な場面をスパッと切り出す目線など
まるで19世紀ごろのスナップ写真を見る感じです。
フェルメールの絵の魅力のひとつは「登場人物の自然なたたずまい」だと思いますが、
この絵はその好例ではないでしょうか。
その自然さが、フェルメール作品に「高潔さ」「誠実さ」といった印象を感じさせるのかも。

そしてある意味、本展で最大の問題作「ヴァージナルの前に座る若い女」。
人の顔ひとつ分くらいしかない、あまりにもちまっこい絵。
・・・すいません、これはダメです。だって単純に「いい絵だと思えない」から。
悪いけど私はこの絵に「高潔さ」も「誠実さ」も感じませんでした。
特に顔に生気がない。輪郭は間延びした感じ、目にも力がありません。

こういう時はシロウトって気楽だな~と思います。評論家や学者、ましてブローカーには
研究や分析や比較が欠かせないけど、我々は見たままで判断できるわけですからね。
材料とか技法とか、こっちはそんなの気にして絵を見てるわけじゃないもんで。
フェルメール作品とは思えないけど、もし真作だとしても感想は変わらないな。

最後のコーナーではフェルメール以後の作家たちを主とした展示。
さすがにフェルメールの後では技巧の差を感じますが、フェルコリエが描く衣服の素材感や
ウィッテが描く奥行きのある空間などに、同時代作家に共通した表現を見ることができます。

今回は複数のフェルメール作品が来ているおかげで、人だかりもある程度は分散しています。
確かに混んでますが、新美で「牛乳を注ぐ女」を見たときに比べれば全然マシ。
同時代のデルフト派全体の高い力量も知ることができますし、総合点も高い展覧会だと思います。

でもやっぱり「絵画芸術」は見たかったな・・・。
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ギャラリートークまとめ

2008年07月18日 | 美術鑑賞・展覧会
ギャラリートーク「山口晃が巨匠を斬る」で取り上げられた作家と作品について
覚えている部分をまとめてみました。
正式なものではないので、省略や聞き違いについてはご容赦ください。


◎雪舟「慧可断臂図」と雪村「蝦蟇鉄拐図」
岩を重ねて片ぼかしにして描き、きわをとることにより
空間がきゅーっと圧縮される、甚だしい圧縮画法となっている。
正面から2mくらい下がってみると、それがよくわかります。
(と言って実際に離れて確認する山口氏)

この雪舟のイリュージョンは、当時では相当キていたのではないか。
といっても計算でやったわけではなく、なんとなくそうなってしまう。
それが雪舟のアクの強さの表れではないか。

これに比較すると(と雪村の「蝦蟇鉄拐図」に移って)
雪村がいい人に見えてしまう。
このガマと仙人を見て笑わない人はいないでしょう。

雪村の面白みは、下手に専門的な修行をしていないような筆致。
線に気を込めようとするそばから抜けていく感じの、へろへろっとした
なんとも言えない線は、美術学校出身の人間としてはうらやましい限り。


◎永徳「檜図屏風」と等伯「松林図屏風」
「檜図屏風」については「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」との対比で
墨の黒が形を削り取る(掘り下げる)「松に叭叭鳥」と、色を乗せて
形を盛り上げていく「檜図屏風」の違いを説明。

「檜図屏風」の利きどころのひとつはリアルに描かれた葉であり、
これは胡粉で盛り上げているもの。
檜の葉にしか見えないリアルさだけど、自然の葉の繁り方と違って
葉の重なり合いがほとんどないところに、観察と意図的な省略が
巧みになされているのがわかる。これがやまと絵の真骨頂。

続いて等伯先生の「松林図屏風」。
よく「大気を描いた」などと言われるが、単純な空気遠近法ではない。
実際に模写してみるとわかると思うが、狙いすましたところに黒があり、
これはと思うところに幹が描かれて、ぞっとするようなキレがある。
なんとなくに見えて、相当に計算し尽くされた絵。
近代の絵描きが毒される「写生」という概念の前の、三次元の陰影法に
囚われすぎず、かつそれを最大限に生かすという明暗のつけ方をしている。

他には永徳の「花鳥図襖」について「これは襖絵なので、座って見るのが
本来の鑑賞位置でしょう」、等伯の「萩芒図屏風」については「当時の光源は
上でなく横にあったので、横から光が入ると金地が光って背後が透けて見えた。
金地の絵はそういう計算の上に描かれている」との説明もありました。
こういう絵はしゃがんで下から見上げると、光の感じが変わりますと言いつつ
「萩芒図屏風」の前でしゃがんでみせる山口氏。
なるほど、やってみると若干ですが絵が浮き上がって見えました。


◎光悦「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
茶碗対決のほうは、残念ながらスルーです。
光悦については「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を見ながら、作者の人柄について
「木像を見るとフランキー堺みたいな下膨れの顔でニコッと笑っているけれど、
よく見ると目が笑ってなかった、きっと怖い人だと思う」と言ってました。


◎宗達「蔦の細道図屏風」と光琳「白楽天図屏風」
かつて、今は無き萬野美術館でこれを見たという山口氏。
緑の蔦が描いてある道のような部分がなんなのか、未だにわからないとのこと。
光琳の「白楽天図屏風」については「(本来)波はこうじゃない」と言いつつ、
「変に自我は出てこないけれどやりたいことはあるという、芸術家や作家という
区分けが誕生する以前」の感じを受けるそうです。


◎応挙「猛虎図屏風」と芦雪「虎図襖」
「ぴあMOOK」で応挙LOVEを表明していた山口氏だけに、トークも絶好調。
その肖像画を見た印象について、「ちょっと小太りでヒゲの剃り跡が濃く、
見るからにいい人そうな感じ。きっと絵を描くとき小指が立ってたハズ」と
おネエしゃべりの応挙を真似て、周囲を笑わせます。

「猛虎図屏風」、べったりした金地に細かい絵を描くと普通は「浮く」のだけれど、
この絵はうまく収まっている。このへんに近代とは違う空間の捉え方を感じる。
毛の向きひとつで回り込みを表現したり、毛の処理や牙の描き方も見事とのこと。

今でこそ再評価と言われる応挙ですが、当時の資料だと京都画壇人気No.1は
応挙で、2位か3位には若冲もきっちり入っていたそうです。

芦雪については「虎図襖」の前で「ま、この人はこういう人だったんですね」的に
軽ーくスルーしてしまいました。
肌に合わないのか、技術論で語れるタイプの絵じゃないので説明しづらかったのか。


◎若冲「仙人掌群鶏図襖」と蕭白「群仙図屏風」
偏執狂的な細かさを言われる若冲ですが、パッと見ほど細かく描いている訳ではなく
ここを描くと決まるという勘所を押さえており、大胆な様式化も行っているとのこと。

「仙人掌群鶏図襖」のヒヨコに「カワイイ!食べてしまいたい!」と興奮する山口氏。
この襖の鶏も、写実的に見えて実はかなり様式化されていると指摘していました。
河鍋暁斎の逸話を例に、スケッチのコツを「まずよく観察して、後は思い出しながら
描き、思い出せないところをまた観察する」と紹介していました。

続いて蕭白「群仙図屏風」。
「たぶん友達にはなれない。きっと芦雪がいい人に見えるくらい。」(笑)。
落款の長い署名を読み上げつつ「(こういう偏屈ぶりが)当初はポーズだったのかも
しれないけれど、そのうちそれが地になっていったのではないか」と語ってました。
友達になれるとしたら、たぶん(人の良さで有名な)池大雅くらいだろうと。

この絵にもイリュージョン的なゆらめきを感じる、これを閉館後に一人で観る機会があったが
その最中に三度ほど飛び上がりたくなった、と言い、左から絵を眺めつつ歩いてくる山口氏。
仙人が龍に乗っている部分のグルグルの前で、実際にジャンプして見せてくれました。

この作品にて、ギャラリートークは終了です。
マイクに苦戦しつつユニークかつ鋭いトークを披露していただいた山口氏に改めて感謝。
自分の絵でなくてやりにくいところもあったと思いますが、お疲れ様でした。

終了後は1階で山口氏のサイン入り非売品カレンダーをいただきました。
私のは永徳・等伯・雪舟・雪村・仁清・乾山の描かれたものです。
トークの内容とメンツがほぼ一致していたのは、ちょっとうれしい偶然でした。
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山口晃が巨匠を斬る!

2008年07月17日 | 美術鑑賞・展覧会
『対決』展の特別企画、ギャラリートーク「山口晃が巨匠を斬る」から
さっき帰ってきました。
ダメもとで応募してみたら当たっちゃいまして、分不相応ながらわたくしめも
こっそり参加させていただいた次第。

1時間と短い時間でしたが、飛んだりしゃがんだりと山口さん大奮闘。
新人添乗員のような初々しさもステキでした。
なぜか先頭に立たず、ぞろぞろ歩くお客さんに混じって端っこを歩く山口さん。
控えめなのか、単に場慣れしていないのか(笑)。

でも館側ももう少し誘導に気を配るとか、山口さんに負担がかからないよう
気を使うべきだと思いました。
マイクもきちんとしたのが用意できなかったのか、ピンマイクを扇子につけて
使ってましたし。
おかげで山口さんもマイクの扱いにかなり苦戦してましたし、お客さんも
ところどころ聞き取りにくかったと思います。
これらは企画者側に反省して欲しい点だと思いました。

時間の制約もあり、作家と作品を絞ってのギャラリートークとなりましたが
山口さんなりの見どころや作家ごとの描画テクニックについての説明もあり、
「山口晃が斬る」というタイトルにふさわしい内容だったと思います。
随所で古いギャグを入れては「最近はこのネタがわかる人も減ってまして」と
笑いを誘うあたりにも、山口さんのサービス精神がよくあらわれていました。
大丈夫ですよ、私も含めて会場の7割程度はわかってたみたいですから。

明日も早いので、本日は現場のムードのみお伝えしました。
詳細はまた後日書く予定です。
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「対決」展に行ってきました(後編)

2008年07月11日 | 美術鑑賞・展覧会
「対決展」の後半戦は、宗達と光琳の対決からスタート。
本来なら同じものを描いた「風神雷神図屏風」での勝負となるところですが
この作品の展示は会期最終週だけ。
ということで、音声ガイドでは宗達「蔦の細道図屏風」と光琳「白楽天図屏風」が
取り上げられていました。

金地に緑青だけでシンプルに描かれる「蔦の細道」は、そのミニマルさがかえって
色の調和と画面構成の巧みさを引き立たせています。
屏風の左右を入れ替えても絵がつながるという構図は、行けども行けども続く山道を
象徴しているのかもしれません。
音声ガイドを担当する小林清志氏の渋い声も、山道の静けさを感じさせてよかったです。
光琳の「白楽天図屏風」は、光琳波を思わせるウネウネした波で埋め尽くされていますが
デザイン性で見ると少し中途半端な気もします。
むしろ胡粉盛りで肉厚な白菊を表現した「菊図屏風」のほうが意匠的には面白かったかな。

ちなみに本展の後に東博で開催される「大琳派展」には、酒井抱一と鈴木其一を加えて
風神雷神の4作競演も控えています。

次はこれまた強力な、応挙と芦雪の組み合わせ。
今回は特に「虎対決」として、応挙「猛虎図屏風」と芦雪「虎図襖」が出ていますが
どう見ても猛虎は芦雪のほうでした。
よく言われる話だけど、応挙は毛皮を見て描いてるせいで姿勢に気迫がないんですよ。
止まってる時はいいんだけど、動かすとヘンな生き物。そこが面白いともいえるけど。
応挙の虎なら平常展で見られる(7/13まで)「虎嘯生風図」のほうが好みです。

芦雪の虎も実在しない生物っぽいのですが、その殺る気まんまんの顔と前足だけで
虎の凄みをたっぷりと感じさせてくれます。
こんな襖が開いて中から人が出てきたら、思わず土下座しちゃいそう。
この作品を担当していた森川智之氏の解説は、絵とは逆に落ち着いた口調が魅力的でした。
代表作はベルセルクの「白き鷹」ことグリフィスなので、「鷹、虎を語る」という感じ。

続いては仁清と乾山のやきもの対決。
侘び寂び勝負の楽茶碗対決と違って、こちらは華麗な色絵の京焼です。
多彩な色と優れたデザインセンスで絵付けをする仁清に比べ、乾山の色使いは洗練度で
少し劣る気もしますが、これが茶道具になるとまた印象が変わります。
ちょっと野暮ったい感じの乾山のほうが、茶の湯の席にはふさわしい気がするんですよ。
このあたりが鑑賞陶磁と実用陶磁の微妙な分岐点になるのかも。

次は円空と木喰による木像勝負です。
ラフなタッチで自然から神性を彫り出す円空と、丸みと装飾性に慈愛を感じさせる木喰。
仏の本質に近いのは円空かもしれないけれど、悟りからほど遠い私のような人間には
木喰の親しみやすさが心地よかったです。

お次はただいま人気沸騰の若冲と蕭白の登場。
おお、若冲のサボテンダー・・・じゃなくて「仙人掌群鶏図襖」だ!
緻密に描かれた鶏にサボテンがアクセントを加えた異色の作品です。
でも襖絵という制約か、サボテンも鶏も若冲にしては数が少ないような気もします。
やはり金地の襖を絵で埋め尽くすのはやり過ぎと思って、少し控えたのでしょうか。
(もちろんそんなわけはないでしょうけど)
むしろ石灯籠の質感を点描で描くという探究心を見せた「石灯籠図屏風」のほうに
若冲的な楽しさを感じたのですが、やっぱりまだまだ見る目が足りませんね。
後半に出る「旭日鳳凰図」はずばり私好みなので、今から楽しみです。

対する蕭白は遠慮なく描線で画面を埋め尽くし、奇妙奇天烈なモノどもをぐいぐいと
描きまくっています。
グロテスク上等!ってぐらいの意気込みが伝わる、熱い(暑すぎる)作品ばかり。
「唐獅子図」など、サンダ対ガイラみたいな二体の唐獅子が物凄い筆遣いで人より大きく
描かれていて、まるで初期の東宝特撮映画を見ているようです。

そして私にとっては裏対決の目玉、若本規夫氏の担当する池大雅の作品へ。
音声解説のボタンを押すと・・・いきなり第一声から他の人と違う!ナレーションが濃い!
「中国の文人、李魚は・・・」この「李魚は」の部分で、既に若本節入ってます。
若本さんにしては抑え目ですが、さらりと描かれた池大雅の「十便帖」を、ここまで
濃厚な語りで紹介されるとは・・・やはりこの方は唯一無二のお方です(^^)。
このナレーションだけで10回近く聞きかえしてしまいました。
「蓑着ず笠せず、籐に乗らず~」この唄うような節回しが特にたまりません。

大雅の絵を意識して見たのは初めてですが、この人の筆もものすごく達者です。
緻密なのにくどくならず、むしろ軽さを感じさせるのがすごいなと。
人物の絵が妙にかわいくて、ちょっと高野文子っぽいところも好きだったりします。
一番良かったのは白黒の細い線で描かれた「漁楽図」。墨の濃淡の中に泳ぐ魚の陰が
だまし絵風に潜ませてあるようにも見えて、楽しめました。

対する与謝蕪村には、俳人らしい侘び寂びや寂寥感に裏打ちされた「簡潔さ」や
「厳しさ」などを感じました。
冬の過酷な自然と向き合う鳥の姿を描いた「鳶鴉図」は、蕪村の感性が凝縮された
「絵で見る俳句」だと思います。
「十宜帖」を解説する清川元夢氏の「学校の先生風」な淡白さも、実に蕪村的。
若本さんとの落差もまた聞き所なので、まずは続けて両者を聞き比べてください。

さて次は歌麿vs写楽ですが・・・ここの音声ガイドはお楽しみ。
変に気にせず、ベテランらしい余裕たっぷりの語りを堪能して欲しいです。
対決作品の配置も大事なので、必ず歌麿の「婦人相学十躰・浮気の相」の前で
スイッチを入れるようにすること。

この対決で特に印象的だったのは、写楽が全身像を描いた「三代目沢村宗十郎の
名護屋山三と三代目瀬戸菊之丞の傾城かつらぎ」(しかし長いタイトルだな)。
大首絵しか知らなかったので、宗十郎のすらりとした立ち姿には感動しました。
やっぱり写楽って絵が上手かったんだなー(あたりまえ)。

さて、この一大展覧会のしんがりに控えるのは、わが国最後の文人画家・鉄斎と
最初の近代画家のひとり、大観の対決。
鉄斎の池田秀一氏のナレーションを聞いて、つい「秘密」のオープニングを
思い出してしまったのはさておき、この妙義山はハチャメチャとしか言えません。
鉄斎はこの地を神仙が住まう仙境・超常の地と捉え、そのイメージを絵にしたら
こういう風になったということなのでしょうか。
展示替えで登場する富士山もまた霊峰なので、さらなる超常ぶりに期待。
これに対して大観の富士はシンプルにキメてますが、加藤精三氏の地の底から
湧き上がるようなナレーションのおかげで、青い富士山の内部に熱いマグマを
感じてしまいました(^^;。

さて、ボリュームたっぷりのこの展覧会もこの対決で終了です。
音声ガイドの全体ナビゲーションを担当されたのは松尾佳子さん。
「母をたずねて三千里」のマルコで有名な方ですが、不覚ながら聞いてる間は
全く気づきませんでした。まさかこんなところまで豪華キャスティングとは。

おみやげコーナーではウワサの「山口晃カンバッチ」ガシャガシャを発見!
プライズ野郎として、東博でガシャをやれる機会は逃しません。
ということで、用意した小銭を突っ込んでガンガン回します。

ねらうは若冲ただ一人なのですが、これが全然出てこない。
しまいにはお金が詰まって係のお姉さんを呼ぶ羽目になりました。
東博でカプセル玩具を詰まらせて係を呼ぶ・・・なんてレアな体験(?)。
ちょっと恥ずかしい気もしましたが、そのおかげで「好きなのをひとつどうぞ」と
言ってもらえました。ここは迷わず若冲ゲット!
その後も懲りもせず隣の機械もガシャガシャ回し、長次郎も手に入れました。

1階へ降りると、カンバッチの原画がずらりと展示されてました。
山口晃氏の絵を実際に見るのも、これがはじめて。巨匠ごとに工夫された絵柄を
生のサイズで見て、服につけたカンバッチと見比べる。う~ん満足です。
メインの展示で満腹した後は、こちらに寄るのもお忘れなく。
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「対決」展に行ってきました(前編)

2008年07月09日 | 美術鑑賞・展覧会
「対決」展の記事を書いてから一日経たない内に、現地突撃を敢行してきました。
思い立ったら動くが勝ち、動かせる予定は後回しということで「大黒」の元へと
走ってしまったけど、後悔はしてません!(後々大変そうだけど)
結局ほぼ丸一日を東博内で過ごしましたが、それだけの時間は必要です。

朝11時前くらいに会場に入りましたが、まだ2日目ということで客の出足も
予想ほどではありませんでした。でも平日なのに結構入ってましたが。
係員に聞くと、「予想よりは少ないですね」とのことでしたが、会期が一ヶ月しか
ありませんから、後ろで混みあうと大変なことになりそうです。

音声ガイドを借りると、紹介作品と声優さんを書いた一覧がもらえます。
詳細なプロフィールは製作を担当したしたART&PARTさんのページでどうぞ。
目当ての「大黒」にも、しっかりと音声ガイドがついてました。
展示替えとなる13日以降はたぶん「俊寛」に変わるのでしょう。

冒頭は運慶と快慶による地蔵菩薩像。
運慶のボリューム感ある作風に対し、快慶は顔こそややのっぺりしているものの
衣の繊細さはまるでレースみたいです。
運慶を担当した櫻井孝宏はスザクより落ち着いた声で、トップバッターとしては
十分な仕事をしてましたよ。

続いては雪舟と雪村。
筆の達者さでは雪舟ですが、雪村には師の雪舟を上回る想像力を感じます。
「蝦墓鉄拐図」のダイナミックな動きは、本展でも有数のものでした。

お次はいよいよ展覧会の両主砲、永徳vs等伯です。

永徳の「檜図屏風」は荒々しく見えますが、実は葉の表現などは極めて繊細。
しかし永徳の筆はよく走る走る、大画ほど描線の美しさと迷いのなさが際立つ感じ。
まるでトップF1レーサーのライン取りを見ているような気持ちになりました。
屏風の特性を生かした立体視効果も抜群の効果をあげてます。
「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」など、斜め視点から見ると滝のしぶきや水の流れ出しが
3D感覚で感じられます。
「花鳥図襖」の水に浸かった枝の描写も見逃せません。

等伯の「松林図屏風」は穏やかな画風だけど、それぞれの描線は実に大胆です。
等伯の線は細くすーっと伸びるところが魅力だと思うのですが、「松林図屏風」だけは
まるで前衛絵画のようなグジャグジャ線も使ってるのがおもしろい。
でも全体で見るときちんとまとまって、うさんくささを微塵も見せません。
「「萩芒図屏風」で見せた「自然をそのまま図に落とし込む」感覚は、写真でしか見た事のない
智積院の「楓貼付図」に通じるものを感じました。一度実物が見たい!

そして私にとっての大本命、長次郎と光悦が登場。
長次郎の「大黒」を見て、その見込みをのぞき込めたというだけでも幸せですが、今回は
さらに「無一物」「俊寛」「道成寺」といった代表作もたっぷりと眺めることができて
ますます長次郎のとりこになってしまいました。
本館の平常展では「尼寺」も展示中なので、こちらも見逃さないように。

対する光悦ですが、茶碗作品をこれだけまとめて見たのは初めてです。
「加賀光悦」の量感、「七里」のモダンさ、「毘沙門堂」の奔放さと「時雨」の厳粛さ。
楽家にならって簡潔にまとめた作風とやりすぎない自己主張が同居する各碗はどれも
見事ですが、やはり長次郎と並べてみると、どうしても作為性が強いと感じます。

使い手(この場合はまず利休)に寄り添ってその意を汲むために生み出された長次郎作と
作り手の自己表現がまず優先される光悦作。
光悦の演出性も魅力的ではありますが、私が茶碗を見るときに最も至福を感じるのは
その碗に自分を委ねるように、無私に近い感覚で碗と向き合っている時間です。
そんな時に最も落ち着けるのは、やはり長次郎の碗なのですよ。
もし碗の中に自分の「心」を入れられるなら、私は長次郎の作品を選びます。

ここまでで約半分、茶碗で気力をかなり吸われたので小休止を入れました。
このあとの後半部は次回に。
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若冲もいいけど若本さんもね

2008年07月08日 | 美術鑑賞・展覧会
本日から東京国立博物館で「対決-巨匠たちの日本美術」展が始まりました。

日本の美における最高レベルを一挙に見られるという一大イベントですので、
美術に興味のない方にも一度は足を運んでいただきたいもの。
ということで、うちにも紹介用のブログパーツを貼らせてもらってます。
目当てのひとつ、長次郎の黒楽茶碗「大黒」が13日までしか展示されないので
私もそれまでには一度行ってくるつもり。
展示変えやらなんやかやで三度は見に行くことになりそうなので、もう前売り券を
3枚買ってしまいました。

巨匠ぞろいの中でも、やはり気になるのは伊藤若冲の「仙人掌群鶏図襖」。
若冲お得意の鶏にサボテンまでついてくるという、このお得感がたまりません(笑)。
レア度も高い作品ということなので期待感さらにアップです。
長次郎vs光悦の茶碗対決はもちろん、永徳vs等伯の因縁対決、応挙と芦雪による
虎対決(というよりこれは競演な気も)なども見逃せません。

そんな興奮高まる中、すでに内覧会に行かれたTakさんの「弐代目・青い日記帳」に
さらに耳寄りな情報が載っておりました。
なんと音声ガイドに豪華声優陣を起用し、語りによる「もうひとつの対決」を
実現しているとのこと。
期待しながら出演者を見てみると・・・いました、若本御大です!

わが最愛の「トップをねらえ!」でのオオタコーチから、ただいま絶好調放送中の
「コードギアスR2」のブリタニア皇帝まで、数々の名演と名セリフを残してきた
われらが若本規夫氏が出ているとあれば、もう全力で借りるしかありません。
というわけで、人生初の音声ガイド体験をすることになりそうです。
若本氏が担当するのは池大雅ですが、ライバルの与謝蕪村は清川元夢氏の担当。
ブリタニア皇帝vsガー様に見立てると、ある意味で頂上決戦のような気も(^^;。

他の出演者では飯塚昭三、古川登志夫、内海賢二、小林清志、玄田哲章の
各氏あたりが、特になじみの深い名前ですね。
そんな中から私の注目する対決を、いくつか紹介してみます。

・近石真介vs野島昭生(円空vs木喰)
初代マスオさんとナイトライダーのしゃべるスーパーカーのAIという異色な対決。
ナイトライダーからは「奥さまは魔女」のナレーションで知られる中村正氏も
本阿弥光悦の担当で参加しています。

・野沢那智vs羽佐間道夫(歌麿vs写楽)
大ベテラン同士による、声優界の頂点を極める対決。
一言付け加えるなら、ここに広川太一郎氏の名前がないことが惜しまれます。

・池田秀一vs加藤精三(富岡鉄斎vs横山大観)
若さゆえの過ちが勝つか、ちゃぶ台返しの頑固オヤジが勝つか?
シャアvs星一徹という組み合わせがすばらしすぎます。

ちなみに冒頭を飾る運慶を担当するのは、「コードギアス」の枢木スザクこと
櫻井孝宏氏。ライバルの快慶がルルーシュ役の福山潤氏じゃないのは残念ですが。
コメント (2)
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