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ミッチ・ミッチェル

2024-08-08 16:07:03 | drums

ミッチ・ミッチェル Mitch Mitchell


【本名】
  ジョン・グラハム・ミッチェル/John Graham Mitchell

【パート】

  ドラムス、パーカッション、ヴォーカル

【生没年月日】
  1946年7月9日~2008年11月12日(62歳没)

【出身地】
  イングランド ミドルセックス州イーリング

【経 歴】
  ライオット・スクワッド/The Riot Squad(1964)
  ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズ/Georgie Fame & The Blue Flames(1965~1966)
  ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス/Jimi Hendrix Experience(1966~1969)
  ジプシー・サン&レインボウズ/Gypsy Sun & Rainbows(1969)
  ジャック・ブルース&フレンズ/Jack Bruce & Friends(1969)
  ラマタム/Ramatam(1972~1973)
  ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズ/Georgie Fame & The Blue Flames(1974)
  ジプシー・サン・エクスペリエンス/Gypsy Sun Experience(1999)



 ミッチ・ミッチェルは、1960年代後半の主要なロック・ドラマーのひとりであり、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとして知られる。
 ローリング・ストーン誌が選定した「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」では第8位にランクされている。
 1992年、「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」の一員としてロックの殿堂入り。2009年にはモダン・ドラマーの殿堂入りも果たした。


 ミッチ・ミッチェルは、1943年7月9日にイングランドのミドルセックス州イーリングで、トーマスとフィリスのミッチェル夫妻のあいだに生まれた。
 10代の頃は子役としてテレビドラマやCMなどに出演しており、1960年にはイギリス映画「ボトムズ・アップ」で主役を演じている。
 そのかたわらドラムの演奏にも興味を持ち、エルヴィン・ジョーンズをはじめ、トニー・ウィリアムス、マック・ローチ、ジョー・モレロなどのジャズ・ドラマーから多大な影響を受け、次第に独自のスタイルを確立してゆく。


 ミッチェルが最初に加入したバンドは、地元イーリング・クラブで結成された「ソウル・メッセンジャーズ」である。
 その後「ピート・ネルソン&ザ・トラヴェラーズ」「フランキー・リード&ザ・カジュアルズ」「ジョニー・ハリス&ザ・シェイズ」「ビル・ナイト&ザ・セプターズ」などのツアーやセッションに参加し、キャリアを積む。
 1964年頃には「ライオット・スクワッド」というバンドでレコード・デビュー。またドラマーがダグ・サンドムからキース・ムーンに交替する前のザ・フーにもセッション・ドラマーとして参加している。1965年にはヴィヴ・プリンスの後任として一時的に「プリティ・シングス」のドラマーを務めた。

 1965年12月には「ジョージー・フェイム&ブルー・フレイムス」に加入、1966年10月まで在籍した。その間1966年にはアルバム「スウィート・シングス」の制作に加わっている。


 1966年、イギリスに渡ったジミ・ヘンドリックスは、自分のバンドを作るため様々なミュージシャンとセッションを行っていた。その年8月、ヘンドリックスのマネージャーを務めていたチャス・チャンドラーから連絡を受けたミッチェルは、ロンドンでのセッションに参加した。
 10月6日に再度セッションに呼ばれたミッチェルは、この時ヘンドリックスに「ジンジャー・ベイカーのように演奏してほしいのかい?」と尋ねると、「ああそうだよ、君の好きなように叩いてくれ」という答えが返ってきたという。
 ヘンドリックスのオーディションのためのセッションにはミッキー・ウォーラーなど多くのドラマーが声をかけられていたが、最終的にはミッチェルとエインズレー・ダンバーが候補に残った。チャンドラーによると、どちらを選ぶか甲乙つけ難く、苦慮したすえ最後はコイントスによってミッチェルが選ばれたそうである。こうしてミッチェルは、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとなった。ちなみにダンバーはその後ジョン・メイオール、フランク・ザッパ、ジェファーソン・エアプレイン、ジャーニーなど錚々たるバンドに参加、ロック・ドラマーの第一人者として長年にわたって活躍している。





 ヘンドリックスの革新的で自由度の高い演奏とミッチェルのドラミングは非常に相性が良かったと言える。ジャズに深く傾倒し、高度なテクニックを持っていたミッチェルは、ヘンドリックスの革新的で自由なアプローチに変幻自在に対応し、バンドを支えた。自分の音楽を推進発展させてくれるドラマーが必要だったヘンドリックスにとっては、スピード感と対応力に富んだミッチェルのドラミングはなくてはならないものだったといえる。
 エクスペリエンスはヘンドリックスの圧倒的なパフォーマンスで世界的な人気バンドとなった。
 ミッチェルがエクスペリエンス時代に残したアルバム「アー・ユー・エクスペリエンスト?」「アクシス:ボールド・アズ・ラヴ」「エレクトリック・レディランド」は英米のチャートで全てトップ10入りし、なかでも「エレクトリック・レディランド」は全米1位を記録している。


 ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはノエル・レディングの脱退により、1969年6月にわずか3年たらずで解散したが、ヘンドリックスはその後もミッチェルを手放さなかった。
 1969年8月に行われたウッドストック・フェスティヴァルには、ヘンドリックスはミッチェルとビリー・コックス(bass)とで結成した「ジプシー・サン&レインボウズ」で出演している。
 また、しばしばヘンドリックスはミッチェルと二人だけでスタジオに入り、レコーディングを行っている。
 1969年末から1970年初頭にかけてのヘンドリックスのバンド「バンド・オブ・ジプシーズ」では、バディ・マイルスがドラマーとして起用されているが、この頃のミッチェルはジャック・ブルース(bass)率いる「ジャック・ブルース&フレンズ」に加わっており、マイク・マンデル(keyboard)やラリー・コリエル(guitar)とコラボレーションを行っている。
 1970年4月~9月に行われたヘンドリックスの「クライ・オブ・ラヴ・ツアー」では、再びミッチェルがドラマーのポジションに戻った。





 1968年12月、ミッチェルは、ローリング・ストーンズのテレビ番組「ロックンロール・サーカス」のために結成されたバンド「ザ・ダーティー・マック」の一員となった。他のメンバーは、ジョン・レノン(vocal, guitar)、エリック・クラプトン(guitar)、キース・リチャーズ(bass)、オノ・ヨーコ(screaming)である。このバンドは「ヤー・ブルース」「Whole Lotta Yoga」を録音している。
 また1969年夏、ミッチェルはマイルス・デイヴィス(trumpet)の家に招待された。その時ジョン・マクラフリン(guitar)とセッションを始めたマイルスに「おい、ドラマー!お前はドラマーだろ?一緒に演奏しろ」と言われた。セッション後、マイルスに「OK、明日2時にCBSに来れるな」と声をかけられたミッチェルは、翌日「ビッチェズ・ブリュー」セッションに参加したということである。


 1970年、バンド・オブ・ジプシーズ解散後のヘンドリックスは、ビリー・コックスを残して新たなバンドを結成するが、その時に参加したドラマーがミッチェルであった。呼び戻されたミッチェルは、1970年9月18日にヘンドリックスが死去するまで彼と活動を共にした。1970年8月にはこのメンバーでワイト島フェスティヴァルに出演している。
 この頃(1970年春)、ヘンドリックスとミッチェルは、グレッグ・レイク(bass, vocal)が企図していた新グループへの参加を打診されている。このプランは実現しなかったが、レイクはキース・エマーソン(keyboard)とカール・パーマー(drums)を迎えて1970年6月に新たなバンドを結成した。このバンドが「エマーソン・レイク&パーマー」である。


 1970年9月にヘンドリックスが急死した後、ミッチェルはエンジニアのエディ・クレイマーとともに残された不完全な音源の編集作業に携わった。ヘンドリックスの死後、「ザ・クライ・オブ・ラヴ」「レインボウ・ブリッジ」「ウォー・ヒーローズ」の3枚のスタジオ・アルバムが発表されたが、ミッチェルはそれらに収録されている曲のほとんどでドラムを叩いている。一方で自身のバンドを結成し活動したが、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス時代ほどの成功は得ることはなかった。





 1972年渡米したミッチェルは、マイク・ピネラ(vocal, guitar 元アイアン・バタフライ)、エイプリル・ロートン(guitar)、ラス・スミス(bass)、トム・サリヴァン(keyboard)と「ラマタム」を結成したが、セカンド・アルバムがリリースされる前にバンドから去った。
 その後「ヒンクリー・ヒーローズ」というジャム・バンドでジョン・ハルゼーとともにドラムを叩いたが、これはミッチェルが他のドラマーと共演した唯一のケースである。
 そのほかコージー・パウエルの代役としてテリー・リード、ジャック・ブルース、ジェフ・ベックらのバックを務めたりしていたが、1974年に「ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズ」に復帰。この年にはポール・マッカートニーのバンド「ウィングス」のオーディションを受けているが、この時の最終的な結論もコイントスに委ねられ、今回はミッチェルではなく、ジョフ・ブリットンが選ばれた。


 1970年代後半から1990年代にかけてのミッチェルは、イギリスを拠点に演奏を続け、時にはレコーディングを行ったりしていたが、いわばセミ・リタイア状態であった。
 1999年、ミッチェルはビリー・コックス(bass)、ゲイリー・サーキン(guitar)とともに「ジプシー・サン・エクスペリエンス」を結成して活動を始めた。またこの年にはブルース・キャメロンのアルバム「Midnight Daydream」のレコーディングにも加わっている。このアルバムにはビリー・コックス、バディ・マイルス、ジャック・ブルースなど、ヘンドリックスやミッチェルゆかりのミュージシャンが参加してる。





 2008年、エクスペリエンスを記念したツアーがアメリカの18都市で行われた。このツアーにはビリー・コックス、バディ・ガイ、ジョニー・ラング、ロビー・クリーガー、ブラッド・ウィットフォードらが参加していた。ツアーはオレゴン州ポートランドで終了したが、ツアーの終了から5日後の11月12日、ポートランドのボンソン・ホテルの一室でミッチェルが死亡しているのが発見された。62歳であった。正式な死因は明らかにされていないが、睡眠中の自然死と見られている。
 ミッチェルは長年にわたって免疫系疾患とガンの治療を行っており、健康状態は良くなかった。このツアーでは、ミッチェルはそれぞれの公演で2、3曲しか演奏せず、つねにバックアップ・ドラマーがすぐそばに控えている状態だった。ツアー最後のポートランド公演では、ミッチェルの様子があまりにも弱っているようだったので、代役のドラマーが演奏したという。


 「クイーン」のロジャー・テイラー(drums)は、ミッチェルのドラミングを初期のロール・モデルにしていたといい、「ミッチ・ミッチェル、特にヘンドリックスとの初期の作品を聴くのは本当に素晴らしい」と語っている。「カルト」や「ガンズ&ローゼス」のドラマーを務めたマット・ソーラムは、ミッチェルを「史上最も偉大なドラマーのひとり」と絶賛している。


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
 
 <ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズ>
  1966年 Sweet Things(UK6位)

 <ジミ・ヘンドリックス>

  1967年 アー・ユー・エクスペリエンスト?/Are You Experienced(UK2位 US5位)
  1967年 アクシス:ボールド・アズ・ラヴ/Axis:Bold as Love(UK5位 US3位)

  1968年 エレクトリック・レディランド/Electric Ladyland(UK6位 US1位)
 ★1968年 スマッシュ・ヒッツ/Smash Hits(UK4位 US6位)
 ☆1970年 ウッドストック/Woodstock:Music from the Original Soundtrack and More(UK35位 US1位)※録音1969年
 ☆1970年 Historic Performances Recorded at the Monterey International Pop Festival(US16位)※録音1967年
  1971年 クライ・オブ・ラヴ/The Cry of Love(UK2位 US3位)
  1971年 レインボウ・ブリッジ/Rainbow Bridge(UK16位 UK15位)
 ☆1971年 Experience(UK9位)※録音1969年
 ☆1971年 ワイト島のジミ・ヘンドリックス/Isle of Wight(UK17位)※録音1970年
 ☆1971年 ウッドストック2/Woodstock Two(US8位)※録音1969年
  1972年 戦場の勇士たち/War Heroes(UK23位 US48位)
 ☆1972年 ヘンドリックス・イン・ザ・ウエスト/Hendrix in the West(UK7位 US12位)※録音1969~1970年
 ☆1972年 More Experience
  1974年 Loose Ends
 ★1975年 クラッシュ・ランディング/Crash Landing(UK35位 US5位)
 ★1975年 ミッドナイト・ライトニング/Midnight Lightning(UK46位 US43位)※録音1968~1970, 1975年
 ★1978年 The Essential Jimi Hendrix
 ★1980年 ナイン・トゥ・ジ・ユニヴァース/Nine to the Universe(US127位)※録音1969年
 ★1981年 The Essential Jimi Hendrix Vol.2
 ☆1982年 炎のライヴ!! '68~'70/The Jimi Hendrix Concerts(UK16位)
 ★1983年 ベスト/The Singles Album(UK77位)
 ★1984年 キス・ザ・スカイ/Kiss the Sky(US148位)
 ☆1986年 モンタレー・ポップ・フェスティヴァル・ライヴ/Jimi Plays Monterey(US192位)※録音1967年
 ☆1986年 ジョニー・B・グッド/Johnny B. Good ※録音1970年
 ☆1986年 Band of Gypsys 2 ※録音1969~1970年
 ☆1987年 ライヴ・アット・ウィンターランド/Live at Winterland ※録音1968年
 ★1988年 Radio One(US119位)
 ★1990年 Lifelines:The Jimi Hendrix Story
 ☆1991年 Live Isle of Wight '70 ※録音1970年
 ☆1991年 Stages ※録音1967~1970年
 ★1992年 ジ・アルティメット・エクスペリエンス/The Ultimate Experience(US72位)
 ☆1994年 ウッドストック/Woodstock(US37位)※録音1969年
 ★1994年 ブルーズ/Blues(US45位)
 ★1995年 ヴードゥー・スープ/Voodoo Soup(UK83位 US66位)※録音1968~1970, 1995年
 ★1997年 ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン/First Rays of the New Rising Sun(UK37位 US49位)
 ★1997年 エクスペリエンス・ヘンドリックス~ベスト/Experience Hendrix:The Best of Jimi Hendrix(UK18位 US133位)
 ★1997年 サウス・サターン・デルタ/South Saturn Delta(US51位)※録音1967~1970
 ☆1998年 BBCライヴ/BBC Sessions(US50位)※録音1967, 1969
 ☆1999年 ライヴ・アット・ウッドストック/Live at Woodstock(US90位)※録音1969年
 ★2000年 ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス〜アンリリースト&レア・マスターズ/The Jimi Hendrix Experience(US78位)
 ★2001年 ヴードゥー・チャイルド~ザ・ジミ・ヘンドリックス・コレクション/Voodoo Child:The Jimi Hendrix Collection(UK10位 US112位)
 ☆2002年 ブルー・ワイルド・エンジェル~ワイト島のジミ・ヘンドリックス/Blue Wild Angel:Live at the Isle of Wight(US200位)※録音1970年
 ☆2003年 ライヴ・アット・バークレー/Live at Berkeley(US191位)※録音1970年
 ★2003年 Martin Scorsese Presents The Blues:Jimi Hendrix
 ☆2007年 ライヴ・アット・モンタレー/Live at Monterey(全米171位)※録音1967年
 ★2010年 ヴァリーズ・オブ・ネプチューン/Valleys of Neptune(UK21位 US4位)※録音1967~1970, 1987年
 ★2010年 ウェスト・コースト・シアトル・ボーイ~ジミ・ヘンドリックス・アンソロジー/West Coast Seattle Boy:The Jimi Hendrix Anthology 録音1964~1970年
 ☆2011年 ウィンターランド/Winterland(US171位)※録音1968年
 ★2013年 ピープル、ヘル・アンド・エンジェルス/People, Hell and Angels(UK30位 US2位)※録音1968~1970年
 ☆2013年 マイアミ・ポップ・フェスティヴァル/Miami Pop Festival(US39位)※録音1968年
 ☆2015年 フリーダム~アトランタ・ポップ・フェスティヴァル/Freedom:Atlanta Pop Festival(US63位)※録音1970年
 ★2018年 ボース・サイズ・オブ・ザ・スカイ/Both Sides of the Sky(UK8位 US8位)※録音1968~1970年

 <ラマタム>
  1972年 ラマタム/Ramatam(US182位)

 <レコーディング・セッション>
 *Martha Veléz
  1969年 Friends and Angels
 *ロジャー・チャップマン/Roger Chapman
  1980年 Mail Order Magic
 *Greg Parker
  1986年 Black Dog
 *David Torn
  1996年 What Means Solid, Traveller?
 *Junior Brown
  1998年 Long Walk Back
 *ブルース・キャメロン/Bruce Cameron
  1999年 Midnight Daydream


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アレックス・ネピアー

2024-06-13 03:46:31 | drums

アレックス・ネピアー Alex Napier

 【パート】
   ドラムス、パーカッション、ベース、ギター

 【生没年月日】
   1947年10月18日~2023年1月19日(75歳没)

 【出生地】
   スコットランド グラスゴー

 【経歴】
   スパイス/Spice(1969.2~1969.12)
   ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1969.12~1970.2)
   プリズム/Prism

   アレックス・ネピアー・バンド/Alex Napier Band(1980~1981)



 アレックス・ネピアーは、イギリスのドラマー。ユーライア・ヒープのオリジナル・メンバーである。


 地元の様々なバンドで演奏していたネピアーは、音楽紙の広告によって「スパイス」というバンドがドラマーを募集していることを知る。
 当時のスパイスは、1968年11月にデビュー・シングル『What About The Music』をリリースしたばかりだったが、1969年初頭にドラマーのナイジェル・ペグラムが脱退したため、後任を探していた。
 広告に応募したネピアーはスパイスへ加入。このバンドにはデヴィッド・バイロン(vocal)、ミック・ボックス(guitar)、ポール・ニュートン(bass)らが在籍していた。ちなみにスパイスはこの頃一時的に「The Play」と名乗って活動したが、まもなく元のバンド名「スパイス」に戻している。


 1969年春、スパイスがイングランドのハイウィカムのブルース・ロフト・クラブで演奏していたところ、そこにプロデューサーのジェリー・ブロンが居合わせた。当時、スパイスのマネージャーはポール・ニュートンの父が務めていたが、彼はブロンと知り合いだった。この繋がりからブロンはスパイスに契約を持ちかけ、レコーディングの機会を提供した。
 デビュー・アルバムのレコーディングは、1969年の7月にロンドンのランズダウン・スタジオで始まった。この時収録された曲のうち、リリースされなかった未発表音源やデモ音源は、1993年になってアルバム『The Lansdowne Tapes』としてCD化されている。


 ネピアーが「カム・アウェイ・メリンダ」「ウェイク・アップ」の2曲を録音したのち、
1969年末になってキーボード奏者として元「トー・ファット」のケン・ヘンズレーがスパイスに加わった。当時のスパイスのキーボード奏者コリン・ウッドはサポート・メンバーであり、バンドは正式なキーボード奏者を必要としていたからである。そしてブロンの提案でバンド名は「ユーライア・ヒープ」と改められた。(ただし1970年2月までは「スパイス」の名で活動している)
 ヘンズレーの加入後、ネピアーはさらに「ジプシー」「ウォーキング・イン・ユア・シャドウ」「リアル・ターンド・オン」「アイル・キープ・オン・トライング」の4曲でドラムを叩いたが、レコーディングの終了を待たず1970年2月に解雇された。後任のドラマーは、エルトン・ジョンから推薦されたナイジェル・オルソンであった。
 当時のベーシスト、ポール・ニュートンはのちに「ネピアーは、当時の私にとっては良い友人だった。彼はいいドラマーだったが、彼の仕事とヒープの成功への貢献は認められていなかった。」と語っている。
 なおネピアーが録音に参加した曲は、1970年6月に発表されたユーライア・ヒープのデビュー・アルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(原題:…Very 'Eavy…Very 'Umble)に収録された。


 その後のネピアーの音楽活動は、ライヴを主体として続けられた。
 ユーライア・ヒープを離れた後のネピアーは、2枚のソロアルバム『ウィル・アンド・ザ・キル』とクリスマス・アルバム『オースティン・リズム・アンド・ブルース・クリスマス』の2枚のソロ・アルバムを発表。この2枚のアルバムで彼はドラムとベースを演奏している。しかしアルバムのセールスははかばかしいものではなかった。
 また古い友人のピーター・ハリスンとともに「プリズム」というバンドに加わったりしたが、経済的な理由により引退することを決め、その後ロンドンのホテルで働いた。
 ネピアーは、1980年から1981年にかけては「アレックス・ネピアー・バンド」で活動した。このバンドはトニー・メイソン(vocal)をフィーチャーし、2 曲のデモ音源を残している。
 その後のネピアーは、最終的には音楽業界から引退し、家具職人として働いたという。旧友のピーター・ハリスンは、「最後にネピアーに会ったとき、彼は演奏をやめており、息子にドラムを教えていた。ネピアーの息子は父親のキットを使ってドラムを演奏していた。」と述懐している。


 ユーライア・ヒープの歴代のドラマーの中では、ネピアーは短期間しか在籍しなかった初期のドラマーのひとりに過ぎないと見なされている。しかし『ユーライア・ヒープ
・ファースト』におけるネピアーのドラミングを評価する人が多いのも事実である。


     


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スパイス>

 ★1993年 The Lansdowne Tapes ※1969年録音

 <ユーライア・ヒープ>

  1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト…Very 'Eavy…Very 'Umble US186位 日本41位 イタリア11位 フィンランド14位
 ★1976年 ザ・ベスト・オブ・ユーライア・ヒープ/The Best of Uriah Heep US145位 オーストリア8位 ノルウェイ13位

 <ソロ>
  1988年 Will and the Kill
  1989年 Austin Rhythm and Blues


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ジョン・ハートマン

2024-05-15 15:34:48 | drums

ジョン・ハートマン John Hartman

 【パート】
   ドラムス、パーカッション、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1950年3月18日~2021年12月29日(71歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ヴァージニア州フォールズチャーチ

 【経歴】
   ドゥービー・ブラザーズ/The Doobie Brothers(1970~1979, 1987~1992)
   トム・ジョンストン・バンド/Tom Johnston Band(1979~1980前半)



 ジョン・ハートマンはアメリカのドラマー。ドゥービー・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。


 ハートマンは、1950年にヴァージニア州フォールズチャーチで生まれた。
 10代の頃からドラマーとしていろいろなセッションやライヴに参加しており、1969年にはカリフォルニア州サンノゼに移り住む。
 この頃、元ジェファーソン・スターシップで当時モビー・グレイプに在籍していたスキップ・スペンスと知り合い、スペンスからトム・ジョンストン(guitar, vocal)を紹介される。
 意気投合したハートマンとジョンストンは、グレッグ・マーフィー(bass)を加えてバンド「Pud」を結成し、サンノゼ周辺で活動を始めた。やがてベースがデイヴ・ショグレンに交替、その後パトリック・シモンズ(guitar, vocal)が加入し、1970年にはバンド名を「
ドゥービー・ブラザーズ」と改める。


 1971年4月、ドゥービー・ブラザーズはデビュー・アルバム『ドゥービー・ブラザーズ・ファースト』をリリース。リリース後間もなく2人目のドラマーとしてマイケル・ホサックが加入した。これによってその後長く続くことになるツイン・ドラマー体制が整った。
 ホサックは1974年に脱退したが、後任としてキース・ヌードセンが加入。
 ツイン・ギター、ツイン・ドラムを擁するドゥービーズは、ハードなロックとアコースティックなサウンドを融合させてヒット曲を量産し、1970年代半ばにはイーグルスらと並ぶアメリカン・ロックの代表的バンドと言われるまでに成長する。
 しかしハートマンは、1978年12月にリリースしたアルバム『ミニット・バイ・ミニット』を最後に、絶頂期にあったドゥービーズを脱退する。メンバー間の不和などがその理由であった。
 ドゥービーズ在籍中のハートマンは「リトル・ジョン」の愛称で親しまれ、ツイン・ドラムの一翼を担ってバンドの屋台骨を支えた。
 レコーディングではホサックがドラムをたたき、ハートマンはパーカッションを務めることもあったが、『ブラック・ウォーター』『ホワット・ア・フール・ビリーヴス』の2曲の全米No.1シングルや、『リッスン・トゥ・ザ・ミュージック』『ロング・トレイン・ランニン』『チャイナ・グローヴ』などのバンドの代表曲すべてでハートマンはドラムを叩いている。





 1979年、ドゥービーズ時代のバンドメイト、トム・ジョンストンに迎えられ、「トム・ジョンストン・バンド」に加入、1980年代前半まで在籍した。
 その後は第一線から身を引き、カリフォルニアで牧場を経営していた。また警察官を目指して警察学校を卒業したが、著名人であることと、過去のドラッグ使用歴がネックとなってカルフォルニア州の警官として採用されることはなかったという。
 

 1987年、ベトナム戦争退役軍人のためのチャリティ・コンサートのためにドゥービー・ブラザーズは再結成する。この時、ハートマンのほかトム・ジョンストン(guitar, vocal)、パット・シモンズ(guitar, vocal)、ジェフ・バクスター(guitar)、ジョン・マクフィー(guitar)、タイロン・ポーター(bass)、マイケル・マクドナルド(keyboard)、キース・ヌードセン(drums)、マイケル・ホサック(drums)、チェット・マクラッケン(drums)、ボビー・ラカインド(percussion)、コーネリアス・バンパス(sax, keyboard)の、計12人が集結した。
 翌88年、ジョンストン、シモンズ、ハートマン、ホサック、ポーター、ボビー・ラカインドの6人編成で、ドゥービーズは正式に再結成を果たす。
 ハートマンは再結成後に『サイクルズ』と『ブラザーフッド』の2枚のアルバムに参加したが、1992年のボビー・ラカインドのための同窓会ライヴを最後にドゥービーズから永久に引退した。後任としてバンドに加わったのは、かつてのメンバー、キース・ヌードセンであった。
 その後のハートマンは、公の場に姿を現すことはほとんどなかった。
 2020年、ドゥービー・ブラザーズのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。この時、ツイン・ドラマーのかつてのパートナーで、2005年に死去したヌードセン、2010年に死去したホサックも、ともに殿堂入りしている。





 2021年12月29日、ジョン・ハートマンは71歳で死去。
 2022年9月、ドゥービー・ブラザーズはSNSを通じてハートマンが亡くなったことを公表し、その死を悼んだ。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ドゥービー・ブラザーズ>

  1971年 ドゥービー・ブラザーズ・ファースト/The Doobie Brothers

  1972年 トゥールーズ・ストリート/Toulouse Street US21位
  1973年 キャプテン・アンド・ミー/The Captain and Me US7位

  1974年 ドゥービー天国/What Were Once Vices Are Now Habits US4位, UK19位
  1975年 スタンピード/Stampede US4位, UK14位
  1976年 ドゥービー・ストリート/Takin' It to the Streets US8位, UK42位
 ★1976年 ベスト・オブ・ザ・ドゥービーズ/Best of the Doobies US5位

  1977年 運命の掟/Livin' on the Fault Line US10位, UK25位
 ★1981年 ベスト・オブ・ザ・ドゥービーズ vol.2/Best of the Doobies VolumeⅡ US39位

  1978年 ミニット・バイ・ミニット/Minute by Minute US1位
  1989年 サイクルズ/Cycles US17位
  1991年 ブラザーフッド/Brotherhood US82位
 ★1993年 Listen to the Music:The Very Best of The Doobie Brothers

  2001年 On Our Way Up ※1970年録音
 ★2001年 Greatest Hits US142位, UK45位
 ★2003年 Divided Highway

 ☆2011年 フェアウェル・ライヴ~ライヴ・アット・ザ・グリーク・シアター1982/Live at the Greek Theater 1982 ※ゲストとして参加



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リー・カースレイク

2024-04-01 15:32:39 | drums

リー・カースレイク Lee Gary Kerslake

 【パート】
   ドラムス、パーカッション、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1947年4月16日~2020年9月19日(73歳没)

 【出生地】
   イングランド ハンプシャー州ボーンマス

 【経歴】
   ザ・ゴッズ/The Gods(1967~1969)
   トー・ファット/Toe Fat(1969)
   ヘッド・マシーン/Head Machine(1969)

   ナショナル・ヘッド・バンド/National Head Band(1969~1971)
   ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1971~1979)
   ブラインド・アンビション/Blind Ambition(1979~1980)
   オジー・オズボーンズ・ブリザード・オブ・オズ/Ozzy Osbourne's Blizzard Of Ozz(1980~1981)
   ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1981~2006)
   リヴィング・ラウド/Living Loud(2003~2005)



 リー・カースレイクはイングランド出身のロック・ドラマーである。
 通算30年以上の長きにわたってユーライア・ヒープのドラマーを務め、ヒープ在籍時に17枚のスタジオ・アルバムの制作に参加した。


 カースレイクは、1947年4月16日にイングランド西部にあるハンプシャー州(現ドーセット州)ボーンマスで生まれた。
 11歳の時にドラムを叩き始めたカースレイクは、14歳だった1961年に「The Phantoms」という名の、初めてのバンドを結成する。
 その後、Tony Saturn & The Planets(のちTrackmarksと改名)でセミ・プロとして活動していたが、1967年9月にケン・ヘンズレー率いる「ザ・ゴッズ」に加入し、プロのドラマーとしてのキャリアをスタートさせた。
 ゴッズには1969年2月まで在籍し、2枚のアルバムと3枚のシングルの制作に参加した。なおゴッズではヘンズレーのほか、ポール・ニュートン(bass のちユーライア・ヒープ)、グレッグ・レイク(bass のちキング・クリムゾン)、ジョン・グラスコック(bass のちジェスロ・タル)らがバンド・メイトだった。


 ゴッズ脱退後の1969年6月には、ヘンズレーがクリフ・ベネットらと結成した「トー・ファット」に参加。
 1969年11月にトー・ファットから離れると、ヘンズレーらによる変名バンド「ヘッド・マシーン」に短期間参加する。
 1969年12月には「ナショナル・ヘッド・バンド」の結成に参加し、アルバム『Albert One』を残した。


 ナショナル・ヘッド・バンド在籍時、バンドのライヴ・パフォーマンスをブロンズ・レコードのジェリー・ブロンとスティーヴ・バーネットが観たことがあった。この時カースレイクのドラミングに目をつけたブロンは、「ユーライア・ヒープでプレイしてほしい」と声をかけた。目まぐるしくいろいろなバンドに在籍していたカースレイクは、こうした経緯で1971年11月23日にユーライア・ヒープへ5代目ドラマーとして加入したのである。ヒープには、かつてゴッズ~トー・ファット~ヘッド・マシーンと行動を共にした旧知のケン・ヘンズレーが在籍していた。
 それまでのヒープはドラマーがなかなか定着せず、その点がバンドのウィーク・ポイントだったが、カースレイクがレギュラー・ドラマーとなり、その後ゲイリー・セイン(bass)を迎えたバンドは全盛期を迎えることになる。
 カースレイクが加入後初めて制作に参加したアルバムが、1972年に発表された『悪魔と魔法使い』である。このアルバムの制作中、ジェリー・ブロンはカースレイクを「君は最高のドラマーになるだろう」と称賛したという。
 

 カースレイクといえば、そのがっしりした体から叩き出す力強いドラミングに定評がある。
 アルバム『ファイアフライ』では、カースレイクの風貌と体格にちなんで「リー・"ザ・ベア"・カースレイク」とクレジットされているほどである。
 またバッキング・ヴォーカルとしても重要な存在であり、ヒープ独特の美しいコーラス・ワークに貢献している。


     
 
 
 1978年、アルバム『堕ちた天使』の発表後のツアー終了後、ヘンズレーとの対立が表面化し、それが原因で1979年11月にヒープを脱退する。
 この頃カースレイクは、デヴィッド・バイロンやケン・ヘンズレーのソロ・アルバムにも参加している。
 脱退後はコリン・パッテンデン(bass 元マンフレッド・マンズ・アース・バンド)らと「ブラインド・アンビション」を結成したが、短期間で解散。


 1979年末、カースレイクはオーストラリアのホテルのエレベーターで偶然オジー・オズボーンに出会った。オズボーンは1978年12月にブラック・サバスを脱退しており、当時はソロ活動のための準備を行っていた。この偶然がきっかけで、カースレイクはオズボーンのバンドに加入することになる。
 オズボーンはカースレイクのほかランディ・ローズ(guitar)とボブ・デイズリー(bass)、そしてゲストにドン・エイリー(keyboard レインボウ)を迎えて、1980年9月にアルバム『ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説』をリリースした。このアルバムは全英7位、全米21位を記録し、RIAAからプラチナ・アルバム(100万枚)×5と認定された大ヒット・アルバムとなった。
 大成功を手にしたバンドは、続いて1981年10月に『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』をリリースし、またも大ヒット(全英14位、全米16位)を記録したが、レコーディング終了後にカースレイクとデイズリーはバンドから解雇される。アルバムにはカースレイクとデイズリーのクレジットはなく、後任のトミー・アルドリッジ(drums)とルディ・サーゾ(bass)の名が記載されていたほか、アルバムのインナー・スリーヴにはアルドリッジとサーゾが写っている写真が使われていた。この件についてカースレイクとデイズリーは、後年訴訟を起こすことになる。
 アルドリッジはのちに「あのアルバムのドラミングは自分ではないのは明らかだ。尋ねらるたびに自分はカースレイクの功績であることを正当に認めてきた。」と述べている。
 

 1980年、この頃のユーライア・ヒープはミック・ボックスを残してメンバーが全員脱退し、実質的には活動停止状態であった。ヒープ再編に向けて奔走していたボックスは、オジー・オズボーンのバンドから離れたカースレイクに再加入を要請し、カースレイクはこれを受けて1981年5月に新生ユーライア・ヒープに復帰した。カースレイクは、以後2007年初頭までの約26年にわたってヒープのドラマーを務めた。
 1983年にはベーシストとしてトレヴァー・ボルダーが加入したが、カースレイクとボルダーの安定したリズム・セクションは24年の長きにわたってヒープを支え続けた。
 カースレイクが復帰してからのヒープは1982年にアルバム『魔界再来』を発表するが、これは「ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル」(NWOBHM)の影響もあって全英34位のヒットを記録、見事にカムバックを果たした。なおこの時全米アルバム・チャートでは56位を記録したが、これは1975年のアルバム『幻想への回帰』以来の全米アルバム・チャート・トップ100入りである。


 1998年、カースレイクとデイズリーは、『ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説』『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』の2枚のアルバムに係る印税の支払いとクレジットを巡り、オズボーンそしてオズボーン夫人でマネージャーを務めていたシャロンに対して共同訴訟を起こした。オズボーン側は、2002年に再発された両アルバムのリマスター版からカースレイクとデイズリーの演奏を削除し、新たにマイク・ボーディン(drums)とロバート・トゥルージロ(bass)の演奏に差し替えることで対応した。この結果カースレイクとデイズリーの訴訟はロサンゼルス連邦地方裁判所によって却下され、その結果カースレイクは一時破産状態に陥ったという。
 しかしこの裁決に対するファンからの反対は大きく、2011年にアルバムが再発売された時には、カースレイクとデイズリーによるオリジナルの演奏に復元されている。


     


 2003年、カースレイクはボブ・デイズリー(bass)、スティーヴ・モース(guitar)、ジミー・バーンズ(vocal)らと、「スーパー・グループ「リビング・ラウド」に参加し、2005年まで活動した。このプロジェクトには、ゲストとしてドン・エイリー(keyboard)が加わっている。
 またこの時期カースレイクは自身のバンド「リー・カースレイク・バンド」を率いて活動、また「ユーライア・ヒープ・レジェンド」にはケン・ヘンズレーやポール・ニュートンとともに定期的に参加した。



 2007年初め、カースレイクは健康上の問題を理由に長年在籍したユーライア・ヒープを脱退する。以後半ば引退状態となるが、2014年に「バーグレン・カースレイク・バンド」を結成、アルバム『The Sun Has Gone Hazy』を発表して活動を再開した。
 2015年には自身初のソロ・アルバム『イレヴンティーン』のレコーディングを開始する。
 2018年、カースレイクはタイラ・グッドマンと組み、カースレイク自身のドキュメンタリーの制作を開始した。このドキュメンタリーにはイアン・ペイス、ジョー・エリオット(デフ・レパード)、ミック・ボックス、ニコ・マクブレイン(アイアン・メイデン)、ジーン・シモンズ(キッス)らが出演。このドキュメンタリーは2019年9月までに完成する予定だった。


 2018年12月、カースレイクは闘病生活を送っていることを公表する。
 彼は前立腺ガンの治療を行っており、医師から「余命は約8か月である」と宣告されたことを明らかにした。さらに、5年前には「余命4年と宣告されていた」とも述べた。
 余命宣告された
カースレイクは、長年確執のあったオズボーン夫妻に「自身がドラムを担当した『ブリザード・オブ・オズ』と『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』のふたつアルバムでプラチナ・アルバム認定を受けることが最後の願いである」という手紙を書き、和解の願いを込めてそれを送った。オズボーンはその願いを受け入れた。
 2019年1月、カースレイクはヘヴィ・メタル・ヒストリーの殿堂(Hall of Heavy Metal History)入りを果たした。カリフォルニア州アナハイムで行われた殿堂入りセレモニーでは、カースレイクは団体のCEOパット・ゲザルドからオズボーンとの仕事を称えられ、2枚のプラチナ・ディスクを贈られたのである。


 2018年12月14日に、カースレイクはシェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたユーライア・ヒープの公演でステージに上がり、ヒープ初期の曲「黒衣の娘」にタンバリンとバッキング・ボーカルで参加した。これがカースレイクの、バンドでの最後のパフォーマンスであった。
 2020年9月19日、カースレイクはガンのため73歳で死去した。この約1ヵ月半後の11月4日には、ゴッズ時代からのバンド・メイトであり、1970年代のユーライア・ヒープで苦楽をともにしたケン・ヘンズレーが75歳で死去している。


 カースレイクは、亡くなる前にソロ・アルバム『イレヴンティーン』のレコーディングを完了させており、このアルバムは2021年2月26日にリリースされた。


     



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  2021年 イレヴンティーン/Elventeen

 <ザ・ゴッズ>
  1968年 ジェネシス/Genesis
  1970年 トゥ・サミュエル・ア・サン/To Samuel a Son

 <トー・ファット>
  1970年 Toe Fat

 <ヘッド・マシーン>
  1970年 Orgasm

 <ナショナル・ヘッド・バンド>
  1971年 Albert One

 <ユーライア・ヒープ>

  1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards UK20位、US23位、日本28位

  1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday UK28位、US31位、日本43位
 ☆1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live UK23位、US37位、日本22位
  1973年 スイート・フリーダム/Sweet Freedom UK18位、US33位、日本45位
  1974年 夢幻劇/Wonderworld UK23位、US38位、日本76位
  1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy UK7位、US85位、日本74位
 ★1976年 ベスト・オブ・ユーライア・ヒープ/The Best of Uriah Heep US145位

  1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty UK55位、US161位
  1977年 ファイアフライ/Firefly US166位
  1977年 罪なきいけにえ/Innocent Victim
  1978年 堕ちた天使/Fallen Angel US186位
  1982年 魔界再来/Abominog UK34位、US56位

  1983年 ヘッド・ファースト/Head First UK46位、US159位、ノルウェイ19位
  1985年 イクウェイター/Equator UK79位
 ☆1986年 Live in Europe 1979 
 ☆1986年 Live at Shepperton '74 
 ☆1988年 Live in Moscow 1987
  1989年 レイジング・サイレンス/Raging Silence スイス26位
  1991年 ディファレント・ワールド/Different World
  1995年 シー・オブ・ライト/Sea of Light スイス29位、ドイツ87位
 ☆1996年 Spellbinder Live 1994
 ☆1997年 King Biscuit Flower Hour Presents Uriah Heep in Concert 1974
  1998年 ソニック・オリガミ/Sonic Origami
 ☆2000年 Feature Echoes of the Past
 ☆2001年 Acoustically Driven
 ☆2001年 Electrically Driven, Live 2001
 ☆2002年 The Magician's Birthday Party
 ☆2003年 Live in the USA
 ☆2004年 Magic Night

 <Ozzy Osbourne>
  1980年 Blizzard of Ozz
  1981年 Diary of a Madman
  1987年 Tribute(on two Tracks)
  1997年 The Ozzman Cometh(not on the current pressing)

 <Living Loud>
  2004年 Living Loud
  2005年 Live in Sydney 2004 Debut Live Concert

 <Berggren Kerslake Band>
  2014年 The Sun Has Gone Hazy

 <参加アルバム>
 *ケン・ヘンズレー
  1973年 誇り高き言霊/Proud Words on a Dusty Shelf オーストラリア57位
 *デヴィッド・バイロン
  1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisone 


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ミッキー・ウォーラー

2023-11-12 23:05:33 | drums

ミッキー・ウォーラー Michael "Micky" Waller

 【パート】
   ドラムス 

 【生没年月日】
   1941年9月6日~2008年4月29日(66歳没)

 【出生地】
   イングランド ロンドン、ハマースミス

 【経歴】
   ザ・ファビュラス・フリーラッカーズ/The Fabulous Flee-Rakkers (1960)
   ジョー・ブラウン & ザ・ブルバーズ/Joe Brown & Bruvvers
   シリル・デイヴィス R&B オールスターズ/Cyril Davies R&B All Stars (1963)
   マーティ・ワイルド & ザ・ワイルドキャッツ/Marty Wilde & The Wildcats(1964)
   ジョージー・フェイム & ザ・ブルー・フレイムス/Georgie Fame & The Blue Flames (1964)
   ザ・トリニティ/The Trinity(1964~1965)
   スティームパケット/Steampacket(1965~1966)
   ブライアン・オーガー & ザ・トリニティ/Brian Auger & The Trinity (1966)
   ジン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ/John Mayall & The Bluesbreakers(1967)
   ジェフ・ベック・グループ/Jeff Beck Group(1967~1969)
   スティームハマー/Steamhammer(1969)

   シルヴァー・メーター/Silver Metre(1969~1970)
   パイロット/Pilot(1970~1971)
   ロング・ジョン・ボルドリー・ブルース・バンド/Long John Baldry Blues Band
   デラックス・ブルース・バンド/Deluxe Blues Band(1980年代)
   テリー・スミス・ブルース・バンド/Terry Smith Blues Band(1980年代)
   サム・ミッチェル・バンド/Sam Mitchell Band
   トニー・アシュトン・バンド/Tony Ashton Band
   ジョージー・フェイム・バンド/Georgie Fame Band
   フラコ・ヒメネス・バンド/Flaco Jimenez Band
   ダウンタウン/Downtown(1990年代)
   ミッキー・ウォーラー・バンド/Micky Waller Band(1993~1997)


 ミッキー・ウォーラーは、1960年代から2000年代にかけて活躍したドラマーである。
 おもにブリティッシュ・ロック・シーンにおいて、ジェフ・ベックなど数々のビッグ・ネームと共演したことで知られる。

 セッション・ドラマーとして、数多くの英米のミュージシャンと仕事をしている。


 1941年、西ロンドンのハマースミスで生まれる。
 1960年にプロ・ドラマーとなる。
 プロになって最初に参加したバンドは「ザ・ファビュラス・フリーラッカーズ」である。ジョー・ミークのプロデュースでリリースしたシングル「グリーン・ジーンズ」は、全英シングル・チャートで23位のヒットを記録している。
 間もなく脱退したウォーラーは、ジョー・ブラウン & ザ・ブルヴァーズを経て、1963年7月にカルロ・リトルの後任として「シリル・デイヴィス R&Bオールスターズ」に加入。当時のシリル・デイヴィス R&B オールスターズのラインナップは、シリル・デイヴィス(vocal, harmonica)、ロング・ジョン・ボールドリー(vocal)、ジェフ・ブラッドフォード(guitar)、クリフ・バートン(bass)、キース・スコット(piano)、ミッキー・ウォーラー(drums)だった。
 ところが1964年1月7日にデイヴィスが死去すると、バンドはロング・ジョン・ボルドリーに引き継がれ、「フーチー・クーチー・メン」と改名する。これを機会にウォーラーは脱退、同年「マーティ・ワイルド & ザ・ワイルドキャッツ」に加入した。ワイルドキャッツ時代には、リトル・リチャードの英国ツアーに2度参加している。


 この時期のウォーラーは短期間にいくつものバンドを渡り歩いている。
 ワイルドキャッツを短期間で脱退すると、1964年7月にフィル・シーメンの代役として「ジョージー・フェイム & ザ・ブルー・フレイムス」に加入。この年はさらに11月に「ブライアン・オーガー・トリニティ」に加わっている。
 1965年7月、ロング・ジョン・ボルドリーによって結成された「スティームパケット」のメンバーとなる。このバンドは、フーチー・クーチー・メンにトリニティが合流して発展したもので、ロング・ジョン・ボルドリー(voval)、ロッド・スチュワート(vocal)、ジュリー・ドリスコル(vocal)、ヴィック・ブリッグス(guitar)、ブライアン・オーガー(keyboard)、リック・ブラウン(bass)、ミッキー・ウォーラー(drums)がそのラインナップであった。
 スティームパケットがスチュワートとボルドリーの脱退により1966年5月に解散すると、ウォーラーはブライアン・オーガーがドリスコールを加えて再び組んだトリニティに参加。この時のメンバーは、ジュリー・ドリスコール(vocal)、ブライアン・オーガー(keyboard)、ヴィック・ブリッグス(guitar)、リック・ブラウン(bass)、ミッキー・ウォーラー(drums)であった。
 1967年4月には「ジョン・メイオールズ・ブルース・ブレイカーズ」のメンバーとなり、ステージを数回共にした。この頃のメンバーは、ウォーラーのほかジョン・メイオール(vocal, guitar, keyboard)、ピーター・グリーン(guitar, vocal)、ジョン・マクヴィー(bass)、ミッキー・ウォーラー(drums)である。
 しかしメイオールが必要としていたのは常任のドラマーだったため、ウォーラーはすぐにキーフ・ハートリーと交替している。


 1967年8月、ウォーラーはスティームパケットでバンドメイトだったロッド・スチュワートとともに、エインズレー・ダンバーの後任として「ジェフ・ベック・グループ」に加わった。この時のメンバーは、ロッド・スチュワート(vocal)、ジェフ・ベック(guitar)、ロン・ウッド(bass)、ミッキー・ウォーラー(drums)である。このメンバーでイギリス、アメリカへのツアーを行った彼らは、1968年にアルバムの制作を開始する。
 1968年8月、ジェフ・ベック・グループのファースト・アルバム『トゥルース』が発表される。
 のちのハード・ロックに通ずるよりヘヴィなブルースは支持され、ビルボード15位のヒットを記録したが、音楽的な妥協をしないベックはより重厚なドラマーを求めるようになっていた。これを受けてマネージャーのピーター・グラントは、1969年2月11日にウォーラーとウッドを解雇した。ふたりは新たなバンドの結成を考えたが、ウッドはベックの希望によって呼び戻されたため、その計画は消滅した。
 ウォーラーはジェフ・ベック・グループを離れた直後の1969年2月に、マーティン・ピュー(guitar、のちアルマゲドン)が在籍していた「スティームハマー」に加入したが、同年6月には脱退している。



ジェフ・ベック・グループ。右からミッキー・ウォーラー、ジェフ・ベック、ロン・ウッド、ロッド・スチュワート


 同じく1969年、ウォーラーはロッド・スチュワートの初のソロ・アルバム『ロッド・スチュワート・アルバム』の録音に参加。このアルバムにはロン・ウッド(guitar)、イアン・マクレガン(keyboard)、マーティン・ピュー(guitar スティームハマー、のちアルマゲドン)、キース・エマーソン(organ)、マーティン・クイッテントン(guitar スティームハマー)なども参加している。
 ウォーラーはその後の『ガソリン・アレイ』『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』『スマイラー』の4枚のアルバムにも参加している。なお『スマイラー』のオープニング曲「スウィート・リトル・ロックンローラー」ではウォーラーの愛犬の鳴き声を聞くことができる。


 1969年6月にスティームハマーを離れたウォーラーは、その年ロサンゼルスに渡り、「ブルー・チアー」のギタリストとして知られていたリー・スティーブンス、のちジェファーソン・エアプレインのメンバーとなるピート・シアーズ(bass & keyboard)、ジャック・レイノルズ(vocal)とともに、新バンド「シルヴァー・メーター」を結成。
 彼らはロンドンのトライデント・スタジオでアルバムをレコーディングした。これはマネージャーでFMロック・ラジオのパイオニアであるトム・ドナヒューがプロデュースを担当し、ナショナル・ジェネラル・レーベルからリリースされた。
 シルヴァー・メーターは1970年11月に解散したが、ウォーラーとスティーブンスは元スティームハマーのマーティン・クイッテントン(guitar)、元ブルー・チアー~ミント・タトゥーのブルース・スティーブンス(keyboard, guitar)、元キース・ティペット・グループ~ロバート・ワイアット~エルトン・ディーンのネヴィル・ホワイトヘッド(bass)を加えて「パイロット」を結成するが、アルバム『Pilot』を制作した後、ウォーラーはバンドを離れた。


 1970年代以降のウォーラーは、主にセッション・ドラマーとして活動するほか、ロックとブルースのフィールド両分野で活動を続けた。
 1971年には「ロング・ジョン・ボルドリー・ブルース・バンド」に加わる。このバンドは、ボールドリーの初のアメリカ・ツアーのために結成されたものであり、メンバーにはイアン・アーミット(piano)、ロッド・スチュワート(vocal)、サム・ミッチェル(guitar)、ピート・シアーズ(bass)らが名を連ねていた。
 1980年代初頭には、ジョー・アン・ケリー(vocal)、トニー・アシュトン(organ)とともに「テリー・スミス・ブルース・バンド」のメンバーとなった。また「サム・ミッチェル・バンド」でも演奏している。
 また1980年代には、ディック・ヘクストール=スミス(sax)とボブ・ブランニング(bass)とともに「デラックス・ブルース・バンド」にオリジナル・メンバーとして加わった。この時のラインナップは、ダニー・アドラー(vocal, guitar)、ボブ・ホール(piano)、ディック・ヘクストール=スミス(sax)、ボブ・ブランニング(bass)、ミッキー・ウォーラー(drums)である。
 一時期ウォーラーは「デラックス・ブルース・バンド」から離れてイタリアで演奏していたが、その後ロンドンに戻り、復活したデラックス・ブルース・バンドに参加してヘクストール=スミスとブランニング、そして新メンバーのデイヴ・ボーモント、アラン・ヴィンセント、フィル・テイラーとともに演奏した。
 その後はジョージー・フェイム・バンドや、自己のバンド「ミッキー・ウォーラー・バンド」などロンドン地域の多くのブルース系・バンドで演奏を続けた。晩年には法律の学位を取得し、未払いの使用料に対しての請求、それに対する支払いを勝ち取った。


 2008年4月29日、肝不全のため、ロンドンで死去。66歳だった。



 
ミッキー・ウォーラー(中)



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スティームパケット>
  1970年 Rock Generation Vol.6-The Steampacket ※France1965年

 <ジェフ・ベック・グループ>
  1968年 トゥルース/Truth US15位

 <シルヴァー・メーター>
  1971年 Silver Metre

 <パイロット>
  1972年 Pilot
  1973年 Point of View

 <デラックス・ブルース・バンド>
 ☆1981年 Live At The Half Moon, Putney

  1981年 A Street Car Nemaed De-Luxe
  1983年 Urban De Luxe
  1988年 De Luxe Blues Band
  1988年 Motorvating

 <トニー・アシュトン・バンド>
 ☆1984年 Live In The Studio

 <参加アルバム>
  1968年 
   Don’t Send Me No Flowers(ソニー・ボーイ・ウィリアムソン/Sonny Boy Williamson)
  1969年
   Red Weather(リー・スティーブンス/Leigh Stephens)
  1970年
   An Old Raincoat Won’t Ever Let You Down(ロッド・スチュワート/Rod Stewart)
   ガソリン・アレイ/Gasoline Alley(ロッド・スチュワート/Rod Stewart)
   Befour(Brian Auger & The Trinity)
   Fly On Strangewings(Jade)
  1971年
   エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー/EveryPicture Tells A Story(ロッド・スチュワート/Rod Stewart)
   And A Cast Of Thousands(リー・スティーブンス/Leigh Stephens)
  1972年
   ネヴァー・ア・ダル・モーメント/Never A Dull Moment(ロッド・スチュワート/Rod Stewart)
   Everything Stops For Tea(ロング・ジョン・ボルドリー/Long John Baldry)
   Gone To My Head(アンディ・ボウン/Andy Bown)
   Somewhere(Mike Hugg)
  1973年
   Stress And Strain(Mike Hugg)
   Unfinished Picture(Rupert Hine)
  1974年
   スマイラー/Smiler(ロッド・スチュワート/Rod Stewart)
   The Adventures Of Valentine Vox The Ventriloquist(Chris Jagger)
   I’ve Got My Own Album To Do(ロン・ウッド/Ron Wood)
  1976年
   Mahoney’s Last Stand(ロン・ウッド&ロニー・レーン/Ron Wood & Ronnie Lane)
  1978年
   The Dragon(ヴァンゲリス/Vangelis)
  1981年
   Down The Road Apiece(Bob Hall & Dave Peaboy)
  1986年
   Earl’s Caught(Earl Okin)
  1988年
   Working Playtime(Billy Bragg)
  1997年
   Summerland(Pete Miller)※録音1966~1968年

 <シングル>
  1972年 ローリング・ストーン/Rolling Stone(スージー・クアトロ/Susie Quatro)


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ジョン・ハイズマン

2023-10-17 14:36:04 | drums

ジョン・ハイズマン Philip John Albert "Jon" Hiseman

 【パート】
   ドラムス、パーカッション 

 【生没年月日】
   1944年6月21日~2018年6月12日(73歳没)

 【出生地】
   イングランド ロンドン、ウールリッチ

 【経歴】
   イアン・バード・クインテット/Ian Bird Quintet
   ウェス・ミンスター・ファイヴ/The Wes Minster Five(1960~1962)
   ニュー・ジャズ・オーケストラ/The New Jazz Orchestra(1964~1970)
   マイク・テイラー・カルテット/Mike Taylor Quartet(1965)
   ピーター・レマー・クインテット/Peter Lemer Quintet(1966)
   ピーター・ブラウン&ヒズ・バタード・オーナメンツ/Peter Brown & His Batterd Ornaments(1966)
   グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation(1966~1967)
   ジョージー・フェイム&ザ・ブルーフレイムズ/Georgie Fame & The Blue Flames(1967~1968)
   ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ/John Mayall's Bluesbreakers(1968)
   コロシアム/Colosseum(1968~1971)
   テンペスト/Tempest(1972~1974)
   コロシアムⅡ/ColosseumⅡ(1975~1978)
   グリーンスレイド/Greenslade(1977)
   ザ・ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル/The United Jazz+Rock Ensemble(1977~2002)
   バーバラ・トンプソンズ・パラフェナリア/Barbara Thompson’s Paraphernalia(1979~)
   コロシアム/Colosseum(1994~2015)
   JCM(2017~2018)



 ジョン・ハイズマンは,、1960年代から2010年代にかけて活躍したイギリスのドラマー、バンド・リーダー、音楽プロデューサー、音楽出版者、レコーディング・エンジニアである。
 テクニカルかつパワフル、そしてタイム感覚の正確さを兼ね備えたドラマーである。
 ジャズとロックの両分野で活動し、プログレッシヴ・ロックを形作った源流のひとつであるジャズ・ロック・グループ「コロシアム」のほか、「テンペスト」「コロシアムⅡ」を率いた。
 音楽プロデューサーとしての評価も高い。
 プロデューサーといて活動しはじめたのは1970年代でる。妻であるサックス奏者バーバラ・トンプソンのプロジェクトや自身の作品などのほか、ディック・ヘクストール=スミスのソロ第一作『ア・ストーリー・エンデッド』や、イアン・カーの在籍していたバンド「ニュークリアス」のアルバムなど、数多くの作品を手がけている。
 バーバラ夫人とは1967年に結婚し、2018年に亡くなるまでともに暮らした。
 シンガーソングライターのアナ・グレーシーはハイズマンの娘である。


 ジョン・ハイズマンは、ロンドン南東部のウールリッジで、キャンバーウェル美術工芸学校の講師である父フィリップとイングランド銀行の音楽図書館司書として働いていた母リリーの間に生まれた。
 母リリーはピアノとフルートを演奏することができた。また父方にはミュージック・ホールの芸人や、ダンス・バンドのミュージシャンがいた。
 名前の綴りは、芸名は ’Jon’ だが、本名は ‘John’ である。
 これは、メロディーメーカー誌が1964年のある記事で、ハイズマンの名前を「Jon」と綴ったことに端を発する。これをきっかけとして、ハイズマンは以後名前の綴りを「Jon」としたのである。


 アディ・アンド・スタンホープ・スクール通うようになったハイズマンは、ヴァイオリンやピアノのレッスンを受けるようになる。そしてコルフェス・グラマー・スクールに進むとドラムを始め、クラスメイトだったデイヴ・グリーンスレイド(piano)やトニー・リーヴスcontrabass)とアマチュア・バンドを組んで演奏するようになった。


 1960年、ジョン・ハイズマン(drums)、デイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、トニー・リーヴス(bass)、クライヴ・バロウズ(sax)、ポール・マクドウェルの、高校の仲間5人によって「ウエス・ミンスター・ファイヴ」(Wes Minster Five ロンドンのウェストミンスターをもじっている)が結成される。このバンドがのちの「コロシアム」の母体である。
 また1960年代の前半には、トニー・リーヴスやクライヴ・バロウズが在籍していたロンドンのジャズ・バンド「イアン・バード・カルテット」に加わっている。
 ウエス・ミンスター・ファイヴは、彼らの卒業の年である1962年に解散。その後ハイズマンは、1964年にニール・アードレイらの若手ジャズ・ミュージシャンたちと「ニュー・ジャズ・オーケストラ」を結成して、イギリスのジャズ・シーンで注目されるようになる。ちなみに、このオーケストラは「イアン・バード・カルテット」を母体としたものであった。
 1965年には、いずれもリーヴスがベーシストを務めていた「マイク・テイラー・トリオ」や「ピーター・レマー・クインテット」に参加するなど、1960年代半ばまではジャズ・シーンでの活動を中心としていた。


 1966年5月、ジンジャー・ベイカー(drums)の後任として、ジャック・ブルース(bass)やディック・ヘクストール=スミス(sax)らが在籍していた「グラハム・ボンド・オーガニゼーション」に加入する。
 この頃のハイズマンは、ユニリーバのマーケティング・マネジメントの研修員として日雇い勤務をしていたが、グラハム・ボンド・オーガニゼーションに加入したのをきっかけに、フルタイムのミュージシャンとなった。
 この1966年には、「ジョージー・フェイム & ザ・ブルー・フレームズ」にも短期間加わっているほか、「ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン」のデビュー・シングル「Devil’s Grip」の録音にも参加している。


 1968年4月、ハイズマンはトニー・リーヴスとともに「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ」に加入する。このバンドにはグラハム・ボンド・オーガニゼイションを脱退したディック・ヘクストール=スミスが在籍していた。
 ブルースブレイカーズでは、ジャズ色を強めた名盤『ベア・ワイヤーズ』の録音に参加(1968年6月発表)しているが、同年8月には、リーヴス、ヘクストール=スミスとともにブルースブレイカーズを脱退し、新たなバンドの結成に向けて動き始める。


 ハイズマンは、新しいグループの結成に向けて、1968年8月17日付のメロディ・メイカー紙でメンバー募集の告知を行った。これを見て応募してきたのがジム・ローチェ(guitar)とジェームス・リザーランド(vocal)である。このふたりに加え、ローチェとは旧知の中であり元ウエス・ミンスター・ファイヴのメンバーでもあるデイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、そしてブルース・ブレイカーズから行動を共にしていたリーヴス(bass)、ヘクストール=スミス(sax)がグループに参加、計6人でリハーサルを開始する。(なおハイズマンは、ヘクストール=スミスとともに「ニュー・ジャズ・オーケストラ」の一員としての活動も継続している)
 このバンドが「コロシアム」である。


     


 コロシアムは1968年10月11日~12日、スカボローのディスコ「シーン・トゥー・クラブ」でデビュー・ライヴを行い、翌11月には英フォンタナ・レコードと契約したほか、クリームの解散コンサートにも出演している。
 12月に録音が始まったファースト・アルバムは、1969年5月に『コロシアム・ファースト』として発表されたが、これは全英チャートで15位まで上昇するヒットを記録した。
 コロシアムはこの後1971年にかけて『ヴァレンタイン組曲』『ドーター・オブ・タイム』『コロシアム・ライヴ』を発表するが、すべて全英アルバム・チャートで30位以内を記録しており、アート・ロックが席捲していた当時のロック界にあって注目に値するグループとして活躍した。
 1970年8月にはナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァル出演している。


 コロシアムは、ジャズ、ブルース、ロックなどを融合させたユニークなスタイルと圧倒的な演奏力でイギリスを代表するジャズ・ロック・グループとして大きな存在感を示していたが、1971年11月に解散する。
 1971年11月6日付のメロディ・メイカー紙は、コラシアムの解散を報じ、これを惜しんでいる。


 コロシアム解散後、ハイズマンはジャズ・シーンでその存在を知られつつあった新進ギタリスト、アラン・ホールズワースと知り合う。
 ハイズマンはホールズワースを迎え入れ、ポール・ウィリアムズ、コロシアムのメンバーだったマーク・クラークのふたりを加えて、1972年6月にハード・ロック色の濃いストレートなロック・バンド「テンペスト」を結成した。
 テンペストはデビュー・アルバム『テンペスト』をリリースした後にウィリアムズが脱退し、後任にオリー・ハルソールが加わって一時的にツイン・ギター編成となったが、今度は自分の音楽的指向を追求するホールズワースがバンドから離脱し、それに伴いハルソールがギターとボーカルを兼ねるロック・トリオになった。
 テンペストは、2枚のアルバムを残して1974年5月に解散する。


 1975年、ハイズマンはギタリストのゲイリー・ムーアに出会い、「Peter And The Wolf」のロック・バージョンをレコーディングする。これがきっかけとなって、ハイズマン、ゲイリー・ムーア(guitar)、ドン・エイリー(keyboard)、ニール・マレー(bass)、マイク・スターズ(vocal)の5人でフュージョンの影響を受けたハード・ロック・バンド「コロシアムⅡ」を同年結成。
 1978年、コロシアムⅡは、ミュージカル作曲家として著名なアンドリュー・ロイド・ウェバーとのコラボレーションを行っている。
 弟のチェロ奏者ジュリアン・ロイド・ウェバーをフィーチャーしたアルバムの制作を考えていたアンドリューがたまたまコロシアムⅡのサウンドに出会い、このプロジェクトにオファーを送ったのである。これがアンドリュー・ロイド・ウェバーとハイズマンとの関係の始まりである。
 アンドリューは、ジュリアンとコロシアムを起用して、ITVのアート番組の『The South Bank Show』のテーマ曲が収録されているアルバム『Variations』をリリースしている。ジュリアンはこの時の共演について、「普段コンサートで演奏しているチェロ奏者に合わせて、すぐにそのニュアンスを捉えるのは多くのドラマーにとって難しい事だが、ジョンにはそれが可能であり、形にできていた」というコメントを残している。


 1970年代半ばのハイズマンは、デイヴ・グリーンスレイドのアルバム『カクタス・クワイア』のツアーに参加して、グリーンスレイドと共演しているほか、1970年代後半からは、妻でサックス奏者のバーバラ・トンプソン(1967年に結婚)が率いる「パラフェナリア」に参加したり、トンプソンやイアン・カーらとともに、英米独混成のジャズ・フュージョン・グループ「ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル」に創立メンバーとして加入するなど、精力的に活動を続けた。
 このふたつのグループは長年にわたって活動を続けた。


 1982年、ハイズマンは自宅の隣に当時の最先端の設備を取り入れたレコーディング・スタジオを建設した。
 ハイズマンとバーバラ・トンプソンは、そのスタジオで映画やテレビのサウンドトラックの制作を手がけたほか、ハイズマンはレコーディング機材の貸し出しも行うレコード・レーベル、「TM」を設立した。
 またハイズマンは、有名なドイツ人の音楽家も参加していたグループ、「ユナイテッド・ジャズ・アンド・リック・アンサンブル」の一員にもなった。彼のドラム・ソロが収録されたバンドのアルバム『About Time Too!』は、1991年にリリースされている。


 1994年6月、全盛期と同じラインナップ(ハイズマン、クリス・ファーロウvocal、クレム・クレムソンguitar、デイヴ・グリーンスレイドkeyboards、マーク・クラークbass、ディック・ヘクストール=スミスsax)でコロシアムを再結成する。
 1997年には23年ぶりのスタジオ・アルバム『Bread and Circuses』を発表した。2003年には『Tomorrow’s Blues』(2003年)をリリースしている。
 コロシアムは精力的にライブを行い、バーバラ・トンプソンもさまざまな機会に客演していたが、2004年にディック・ヘクストール=スミスが死去したのちは、トンプソンが後任として正式に加入した。
 2007年には初の日本公演が実現、2月17日~18日にクラブチッタ川崎で演奏した。


     


 2010年10月、ハイズマンの伝記『Playing the Band』が出版された。 著者はマーティン・ハンソンで、コロシアムの元マネージャーであるコリン・リチャードソンによって編集されたものである。


 2014年、コロシアムは11年ぶりのスタジオ・アルバム『タイム・オン・アワ・サイド』を発表したが、2015年2月28日にロンドンのO2・シェパーズ・ブッシュでの公演を最後に活動を終了した。 
 その後ハイズマンは、技術を磨いてジャズ・ロックの領域でトップ・ミュージシャンになり、最前線での活躍を続けてきたことが高く評価され、2016年のプログレッシブ・ミュージック・アワードでヴィジョナリー・アワード(「先見の明のある人」に贈られる賞)を受賞している。
 2017年には、クレム・クレンプソン(guitar, vocal)、マーク・クラーク(bass, vocal)とともに「JCM」という新しいトリオを結成、同年にはアルバム『Heroes』をレコーディングした。JCMは2018年4月にファースト・アルバムをリリースし、4月7日にツアーを開始した。


 2018年5月、家族によってハイズマンが癌性脳腫瘍の治療を行っていることが発表された。
 腫瘍の除去手術を行ったが結果は思わしいものではなく、6月1日にはホスピスに入院する。
 6月12日午前3時55分、ハイズマンは腫瘍の除去手術後の脳出血により、ロンドンのサットンで死去。74歳の誕生日まであと9日だった。


 2022年7月9日、ハイズマンの妻バーバラ・トンプソンが長年の闘病生活のすえ77歳で死去。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>

  1982年 A Night in the Sun
  1986年 Ganz Schön Heiss, Man! 
  1991年 About Time Too! Drum Solos

 <コロシアム>
  1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(UK15位)
  1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(UK15位)
  1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener ※アメリカのみ発売
  1970年 ドーター・オブ・タイム/Daughter of Time(UK23位 ドイツ36位)
 ☆1971年 コロシアム・ライヴ/Colosseum Live(UK17位 オーストラリア48位)
 ☆1995年 LiveS The Reunion Concerts 1994
  1997年 Bread & Circuses
  2003年 Tomorrow's Blues
 ☆2003年 コロン1994-リユニオン・コンサート/Live Cologne 1994
 ☆2003年 The Complete Reunion Concert
 ☆2007年 コロシアム・ライヴ!05/Live05
 ☆2009年 Theme for a Reunion
  2014年 タイム・オン・アワ・サイド/Time on Our Side
 ☆2015年 Live At Boston Tea Party, August 1969
 ☆2020年 Live At Montreux Jazz Festival 1969
 ☆2020年 Live At Ruisrock, Turku, Finland, 1970
 ☆2020年 Live At Oioer Club, Rome, Italy 1971
 ☆2020年 Live '71, Canterbury, Brighton & Manchester

 <テンペスト>
  1973年 テンペスト/Tempest
  1974年 眩暈/Living In Fear
  2005年 Under The Blossom:The Anthology

 <コロシアムⅡ>
  1976年 ストレンジ・ニュー・フレッシュ/Strange New Flesh
  1977年 エレクトリック・サヴェイジ/Electric Savage
  1977年 ウォーダンス/War Dance

 <参加アルバム>
 *ニュー・ジャズ・オーケストラ
  1965年 Western Reunion London 1965
  1969年 Le Dejeuner Sur L’herbe
 ☆2008年 Camden ’70 ※1970年のライヴ

 *ピーター・レマー
  1968年 ローカル・カラー/Local Colour

 *マイク・テイラー
  1966年 Pendulum ※マイク・テイラー・カルテット名義
  1966年 Trio ※マイク・テイラー・トリオ名義
 ★2007年 Remembered

 *ハワード・ライリー・トリオ
  1967年 ディスカッションズ/Discussions ※限定100枚の自主制作盤

 *ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ
  1968年 ベア・ワイアーズ/Bare Wires

 *ジャック・ブルース
  1969年 ソングス・フォー・ア・テイラー/Songs for a Tailor(US55位 UK6位)
  1970年 シングス・ウィ・ライク/Things We Like
  1971年 ハーモニー・ロウ/Harmony Row

 *グラハム・ボンド
  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond

 *キーフ・ハートリー・バンド
  1971年 Overdog

 *ディック・ヘクストール=スミス
  1972年 ア・ストーリー・エンディッド

 *ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル
  1977年 Live Im Schützenhaus 
  1978年 Teamwork
  1979年 The Break Even Point
  1981年 Live in Berlin
  1984年 United Live Opus Sechs
  1984年 Highlights
  1987年 Round Seven
  1992年 Na Endlich!  Live In Concert 
  1994年 Highlights II
  1996年 Die Neunte Von United
  1998年 The UJRE plays Albert Mangelsdorff
  1999年 X
  2002年 The UJRE plays Wolfgang Dauner
  2002年 The UJRE plays Volker Kriegel

 *バーバラ・トンプソンズ・パラフェナリア
  1978年 Barbara Thompson's Paraphernalia
  1979年 Wilde Tales
 ☆1980年 Live in Concert
  1984年 Pure Fantasy
 ☆1985年 Live in Berliner MetropolーTheater
 ☆1988年 A Cry from the Heart
  1991年 Breathless
  1993年 Everlasting Flame
  1995年 Lady Saxophone
  1997年 Nightwatch
  1998年 Shifting Sands
  2000年 Thompson's Tangos and Other Soft Dances
  2003年 In the Eye of a Storm
  2005年 Never Say Goodbye
  2015年 The Last Fandango

 *バーバラ・トンプソン
  1978年 Barbara Thompson's Jubiaba
  1982年 Mother Earth
  1982年 Ghosts
  1986年 Heavenly Bodies
  1990年 Songs from the Center of the Earth
  2011年 George Martin Presents

 *Shadowshow
  1985年 Shadowshow

 *JCM
  2018年 Heroes


     


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イアン・クラーク

2023-07-04 21:33:28 | drums

イアン・クラーク Ian Clarke

 【パート】
   ドラムス、パーカッション

 【生没年月日】
   1946年8月20日~

 【出身】
   イングランド ロンドン

 【経歴】
   マスタード/Mustard(1968)
   クレシダ/Cressida(1968~1970)
   ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1970~1971)
   クレシダ/Cressida(2011~  )
   ツイステッド・ブルース/Twisted Blues



 イアン・クラークは、ユーライア・ヒープの4代目のドラマーである。
 北ロンドンにあるハーロウ出身のクラークは、14歳のときにドラムを始め、大学在学中の1964年に18歳で最初のバンドに参加。それを機会に本格的な音楽活動を開始する。
 ドラム講師やローカル・バンドのドラマーなどを務めていたが、1968年にロンドンの「マスタード」というバンドに加わる。
 その年、オーディションによってアンガス・カレン(vocal)とジョン・ヘイワース(guitar)のふたりを中心とするバンド「チャージ」に加入。チャージは1969年に新興レーベル「ヴァーティゴ」と契約した際、バンド名を「クレシダ」と改める。
 1970年2月、クレシダはデビュー・アルバム『クレシダ』を発表。
 その後ヘイワースが脱退したため、後任にジョン・カリー(guitar)を迎えて1970年秋にセカンド・アルバム『アサイラム』を制作(リリースは1971年)したが、その後バンドは解散した。


 クレシダから離れたクラークは、オーディションを受け、1970年12月にキース・ベイカーの後任としてユーライア・ヒープに加入。
 当時ヒープはセカンド・アルバム『ソールズベリー』の制作を終えた直後で、その直後にキース・ベイカーが脱退したため急遽のメンバー・チェンジであった。
 クラークはユーライア・ヒープ加入後ただちにヨーロッパ公演に参加。そしてそのあとバンド初のアメリカ・ツアーに参加している。
 1971年7月には、ヒープの出世作となる『対自核』のレコーディングに参加したが、以前からヒープから加入を要請されていたリー・カースレイク(drums)の参加が決まったため、クラークはこのアルバムが制作された後の1971年秋に解雇された。
 『対自核』で聞かれるクラークのドラムはほどよいパワーと重量感があり、またアルバムのタイトル曲「対自核」では、オシビサのメンバーとともにアフリカン・サウンドを彷彿とさせるグルーヴィーなリズムを叩き出している。


 ユーライア・ヒープを離れたクラークは音楽業界から姿を消すが、1980年代になるとローカル・バンドなどで音楽活動を再開する。
 2010年、クレシダの主要メンバーだったジョン・ヘイワースが死去。その知らせを聞いた当時のバンド・メイトだったアンガス・カレン、イアン・クラーク、ケヴィン・マッカーシーはピーター・ジェニングスに声をかけて40年ぶりに集結。そしてロジャー・ニーヴェン(guitar)を加え、2011年12月2日に一夜限りの「クレシダ」再結成ライブを行った。
 彼らは2013年にスウェーデンで行われたロック・フェスティヴァルに出演するなど、地道に活動を続けている。
 クラークは、現在スコットランドの高地で暮らしている。

     

【ディスコグラフィ】(★=コンピレーション・アルバム)

 <クレシダ>
  1970年 クレシダ/Cressida
  1971年 アサイラム/Asylum
 ★2012年 Trapped In Time - The Lost Tapes
 ★2012年 The Vertigo Years Anthology 1969-1971

 <ユーライア・ヒープ>
  1971年 対自核/Look at Yourself UK39位, US93位, 日本5位
  


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B.J. ウィルソン

2023-04-25 17:17:39 | drums

B.J. ウィルソン Barrie James "B.J." Wilson

【パート】
  ドラムス

【生没年月日】
  1947年3月18日~1990年10月8日(43歳没)

【出生地】
  イングランド ミドルセックス州エドモントン

【経 歴】
  ザ・パラマウンツ/The Paramounts(1963~1964)
  ジミー・パウエル&ザ・ファイヴ・ディメンションズ/Jimmy Powell & The Five Dimensions(1964~1965)
  ザ・パラマウンツ/The Paramounts(1965~1966)

  フレディ・マック・サウンド/Freddie Mack Sound(1966~1967)
  ジョージ・ビーン&ザ・ランナーズ/George Bean & The Runners(1967)
  プロコル・ハルム/Procol Harum(1967~1977)
  フランキー・ミラーズ・フル・ハウス/Frankie Miller’s Full House(1977~1978)
  ジョー・コッカー・バンド/Joe Cocker Band(1979~1984)


 ウィルソンはミドルセックス州エドモントンで生まれ、ロンドン北部のポンダーズ・エンドで育った。

 1963年夏、サセックス州サウスエンドのグループ「ザ・パラマウンツ」に加入する。1963年12月にバンドがリリースしたデビュー・シングル『Poison Ivy』はチャート35位まで上昇するスマッシュ・ヒットを記録、ミック・ジャガーから「最高のR&Bバンド」と評されたがその後ヒット曲を出すことはできなかった。
 ウィルソンは1964年に一時的にバンドを離れて「ジミー・パウエル&ザ・ファイヴ・ディメンションズ」に加わったが、半年ほどでパラマウンツに復帰。その後はバンドが解散する1966年まで在籍した。
 パラマウンツの解散後は「フレディ・マック・サウンド」(このバンドで出会ったベーシスト、アラン・カートライトとはのちにプロコル・ハルムでもバンド・メイトとなる)を経て、1967年にジョージ・ビーンのバンド「ザ・ランナーズ」に加入。またセッション・ドラマーとしてキャット・スティーヴンスやルルのサポートを務めた。


 パラマウンツ時代のバンド・メイト、ゲイリー・ブルッカーが1967年に結成した「プロコル・ハルム」は、その年5月に発表したデビュー・シングル『青い影』を大ヒットさせ、一躍人気バンドとなった。ところがバンドは1967年夏にドラマーのボビー・ハリスンを解雇し、ブルッカーは後任としてウィルソンに白羽の矢を立てる。
 1967年7月、ウィルソンはやはりパラマウンツのメンバーだったロビン・トロワー(guitar)とともにプロコル・ハルムのメンバーとなった。これ以降ウィルソンは1977年の解散までバンドを支え、全アルバムの録音に参加した。


 ウィルソンのドラミングは重厚かつパワフルで、ジャズからの影響も大きく、独特のスタイルを持っていた。プロコル・ハルムの5作目のアルバム『ブロークン・バリケーズ』(1971年)に収録されている曲『パワー・フェイリュアー』は、ステージではウィルソンのパフォーマンスのために演奏されており、いくつか残されているこの曲のライヴ映像でウィルソンのドラミングを観ることができる。


 1968年にはジョー・コッカーの『ウィズ・ア・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』の録音に参加。
 ジョー・コッカーと初期のプロコル・ハルムはともにリーガル・ゾノフォーン(Reagal Zonophone)というレーベルに所属していたという縁がある。
 この録音にはのちにレッド・ツェッペリンを結成するジミー・ペイジも参加していた。ペイジはウィルソンのドラミングを気に入り、新バンドに誘ったが、ウィルソンは「プロコル・ハルムの活動が軌道に乗っていた」ことを理由にこの話を断っている。
 なおコッカーの『ウィズ・ア・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』は、イギリスをはじめオランダ、ベルギー、スイスでもチャート1位となる大ヒットを記録した。


 ウィルソンは1973年にはルー・リードのアルバム『ベルリン』の録音に参加、『レディ・デイ』と『ザ・キッズ』でドラムを叩いている。
 また1975年にはウィルソンは友人で映画音楽作曲家のリチャード・ハートリーに招かれ、当時のプロコル・ハルムのバンドメイトだったミック・グラバム(guitar)とともに映画『ロッキー・ホラー・ショー』(1975 年)のサウンドトラックの録音に参加している。


     


 プロコル・ハルムの解散後は、ベーシストのクリス・コッピングとともに「フランキー・ミラーズ・フル・ハウス」に加入。ミラーのソロ・アルバム『ダブル・トラブル』の録音にも参加した。
 1979年には旧知のジョー・コッカーのツアー・バンドに加わり、1984年まで在籍した。
 

 1983年、「AC/DC」のドラマーであるフィル・ラッドが、アルバム『フリック・オブ・ザ・スウィッチ』のレコーディング中(ドラム・パートは録音済みだった)に解雇されたことに伴い、ドラム・パートの再録音のためウィルソンが呼ばれた。しかしウィルソンが起用されたトラックは使用されず、AC/DCの新たなドラマー、サイモン・ライトによる録音に差し替えられた。
 1984年、元「シン・リジィ」のスコット・ゴーハム(guitar)や「スーパートランプ」のボブ・シーベンバーグ(drums)らとともに、パトリック・ランドレヴィル(1960年代のカルト・バンド「RHS」の元メンバー)と共演。
 1985 年、元プロコル・ハルムのバンドメイトであるキース・リードやマシュー・フィッシャーとともに、ゲイリー・ブルッカーのソロ・アルバム『Echoes in the Night』の制作に招かれ、『Ghost Train』『Mr. Blue Day』『The Long Goodbye』『Hear What You Saying』の4曲の録音に参加した。これがウィルソンの最後のレコーディングとなった。


 ウィルソンはその後アメリカ合衆国オレゴン州に移住したが、1987年に意図的な薬物の過剰摂取に意識不明に陥る。
 そのまま3年間入院していたが回復することなく、1990年10月8日にオレゴン州ユージーンで肺炎のため43歳で死去した。
 ブルッカーはウィルソンを偲んで、翌91年にプロコル・ハルムを再結成した。


【ディスコグラフィ】☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム

 <プロコル・ハルム> 
  1967年 青い影/Procol Harum US47位
  1968年 月の光/Shine On The Brightly US24位
  1969年 ソルティ・ドック/A Salty Dog UK27位, US32位
  1970年 ホーム/Home UK49位, US34位
  1971年 ブロークン・バリケーズ/Broken Barricades UK42位, US32位
 ★1972年 A Whiter Shade of Pale / A Salty Dog UK26位
 ☆1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ/Live In Concert with The Edmonton Symphony Orchestra UK48位, US5位
  1973年 グランド・ホテル/Grand Hotel US21位
 ★1973年 The Best of Procol Harum UK131位
  1974年 異国の鳥と果物/Exotic Birds And Fruit US86位
  1975年 プロコルズ・ナインス/Procol’s Ninth UK41位, US52位
  1977年 輪廻/Something Magic US147位

 <レコーディング・セッション>
  1969年 心の友/With A Little Help From My Friends(ジョー・コッカー)UK29位, US35位
  1970年 レオン・ラッセル/Leon Russell(レオン・ラッセル)US60位, 日本62位
  1973年 ベルリン/Berlin(ルー・リード)UK7位, US98位
  1975年 ロッキー・ホラー・ショー/The Rocky Horror Picture Show(サウンドトラック)
  1978年 ダブル・トラブル/Double Trouble(フランキー・ミラー)US177位
  1979年 Slung Line(ジョン・ハイアット)US202位
  1981年 Watch That First Step(Bruce Stephens)※Norway
  1985年 Giants In Our Own Room(ボブ・シーベンバーグ)
  1985年 Echoes In The Night(ゲイリー・ブルッカー)


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マイク・ケリー

2023-02-05 08:26:32 | drums

マイク・ケリー Michael Alexander "Mike" Kellie


【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1947年3月24日~2018年1月18日(69歳没)

【出生地】
  イングランド バーミンガム

【経 歴】
  ザ・カンサスシティ・セヴン(1965~1966)
  V.I.P.'s(1967)
  アート(1967)
  スプーキー・トゥース(1967~1970)
  ボールズ(1970)
  スリー・マン・アーミー(1971)
  パリッシュ&ガーヴィッツ(1971~1972)
  フランプトンズ・キャメル(1972~1973)
  スプーキー・トゥース(1973~1974)
  ジ・オンリー・ワンズ(1976~1981)
  スプーキー・トゥース(1998~1999)
  スプーキー・トゥース(2004)
  ジ・オンリー・ワンズ(2007~2017)
  スプーキー・トゥース(2008~2009)
  ザ・ディストラクションズ(2012~  )
  The Granite Shore(2015~  )


 マイク・ケリーはイギリスのドラマーである。
 50年以上にわたるキャリアを誇り、主にスプーキー・トゥース、オンリー・ワンズのドラマーとして知られている。
 また多忙なセッション・ドラマーでもあり、ジョー・コッカー、トラフィック、ジョージ・ ハリスン、ピーター・フランプトン、モーリス・ギブ(ビージーズ)、ゲイリー・ライト、ジョニー・サンダース、ルーサー・グロヴナー、ジム・キャパルディ、パット・トラヴァース、アンディ・フレイザーなど数多くのミュージシャンをサポートしている。



 ケリーの生まれ育った家庭はとくに音楽好きというわけではなかったが、彼は子どもの頃からスネア・ドラムの代わりに石炭スカットルを叩いたりして、リズムを取ることに興味を持っていた。
 10代の頃、「セント・マイケルズ・ユース・クラブ・バンド」にドラマーとして参加。
 1965年にはバーミンガムの「カンサスシティ・セヴン」というバンドに加入。これがケリーのプロ・ミュージシャンとしてのキャリアのスタートである。
 その後、ソリハルの街にあったチューダー・グランジ・スポーツ・センターの「ザ・トラック」で演奏していた時に、ブライアン・”モンク"・フィンチに招かれ、バーミンガムで「パット・ウェイン & ザ・ビーチコンバース(Pat Wayne & The Beachcombers)」と演奏するようになったが、スティーヴ・ウインウッドの口添えで1967年初頭に「V.I.P's」へ参加する。
 「V.I.P's」は1967年4月にバンド名を「アート」と改めるが、1967年にゲイリー・ライト(vocals, keyboards)が加入したのをきっかけに、「スプーキー・トゥース」と名を替えた。当初のメンバーは、ゲイリー・ライト、マイク・ハリスン(vocals, keyboards)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)、そしてケリーの5人である。
 スプーキー・トゥースはアメリカン・ロックへの接近を試みながら、ハード・ロックやサイケデリック・ロックの要素を吸収昇華させて活動を続ける。ケリーのタイトで重みのあるドラミングはスプーキー・トゥースのサウンドにマッチしており、バンドを支える重要な要素のひとつであった。
 しかしスプーキー・トゥースは1970年に解散。次第に高まってゆくメンバー間の大きな軋轢が解散に至る主な理由である。
 ただし解散間もない1970年の秋に、ハリソン、グロヴナー、ケリー、ジョン・ホウケン(keyboard 元ナッシュヴィル・ティーンズ~ルネッサンス)、スティーヴ・トンプソン(bass 元ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ)というラインナップで、ヨーロッパ・ツアーのためにだけいったん再結成し、ツアー後に改めて解散した。
 その後は「スリー・マン・アーミー」や「パリッシュ&ガーヴィッツ」を経て、1971年にピーター・フランプトンのソロ・アルバム『ウィンド・オブ・チェンジ』のレコーディングに参加したことがきっかけとなり、フランプトンのバンド「フランプトンズ・キャメル」の結成に加わった。



 スプーキー・トゥースは1972年に再結成したが、翌73年にドラマーのブライソン・グラハムが脱退したため、ケリーはフランプトンズ・キャメルを離れてグラハムの後任としてスプーキー・トゥースに復帰。
 同年秋には6枚目のアルバム『ウィットネス』のレコーディングに参加したが、この頃にはハリスンとライトの間でバンドの主導権を巡っての対立が生じており、それが原因となって1974年5月にスプーキー・トゥースから脱退した。
 この年ジョニー・アリディのバンドに加わり、夏のフランス・ツアーに同行。


 1976年、ピーター・ペレット、アラン・メア、ジョン・ペリーとともにパワー・ポップ系パンク・バンド「ジ・オンリー・ワンズ」を結成、1981年までニュー・ウェイヴ・シーンで活躍した。
 ケリーは1981年にオンリー・ワンズを脱退すると、音楽業界から離れてカナダのトロント北部の田園地帯に移り、そこで4年間を過ごした。この間ケリーはピアノを学び、曲を書くことに時間を費やした。
 ケリーは1985年にイギリスへ戻り、北ウェールズやスコットランドで農業を営む。


     


 1998年、ライトを除く4人のオリジナル・メンバー(ハリソン、グロヴナー、リドリー、ケリー)が結集してスプーキー・トゥースはまたも再結成し、25年ぶりにニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
 再結成ライヴは、2001年に『Live In Europe』としてリリースされている。
 2003年にグレッグ・リドリーが死去したが、2004年6月にハリソン、ライト、ケリーはジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えて「スプーキー・トゥース」の名で活動を再開させ、ドイツでライヴを行った。このうち、ヴォルプスヴェーデとハンブルグでのライヴの模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。


 2007年、オンリー・ワンズ再結成に参加し、イギリス、ヨーロッパ、日本をツアーした。
 2008年2月、ハリソン、ライト、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが5度目の始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
 2012年、ソロ・アルバムの制作を開始。『Music from The Hidden』というタイトルのこのアルバムは2014年にリリースされ、ケリーはドラムのほか、オルガン、ベース、アコースティック・ギター、パーカッション、リード・ヴォーカル、プロデュースを担当。レコーディングにはゴードン・ジャクソン (accoustic-guitar)、フィンリー・バーカー(guitar)、トニー・ケルシー(guitar)、スティーヴ・ウィンウッド(organ, mandolin, bass)、ビル・ハント(piano)、リーバイ・フレンチ(piano)、トニー・アリス(piano)、ロブ・ハリソン(bass)、スティーヴ・ギボンズ(backing-vocals)、グレッグ・プラット・レイク(guitar, vocals)が参加している。


 その後、病を得たケリーは、短い闘病期間を経て、2017年1月18日に69歳で死去した。




【ディスコグラフィ】
 
 <ソロ・アルバム>
  2014年 Music from The Hidden

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
  1969年 セレモニー/Ceremony US92位 *with Pierre Henry
  1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff US84位
      *クレジットは「Spooky Tooth featuring Mike Harrisom」
  1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位
      *『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発
  1973年 ウィットネス/Witness US99位

 <参加アルバム>
  1971年 アンダー・オープン・スカイズ/Under Open Skies(ルーサー・グロヴナー)
  1971年 ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ(トラフィック)US7位
  1972年 Oh How We Danced(ジム・キャパルディ)
  1972年 ウィンド・オブ・チェンジ/Wind of Change(ピーター・フランプトン)
                                    ほか


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ジンジャー・ベイカー

2022-10-23 23:21:40 | drums

ジンジャー・ベイカー Peter Edward "Ginger" Baker

【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1939年8月19日~2019年10月6日(80歳没)

【出生地】
  イングランド ロンドン

【経 歴】
  The Storyville Jazzmen
  The Hugh Rainey All Stars
  Terry Lightfoot’s Jazzmen
  Johnny Burch Quartet(1961~1962)
  Johnny Burch Octet(1962)
  アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッド/Alexis Korner’s Blues Incorporated (1962.6~1963.2)
  グラハム・ボンド・カルテット/Graham Bond Quartet (1963.2~1963.8)
  グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation (1963.9~1966.3)
  クリーム/Cream(1966.6~1968.11)
  ブラインド・フェイス/Blind Faith(1969.2~1969.10)
  ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース/Ginger Baker’s Airforce (1970.1~1971.1)
  ドラム・クワイアー/Drum Choir(1971)
  ジンジャー・ベイカー & ソルト/Ginger Baker & Salt (1972)
  ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー/Baker Gurvitz Army(1974~1976)
  ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ/Ginger Baker & African Friends (1978)
  ホークウインド/Hawkwind(1980~1981)
  ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ/Ginger Baker’s Nutters (1981~1982)
  アトミック・ルースター/Atomic Rooster(1981) ※サポート・メンバー
  ジンジャー・ベイカーズ・エナジー/Ginger Baker’s Energy

  ベイカーランドバンド~ジンジャー・ベイカー & バンド/Bakerandband/Ginger Baker & Band (1982~  ) 
  BBM (1994)
  ジンジャー・ベイカー・トリオ/Ginger Baker Trio



 クリームのドラマー。
 ブリティッシュ・ロック界が生んだ最初のスーパー・スター・ドラマーであり、ロック・ドラムにジャズやアフリカン・リズムなどの要素を持ち込んだ偉大なドラマーでもある。ジャズのフィールドでも活躍した。
 「ローリング・ストーン」誌が選出する「最も偉大な100人のドラマー」では第3位にランクされている。
 なお「ジンジャー」はニックネームである。赤毛であるところからそう呼ばれるようになった。


 南ロンドンのルイシャム出身。
 レンガ職人の父フレデリックと、タバコ店で働く母ルビー・メイとの間に生まれた。
 ポープ・ストリート・スクールではフットボールの選手として活躍。
 空軍の第56飛行中隊に所属していた14歳の頃は、軍隊のバンドでトランペットを演奏するようになる。
 15歳のときにドラムに転向し、1960年代初頭にはフィル・シーメンにレッスンを受けている。
 1950年代後半からジャズ・バンドで演奏活動を始める。ロンドンの代表的なジャズ・クラブとして知られるロニー・スコッツのレギュラーの座に就くなど、高い演奏技術で知られる存在となる。
 1962年、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドに加入し、ブルースやR&Bにも接近。このバンドでジャック・ブルースと出会う。この当時からふたりはしばしば対立していたが、1963年には、ブルース・インコーポレイテッドで一緒になったグラハム・ボンドの「グラハム・ボンド・トリオ」(のちの「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の結成に、ともに参加する。バンドはディック・ヘクストール=スミスを加えた強力なカルテットで、1965年には後のロックやジャズ・ロックに多大な影響を与える重要作「The Sound Of 65」をリリースした。





 やがてベイカーは、グラハム・ボンド・オーガニゼイションでの活動に行き詰まりを感じるようになり、エリック・クラプトンにバンドを結成するというアイデアを提案してみた。クラプトンはこれに同意したが、ひとつの条件を出した。それは「ベースをジャック・ブルースにするなら」ということであった。彼とブルースはとにかく対立しがちだったため、ベイカーはこれにとても驚いた。グラハム・ボンド・オーガニゼイション時代はベイカーと衝突したブルースが脱退したということすらあった。実はクラプトンは、ベイカーとブルースの仲が非常に悪いということを知らなかったのだが、結局ベイカーはこの条件を受け入れる。
 1966年6月、ベイカー、クラプトン、ブルースの3人は「クリーム」を結成。
 クリームのデビューは同年7月31日。第6回ナショナル・ジャズ & ブルース・フェスティヴァルがそのステージである。クリームの登場と革新的な演奏は、ロック界を震撼とさせた。

 クリームは解散までに『カラフル・クリーム』『クリームの素晴らしき世界』など4枚のスタジオ・アルバムを発表し、世界的な成功を収めた。
 ライヴでのインプロヴィゼイション主体のエキサイティングな演奏は絶賛され、ロック・ミュージックに多大な影響と変革をもたらした。しかしベイカーとブルースの軋轢は大きくなる一方であり、それに加えてツアーの連続による疲労などでメンバーの仲は冷え切ってしまったため、1968年5月には解散することが決断された。同年11月26日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたフェアウェル・コンサートがクリームの最後のライヴとなった。


 1969年になると、クラプトン、ウィンウッド、ベイカーはリハーサルを重ねるようになる。この3人にリック・グレッチが加入して結成されたのが、やはり「スーパー・グループ」として騒がれた「ブラインド・フェイス」である。
 ブラインド・フェイスの誕生はセンセーショナルな話題であった。彼らは1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで行われたフリー・コンサートで、実に10万人の聴衆を集めて衝撃的なデビューを果たした。
 同年7月に発表されたブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』(Blind Faith)は、英米ともにチャート1位の大ヒットとなり、ミリオン・セラーを記録した。
 しかし8月24日まで行われたアメリカ・ツアー中にメンバー間で修復しがたい音楽観のずれが生じ、結局10月にはブラインド・フェイスは解散した。活動期間は、実質わずか半年ほどであった。



 

 1970年1月にベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加え、10人編成の自身のリーダー・バンド、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成する。
 即興主体の演奏、アフロ・ビートなどを取り入れたユニークな音楽性を前面に押し出し、1970年にファースト・アルバム『Ginger Baker's Air Force』、セカンド・アルバム『Ginger Baker's Air Force 2』を発表。
 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォースとして2枚のアルバムをリリースしたのち、アフリカで数年間を過ごす。ベイカーは1960年代からアフロ・ミュージックに傾倒しており、アフリカではナイジェリアのアフロビートの巨人フェラ・クティと意気投合してアルバムを3枚制作したほか、「The Africa ’70」とのセッションなどを通してアフリカン・パーカッションに傾倒。72年にはBobby Tenchらの協力で初のソロ・アルバム「Stratavarious」をリリースした。この1972年にはベイカー(drums)、Bud Beadle(sax)、Berkley Jones(guitar)、Joni Haartrup(vocal, percussion)、Laolu Akins(african-drums)、Steve Gregory(tenor-sax, flute)というメンバーで「ジンジャー・ベイカー & ソルト」を結成している。
 こうしたベイカーのアフロ・ミュージックへの接近は、のちの「ワールド・ミュージック」ムーヴメントへ続く先駆的な動向だと言っていいだろう。


 1974年、エイドリアンとポールのガーヴィッツ兄弟と合流し、ハード・ロック・バンド「ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー」を結成。
 1980年には、イギリスのサイケデリック・ロック・バンド「ホークウインド」に加入して世間をあっと言わせた。この件についてのちにベイカーは「あれは史上最大のジョークだった。金が必要だったんだ。動機はそれだけだ。」と語っている。1981年にはキース・ヘイル(Keith Hale keyboard)を引き連れてホークウインドを脱退し、自身のグループ「ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ」(Ginger Baker’s Nutters Ginger Baker:drums、Billy Jenkins:guitar、Ian Trimmer:sax、Riki Legair:bass、Keith Hale:keyboard)を結成。その後は「ベイカーランドバンド(その後ジンジャー・ベイカー & バンド)」(Bakerandband/Ginger Baker & Band)、「ジンジャー・ベイカーズ・エナジー」(Ginger Baker's Energy Ginger Baker:drums、John Mizarolli:guitar, vocal、Whitey Davis:guitar, vocal、Henry Thomas:bass、David Lennox:keyboard)を率いて活動した。


 1986年には「パブリック・イメージ・リミテッド」のアルバム『アルバム』のレコーディングに参加している。
 パブリック・イメージ・リミテッドは、1970年代後半のロック界に吹き荒れた席捲したパンク・ロック・ムーヴメントの火付け役にして筆頭バンドだったセックス・ピストルズのジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)がピストルズ脱退後に結成したバンドである。ニュー・ウェイヴの旗手だったライドンと、オールド・ウェイヴの代表格のひとりのベイカーのコラボレーションということで話題になった。


 1989年、フリー・ジャズのサックス奏者、ペーター・ブロッツマンのアルバム『ノー・マテリアル』のレコーディングに参加。メンバーは、Baker(drums)、Peter Brötzman(sax)、Sonny Sharrock(guitar)、Nicky Scopelitis(guitar)、Jan Kazda(bass)であった。
 1992年、アメリカのハード・ロック・バンド「マスターズ・オブ・リアリティ」のアルバム『Sunrise on the Sufferbus』に参加。
 1993年、ジャック・ブルース、ゲイリー・ムーアと組んだギター・トリオ「BBM」(ベイカー・ブルース・ムーア)を結成する。一部では「90年代のクリーム」とも騒がれ、翌94年にはアルバム『白日夢』(Around the Next Dream)をリリースしたが、インプロヴィゼイションを重視するベイカーにとっては音楽的指向が満足ゆくものではなかったうえ、メンバー間のエゴのぶつかり合いもあり、この重量級プロジェクトは短命に終わった。
 しかし、様々なセッションや各種プロジェクトへの参加、また自身のトリオを率いるなど、BBM解散後も多彩な活躍を続けた。





 1993年1月、クリームは「ロックンロール・ホール・オブ・フェイム」(ロックの殿堂)入りを果たす。その式典で、エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーは、クリームとして3曲演奏している。
 1994年、ビル・フリーゼル(guitar)とチャーリー・ヘイデン(bass)の、ふたりのジャズ界の名手とともに「ジンジャー・ベイカートリオ」を結成。
 2005年、37年ぶりにクリーム再結成。このできごとは「奇跡」とも言われ、世界を驚かせた。ロック界だけでなく一般紙までもがこのニュースを取り上げたほどである。再結成コンサートは、5月にロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、世界中のロック・ファンから注目された。

 2008年にはモダン・ドラマーの殿堂入り。2016年にはクラシック・ドラマーの殿堂入りをしている。

 2013年、変性骨関節炎による慢性的な背中の痛みと、慢性閉塞性肺疾患を患っていることを公表した。
 同年にはジンジャーを題材にしたドキュメンタリー映画『ビウェア・オブ・ミスター・ベイカー』(Beware Of Mr. Baker)が公開され、その気難しく、自己破壊的傾向にありながら多作なミュージシャンの生活ぶりが露呈されていた。
 2015年、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のバンド名で翌16年にワールド・ツアーを行う予定があることを発表したが、2016年3月に自宅で倒れる。同年7月には深刻な心臓疾患であると診断され、心臓手術を受けた。この結果、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のツアーはキャンセルを余儀なくされた。
 ジンジャー・ベイカーは長い間ヘロイン中毒とも闘っており、2013年に『ガーディアン』紙に対して「29回」もドラッグから逃れられなかったと語っている。
 2019年10月6日、病気のためにイングランド ケント カンタベリーで死去。80歳没。





 ベイカーの演奏スタイルは、高度なテクニックに裏付けされた自由度の高いものである。ドラミングそのものはパワフルで躍動的、カリスマ性すら漂わせていた。
 ロック界にあって、豊かな即興性と長尺のドラム・ソロを持ち込んだことでも知られる。1960年代に見られる有名な例が、クリームの『いやな奴』(Toad)や、ブラインド・フェイスの『君の好きなように』(Do What You Like)である。
 また、ツイン・バス・ドラムのセッティングを行った初めてのロック・ドラマーがベイカーだと言われている。


 ベイカーはたいへん気難しい性格であり、率直で辛辣な発言が多いことでも有名。
 長年いろいろなユニットでともにリズム・セクションを形成していたジャック・ブルースに対しては「エゴ剥き出し」「マイクを握ってステージ上で踊りまくる嫌な奴」とこき下ろしているのをはじめ、「ミック・ジャガーは音楽面では無能」(ただし「経営面で天才なのは事実だ」とも語っている)「なぜロックミュージックはあんなに音を大きくしなくてはいけないのだ?」「(ロック・ミュージシャンのほとんどは)とにかくマヌケどもだ」「ポール・マッカートニーは自分は楽譜が読めないなどと自慢している!よくも自分をミュージシャンだと言えたもんだ」「今のポップミュージックはクズだ」などと容赦のない言葉の数々が残っている。


 若き日のベイカーとチャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)の関係にも触れておきたい。

 ベイカーとワッツの関係は、まさに「親友」であった。彼らは深い友情で結ばれていた。
 もともとはワッツの母と、ベイカーの最初の妻リズの叔母が知り合いだったということである。
 1950年代の終わりごろには、ワッツはすでにベイカーの演奏に感銘を受けていた。
 ワッツはアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のメンバーだった1962年、「ジンジャー・ベイカーが仕事を探している」という話を耳にした。ワッツは、「ベイカーのような素晴らしい才能の持ち主に仕事がないのに、自分がこのバンドでドラムを叩いているのはおかしい」と言って、ベイカーにブルース・インコーポレイテッドのドラマーの座を譲ったという。
 ベイカーは「信じられない!」と感謝の言葉を伝えた。ワッツは後日ベイカーに「プロのミュージシャンとしてのキャリアを歩むかどうかも迷っているんだ」とも打ち明けていたそうであるが、精神的にも信頼していたのであろう。
 その後のことである。

 ベイカーはブライアン・ジョーンズの音楽性を高く評価していたが、ブライアンがミック・ジャガーと行動を共にすることになったとき、ベイカーはブライアンに「リズム・セクションを加えたらどうか」と提案した。ブライアンらはドラマーを見つけたが、ベイカーはそのドラマーを「ひどいもの」だとしたうえで、「チャーリー・ワッツを雇ったらどうだ」と彼らに進言したという。
 ベイカーとワッツはお互いに敬意を払い、「家族のように」思っていたそうである。
 そしてその友情は終生続いた。



【ディスコグラフィ】

 アレクシス・コーナー・ブルース・インコーポレイテッド

  1963年 Alexis Korner and Friends

 グラハム・ボンド・オーガニゼイション
  1964年 クルークス・クリーク/Live at Klooks Kleek
  1965年 サウンド・オブ・'65/The Sound of '65
  1965年 ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥイーン・アス/There's a Bond Between Us

 クリーム
  1966年 フレッシュ・クリーム/Fresh Cream
  1967年 カラフル・クリーム/Disraeli Gears
  1968年 クリームの素晴らしき世界/Wheels of Fire
  1969年 グッバイ・クリーム/Goodbye
  1970年 ライヴ・クリーム/Live Cream
  1972年 ライヴ・クリーム Vol.2/Live Cream Volume Ⅱ
  2003年 BBCライヴ/BBC Sessions
  2005年 リユニオン・ライヴ05/Royal Albert Hall London May 2-3-5-6, 2005

 ブラインド・フェイス
  1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith

 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース2/Ginger Baker's Air Force 2

 グラハム・ボンド

  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond

 フェラ・クティ
  1971年 Fela's London Scene

  1971年 ホワイ・ブラック・マン・デイ・サファー/Why Black Man Dey Suffer
  1972年 ライヴ!/Live!
 

 ジンジャー・ベイカー & ソルト
  2010年 Live in Munich Germany 1972

 ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー
  1974年 進撃/Baker Gurvitz Army
  1974年 天上の闘い/Elysian Encounter
  1975年 燃えあがる魂/Hearts On Fire
  2003年 Flying in and Out of Stardom

  2005年 ライヴ・イン・ダービー75/Live in Derby

 ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ

  2010年 Live in Berlin Germany 1978

 ジンジャー・ベイカーズ・エナジー
  1992年 Ginger Baker's Energy
  2010年 Live in Milan Italy 1980

 ホークウインド
  1980年 宇宙遊泳/Levitation(全英21位)
  1983年 ゾーンズ/Zones
  1984年 This Is Hawkwind, Do Not Panic


 ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ
  1981年 Ginger Baker Live
  1987年 In Concert
  2011年 Live In Milan Italy 1981
  
 パブリック・イメージ・リミテッド
  1986年 アルバム/Album(全英14位 全米115位)

 ペーター・ブロッツマン

  1989年 ノー・マテリアル/No Material

 マテリアル
  1993年 ライヴ・イン・ジャパン/Live In Japan

 ジンジャー・ベイカーズ・バンド
  1992年 IMABARI MEETING 1991 LIVE 瀬戸内海音楽祭 Vol.1 ※オムニバス・アルバム
 
 マスターズ・オブ・リアリティ
  1993年 サンライズ・オン・ザ・サファーバス/Sunrize on the Sufferbus

 ジンジャー・ベイカー・トリオ
  1994年 Going Back Home
  1996年 Falling Off The Roof


 ジャック・ブルース
  1993年 Cities of the Heart

  1994年 バースディ・ギグ/Cities of the Heart

 BBM
  1994年 白昼夢/Around The Next Dream(全英9位)

 アンディ・サマーズ

  1996年 Synaesthesia

 ソロ・アルバム
  1972年 アフロ・ロックの真髄/Stratavarious
  1976年 Ginger Baker & Friends

  1977年 Eleven Sides of Baker
  1983年 From Humble Oranges
  1986年 ホーシス・アンド・トゥリーズ/Horses & Trees
  1988年 アフリカン・フォース/African Force
  1990年 Middle Passage

  1992年 アンシーン・レイン/Unseen Rain
  1994年 Ginger Back Home

  1995年 Ginger Baker The Album
  1996年 Falling Off the Roof
  1998年 Do What You Like
  1999年 Coward of the Country
  2001年 African Force
  2006年 African Force:Palanquin's Pole
  2014年 Why?

 


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