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エリック・カルメン

2024-05-13 03:06:22 | vocal

エリック・カルメン Eric Howard Carmen

 【パート】
   ヴォーカル、ピアノ、キーボード、ギター、ベース

 【生没年月日】
   1949年8月11日~2024年3月9日(74歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド

 【経歴】
   サイラス・エリー/Cyrus Erie(1967~1969)
   クィック/Quick(1969)
   ラズベリーズ/The Raspberries(1970~1975)
   リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド/Ringo Starr and His All-Starr Band(2000)

   ラズベリーズ/The Raspberries(2004~2009)


 エリック・カルメンは、アメリカのシンガー・ソングライター。

 1970年代前半にラズベリーズのリード・ヴォーカリスト、ソングライターとして活躍した。その後ソロとなって『オール・バイ・マイ・セルフ』や『恋にノー・タッチ』などの大ヒット曲を生み出した。


 カルメンは、ロシア系ユダヤ人移民の子としてオハイオ州クリーヴランドで生まれ、オハイオ州リンドハーストで育った。
 幼いころから音楽に親しんでいたカルメンは、3歳のときにはすでにクリーブランド音楽大学のダルクローズ・リトミック・プログラムに参加していた。

 6歳になると、クリーブランド・シンフォニー・オーケストラのバイオリニストだった叔母のミュリエル・カルメンからヴァイオリンのレッスンを受けるようになる。11歳の時にはクラシック・ピアノを習い始め、あわせて自作曲を書くようにもなった。そしてのちにはクリーヴランド音楽院でロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフについて学んだ時期もあった。
 ロックが世界中を席捲した1960年代前半に出会ったビートルズやローリング・ストーンズから大きな影響を受け、チャールズ・F・ブラッシュ高校に入るとロック・バンドでピアノとヴォーカルを担当するようになる。
 カルメンは、15歳のときにギターのレッスンも受け始めていたが、間もなくギターの先生のスタイルが自分に合わないと感じるようになったため、その後は独学でギターを習得したということである。


 高校を卒業したカルメンはジョン・キャロル大学に進んだ。
 彼は、このころから将来ミュージシャンになることを真剣に考えるようになった。
 1967年、カルメンはウォーリー・ブライソン(guitar)とともに、当時のクリーヴランドで注目を集めるバンドのひとつ「サイラス・エリー」に加入。このバンドは、カルメンとブライソンの共作によるシングル・レコード『Get the Message』を1969年にエピック・レコードからにリリースしている。
 ブライソンは彼の友人であるジム・ボンファンティ(drums)、デイヴ・スモーリー(guitar)とともに、やはりクリーヴランドの人気バンドだった「クワイア」でも活動していた。1969年の終わりごろにサイラス・エリーとクワイアが解散すると、カルメンは「クイック」を結成するが、間もなくソロ活動を開始する。ソロ・デビューとしてシングル用に『I'll Hold Out My Hand』を1970年に録音しているが、これは発売されることはなかった。
 その後カルメンは元クワイアのブライソン、ボンファンティと合流する。3人はベーシストにジョン・アレクシスを迎え、1970年に「ラズベリーズ」を結成。
 アレクシスが1971年に脱退すると、カルメンがベースにスイッチし、ベトナム戦争から帰還したばかりのデイヴ・スモーリー(元クワイア)がリズム・ギターとして加入する。これにより、ラズベリーズのラインナップはエリック・カルメン(vocal, bass, piano, guitar)、ウォーリー・ブライソン(guitar)、デイヴ・スモーリー(guitar, bass)、ジム・ボンファンティ(drums)となった。
 ラズベリーズはデモ音源を制作したが、その完成度は関係者のあいだで評判となるほど高く、彼らとの契約を欲したメジャー・レーベル間で入札が行われたほどだった。
 入札の結果、ラズベリーズはキャピトル・レコードと契約する。
 キャピトルはプロデューサーにジミー・アイナー(スリー・ドッグ・ナイトやベイ・シティ・ローラーズなどを担当)を起用し、レコーディングはニューヨークのレコード・プラントとロンドンのアビイ・ロード・スタジオで行われた。


 ラズベリーズは1972年2月にデビュー・シングル『さよならは言わないで』を、同年4月にはデビュー・アルバム『ラズベリーズ』をリリースする。同年7月、このアルバムから『ゴー・オール・ザ・ウェイ』 がシングル・カットされると、たちまちビルボード・シングル・チャートで5位まで上昇、ミリオン・セラーを記録する大ヒットとなった。これが契機となり、ラズベリーズはパワー・ポップの草分けとして人気バンドの仲間入りを果たしたのである。
 以後も『明日を生きよう』『レッツ・プリテンド』『オーヴァーナイト・センセーション』などのヒット曲を出したが、メンバー間の人間関係を原因として1975年解散する。





 ラズベリーズ解散した後のカルメンは、1975年7月にアリスタ・レコードと契約を交わす。
 同年11月、ソロ・デビュー・アルバム『サンライズ』をリリース。このアルバムからは『オール・バイ・マイセルフ』『恋にノータッチ』『サンライズ』の3曲がシングル・カットされ、全てビルボード・シングル・チャートのトップ40入りを記録した。
 なかでも『オール・バイ・マイセルフ』は100万枚以上を売り上げ、シングル・チャートで1976年3月15日から3週連続全米2位(ビルボード)を記録して、R.I.A.A.からゴールド・ディスクに認定されるほどのメガ・ヒットとなった。この曲は、セルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」をモチーフにした、7分を超える壮大なバラードで、現在ではカルメンの代表曲として世界的に認知されている。1996年にはセリーヌ・ディオンがカヴァーしており、彼女のヴァージョンも大ヒット(全米4位、全英6位)した。
 また『恋にノータッチ』もラフマニノフの作品である「交響曲第2番第3楽章」のメイン・テーマをモチーフにしており、ビルボードで最高11位、カナダではチャート1位を記録した。
 これらのヒット曲を輩出したアルバム『サンライズ』はビルボード・アルバム・チャートで21位となり、1977年には50万枚以上を売り上げたことでゴールド・アルバムに認定された。


 1977年8月、カルメンのセカンド・アルバム『雄々しき翼』がリリースされ、ビルボード・アルバム・チャートに13週間ランクインし、最高45位を記録した。タイトル曲はビルボードで88位にとどまったが、後にオリビア・ニュートン・ジョンが1978年のアルバム『さよならは一度だけ』で取り上げている

 そのほか、ショーン・キャシディが1976年に『すてきなロックン・ロール』をカヴァーしてビルボード3位に、1977年には『ヘイ・ディーニー』をカヴァーしてビルボード7位に送り込んでおり、1977年秋の数週間は、この2曲にカルメン自身のシングル『愛をくれたあの娘』を加えたカルメン作の3曲が同時にビルボード・ホット100 にチャート・インした。
 その後カルメンは『チェンジ・オブ・ハート』(1978年)、『トゥナイト・ユア・マイン』(1980年)の2枚のアルバムをリリースした。アルバム・チャートでは低迷したが、シングル『チェンジ・オブ・ハート』はビルボードで最高19位のスマッシュ・ヒットとなった。この曲はサマンサ・サングがアルバム『ときめきへの誘い』でカヴァーしている。
 また1978年には世界歌謡祭のゲストとして来日。1980年には東京、大阪、京都、北海道、愛知、神奈川の6都市7ヵ所で来日公演を行った。





 ソロ転向後のカルメンはソフト・ロックやパワー・バラードを多く取り上げて世界的な人気を得たが、1980年代に入るとレコード会社や出版社との訴訟の対応などで活動に支障をきたし、低迷するようになった。
 しかし1984年にゲフィン・レコードへ移籍して心機一転を図る。
 この年カルメンは、映画『フットルース』の挿入歌『パラダイス~愛のテーマ』をディーン・ピッチフォードと共作した。
アン・ウィルソン&マイク・レノがシングルとしてリリースしたこの曲は、ビルボードで最高7位まで上昇した。このヒットによってカルメンの名が久々にメディアに取り上げられるようになったのである。
 


 1985年1月には4年ぶりにアルバム『エリック・カルメン』をリリースしてロック・シーンに再び姿を現した。このアルバムからは『噂の女』(ビルボード35位)のスマッシュ・ヒットが生まれているが、そのほかルイーズ・マンドレルがカヴァーした『メイビー・マイ・ベイビー』のシングルが、1986年にビルボードのカントリー・ソング・チャートで8位を記録している


 1987年、カルメンがリリースした『ハングリー・アイズ』は、ビルボード4位、ビルボードUSアダルト・コンテンポラリー2位の大ヒットを記録した。この曲は映画『ダーティ・ダンシング』のためにフランク・プリヴァイトとジョン・デニコラが書き下ろしたもので、このヒットによって、カルメンはシンガーとしてのカムバックも果たしたのである。
 1988年、この年開催されたソウル夏季オリンピックのためのコンピレーション・アルバム『ワン・モーメント・イン・タイム』にカルメンの『リーズン・トゥ・トライ』(ビルボード87位)が収録された。またこの年のシングル『メイク・ミー・ルーズ・コントロール』がビルボード3位の大ヒットを記録し、カルメンは再びスターの座に返り咲いた。
 しかし1990年代のカルメンはほとんど活動しておらず、1998年にアルバム『夢の面影』(Winter Dreams)を日本限定でリリース(アメリカでは2000年に『I Was Born to Love You』のタイトルで
リリース)したのみである。カルメンはこのアルバムの録音にバンドを起用せず、ほとんどの楽器を自分で演奏し、ドラムのパートは自分でプログラミングしている。


 2000年、「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」に加わり、ツアーに同行した。
 2004年11月、31年ぶりのラズベリーズ再結成に参加。カルメン、ボンファンティ、ブライソン、スモーリーからなるオリジナル・メンバーでの再結成だった。ラズベリーズの復活は話題となり、全米ツアーのチケットは完売するほどだった。ツアーも好評を博し、なかでもウエスト・ハリウッドのハウス・オブ・ブルースで収録されたライヴ・アルバムは非常に高く評価された。このライヴは、ニューヨーク・デイリー・ニュースで、年間のベスト・コンサートに選ばれている。



 2013年12月24日、カルメンの15年ぶりの新曲「ブランド・ニュー・イヤー」を「特別なクリスマス・ギフト」として無料ダウンロード配信でリリース。この曲は翌14年にリリースされたベスト・アルバム『エッセンシャル・エリック・カルメン』にも収録されている。


 カルメンは3度結婚している。
 1978年から79年にかけてはマーシー・ヒルと結婚生活を送った。1993年に結婚したスーザン・ブラウンとの間には2人の子供をもうけたが、2009年に離婚している。そして2016年から2024年に亡くなるまでは、元ニュース・キャスターのエイミー・マーフィーと過ごした。
 なおカルメンはロサンゼルスで暮らしていたが、1990年代に故郷オハイオ州に戻り、州北東部のゲイツ・ミルズで暮らしていた。


 2024年3月、エリック・カルメンは74歳で死去。
 3月11日に妻のエイミー・カルメンによって、訃報がエリックのホームページに掲載された。それによるとカルメンはその前の週末、就寝中に亡くなったということである。死因は明らかにされていない。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 *アルバム*

 <ラズベリーズ>
  1972年 ラズベリーズ/Raspberries US51位
  1972年 明日を生きよう/Fresh US36位
  1973年 サイド 3/Side 3 US128位
  1974年 素晴らしき再出発/Starting Over US143位
 ★1976年 Raspberries' Best Featuring Eric Carmen US138位
 ☆2007年 Live on Sunset Strip
 ☆2017年 Pop Art Live

 <ソロ・アルバム>
  1975年 サンライズ/Eric Carmen US21位, UK58位
  1977年 雄々しき翼/Boats Against the Current US45位
  1978年 チェンジ・オブ・ハート/ US137位
 ★1979年 ベスト・オブ・エリック・カルメン ※日本のみ発売
  1980年 トゥナイト・ユア・マイン/Tonight You're Mine US160位
  1984年 エリック・カルメン/Eric Carmen US128位
 ★1988年 The Best of Eric Carmen US59位
 ★1997年 The Definitive Collection
  1998年 夢の面影/I Was Born to Love You ※日本のみ。アメリカでは2000年にリリース。
 ★1999年 All by Myself ー The Best of Eric Carmen

 ★2014年 The Essential Eric Carmen


 *シングル*

 <サイラス・エリー>
  1969年 Get the Message

 <クィック>
  1969年 Ain't Nothing Gonna Stop Me

 <ラズベリーズ>
  1972年 さよならは言わないで/Don't Want to Say Goodbye US86位
  1972年 ゴー・オール・ザ・ウェイ/Go All the Way US5位
  1972年 明日を生きよう/I Wanna Be With You US16位
  1972年 ドライヴィン・アラウンド/Drivin' Around
  1973年 レッツ・プリテンド/Let's Pretend US35位
  1973年 トゥナイト/Tonight US69位
  1973年 アイム・ア・ロッカー/I'm a Rocker US94位
  1974年 君に首ったけ/Ecstacy 
  1974年 オーヴァーナイト・センセーション/Overnight Sensation 18位
  1974年 クルージング・ミュージック/Cruisin Music
  
 <ソロ>
  1975年 オール・バイ・マイセルフ/All by Myself US2位, UK12位
  1976年 恋にノータッチ/Never Gonna Fall in Love Again US11位
  1976年 サンライズ/Sunrise US34位
  1976年 すてきなロックンロール/That's Rock'n'Roll デンマーク7位
  1977年 愛をくれたあの娘/She Did It US23位
  1977年 雄々しき翼/Boats Against the Current US88位
  1978年 マラソン・マン/Marathon Man
  1978年 チェンジ・オブ・ハート/Change of Heart US19位
  1978年 二人のラブウェイ/Haven't We Come a Long Way
  1978年 愛を求めて/Baby I Need Your Loving US62位
  1980年 悲しみTOO MUCH/It Hurts Too Much US75位
  1980年 All for Love
  1980年 フーリン・マイセルフ/Foolin' Myself
  1985年 噂の女/I Wanna Hear It from Your Lips US35位
  1985年 I'm Through with Love US87位
  1986年 The Rock Stops Here
  1987年 ハングリー・アイズ/Hungry Eyes US4位, UK82位
  1988年 As Long as We Got Each Other ※with Louise Mandrell
  1988年 メイク・ミー・ルーズ・コントロール/Make Me Lose Control US3位, UK93位
  1988年 Reason to Try US87位
  2013年 Brand New Year




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ゲイリー・ライト

2024-01-26 11:36:17 | vocal

ゲイリー・ライト Gary Malcolm Wright

 【パート】
   ヴォーカル、ピアノ、オルガン、キーボード 

 【生没年月日】
   1943年4月26日~2023年9月4日(80歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ニュージャージー州クレスキル

 【経歴】
   ザ・ニュー・ヨーク・タイムズ(  ~1967)

   スプーキー・トゥース(1967~1970)
   ハウル・ザ・グッド(1970)
   ゲイリー・ライト・ワンダーホイール(1971~1972)
   スプーキー・トゥース(1972~1974)
   スプーキー・トゥース(2004)
   スプーキー・トゥース(2008~2009)
   リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド(2008, 2010~2011)

 
 ゲイリー・ライトはアメリカのヴォーカリスト、鍵盤奏者である。
 スプーキー・トゥースのヴォーカリスト兼鍵盤奏者、またニルソンの「ウィズアウト・ユー」でピアノを担当したことで知られる。ソロになってからは『夢織り人』を大ヒットさせた。ジョージ・ハリスンとの生涯に渡る交流も有名である。


 ライトは、幼い頃から子役としてショウ・ビジネスの世界で活動していた。
 7歳の時に『Captain Video and His Video Rangers』でテレビ・デビューを果たしたのを始め、テレビやラジオのCMにも起用された。1954年のブロードウェイ・ミュージカル「ファニー」(Fanny)では、ファニーの息子の役を演じている。
 その傍らピアノを弾き始め、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン、エルヴィス・プレスリー、ビートルズなどのR&Bやロックンロールに傾倒するようになった。
 ニュージャージー州のテナフライ高校時代にはロック・バンドを結成して活動するようになる。
 1960年には、ビリー・マークルとのバンド「ゲイリー&ビリー」(Gary & Billy)名義でシングル・レコード『ワーキング・アフター・スクール』をリリースしている。
 しかし音楽は安定した職業ではないと考えたライトは医学を志し、ヴァージニア州のウィリアム・アンド・メアリー大学とニューヨーク大学で医師になるために勉強をしたのち、ダウンステート医科大学に1年間通った。ニューヨーク大学では心理学の学位を取得している。その後ドイツに渡ってベルリン自由大学に留学する。
 しかしライトは音楽をやめたわけではなく、大学に通いながら地元のバンドで演奏活動を続けており、ベルリンでも1960年代半ばには「ザ・ニューヨーク・タイムス」(The New York Times)というR&Bバンドを結成して演奏活動を行っていた。


 1967年9月、トラフィックのスカンジナビア・ツアーに前座として同行していたニューヨーク・タイムスは、アイランド・レーベルの社長プロデューサーのクリス・ブラックウェルに認められて、ロンドンでのレコーディングのチャンスを得る。しかしそこでバンドの実力不足が明らかになり、リハーサルは取りやめになってしまった。この時ライトの才能に目をつけていたブラックウェルは、ライトを当時彼が手がけていたバンド「アート」にヴォーカル兼キーボーディストとして加入させた。
 アートはライトの加入後にバンド名を「スプーキー・トゥース」と改め、再スタートをきった。


 スプーキー・トゥースではマイク・ハリスンとともにバンドを牽引する。 
 1968年1月、スプーキー・トゥースはライトのオリジナル曲『サンシャイン・ヘルプ・ミー』でシングル・デビュー。8月にはファースト・アルバム『イッツ・オール・アバウト』を発表する。
 1969年3月には、セカンド・アルバム『スプーキー・トゥー』を発表。
 『スプーキー・トゥー』への高い評価、アメリカン・ロックに影響されたサウンド、ユニークなツイン・キーボード編成などで有望視されるようになったスプーキー・トゥースだが、サード・アルバム『セレモニー』の制作時に見解の相違からレーベル側と対立する。
 また、このアルバムはライトがイニシアティヴを取って制作されたのだが、アルバムは不評に終わり、このあたりからライトは他のメンバー、とくに同じヴォーカル兼キーボードのマイク・ハリスンとの間で感情的に対立するようになった。そしてこれが原因となって、1970年1月にスプーキー・トゥースを脱退するのである。
 その後ライトはプロデューサーのジミー・ミラーのもとでセッション・ミュージシャンを務めたり、フォーク・バンド「アライヴァル」のプロデュースを担当する。


     


 1970年、A&Mレコードと契約したライトは、ファースト・ソロ・アルバム『エキストラクション』を制作したが、そのレコーディング・セッションに参加していたクラウス・フォアマン(bass)にジョージ・ハリスン(guitar, vocal)を紹介される。
 ハリスンはこの年5月に3枚組アルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に取りかかった際、その録音にライトをピアニストとして招いた。この時のライトは緊張のあまり制作からリタイアしそうになったほどだったが、同い年だったふたりは間もなく意気投合。これがハリスンとライトの終生の友情の始まりであった。ライトはこの後1979年の『慈愛の輝き』までのハリスンの全アルバムにキーボードとして参加している。のちにライトは、ハリスンについて「自分の精神的な指導者だった」と語っている。
 この1970年、ライトはフォーク・ロック・バンド「ハウル・ザ・グッド」に一時的に参加し、同年のワイト島フェスティヴァルにも出演した。


 『エキストラクション』を1970年12月にリリースしたライトは、ジェリー・ドナヒュー(guitar)、アーチー・レジェット(bass)、のちスプーキー・トゥースで活動をともにすることになるブライソン・グラハム(drums)というラインナップで、自身のバンド「ワンダーホィール」(Wonderwheel)を結成した。(ギターはのちミック・ジョーンズに交替した)その後、一時ジョージ・ハリスンがスライド・ギターでこのバンドにサポートとして参加したこともある。
 1971年12月にはセカンド・ソロ・アルバム『フットプリント』を発表。このアルバムには、今度は共同プロデューサー兼ギタリストとしてジョージ・ハリスンが参加している。


 1972年には、ニルソンの名曲『ウィズアウト・ユー』のレコーディングにピアノで参加。
 またオリンピックに出場したスキー選手、ウィリー・ボグナーの映画『ベンジャミン』のサウンド・トラックも作曲、このアルバムは1974年にリリースされた。


 1972年夏以降なると、ライトとマイク・ハリソンの関係は次第に修復の方向へ向かうようになった。これを受けて、ライトは同年秋にはワンダーホイールを解散し、スプーキー・トゥースを再結成することを決めた。
 新生スプーキー・トゥースのラインナップは、ライト、ハリソン、ミック・ジョーンズ(guitar 元ワンダーホィール)、イアン・ハーバート(bass 元ジャンクヤード・エンジェル)、ブライソン・グラハム(drums 元メインホース)である。ただし、ベースは間もなくクリス・スチュワート(bass 元ロニー・レーンズ・スリム・チャンス)に交替した。
 新生スプーキー・トゥースは1973年に『ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ』と『ウィットネス』の2枚のアルバムをリリース。この2作はライトのオリジナル曲を中心として制作されており、内容についても好評を得た。
 しかしこの頃にはまたもやハリスンとライトの関係に主導権を巡って亀裂が生じており、このため1974年春にはハリソンらメンバー3人が相次いで脱退してしまった。
 ライトとミック・ジョーンズは、メンバーの補充にマイク・パトゥー(keyboard, vocal 元パトゥー)らを迎えて1974年に通算7枚目のアルバム『ザ・ミラー』を発表したが、セールスは振るわず、結局これがスプーキー・トゥースのラスト・アルバムになった。
 ライトはソロ活動のためまたもバンドを離れ、その結果スプーキー・トゥースは1974年11月に解散した。


 スプーキー・トゥース解散後、ライトはワーナー・ブラザーズとソロ契約を交わし、アメリカに戻って活動を再開する。

 そして迎えた1970年代後半から80年代にかけてのこの時期が、ライトのソロ・キャリアのピークである。
 1976年にリリースしたシングル『夢織り人』は、同年のビルボードで3週連続2位となる大ヒットを記録してゴールド・ディスクとなる。この曲はまた、映画『ウェインズ・ワールド』、映画『ラリー・フリント』などにフィーチャーされている。1976年には、続くシングル作品「Love Is Alive」もチャート2位(2週連続)を記録している。
 アルバム『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』をリリースしたのち、ライトはキーボード奏者3名とドラマーからなるバック・バンドを組んで大規模なツアーを行った。ライトの姉、ローナもバックヴォーカリストとしてこのバンドに加わっていた。
 『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』は1976年のビルボード・アルバム・チャート7位の大ヒット作品となり、ダブル・プラチナムとして認定された。
 この頃のライトは、ステージでポータブルのキーボードを使用しているが、ライトとエドガー・ウインターがライヴでこの楽器を使った先駆者である。またライトはすでにこの時期にシンセサイザーを多用しているが、彼はキース・エマーソンやリック・ウェイクマンらと並んでシンセサイザーをメイン楽器として使いはじめたひとりと言われている。
 この1976年には、ライトは当時人気急上昇中のピーター・フランプトンのツアーにサポート・メンバーとして参加した。


     


 『夢織り人』以降のライトは目立ったヒット曲がなかったが、1980年代は映画のサウンド・トラックへの作品提供を活動の中心とした。そのため表立ってライトの名がクローズ・アップされることはなくなっていったが、それでも地道にアルバムの制作とプロデュース業は続けていた。
 1981年にアリ・トムソンとの共作でリリースしたシングル『君のすべてを知りたくて』がチャート16位を記録したのが久しぶりのヒットである。
 1995年、アルバム『ファースト・サインズ・オブ・ライフ』を発表。これはブラジルのリズムやアフリカの伝統的サウンドなどを取り入れた、ワールド・ミュージックの要素が濃い作品で、ライトが新たな境地を拓いたことを示している。
 

 1990年代のライトは、多くの時間を家族とともに過ごしていたが、2004年6月に「スプーキー・トゥース」を再結成し、本格的な音楽活動を復帰した。この時のラインナップはライトのほか、マイク・ハリソン、マイク・ケリーのオリジナル・メンバーにジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えた5人である。再結成したスプーキー・トゥースは、ドイツでライヴを行った。この模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。


 2008年2月、ライト、ハリソン、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが再始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
 2008年夏にはリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、ツアーに同行した。このツアーのセット・リストには『夢織り人』も加えられていた。
 ライトは、2008年後半にニューエイジ・アルバム『ウェイティング・トゥ・キャッチ・ザ・ライト』を含む2枚のソロ・アルバムをリリースした。これについては、自ら「雰囲気のあるアンビエント・ミュージックのようなアルバムである」と語った。
 この2008年、ライトは大統領選挙でバラク・オバマを支持したが、その際『夢織り人』が民主党全国大会の曲として採用されている。


 2009年5月29日、ライト、ハリソン、アルブレヒト、ベッカー、そしてケリーの代わりにトム・ブレフテリンを加え、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたアイランド・レコード50周年記念コンサートで演奏した。
 2010年にはアルバム『Connected』を発表した。これは1970年代のポップ・ロック・サウンドへ回帰したものだったが、これがライトの最後のアルバムとなった。

 2010年と2011年、ライトは再びリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに加わり、ツアーにも参加。
 2014年にはハリスンとの友情を綴った自伝『Dream Weaver:music, Meditation, and My Friendship with Georg Harrison』を出版。


 2016年7月、1972年に制作していたアルバム『Ring of Changes』を44年ぶりに発表。これは1972年にワンダーホィールのアルバムとして制作したもので、ジョージ・ハリスンも参加しているが、ライトがハリスンのアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の録音に参加したこと、スプーキー・トゥースに再結成の動きがあったことで、シングル『Ring of Changes』をリリースしたのみでお蔵入りとなっていたもので、44年ぶりに世に出ることになった。


 最晩年はパーキンソン病に加えレビー小体型認知症と診断され、闘病生活を送っていたが、2023年9月4日、カリフォルニア州パロスヴェルデスの自宅で死去した。80歳であった。


 ライトの最初の妻クリスティーナは、ライトの曲『アイム・アライヴ』(『ザ・ミラー』収録)、『フィール・フォー・ミー』(『夢織り人』収録)にティナ・ライトの名で共同作曲者としてクレジットされている。
 またライトの妹のローナ・デューンは「ミッドナイト・ジョーイ」という曲をレコーディングしている。そして息子のジャスティン・ライトは「Intangible」のメンバーである。
 


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  1971年 エキストラクション/Extraction
  1972年 フットプリント/Footprint
  1972年 Ring of Changes(※with Wonderwheel 2016年発表)
 ★1973年 ザット・ワズ・オンリー・イエスタデイ US172位(ライトの曲とスプーキー・トゥースの曲のコンピレーション)
  1975年 夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー/The Dream Weaver

  1977年 ライト・オブ・スマイル/The Light of Smiles US23位
  1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch and Gone US117位
  1979年 ヘッディン・ホーム/Headin' Home US147位
  1981年 ライト・プレイス/The Right Place US79位
  1988年 フー・アイ・アム/Who I Am
  1995年 ファースト・サインズ・オブ・ライフ/First Signs of Life
 ★1998年 ベスト!/Best of Gary Wright:The Dream Weaver
  1999年 Human Love
 ★2003年 The Essentials
  2004年 Down This Road(with Leah Weiss)
  2005年 The Motion of Hidden Fire
  2008年 The Light Of A Million Suns
  2008年 Waiting to Catch the Light
  2010年 Connected
 ★2017年 Greatest Hits

 <ソロ・シングル>
  1960年 Working After School(※Gary & Billy)
  1971年 Get On The Right Road
  1971年 Stand For Our Rights
  1972年 グッドバイ・サンデー
  1972年 I Know(※Gary Wright & Wonderwheel)
  1972年 Ring Of Changes(※with Gary Wright & Wonderwheel)
  1976年 夢織り人/Dream Weaver US2位
  1976年 ラヴ・イズ・アライヴ/Love Is Alive US2位
  1976年 Made To Love You US79位
  1977年 ファントム・ライター/Phantom Writer US43位
  1977年 ウォーター・サイン/Water Sign
  1977年 The Light Of Smiles 
  1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch And Gone US73位
  1978年 Something Very Special
  1978年 Starry Eyed
  1981年 君のすべてを知りたくて/Really Wanna Know You US16位
  1981年 Heartbeat US107位
  1982年 Got The Feelin’
  1988年 Who I Am
  1988年 It’s Ain’t Right-The Remix

 <サウンドトラック>
  1972年 Benjamin – The Original Soundtrack of Willy Bogner's Motion Picture(※Gary Wright’s Wonderwheel名義 1974年発表)
  1982年 Endangered Species
  1986年 Fire and Ice 

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
  1969年 セレモニー/Ceremony US92位 (*with Pierre Henry)
  1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位(『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発したもの)
  1973年 ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ/You Broke My Heart So I Busted Your Jaw US84位
  1973年 ウィットネス/Witness US99位
  1974年 ザ・ミラー/The Mirror US130位
 ☆2007年 Nomad Poets-Live In Germany 2004


 <レコーディング・セッション>
 *ジョージ・ハリスン
  1970年 オール・ザ・シングス・マスト・パス/All Things Must Pass UK1位 US1位
  1973年 リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド/Living in the Material World UK2位 US1位
  1974年 ダーク・ホース/Dark Horse US4位
  1975年 ジョージ・ハリスン帝国/Extra Texture(Read All About It) UK16位 US8位
  1976年 33 1/3/Thirty Three & 1/3 UK35位 US11位
  1979年 慈愛の輝き/George Harrison UK39位 US14位
  1987年 クラウド・ナイン UK10位 US8位
 *スティーヴ・ギボンズ
  1971年 Short Stories
 *スカイ
  1971年 Don’t Hold Back
 *ニルソン
  1971年 ニルソン・シュミルソン/Nilsson Schmilsson US3位 UK4位
 *ティム・ローズ
  1972年 Tim Rose
 *ジェリー・リー・ルイス
  1973年 ザ・セッション
 *ジョニー・アリディ
  1973年 Insolitudes
 *スプリンター
  1974年 ザ・プレイス・アイ・ラブ
 *ダニー・マックロウ
  1995年 Beowulf


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キース・レルフ

2023-07-05 22:23:10 | vocal

キース・レルフ William Keith Relf

 【パート】
   ヴォーカル、マウスハープ、ギター、ベース

 【生没年月日】
   1943年3月22日~1976年5月12日(33歳没)

 【出身】
   イングランド サリー州リッチモンド

 【経歴】
   ヤードバーズ/Mustard(1962~1968)
   トゥゲザー/Together(1968)
   ルネッサンス/Cressida(1969~1970)
   メディシン・ヘッド/Medicine Head(1971~1972)
   アルマゲドン/Armageddon(1974~1975)



 キース・レルフはヤードバーズのオリジナル・メンバー、およびヴォーカリストである。ブルース・ハープの使い手としても評価が高い。
 ルネッサンスのヴォーカリスト、ジェーン・レルフは実妹である。


 キース・レルフは、1943年3月22日にサリー州リッチモンドで生まれた。父ウィリアム・アーサー・パーシー・レルフは建設業者、母メアリー・エルシー・レルフは専業主婦である。
 キースは1956年の夏頃からヴォーカリスト、ギタリスト、そしてハーモニカ奏者として演奏活動を始めた。
 キングストン・アート・カレッジに進んでからは、ポール・サミュエル=スミス(bass)らとともに「メトロポリス・ブルース・カルテット」を結成している。
 当時キングストン・アート・カレッジの学生の溜まり場となっていたパブで、メトロポリス・ブルース・カルテットは、アンソニー・トップハム(guitar)、クリス・ドレヤ(bass)、ジム・マッカーティ(drums)が組んでいたR&Bバンドと知り合う。このふたつのバンドが合流して1963年に結成されたのが「ヤードバーズ」である。
 結成当初、ヤードバーズはロンドンのリッチモンドにあるナイトクラブ「クロウダディ・クラブ」に出演していた。このクラブはローリング・ストーンズがデビューした当時出演していた店だった。クロウダディ・クラブのオーナーであるジョルジオ・ゴメルスキーはヤードバーズのプロデューサー兼マネージャーとなり、彼らをストーンズに代わるクラブの看板バンドに抜擢した。
 1963年秋、アンソニー・トップハムに代わってエリック・クラプトン(guitar)が加わり、コロンビアと契約を交わして、デビュー・シングル「I Wish You Would」をリリースした。


 キースのアイドルにも匹敵するルックスとクラプトンのギターはヤードバーズの看板となり、間もなく彼らは人気バンドとなる。
 1965年にはシングル「フォー・ユア・ラヴ」が全英3位、全米6位の大ヒットを記録。続いてリリースしたシングル「ハートせつなく」も全英2位、全米9位とまたも大ヒットした。
 しかしブルース志向のクラプトンはポップ寄りにシフトしてゆくヤードバーズの音楽性と相容れず、それが原因で脱退。その後ジェフ・ベック、ジミー・ペイジが後任のギタリストとして加入し、ヤードバーズの人気バンドとしての地位は揺るがなかった。
 キースは、ソロとしては1966年に2枚のソロ・シングルを発表している。デビュー・ソロ・シングル「ミスター・ゼロ」は、1966年5月に全英シングル・チャートで最高50位を記録した。 
 しかしライヴやツアーの連続でキースは疲れ切ってしまい、次第に音楽活動への意欲を失ってゆく。その結果、1968年7月にジム・マッカーティとともにヤードバーズを脱退するのである。


     


 ヤードバーズ脱退後のキースとジム・マッカーティはフォーク・ロック・デュオ「トゥゲザー」を結成し、同年末にシングル・レコードを1枚リリースする。
 翌69年6月、キースとマッカーティは、ベースにルイス・セナモ(元ザ・ハード)、キーボードにジョン・ホウケン(元ナッシュヴィル・ティーンズ)、そしてヴォーカルにキースの実妹であるジェーン・レルフを加え、フォーク・ロックにクラシックの要素を加味したプログレッシヴ・ロック系の新バンド「ルネッサンス」を結成。
 その年にはファースト・アルバム『ルネッサンス』を発表するが、1970年のセカンド・アルバム制作時にはキースの関心はプロデュース業に移っていたためレコーディング途中でバンドを脱退。それが元でバンドは徐々に勢いを失い、1971年に発表したセカンド・アルバム『幻想のルネッサンス』をもって活動を停止した。


 ルネッサンスを脱退したキースは1970年後半からはプロデューサーとして活動。ジム・マッカーティと組んでサントラ作品「Schizom」を制作したり、フォーク・ロック・バンド「Reign」のために曲を提供したりしている。
 1971年、「メディシン・ヘッド」のセカンド・アルバムとシングルのプロデュースを担当したのをきっかけにベーシストとしてメディシン・ヘッドに加入、1972年まで在籍した。
 1973年にはハンター・マスケットのセカンド・アルバムや、サイケデリック・ロック・バンド「サテュラニア」のアルバムをプロデュースしている。


 ルネッサンス時代のバンドメイトだったルイス・セナモは、ルネッサンス脱退後に「スティームハマー」のメンバーとなっていたが、彼はスティームハマーのバンドメイトだったマーティン・ピュー(guitar)と新バンドを組む計画を持っていた。
 一方キースは1971年冬にスティームハマーの4枚目のアルバム『Speech』に共同プロデューサーとして関わったが、この時にピューとも知己を得ている。1974年にセナモと再会したキースはセナモとピューが温めていた新バンド結成の計画に興味を持ち、彼らと音楽的方向性について話し合った結果、メンバーに加わることとなった。
 イギリスのレコード会社から契約を得られなかった3人は、アメリカに渡る。そしてロサンゼルスのハリウッドにある「レインボー・バー」で元キャプテン・ビヨンドのボビー・コールドウェル(drums)と知り合った。西海岸の名ドラマーであるエインズレー・ダンバーの推薦もあってコールドウェルをメンバーとして加えた彼らはバンドを「アルマゲドン」と名付け、活動を開始する。
 アルマゲドンは1975年にファースト・アルバム『アルマゲドン』を発表。スピード感とプログレッシヴ感覚豊かなハード・ロックを展開し、一部からは高く評価されたがセールスには結びつかず、アルバム1枚を残して解散した。


 アルマゲドンの解散後、キースは妹のジェーンらルネッサンスの元メンバーを中心としてバンドを結成し、原点に回帰した音楽を創ることを計画。そのバンドのリハーサルも始まっていた1976年5月12日、キースは自宅地下室でエレキ・ギターを弾きながら作曲している時に、ギターの接触不良が原因で感電死、リッチモンド墓地に埋葬された。33歳であった。
 キースの死亡日を多くの情報源が5月14日としているが、これは新聞に記事が掲載された日であり、公式の死亡診断書には5月12日にウェスト・ミドルセックス病院で死亡が宣告された旨記録されている。
 なおこの新バンドはキースの死後「イリュージョン」と名付けられて1979年まで活動し、2枚のアルバムを残している。


 キースのヴォーカリストとしての実力に対しては今ひとつ物足りないという評もあるが、彼は生涯を通じて喘息に悩まされており、のちには肺気腫を抱えるまでになった。それがキースの歌唱力に影響を及ぼしていた可能性は否定できない。


 1992年、キースはヤードバーズとともにロックの殿堂入りを果たした。
 なおヤードバーズは1992年に再結成され、2003年には35年ぶりの新作『バードランド』を発表したが、このアルバムに収録されている「An Original Man (A Song For Keith)」はキース・レルフに捧げられたものである。


     



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <ヤードバーズ>
 ☆1964年 ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ/Five Live Yardbirds
  1965年 フォー・ユア・ラヴ/For Your Love US96位
 ★1966年 ハヴィング・ア・レイヴ・アップ/Having a Rave Up with the Yardbirds US53位
  1966年 ロジャー・ジ・エンジニア/Roger the Engineer UK20位
  1966年 Over Under Sideways Down US52位
  1966年 欲望/Blow-Up ※B面1曲目に収録された「Stroll On」がヤードバーズの演奏
 ★1967年 The Yardbirds Greatest Hits US28位
  1967年 リトル・ゲームズ/Little Games US80位
 ☆1971年 Live Yardbirds Featuring Jimmy Page ※1968年5月録音
☆★1991年 Tardbirds...On Air
☆★2000年 Cumular Limit
☆★2017年 Yardbirds '68

 <ルネッサンス>
  1969年 ルネッサンス/Renaissance UK60位
  1971年 幻想のルネッサンス/Illusion

 <アルマゲドン>
  1975年 アルマゲドン/Armageddon

 <ソロ・シングル>
  1966年 Mr. Zero UK50位
  1966年 Shapes In My Mind
  1989年 Together Now

 <ゲスト参加>
 *スティームハマー
  1972年 Speech


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デヴィッド・バイロン

2022-08-27 16:06:37 | vocal

デヴィッド・バイロン David Garrick(stage name:David Byron)

【パート】
  ボーカル

【生没年月日】
  1947年1月29日~1985年2月28日(38歳)

【出生地】
  イングランド エセックス州エッピング

【経 歴】
  スパイス(1967~1969)
  ユーライア・ヒープ(1969~1976)
  ラフ・ダイアモンド(1977)
  デヴィッド・バイロン・バンド(1980~1982)
  

 ユーライア・ヒープの初代ボーカリスト。
 美しいハイ・トーン・ヴォイスと、派手なステージングで、ユーライア・ヒープ全盛期のフロント・マンとして活躍した。


 母はジャズ・クラブのシンガー。
 バイロンは、幼い頃から本名でテレビの子供向け番組やバラエティー番組に出演していた。
 1958年から1964年まではウォルサムストウにあるフォレスト・スクールに通っており、この頃はフットボールの選手として活躍していた。
 1965年、エッピングをベースに活動する「ストーカーズ」という名のセミプロ・バンドに加入し、ミック・ボックス(guitar)と出会う。
 1967年にストーカーズが解散すると、バイロンはボックスやナイジェル・ペグラム(drums)らと「スパイス」を結成。のちこのバンドにポール・ニュートン(bass)とアレックス・ネピアー(drums)が加入する。
 同時にボックスとともにアヴェニュー・レーベルと契約、スタジオ・ミュージシャンとしても仕事をしていた。この当時のスタジオ・ミュージシャン仲間にダニエル・ブーン(当時の名はピーター・スターリング)がいる。
 1968年11月、スパイスは唯一のシングル『What About The Music / In Love』をリリース。同姓同名のポップ・シンガーがいたため、この頃にステージ・ネームを「デヴィッド・バイロン」に変えている。
 1969年末、スパイスにケン・ヘンズレー(keyboard, guitar 元トー・ファット)が加入する。バンドはまもなくプロデューサーのジェリー・ブロンの発案で「ユーライア・ヒープ」と改名(諸事情で1970年2月までは「スパイス」として活動し、1970年3月から正式に「ユーライア・ヒープ」として始動)
 1970年、ユーライア・ヒープのファースト・アルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(全米186位、日本41位)がリリースされる。
 1973年5月、初来日。日本武道館を含めて5公演を行った。
 1975年、ファースト・ソロ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ』を発表。
 ユーライア・ヒープは、ディープ・パープルと並ぶブリティッシュ・ハード・ロック・バンドとして成功、バイロンも世界的な名声を得たが、ツアーに次ぐツアーによる疲労の蓄積、アルコール依存症の深刻化、ケン・ヘンズレーを始めとするメンバーとの対立など多くの問題を抱えていたため、1976年7月のスペイン・ツアーを最後にユーライア・ヒープを解雇された。
 バイロン在籍時のユーライア・ヒープがバンドの黄金時代と言われており、ヒープ在籍時に10枚のアルバムに参加している。


     


 ユーライア・ヒープを離れたバイロンは、クレム・クレムソン(guitar, 元コロシアム、元ハンブル・パイ)、ジョフ・ブリットン(drums, 元ウィングス)、ウィリー・バス(bass)、デモン・ブッチャー(keyboard)と「ラフ・ダイアモンド」を結成した。バンドは「スーパー・グループ」として注目され、1977年2月にアルバム『ラフ・ダイアモンド』を発表したが、アルバム・セールスは全米103位と芳しいものではなく、ほどなくバイロンはバンドを脱退した。


 1978年、セカンド・ソロ・アルバム『Baby Faced Killer』を発表したのち、ロビン・ジョージ(guitar)と組んで「デヴィッド・バイロン・バンド」を結成。(バイロンvocal、ジョージguitar、メル・コリンズsax、ボブ・ジャクソンkeyboard、ロジャー・フラヴェルbass、ジョン・シェアーdrums)
 このバンドはクレオール・レコードと契約し、アルバム1枚とシングル2枚を残している。
 「デヴィッド・バイロン・バンド」はセカンド・アルバムのレコーディングも予定されていたが、実現することなく1982年に解散した。
 1983年から84年にかけては3枚目のソロ・アルバム『That Was Only Yesterday』用に3曲の録音を行ったが日の目を見ることはなかった。(このアルバムは2008年なって発表されている)


     


 ケン・ヘンズレーがユーライア・ヒープから脱退(1980年)したのち、1981年にミック・ボックスとトレヴァー・ボルダーはバイロンに、ユーライア・ヒープに戻るよう招請したが、バイロンはこれを断っている。


 1985年2月28日、アルコール依存症にともなう肝硬変のため、イギリスのバークシャーで死去。38歳。
 ツアー中だったユーライア・ヒープは、「魔法使い」を演奏してバイロンを追悼した。


 2003年、1980年~1982年の間に録音された「デビッド・バイロン・バンド」のデモ音源や未発表ライブ音源、ソロ・アルバム用のリハーサル音源が発見され、同年に『Lost and Found』のタイトルでリリースされている。


     


【ユーライア・ヒープ】
 1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト/Very 'Eavy… Very 'Umble(全米186位、日本41位)
 1971年 ソールズベリー/Salisbury(全米103位、日本47位)
 1971年 対自核/Look at Yourself(全米93位、全英39位、日本5位)
 1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位、全英20位、日本28位)
 1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday(全米31位、全英28位、日本43位)
 1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live(全米37位、全英23位、日本22位)
 1973年 スウィート・フリーダム/Sweet Freedom(全米33位、全英18位、日本45位)
 1974年 夢幻劇/Wonderworld(全米38位、全英23位、日本76位)
 1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy(全米85位、全英7位、日本74位)
 1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty(全米161位、全英55位)

【ラフ・ダイアモンド】
 1977年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamond(全米103位)

【デヴィッド・バイロン・バンド】
 1981年 On the Rocks
 2003年 Lost and Found(1980年~1982年録音)

【ソロ・アルバム】
 1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners
 1978年 Baby Faced Killer
 2008年 That Was Only Yesterday(1984年録音)


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