ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

ゲイリー・ライト

2024-01-26 11:36:17 | vocal

ゲイリー・ライト Gary Malcolm Wright

 【パート】
   ヴォーカル、ピアノ、オルガン、キーボード 

 【生没年月日】
   1943年4月26日~2023年9月4日(80歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ニュージャージー州クレスキル

 【経歴】
   ザ・ニュー・ヨーク・タイムズ(  ~1967)

   スプーキー・トゥース(1967~1970)
   ハウル・ザ・グッド(1970)
   ゲイリー・ライト・ワンダーホイール(1971~1972)
   スプーキー・トゥース(1972~1974)
   スプーキー・トゥース(2004)
   スプーキー・トゥース(2008~2009)
   リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド(2008, 2010~2011)

 
 ゲイリー・ライトはアメリカのヴォーカリスト、鍵盤奏者である。
 スプーキー・トゥースのヴォーカリスト兼鍵盤奏者、またニルソンの「ウィズアウト・ユー」でピアノを担当したことで知られる。ソロになってからは『夢織り人』を大ヒットさせた。ジョージ・ハリスンとの生涯に渡る交流も有名である。


 ライトは、幼い頃から子役としてショウ・ビジネスの世界で活動していた。
 7歳の時に『Captain Video and His Video Rangers』でテレビ・デビューを果たしたのを始め、テレビやラジオのCMにも起用された。1954年のブロードウェイ・ミュージカル「ファニー」(Fanny)では、ファニーの息子の役を演じている。
 その傍らピアノを弾き始め、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン、エルヴィス・プレスリー、ビートルズなどのR&Bやロックンロールに傾倒するようになった。
 ニュージャージー州のテナフライ高校時代にはロック・バンドを結成して活動するようになる。
 1960年には、ビリー・マークルとのバンド「ゲイリー&ビリー」(Gary & Billy)名義でシングル・レコード『ワーキング・アフター・スクール』をリリースしている。
 しかし音楽は安定した職業ではないと考えたライトは医学を志し、ヴァージニア州のウィリアム・アンド・メアリー大学とニューヨーク大学で医師になるために勉強をしたのち、ダウンステート医科大学に1年間通った。ニューヨーク大学では心理学の学位を取得している。その後ドイツに渡ってベルリン自由大学に留学する。
 しかしライトは音楽をやめたわけではなく、大学に通いながら地元のバンドで演奏活動を続けており、ベルリンでも1960年代半ばには「ザ・ニューヨーク・タイムス」(The New York Times)というR&Bバンドを結成して演奏活動を行っていた。


 1967年9月、トラフィックのスカンジナビア・ツアーに前座として同行していたニューヨーク・タイムスは、アイランド・レーベルの社長プロデューサーのクリス・ブラックウェルに認められて、ロンドンでのレコーディングのチャンスを得る。しかしそこでバンドの実力不足が明らかになり、リハーサルは取りやめになってしまった。この時ライトの才能に目をつけていたブラックウェルは、ライトを当時彼が手がけていたバンド「アート」にヴォーカル兼キーボーディストとして加入させた。
 アートはライトの加入後にバンド名を「スプーキー・トゥース」と改め、再スタートをきった。


 スプーキー・トゥースではマイク・ハリスンとともにバンドを牽引する。 
 1968年1月、スプーキー・トゥースはライトのオリジナル曲『サンシャイン・ヘルプ・ミー』でシングル・デビュー。8月にはファースト・アルバム『イッツ・オール・アバウト』を発表する。
 1969年3月には、セカンド・アルバム『スプーキー・トゥー』を発表。
 『スプーキー・トゥー』への高い評価、アメリカン・ロックに影響されたサウンド、ユニークなツイン・キーボード編成などで有望視されるようになったスプーキー・トゥースだが、サード・アルバム『セレモニー』の制作時に見解の相違からレーベル側と対立する。
 また、このアルバムはライトがイニシアティヴを取って制作されたのだが、アルバムは不評に終わり、このあたりからライトは他のメンバー、とくに同じヴォーカル兼キーボードのマイク・ハリスンとの間で感情的に対立するようになった。そしてこれが原因となって、1970年1月にスプーキー・トゥースを脱退するのである。
 その後ライトはプロデューサーのジミー・ミラーのもとでセッション・ミュージシャンを務めたり、フォーク・バンド「アライヴァル」のプロデュースを担当する。


     


 1970年、A&Mレコードと契約したライトは、ファースト・ソロ・アルバム『エキストラクション』を制作したが、そのレコーディング・セッションに参加していたクラウス・フォアマン(bass)にジョージ・ハリスン(guitar, vocal)を紹介される。
 ハリスンはこの年5月に3枚組アルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に取りかかった際、その録音にライトをピアニストとして招いた。この時のライトは緊張のあまり制作からリタイアしそうになったほどだったが、同い年だったふたりは間もなく意気投合。これがハリスンとライトの終生の友情の始まりであった。ライトはこの後1979年の『慈愛の輝き』までのハリスンの全アルバムにキーボードとして参加している。のちにライトは、ハリスンについて「自分の精神的な指導者だった」と語っている。
 この1970年、ライトはフォーク・ロック・バンド「ハウル・ザ・グッド」に一時的に参加し、同年のワイト島フェスティヴァルにも出演した。


 『エキストラクション』を1970年12月にリリースしたライトは、ジェリー・ドナヒュー(guitar)、アーチー・レジェット(bass)、のちスプーキー・トゥースで活動をともにすることになるブライソン・グラハム(drums)というラインナップで、自身のバンド「ワンダーホィール」(Wonderwheel)を結成した。(ギターはのちミック・ジョーンズに交替した)その後、一時ジョージ・ハリスンがスライド・ギターでこのバンドにサポートとして参加したこともある。
 1971年12月にはセカンド・ソロ・アルバム『フットプリント』を発表。このアルバムには、今度は共同プロデューサー兼ギタリストとしてジョージ・ハリスンが参加している。


 1972年には、ニルソンの名曲『ウィズアウト・ユー』のレコーディングにピアノで参加。
 またオリンピックに出場したスキー選手、ウィリー・ボグナーの映画『ベンジャミン』のサウンド・トラックも作曲、このアルバムは1974年にリリースされた。


 1972年夏以降なると、ライトとマイク・ハリソンの関係は次第に修復の方向へ向かうようになった。これを受けて、ライトは同年秋にはワンダーホイールを解散し、スプーキー・トゥースを再結成することを決めた。
 新生スプーキー・トゥースのラインナップは、ライト、ハリソン、ミック・ジョーンズ(guitar 元ワンダーホィール)、イアン・ハーバート(bass 元ジャンクヤード・エンジェル)、ブライソン・グラハム(drums 元メインホース)である。ただし、ベースは間もなくクリス・スチュワート(bass 元ロニー・レーンズ・スリム・チャンス)に交替した。
 新生スプーキー・トゥースは1973年に『ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ』と『ウィットネス』の2枚のアルバムをリリース。この2作はライトのオリジナル曲を中心として制作されており、内容についても好評を得た。
 しかしこの頃にはまたもやハリスンとライトの関係に主導権を巡って亀裂が生じており、このため1974年春にはハリソンらメンバー3人が相次いで脱退してしまった。
 ライトとミック・ジョーンズは、メンバーの補充にマイク・パトゥー(keyboard, vocal 元パトゥー)らを迎えて1974年に通算7枚目のアルバム『ザ・ミラー』を発表したが、セールスは振るわず、結局これがスプーキー・トゥースのラスト・アルバムになった。
 ライトはソロ活動のためまたもバンドを離れ、その結果スプーキー・トゥースは1974年11月に解散した。


 スプーキー・トゥース解散後、ライトはワーナー・ブラザーズとソロ契約を交わし、アメリカに戻って活動を再開する。

 そして迎えた1970年代後半から80年代にかけてのこの時期が、ライトのソロ・キャリアのピークである。
 1976年にリリースしたシングル『夢織り人』は、同年のビルボードで3週連続2位となる大ヒットを記録してゴールド・ディスクとなる。この曲はまた、映画『ウェインズ・ワールド』、映画『ラリー・フリント』などにフィーチャーされている。1976年には、続くシングル作品「Love Is Alive」もチャート2位(2週連続)を記録している。
 アルバム『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』をリリースしたのち、ライトはキーボード奏者3名とドラマーからなるバック・バンドを組んで大規模なツアーを行った。ライトの姉、ローナもバックヴォーカリストとしてこのバンドに加わっていた。
 『夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー』は1976年のビルボード・アルバム・チャート7位の大ヒット作品となり、ダブル・プラチナムとして認定された。
 この頃のライトは、ステージでポータブルのキーボードを使用しているが、ライトとエドガー・ウインターがライヴでこの楽器を使った先駆者である。またライトはすでにこの時期にシンセサイザーを多用しているが、彼はキース・エマーソンやリック・ウェイクマンらと並んでシンセサイザーをメイン楽器として使いはじめたひとりと言われている。
 この1976年には、ライトは当時人気急上昇中のピーター・フランプトンのツアーにサポート・メンバーとして参加した。


     


 『夢織り人』以降のライトは目立ったヒット曲がなかったが、1980年代は映画のサウンド・トラックへの作品提供を活動の中心とした。そのため表立ってライトの名がクローズ・アップされることはなくなっていったが、それでも地道にアルバムの制作とプロデュース業は続けていた。
 1981年にアリ・トムソンとの共作でリリースしたシングル『君のすべてを知りたくて』がチャート16位を記録したのが久しぶりのヒットである。
 1995年、アルバム『ファースト・サインズ・オブ・ライフ』を発表。これはブラジルのリズムやアフリカの伝統的サウンドなどを取り入れた、ワールド・ミュージックの要素が濃い作品で、ライトが新たな境地を拓いたことを示している。
 

 1990年代のライトは、多くの時間を家族とともに過ごしていたが、2004年6月に「スプーキー・トゥース」を再結成し、本格的な音楽活動を復帰した。この時のラインナップはライトのほか、マイク・ハリソン、マイク・ケリーのオリジナル・メンバーにジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えた5人である。再結成したスプーキー・トゥースは、ドイツでライヴを行った。この模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。


 2008年2月、ライト、ハリソン、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが再始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
 2008年夏にはリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、ツアーに同行した。このツアーのセット・リストには『夢織り人』も加えられていた。
 ライトは、2008年後半にニューエイジ・アルバム『ウェイティング・トゥ・キャッチ・ザ・ライト』を含む2枚のソロ・アルバムをリリースした。これについては、自ら「雰囲気のあるアンビエント・ミュージックのようなアルバムである」と語った。
 この2008年、ライトは大統領選挙でバラク・オバマを支持したが、その際『夢織り人』が民主党全国大会の曲として採用されている。


 2009年5月29日、ライト、ハリソン、アルブレヒト、ベッカー、そしてケリーの代わりにトム・ブレフテリンを加え、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたアイランド・レコード50周年記念コンサートで演奏した。
 2010年にはアルバム『Connected』を発表した。これは1970年代のポップ・ロック・サウンドへ回帰したものだったが、これがライトの最後のアルバムとなった。

 2010年と2011年、ライトは再びリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに加わり、ツアーにも参加。
 2014年にはハリスンとの友情を綴った自伝『Dream Weaver:music, Meditation, and My Friendship with Georg Harrison』を出版。


 2016年7月、1972年に制作していたアルバム『Ring of Changes』を44年ぶりに発表。これは1972年にワンダーホィールのアルバムとして制作したもので、ジョージ・ハリスンも参加しているが、ライトがハリスンのアルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の録音に参加したこと、スプーキー・トゥースに再結成の動きがあったことで、シングル『Ring of Changes』をリリースしたのみでお蔵入りとなっていたもので、44年ぶりに世に出ることになった。


 最晩年はパーキンソン病に加えレビー小体型認知症と診断され、闘病生活を送っていたが、2023年9月4日、カリフォルニア州パロスヴェルデスの自宅で死去した。80歳であった。


 ライトの最初の妻クリスティーナは、ライトの曲『アイム・アライヴ』(『ザ・ミラー』収録)、『フィール・フォー・ミー』(『夢織り人』収録)にティナ・ライトの名で共同作曲者としてクレジットされている。
 またライトの妹のローナ・デューンは「ミッドナイト・ジョーイ」という曲をレコーディングしている。そして息子のジャスティン・ライトは「Intangible」のメンバーである。
 


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  1971年 エキストラクション/Extraction
  1972年 フットプリント/Footprint
  1972年 Ring of Changes(※with Wonderwheel 2016年発表)
 ★1973年 ザット・ワズ・オンリー・イエスタデイ US172位(ライトの曲とスプーキー・トゥースの曲のコンピレーション)
  1975年 夢織り人 - ドリーム・ウィーヴァー/The Dream Weaver

  1977年 ライト・オブ・スマイル/The Light of Smiles US23位
  1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch and Gone US117位
  1979年 ヘッディン・ホーム/Headin' Home US147位
  1981年 ライト・プレイス/The Right Place US79位
  1988年 フー・アイ・アム/Who I Am
  1995年 ファースト・サインズ・オブ・ライフ/First Signs of Life
 ★1998年 ベスト!/Best of Gary Wright:The Dream Weaver
  1999年 Human Love
 ★2003年 The Essentials
  2004年 Down This Road(with Leah Weiss)
  2005年 The Motion of Hidden Fire
  2008年 The Light Of A Million Suns
  2008年 Waiting to Catch the Light
  2010年 Connected
 ★2017年 Greatest Hits

 <ソロ・シングル>
  1960年 Working After School(※Gary & Billy)
  1971年 Get On The Right Road
  1971年 Stand For Our Rights
  1972年 グッドバイ・サンデー
  1972年 I Know(※Gary Wright & Wonderwheel)
  1972年 Ring Of Changes(※with Gary Wright & Wonderwheel)
  1976年 夢織り人/Dream Weaver US2位
  1976年 ラヴ・イズ・アライヴ/Love Is Alive US2位
  1976年 Made To Love You US79位
  1977年 ファントム・ライター/Phantom Writer US43位
  1977年 ウォーター・サイン/Water Sign
  1977年 The Light Of Smiles 
  1978年 タッチ・アンド・ゴーン/Touch And Gone US73位
  1978年 Something Very Special
  1978年 Starry Eyed
  1981年 君のすべてを知りたくて/Really Wanna Know You US16位
  1981年 Heartbeat US107位
  1982年 Got The Feelin’
  1988年 Who I Am
  1988年 It’s Ain’t Right-The Remix

 <サウンドトラック>
  1972年 Benjamin – The Original Soundtrack of Willy Bogner's Motion Picture(※Gary Wright’s Wonderwheel名義 1974年発表)
  1982年 Endangered Species
  1986年 Fire and Ice 

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
  1969年 セレモニー/Ceremony US92位 (*with Pierre Henry)
  1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位(『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発したもの)
  1973年 ユー・ブローク・マイ・ハート・ソー・アイ・バステッド・ユア・ジョウ/You Broke My Heart So I Busted Your Jaw US84位
  1973年 ウィットネス/Witness US99位
  1974年 ザ・ミラー/The Mirror US130位
 ☆2007年 Nomad Poets-Live In Germany 2004


 <レコーディング・セッション>
 *ジョージ・ハリスン
  1970年 オール・ザ・シングス・マスト・パス/All Things Must Pass UK1位 US1位
  1973年 リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド/Living in the Material World UK2位 US1位
  1974年 ダーク・ホース/Dark Horse US4位
  1975年 ジョージ・ハリスン帝国/Extra Texture(Read All About It) UK16位 US8位
  1976年 33 1/3/Thirty Three & 1/3 UK35位 US11位
  1979年 慈愛の輝き/George Harrison UK39位 US14位
  1987年 クラウド・ナイン UK10位 US8位
 *スティーヴ・ギボンズ
  1971年 Short Stories
 *スカイ
  1971年 Don’t Hold Back
 *ニルソン
  1971年 ニルソン・シュミルソン/Nilsson Schmilsson US3位 UK4位
 *ティム・ローズ
  1972年 Tim Rose
 *ジェリー・リー・ルイス
  1973年 ザ・セッション
 *ジョニー・アリディ
  1973年 Insolitudes
 *スプリンター
  1974年 ザ・プレイス・アイ・ラブ
 *ダニー・マックロウ
  1995年 Beowulf


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・コゾフ

2024-01-24 11:08:06 | guitar

ポール・コゾフ Paul Francis Kossoff

【パート】
  ギター

【生没年月日】
  1950年9月14日~1976年3月19日(25歳没)

【出生地】
  イングランド ロンドン ハムステッド

【経 歴】
  ブラック・キャット・ボーンズ(1966~1968)

  フリー(1968~1971)
  コゾフ・カーク・テツ&ラビット(1971)

  フリー(1972~1973)
  バック・ストリート・クローラー(1973~1976)


 
 イギリスのロック・ギタリスト。
 「フリー」のギタリストとして知られている。

 ブルースをベースにした「泣き」のギターが特徴で、ギブソン・レスポールがトレード・マークである。





 ポール・コゾフは、俳優である父デヴィッド・コゾフと母マーガレットの子息子として、ロンドンの裕福な家庭に生まれた。
 叔父は放送作家のアラン・キースであり、モデルのリンダ・キースはいとこにあたる。
 9歳の時に両親の意向によってクラシック・ギターのレッスンを始めた。レッスンは15歳まで続けたが、堅苦しい雰囲気に嫌気がさしてレッスンばかりかギターまでやめてしまった。
 少年時代は名門私立学校に通っていたが、不良仲間とドラッグを使用しているのを見つかって公立学校に転校する。
 1965年12月、ロンドン北西部のゴルダーズ・グリーンにあるザ・リフレクトリーでジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのライヴを見たコゾフは、当時このバンドに在籍していたエリック・クラプトンのギターを聴いて衝撃を受け、これがきっかけとなって再びギターを弾くようになる。


 1966年、コゾフはロンドンのチャリングクロス街にあった「セルマーズ・ミュージック・ストア」という楽器店で働き始めた。それと並行して、同年ブルース・バンド「ブラック・キャット・ボーンズ」(Black Cat Bones)の結成に加わり、本格的な音楽活動を始める。
 ブラック・キャット・ボーンズはしばしばフリートウッド・マックやピーター・グリーン(guitar)のライヴをサポートしていたが、そこでコゾフの演奏に接したグリーンによってそのギター・プレイは認められ、これがきっかけとなってコゾフの存在は徐々に知られるようになっていった。
 1968年2月にはブラック・キャット・ボーンズにサイモン・カーク(drums)が加入している。


 この1968年、ロンドン北部のクラブに遊びに行ったコゾフは、「ブラウン・シュガー」というバンドで歌っていたポール・ロジャースと出会う。さっそく意気投合したふたりはサイモン・カークを加えて1968年4月にバンドを結成。ベーシストには、アレクシス・コーナーの紹介で、元ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのベーシストであるアンディ・フレイザーが参加することになった。
 メンバー全員がティーンエイジャーのこの若さあふれるバンドは、アレクシス・コーナーのバンド「フリー・アット・ラスト」にちなんで「フリー」と名乗ることになった。一説には、アレクシスが彼らにその名前を譲った、とも言われている。
 フリーはアレクシス・コーナーの後押しもあって、徐々にロンドンで知名度を上げていった。そしてDJ兼音楽評論家のジョン・ピールと出会い、彼の協力もあってアイランド・レコードと契約するに至った。


 1969年3月、フリーはデビュー・アルバム『トンズ・オブ・ソブス』を発表。
 粗削りではあるが豊かな将来性が伺えるこのアルバムの評価は好ましいものだったが、セールス的にはいまひとつであった。
 同年、フリーは当時スーパー・グループとして大きな話題となっていた「ブラインド・フェイス」のアメリカ・ツアーのサポート・バンドに抜擢され、同行する。帰国後にセカンド・アルバム『フリー』を制作したが、これは全米チャートでトップ30に入るヒットを記録した。サイケデリック全盛の当時にあって、正面からソウルフルなブルースを演奏していたフリーは、一躍期待の新進バンドとして注目されることとなった。


 1970年6月に発表したサード・アルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』によってフリーの人気は決定的なものになった。このアルバムからシングル・カットされた「オール・ライト・ナウ」は大ヒットし、全英1位を獲得している。
  この年はワイト島フェスティヴァルにも出演し、そのパフォーマンスは聴衆のみならず評論家からも絶賛された。
 同年12月には早くも4thアルバム『ハイウェイ』を発表。この当時メンバーはまだ20歳そこそこであったが、彼らの人気は絶頂を迎えた。
 1971年には全米ツアーを成功させ、同年5月には初の日本公演を行う。しかしその直後のオーストラリア公演終了後に、フリーは突如は解散を発表してロック界を驚かせた。コゾフのドラッグ常用や、メンバー間の確執がその理由だと言われている。
 解散後、コゾフはサイモン・カークとともに「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」を結成したが、短期間活動しただけで終わった。





 1972年1月、オリジナル・メンバーによってフリーは再結成。同年5月にはアルバム『フリー・アット・ラスト』を発表、ツアーも開始した。
 しかしコゾフはドラッグの使用によってステージに立てないこともあり、また依然としてメンバー間の溝は埋まらず、同年7月にはアンディ・フレイザーが脱退した。ちなみにその後任としてフリーに加入したのが、「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」のメンバーだった山内テツ(bass)とラビット(keyboard)である。
 この年後半にはアルバム『ハートブレイカー』の制作が始まったが、コゾフはこの時も体調が思わしくなく、レコーディングをリタイア。これがきっかけとなって、1973年7月にコゾフはフリーから脱退する。


 再びフリーを離れたコゾフは、1973年に初のソロ・アルバム『バック・ストリート・クロウラー』を発表。そして1年間の療養の後、ソロ・アルバムと同じ名前のバンド「バック・ストリート・クロウラー」を結成する。
 1975年にアルバム『バンド・プレイ・オン』、76年には『2番街の悲劇』を発表するが、ヘロインを常用していたコゾフの状態は、心臓の一部の機能が停止してしまう事もあるなど幾度か生死の境をさまよったこともあるほど予断を許さないものだった。
 コゾフは15歳の時からドラッグを使用していたが、精神的に非常に繊細だったため、ドラッグへの依存や逃避が深刻化したとも言われている。サイモン・カークによると、ジミ・ヘンドリックスを崇拝していたコゾフは1970年のジミによって精神的にさらに大きな打撃を受け、そのショックはついに癒えることがなかったそうである。


 1976年3月19日、バック・ストリート・クロウラーのライヴ・ツアーのためにロサンゼルスからニューヨークへ移動中の飛行機の中で、コゾフは眠るように亡くなった。死因は足の血栓が肺に転移したことによる肺塞栓症であった。
 遺体はロンドンに搬送され、埋葬された。コゾフの墓石には「All right Now」(いまはもう大丈夫)という文字が刻まれている。


 コゾフの父で俳優のデイヴィッド・コゾフは、2005年に他界するまで熱心に薬物乱用反対の活動を続けた。


 人柄の良さと個性的な演奏で、コゾフは数多くのレコーディング・セッションから声がかかっていたという。
 コゾフの演奏は、ブルースをベースにしており、比較的音数が少なくシンプルである。
 チョーキングや美しいヴィブラートを用いた「泣き」のギターはコゾフの代名詞とも言えるもので、愛器レスポールから生み出されるエモーショナルなサウンドは、エリック・クラプトンら多くの名手も一目置いていたそうである。 


 



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>
  1973年 バック・ストリート・クロウラー/Back Street Crawler
 ★1977年 彷徨える魂/Koss
 ☆1983年 LIVE AT CROYDON FAIRFIELD HALLS/Live at Croydon Fairfield Halls 15/6/75 
 ★1986年 ブルー・ソウル/Blue Soul

 <フリー>
  1968年 トンズ・オブ・ソブス/Tons Of Sobs US197位
  1969年 フリー/Free UK22位 US177位
  1970年 ファイアー・アンド・ウォーター/Fire And Water UK2位 US17位
  1970年 ハイウェイ/Highway UK41位 US190位
 ☆1971年 フリー・ライヴ/Free Live! UK4位 US89位
  1972年 フリー・アット・ラスト/Free At Last UK9位 US69位
  1973年 ハートブレイカー/Heartbreaker UK7位 US47位
 ★1973年 The Free Story UK2位
 ★1974年 Best of Free US120位
 ★1991年 The Best of Free:All Right Now UK9位
 ★2000年 Songs of Yesterday UK150位
 ★2005年 Chronicles UK42位
 ☆2006年 Live at the BBC UK127位
 ★2010年 The Very Best of Free & Bad Company Featuring Paul Rodgers UK10位

 <コゾフ・カーク・テツ&ラビット>
  1972年 コゾフ/カーク/テツ/ラビット/Kossoff Kirke Tetsu Rabbit

 <バック・ストリート・クロウラー>
  1975年 バンド・プレイズ・オン/The Band Plays On
  1976年 2番街の悲劇/2nd Street

 <レコーディング・セッション>
 *チャンピオン・ジャック・デュプリー
  1968年 ホエン・ユー・フィール・ザ・フィーリング・ユー・ワズ・フィーリング
 *Martha Veléz
  1969年 Friends and Angels
 *Michael Gately
  1971年 Gately's Cafe
 *Mike Vernon
  1971年 Bring It Back Home
 *Uncle Dog
  1972年 Old Hat
 *Jim Capaldi
  1972年 Oh How We Danced
  1975年 Short Cut Draw Blood
 *Amazing Blondel
  1974年 Mulgrave Street
 *John Martyn
  1975年 Live at Leeds
 *Ken Hensley
  1994年 From Time to Time


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ディファレント・ワールド』(ユーライア・ヒープ)

2024-01-23 09:41:23 | albums

ディファレント・ワールド Different World


【歌・演奏】
  ユーライア・ヒープ/Uriah Heep


【リリース】
  1991年2月


【録音】
  1990年
  チャペル・スタジオ(リンカーンシャー)

  フェアヴュー・スタジオ(イースト・ヨークシャー)


【プロデューサー】
  トレヴァー・ボルダー/Trevor Bolder



【エンジニア】
  ロイ・ニーヴ/Roy Neave
  マット・ケンプ/Mat Kemp



【レーベル】
  レガシー・レコード/Legacy Records(UK, 日本)
  ロードランナー・レコード/Roadrunner Records(Europe)



【収録曲】(☆シングル=⑤)
 side:A
  ① 勇者の血 4:38
    Blood on Stone(Trevor Bolder)
  ② ザ・ウインド・ブロウ 4:52
    Which Way Will the Wind Blow(Trevor Bolder)
  ③ オール・ゴッズ・チルドレン 4:20
    All God's Children(Mick Box, Phil Lanzon)
  ④ オール・フォー・ワン 4:27
    All for One(Trevor Bolder)
 ☆⑤ ディファレント・ワールド 4:15
    Different World(Mick Box, Phil Lanzon)
    *1991年リリース(ドイツのみ)

  ⑥ ステップ・バイ・ステップ 4:07
    Step by Step(Trevor Bolder)
  ⑦ セヴン・デイズ 3:35
    Seven Days(Mick Box, Phil Lanzon)
  ⑧ ファースト・タッチ 3:54
    First Touch(Phil Lanzon)
  ⑨ ワン・オン・ワン 4:05
    One on One(Mick Box, Phil Lanzon)
  ⑩ クロス・ザット・ライン 5:35
    Cross That Line(Mick Box, Phil Lanzon)





【録音メンバー】
 ☆ユーライア・ヒープ
   バーニー・ショウ/Bernie Shaw(lead-vocals)
   ミック・ボックス/Mick Box (guitars, backing-vocals)
   フィル・ランゾン/Phil Lanzon(keyboards, backing-vocals)
   トレヴァー・ボルダー/Trevor Bolder(bass, backing-vocals)
   リー・カースレイク/Lee Kerslake(drums, backing-vocals)
 ☆ゲスト・ミュージシャン

   ブレット・モーガン/Brett Morgan(drums)
   ダニー・ウッド/Danny Wood(accordion)
   ベニー・マーシャル/Benny Marshall(harmonica)
   スティーヴ・ピゴット/
Steve Piggott(keyboard programming)
   クイーン・エリザベス・グラマー・スクール/Queen Elizabeth's Grammar School, conducted by Andrew Willoughby(chorus③)
 

【チャート】
 1991年週間アルバム・チャート  圏外


【メ  モ】
 ユーライア・ヒープ18作目のスタジオ・アルバム。
 1991年にヨーロッパと日本でリリースされたが、北米ではリリースされなかった。またバンドにとって、本国イギリスでシングルがリリースされなかった初のスタジオ・アルバムでもある。
 このラインナップでのアルバム制作は前作「レイジング・サイレンス」に続く2枚目で、プロデュースはベーシストのトレヴァー・ボルダーが務めている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする