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テンペスト

2024-07-08 14:46:08 | band

               左から マーク・クラーク(bass)、ジョン・ハイズマン(drums)、ポール・ウィリアムス(vocal)、アラン・ホールズワース(guitar)


テンペスト
 Tempest



活動期間
  1972年~1974年


メンバー
  ジョン・ハイズマン/Jon Hiseman(drums) 在籍1972~1974
  アラン・ホールズワース/Allan Holdsworth(guitars) 在籍1972~1973
  オリー・ハルソール/Ollie Halsall(guitars, keyboards, vocals) 在籍1973~1974
  マーク・クラーク/Mark Clarke(bass, vocals) 在籍1972~1974
  ポール・ウィリアムス/Paul Williams(vocals) 在籍1972~1973



 ジョン・ハイズマン(drums)が率いていたコロシアムは、1971年秋に解散した。6人編成という大所帯だったバンドの維持にハイズマンがかなりの労力を要したため、とうのがその理由のひとつだったという。
 解散時のコロシアムのメンバーは、ハイズマンのほかディック・ヘクストール=スミス(sax)、デイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、クレム・クレムソン(guitar)、マーク・クラーク(bass)、クリス・ファーロウ(vocal)である。
 コロシアム解散後、ハイズマンは新たなバンドを結成するべく構想を練っていた。それは、コロシアムとは対照的なスモール・バンドを編成することであった。
 ハイズマンはハンブル・パイに加入したクレム・クレムソンとユーライア・ヒープに加入したマーク・クラークを呼び戻して、スリー・ピース・バンドの結成を目論んだが、クレムソンからは同意を得られなかった。そこでハイズマンは、当時彼がプロデュースしていたニュークリアスのイアン・カーから紹介されたアラン・ホールズワース(guitar)に白羽の矢を立てた。ホールズワースは当時ニュークリアスのアルバム『ベラドナ』の収録に参加しており、一部では注目されていたが、まだまだ無名の存在であった。
 ハイズマン、クラーク、ホールズワースの3人はリハーサルを始めた。当初はクラークがヴォーカルを兼ねていたが、フロントマンとなるヴォーカリストの必要性を感じたハイズマンは、ジューシー・ルーシーで活動していたポール・ウィリアムスを迎え入れたのである。ウィリアムスはハイズマンとは旧知の仲で、ウエス・ミンスター・ファイヴやニュー・ジャズ・オーケストラで活動を共にしたことがあった。当時のジューシー・ルーシーは実質解散状態にあったので、ウィリアムスの参加はスムースにはこんだ。
 こうしてハイズマン、ホールズワース、クラーク、ウィリアムスの4人がそろい、ジョン・ハイズマンズ・テンペストが誕生した。のちにバンドは名前を「テンペスト」と短縮し、1972年6月に活動を開始した。


 テンペストはヨーロッパを中心にツアーを行ったのち、1973年1月にデビュー・アルバム『テンペスト』をリリース。
 プログレッシヴ・ロック色の濃いハード・ロックを展開するテンペストは注目を集めるようになるが、その矢先の1973年6月、ウィリアムスが脱退。後任として、一時的に元パトゥのオリー・ハルソール(guitar, vocal)が加わり、ツイン・ギター編成となった。
 ハイズマン、ホールズワース、クラーク、ハルソールのラインナップでは、1973年6月にロンドンのゴルダーズ・グリーン・ヒポドロームなどでライヴを行っている。ゴルダーズ・グリーン・ヒポドロームでのライヴは、1974年に『Live in London 1974』というタイトルの海賊版としてリリースされている。
 1973年7月、今度はホールズワースが脱退したため、ハルソールが正式なメンバーとなった。ホールズワースがセカンド・ギタリストと一緒に演奏することを望まなかったのが脱退の理由だと言われている。ホールズワースは脱退後「ソフト・マシーン」に加わった。



左から オリー・ハルソール(guitar)、ジョン・ハイズマン(drums)、マーク・クラーク(bass)


 ハイズマン、クラーク、ハルソールのトリオ編成となったテンペストの初ステージは、1973年8月26日のレディング・フェスティヴァルであった。1974年3月には、セカンド・アルバム『眩暈』を発表する。
 ハルソールのギターは超絶テクニックを誇るホールズワースに勝るとも劣らない素晴らしいもので、卓越した演奏力を持つクラーク、ハイズマンがそれに絡むテンペストのサウンドは一部では高く評価されていたが、セールス的には苦戦が続き、1974年5月には解散を発表。
 テンペスト解散後、ハルソールはケヴィン・エアーズのソポリフィクスを経て、ボクサーの結成に参加。クラークは、ジョーイ・モランド(バッドフィンガー)、ジェリー・シャーリー(ハンブル・パイ)らとナチュラル・ガスを結成。そしてハイズマンはテンペスト解散約1年後の1975年5月に、ゲイリー・ムーア(guitar)、ドン・エイリー(keyboard)、ニール・マレー(bass)、マイク・スターズ(vocal)とコロシアムⅡを結成した。


 2005年、『アンダー・ザ・ブロッサム』というタイトルの2枚組コンピレーション・アルバムがリリースされた。これは2枚のスタジオ・アルバムのリマスター版、未発表曲、1973年6月のゴルダーズ・グリーン・ヒッポドロームでのBBCのライヴ音源が収録されている。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>
  1973年 テンペスト/Tempest
  1974年 眩暈/Living in Fear
 ★2005年 アンダー・ザ・ブロッサム-ジ・アンソロジー/Under the Blossom/The Anthology


【メンバー変遷】
#1 1972.6~1973.6
  ポール・ウィリアムス(vocals)ex.ジューシー・ルーシー
  アラン・ホールズワース(guitars)ex.ニュークリアス
  マーク・クラーク(bass, vocal)ex.コロシアム
  ジョン・ハイズマン(drums, vocal)ex.コロシアム

#2 1973.6~1973.7
  アラン・ホールズワース(guitars)
  オリー・ハルソール(guitars)ex. パトゥ
  マーク・クラーク(bass, vocal)
  ジョン・ハイズマン(drums, vocal)

#3 1973.7~1974.6
  オリー・ハルソール(guitars)→ボクサー
  マーク・クラーク(bass, vocal)→ナチュラル・ガス
  ジョン・ハイズマン(drums, vocal)→コロシアムⅡ


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ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ

2024-07-01 22:07:29 | band

ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ Giles Giles & Fripp


活動期間
  1967年~1968年


メンバー
  ロバート・フリップ/Robert Fripp(guitars) 在籍1967~1968
  ピーター・ジャイルズ/Peter Giles(bass, vocals) 在籍1967~1968
  マイケル・ジャイルズ/Michael Giles(drums, vocals) 在籍1967~1968
  ジュディ・ダイブル/Judy Dyble(vocal) 在籍1968
  イアン・マクドナルド/Ian  McDonald(sax, flute, keyboards, vocals) 在籍1968


 ドーセット州ボーンマスを中心に活動していたマイケル(drums)とピーター(bass)のジャイルズ兄弟は、1963年にボーンマスのビート・バンド「トレンドセッターズ・リミテッド」に加入した。
 このバンドは1967年1月に「ザ・トレンド」、同年6月には「ザ・ブレイン」と名を改めながら活動を続けていたが、1967年8月に解散。
 ジャイルズ兄弟は新たなバンドを結成するため、新聞に「歌えるオルガニスト」募集の広告を出した。これに応募してきたのが、ジャイルズ兄弟と同じくドーセット州出身のロバート・フリップである。
 フリップはヴォーカリストでもオルガニストでもなく、ギタリストであったが、オーディションの結果ジャイルズ兄弟はフリップを採用し、3人は1967年8月にボーンマスで「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」を結成した。
 彼らは1967年の終わり頃にロンドンへ進出し、デモ音源を作成したが、これがデッカ・レコード傘下のデラム・レコードに認められた。
 1968年2月にデッカとレコーディング契約を結んだジャイルズ・ジャイルズ & フリップは、1968年6月にデビュー・シングル『One in a Million』をリリースした。
 


 1968年6月、「インフィニティ」のメンバーだったイアン・マクドナルド(sax, keyboard)、マクドナルドの恋人で、元フェアポート・コンヴェンションのジュディ・ダイブル(vocal)のふたりが加入する。ただし間もなくマクドナルドと破局したダイブルは、7月にはバンドから離脱している。その後、マクドナルドとの繋がりで、やはりインフィニティのメンバーだったピート・シンフィールド(作詞, 照明)が歌詞を提供するようになる。
 9月9日、BBCラジオで放送された番組「My Kind of Folk」で、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップはアル・スチュワートのバックを務め、5曲を演奏した。

 同年9月13日、デビュー・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ』が発表される。
 このアルバムは、ロバート・フリップがビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に影響されてものだとも言われており、約3ヵ月の制作期間を費やしたが、セールスは全世界でわずか600枚だった。これはこの年のデラム・レコードの売上枚数最少記録である。
 ジャイルズ・ジャイルズ & フリップは、ポップ・ミュージックはもちろん、フォーク、サイケデリック、ジャズなど多様な音楽性を持ち合わせていた。いわゆるプログレッシヴ・ロックの源流のひとつと言えるバンドである。
 オリジナルな音楽を追求し、数多くの自主録音を残しているが、当時は全く陽の目を見ることがなかった。





 1968年10月、マクドナルドがヴォーカル・パートを多重録音したセカンド・シングル『Thursday Morning』をリリース。

 1968年11月、BBCテレビに出演。この直後、フリップとの関係に生じた軋轢が原因でピーター・ジャイルズが脱退。翌12月に、フリップとは旧知の間柄であるグレッグ・レイク(bass, vocal)が後任として加入し、バンドの陣容はフリップ、マクドナルド、マイケル・ジャイルズ、レイク、シンフィールドの5人に落ち着いた。
 こうしてジャイルズ・ジャイルズ & フリップは一度もライヴでの演奏をすることがないまま、1968年12月バンド名を改めて再出発することになる。
 シンフィールドの提案によって付けられた新たなバンド名が、「キング・クリムゾン」である。


 2001年、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップが録音していた未発表音源の編集にピーター・ジャイルズが携わり、LPレコードは『Metaphormosis』、CDは『The Brondesbury Tapes』というタイトルで発表された。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>
  1968年 チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ/The Cheerful Insanity of Giles, Giles & Fripp
 ★2001年 Metaphormosis
 ★2001年 The Brondesbury Tapes

 <シングル>
  1968年 どこにもいる男/One in a Million
  1968年 木曜日の朝/Thursday Morning



左から イアン・マクドナルド、ピーター・ジャイルズ、ロバート・フリップ、マイケル・ジャイルズ


【メンバー変遷】
#1 1967.8~1968.6
  ロバート・フリップ(guitars)
  ピーター・ジャイルズ(bass, vocal)
  マイケル・ジャイルズ(drums, vocal)

#2 1968.6~1968.7
  ロバート・フリップ(guitars)
  ピーター・ジャイルズ(bass, vocal)
  マイケル・ジャイルズ(drums, vocal)
  イアン・マクドナルド(sax, flute, keyboard, vocal)ex. Infinity
  ジュディ・ダイブル(vocal)ex. Infinity

#3 1968.7~1968.12
  ロバート・フリップ(guitars)
  ピーター・ジャイルズ(bass, vocal)
  マイケル・ジャイルズ(drums, vocal)
  イアン・マクドナルド(sax, flute, keyboard, vocal)


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キング・クリムゾン ①

2024-05-21 02:25:15 | band

キング・クリムゾン King Crimson ①1968~1984


活動期間
  1968年~1974年
  1981年~1984年

  1994年~2011年
  2013年~2021年


メンバー
 [guitar]
  ロバート・フリップ/Robert Fripp(guitars) 在籍1968~1974, 1981~1984
  エイドリアン・ブリュー/Adrian Belew(guitars, vocals) 在籍1981~1984

 [bass]
  グレッグ・レイク/Greg Lake(bass, vocals, guitars) 在籍1969~1970
  ピーター・ジャイルズ/Peter Giles(bass) 在籍1970
  ゴードン・ハスケル/Gordon Haskell(vocals, bass) 在籍1970
  ボズ・バレル/Boz Burrell(vocals, bass) 在籍1971~1972
  ジョン・ウェットン/John Wetton(bass, vocals) 在籍1972~1974
  トニー・レヴィン/Tony Levin(bass, stick) 在籍1981~1984

 [piano]
  キース・ティペット/Keith Tippett(piano) 在籍1970

 [others]
  イアン・マクドナルド/Ian  sax/flute/keyboards/vocals 在籍1968~1969
  メル・コリンズ/Mel Collins(sax, flute) 在籍1970~1972
  デヴィッド・クロス/David Cross(violin, keyboards) 在籍1972~1974

 [drums]
  マイケル・ジャイルズ/Michael Giles(drums, vocals) 在籍1968~1970
  アンディ・マッカロック/Andy McCulloch(drums) 在籍1970
  イアン・ウォーレス/Ian Wallace(drums) 在籍1971~1972
  ビル・ブルーフォード/Bill Bruford(drums) 在籍1972~1974、1981~1984

 [percussions]
  ジェイミー・ミューア/Jamie Muir(percussions) 在籍1972~1973

 [words]
  ピート・シンフィールド/Pete Sinfield(words, synthesiser) 在籍1968~1971


 キング・クリムゾンは、イングランド出身のプログレッシヴ・ロック・バンドである。
 ロック、ジャズ、クラシック、フォーク、ヘヴィ・メタル、エレクトロニクス、ニュー・ウェイヴ、実験音楽など幅広い音楽性を持っており、いわゆる「四大プログレ・バンド」のひとつとして世界的な人気と評価を得ている。
 代表作のアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、従来のロックの概念を打ち破り、音楽的可能性を大きく広げた歴史的作品で、現在にいたるまでロック界に大きな影響を与え続けている。
 プログレッシヴ・ロックのみならず、ロック史上においても重要なバンドである。


<結成まで>
 1967年春に「ザ・ブレイン」を脱退したマイケル・ジャイルズ(drums)とピーター・ジャイルズ(bass)の兄弟は、新たなバンドを作るべく新聞にメンバー募集の広告を出した。これに応募してきたのがジャイルズ兄弟と同じくドーセット州出身のギタリスト、ロバート・フリップである。3人は同年8月に「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」を結成する。
 一方、ロンドンでガールフレンドのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション, vocal)と音楽活動を始めていたイアン・マクドナルド(sax, keyboard)は、1968年に詩人のピート・シンフィールドとともに、フォーク・ロック・グループ「インフィニティ」を結成する。


 1968年6月、マクドナルド、ダイブル、シンフィールド(作詞, 照明)の3人は、メンバーの募集広告に応じてジャイルズ・ジャイルズ&フリップに加入する。ただし間もなくマクドナルドと破局したダイブルは、7月にはバンドから離脱している。
 1968年9月13日、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップはデビュー・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ』を発表したが、全くの鳴かず飛ばずであった。
 1968年11月、フリップとの軋轢が原因でピーター・ジャイルズが脱退。後任として加入したのは、フリップの古くからの友人グレッグ・レイク(bass, vocal)である。こうしてジャイルズ・ジャイルズ & フリップの陣容はフリップ、マクドナルド、マイケル・ジャイルズ、レイク、シンフィールドの5人に落ち着き、1968年12月にシンフィールドの提案によってバンド名を「キング・クリムゾン」と改めた。
 この名前は、マクドナルドとシンフィールドがジャイルズ・ジャイルズ & フリップ加入前に共作した曲『クリムゾン・キングの宮殿』から採ったものである。のちシンフィールドは「メンバーの反対を押し切って付けた」と語っている。
 当初バンドのローディだったピート・シンフィールドは、作詞や照明でバンドに大きく貢献していたため、演奏には加わらないが正式なメンバーとなった。


<デビュー~1969>
 キング・クリムゾンがリハーサルを開始したのは1969年1月である。
 同年4月9日にロンドンのスピーク・イージーでデビュー(客席には当時イエスのギタリストだったピーター・バンクスがいたという)を果たすと、その直後にはマーキー・クラブのレギュラーとなる。
 7月5日にはハイド・パークに推定50万人が集まったブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)の追悼フリー・コンサートに出演し、そのステージはガーディアン紙から「センセーショナル」だったと報じられた。8月9日には第9回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルに出演。
 こうして彼らの評判は徐々に高まり、ロック界の注目株となった。



左から ロバート・フリップ、マイケル・ジャイルズ、グレッグ・レイク、イアン・マクドナルド、ピート・シンフィールド(1969)


 クリムゾンのデビュー・アルバムのレコーディングは1969年6月に始まった。
 プロデューサーは当初トニー・クラークが務めていたが、2度に渡って録音済みのテープが破棄されるなど制作は難航する。結局クラークは降板し、その後はクリムゾン自身のプロデュースで録音が進められ、10月10日についにデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発表するにいたった。
 このアルバムにおいて実質的にイニシアティヴを取っていたのはイアン・マクドナルドである。彼は制作にメロトロンや管楽器を持ち込み、演奏面はもちろん作編曲でもバンドに大きく貢献したほか、バンドの誰よりも長時間スタジオにこもって作業していたと言われている。
 『クリムゾン・キングの宮殿』は、その高度な演奏力と完成度で発表直後から驚きをもって迎えられ、「ロック史上不滅の名作」とも評価された。ザ・フーのピート・タウンゼントは「不気味な傑作」と評している。そしてその先鋭的な音楽性はシーンに多大な衝撃を与えた。
 アルバム・チャートでは全英5位、全米でも28位にまで上昇するヒットを記録。これについては後年「ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から蹴落としたアルバム」と紹介されることが多々あり、そのエピソードはアルバムの偉大さを表すものとして広まってしまったが、その記述はローカル・チャートの記録である可能性が高く、事実とは異なる。
 クリムゾンは『クリムゾン・キングの宮殿』発表直後にアメリカ・ツアーを開始したが、ツアー中の1969年12月7日にジャイルズとマクドナルドが突然クリムゾンからの脱退を表明した。フリップとの音楽性の相違や過酷なツアーによる心身の疲労がその理由であった。バンドの崩壊を危惧したフリップは自分が脱退することを申し出たが、マクドナルドとジャイルズは「自分たちが脱退する方がバンドのためである」という主張を崩さなかった。
 1969年12月16日、サンフランシスコのフィルモア・ウエストでの演奏を最後に、結成わずか約1年でオリジナル・ラインナップは崩れたのである。



左から グレッグ・レイク、ロバート・フリップ、マイケル・ジャイルズ、イアン・マクドナルド(1969)



左から グレッグ・レイク、マイケル・ジャイルズ、ロバート・フリップ、イアン・マクドナルド

<1970~1972>
 しかしクリムゾンはアイランド・レーベルとの契約によってニュー・アルバムを制作しなければならなかった。このためフリップはジャイルズを引きとめたが、ジャイルズの脱退の意思は固かった。
 代替メンバーの補充にも行き詰まり、活動が停滞してしまったクリムゾンは苦境に立たされた。フリップは苦肉の策としてジャイルズに短期のサポートを提案するとジャイルズはこれに応じ、弟のピーター・ジャイルズとともに、1970年1月~4月にかけて行われたクリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』の録音に参加した。またマクドナルドの後任にはメル・コリンズ(sax, flute)が迎えられた。
 4月以降、今度はグレッグ・レイクがスタジオに姿を見せなくなる。マクドナルドとジャイルズが抜けたバンドの未来に可能性を見出せなくなったことと、キース・エマーソンに誘われて「エマーソン・レイク & パーマー」の結成に動き出していたためである。レイクの抜けた穴は、当初エルトン・ジョンが候補にあがったが、バンドの音楽性に合わないと判断され、フリップの友人でもあるゴードン・ハスケルが埋めた。レイクは『ポセイドンのめざめ』の「ケイデンスとカスケイド」のみレコーディングしていなかったので、ハスケルはその曲のヴォーカルを担当した。コリンズとハスケルはそのまま正式にメンバーとなった。
 こうした困難を乗り越え、クリムゾンは1970年5月にようやくセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を発表。メンバー・チェンジのためアルバム・リリース後のツアーは行われなかったが、チャートでは前作以上の全英4位を記録した。
 なおジャイルズ兄弟はレコーディング終了後にイアン・マクドナルドと「マクドナルド & ジャイルズ」を結成し、1970年11月にはファースト・アルバム『マクドナルド & ジャイルズ』を発表したが、バンドは間もなく自然消滅している。





 新たにゴードン・ハスケル(bass, vocal)、メル・コリンズ(sax, flute)、アンディ・マッカロック(drums 元Shy Limbs)をメンバーに迎えたクリムゾンは、1970年12月にサード・アルバム『リザード』を発表した。このアルバムにイエスのジョン・アンダーソン(vocal)がゲスト参加しているのは有名な話である。
 1970年11月、アルバムのリリース・ツアーのリハーサルの最中に「音楽性の相違に耐えられなくなった」ハスケルが脱退する。後任としてオーディションにやってきたのはイアン・ウォーレス(元ウォリアーズ)だったが、ウォーレスはドラマーとして採用されたためマッカロックが解雇される。相次ぐメンバー・チェンジのため、リリース・ツアーは行われなかった。
 ヴォーカリストのオーディションにはブライアン・フェリーも応募していたが、最終的にボズ・バレルが選ばれた。ウォーレスとバレルは1971年1月にクリムゾンに参加する。
 ベーシストにはいったんリック・ケンプ(元スティーライ・スパン)が選ばれたが、ケンプは最初のリハーサルのみで脱退する。後任の選考は難航したが、バレルが兼任することで解決した。バレルはギターを弾くことはできたが、ベースは未経験だったため、フリップがバレルにベースの弾き方を教え、ウォーレスがリズム・セクションとしてのベースの使い方を教えた。バレルは2ヵ月の特訓でレパートリーをマスターした。
 1971年4月、ドイツのフランクフルトで16ヵ月ぶりにライヴを行ったクリムゾンは、翌5月からはイギリスで47本のライヴを行って完全復活を果たし、同年7月からは4枚目のアルバム『アイランズ』の制作に取りかかる。この時期のクリムゾンの音楽性の特徴は、なんといっても豊かな叙情性と、ジャズとクラシックからの影響にあると言えよう。
 同年11月には北米ツアーが始まったが、この頃のバンド内の人間関係は険悪になってきており、とくにフリップとシンフィールドの確執は深まる一方であった。シンフィールドは、『アイランズ』発表後に解雇された。



左から メル・コリンズ、ボズ・バレル、イアン・ウォーレス、ロバート・フリップ(1971)


 1972年早々のリハーサルではフリップと他のメンバー(バレル、ウォーレス、コリンズ)の音楽的対立はかなり深刻になっていた。バレル、ウォーレス、コリンズはブルースやファンクを好んでいたからである。そのためフリップは「彼らと新たな作品のアイデアを具現化することは困難である」という理由で、いったん解散を決意した。しかしマネジメント側はすでに向こう2ヵ月の北米ツアーのスケジュールを組んでおり、契約を盾に取られたバレル、ウォーレス、コリンズの3人はしぶしぶこれに同意するほかなかった。行われたツアーの模様は、初のライブ・アルバム『アースバウンド』として同年6月にリリースされている。このアルバムの音源はカセットテープによって録音されているため音質は劣悪だが、対立が深まるメンバー同士の高い緊張感に導かれた驚異的な演奏が収められている。
 ツアーが終わった4月にこの3人は脱退し、これによってクリムゾンは実質的に解散状態に陥った。
 脱退後のバレル、ウォーレス、コリンズは、ツアー中に意気投合したアレクシス・コーナーと合流して新たなバンド「スネイプ」を結成する。


<1972~1974>
 北米ツアーを終えたフリップはイギリスに戻り、1972年9月に「イエス」のビル・ブルーフォード(drums)、「ファミリー」のメンバーでフリップの大学時代の友人でもあるジョン・ウェットン(bass, vocal)、デレク・ベイリー(guitar)が主宰する即興集団「カンパニー」に属していたジェイミー・ミューア(percussion)をクリムゾンに迎え入れた。またフリップが「Wave」というバンドのリハーサルに招待された時にデヴィッド・クロス(violin, keyboard)と知り合っていたが、そのクロスをオーディションによって採用した。
 こうして陣容が整った新生キング・クリムゾンは1972年10月13日にフランクフルトのズーム・クラブでツアーを再開。1973年の1月から2月にかけて名作との誉れ高い『太陽と戦慄』を制作したが、レコーディング終了後に早くもミューアが脱退する。演劇的かつ過激な、独特のステージ・パフォーマンスで注目されていたミューアだったが、仏教により深く傾倒していったことがその理由である。



左から ジェイミー・ミューア、ビル・ブルーフォード、ロバート・フリップ、デヴィッド・クロス、ジョン・ウェットン(1973)



左から ジョン・ウェットン、デヴィッド・クロス、ロバート・フリップ、ビル・ブルーフォード


 1974年3月には6枚目のアルバム『暗黒の世界』を発表。この頃のクリムゾンの音楽性はドライで攻撃性を増しており、卓越した演奏能力を存分に生かしたライヴには定評があった。即興演奏が主体の緊張感に満ちたそのパフォーマンスは高く評価された。
 再びバンドとしてのピークを迎えつつあったクリムゾンだが、1974年にはクロスがウェットンとの音楽的な対立に端を発して解雇される。その結果メンバーはフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人のみとなった。
 1974年7月、クリムゾンは7枚目のアルバム『レッド』の制作に入る。
 レコーディングにはウェットンの呼び掛けでイアン・マクドナルド、メル・コリンズらかつてのメンバーがゲスト参加。アルバムは1974年10月に発表されたが、この直前にフリップは解散を宣言する。バンド内の人間関係が修復不可能なまでに悪化していたためと言われている。解散宣言にいたるまでのフリップは、創設メンバーのイアン・マクドナルドを再び迎えてのバンド継続、またはフリップ自身のクリムゾンからの脱退、あるいはスティーヴ・ハケット(ジェネシス)をフリップの後任に迎えてのクリムゾン存続(この案はマネジメント側から却下された)など、いくつもの方法を模索していたということである。



左から ビル・ブルーフォード、ロバート・フリップ、ジョン・ウェットン



左から ジョン・ウェットン、ビル・ブルーフォード、ロバート・フリップ


 この後、フリップはブライアン・イーノとのプロジェクトを進める。そしてウェットンはロキシー・ミュージックに、ブルーフォードは「ゴング」「ロイ・ハーパー & トリガー」に参加した。また『レッド』にゲスト参加したマクドナルドは「フォリナー」に創設メンバーとして加入し、世界的な成功を収めた。なおウェットンとブルーフォードは1977年に「UK」を結成している。


 解散後の1975年、1974年の北米ツアーの模様を収録したライヴ・アルバム『USA』がリリースされる。脱退直前のデヴィッド・クロスが参加していたものだが、『21世紀の精神異常者』など3曲がエディ・ジョブソンのヴァイオリンに差し替えられている。
 また1974年の映画「エマニエル夫人」の劇中で使用されていた音楽が『太陽と戦慄 パート2』に酷似しているとして、のちにフリップが訴訟を起こした。最終的に示談で和解した。


<1981~1984>
 1974年以降のフリップは、ソロや自己のプロジェクトで活動していたが、再びバンドとしての活動の可能性を模索するようになる。
 1980年晩秋、フリップとビル・ブルーフォードは、共同で「リーグ・オブ・ジェントルメン」を経て、新たなプロジェクトに乗り出した。これに加わったのは、フリップ、ブルーフォードのほか、エイドリアン・ブリュー(guitar, vocal)、トニー・レヴィン(bass)というふたりのアメリカ人ミュージシャンである。
 ブリューはデヴィッド・ボウイーやトーキング・ヘッズなどのサポートを務めた新鋭セッション・ギタリストで、トーキング・ヘッズのツアーが終わった後に合流。ベーシストには当初ジェフ・バーリンの名があがったが、フリップはバーリンのプレイはバンドに合わないと感じ、オーディションによって、ニューヨークでスタジオ・ミュージシャンとして活躍中だったトニー・レヴィンが選ばれた。もともとフリップはレヴィンの存在に注目しており、のちに「もしレヴィンがクリムゾンに興味を持っていると知っていればオーディションなしで彼を選んだだろう」と述べている。
 この4人をメンバーとする新グループは、「ディシプリン」と名乗り、準備のためイギリスに戻り、1981年4月30日にサマセット州バースのモールズ・クラブでライヴ・デビューを果たした。
 1981年9月、バンド名をタイトルとした通算8枚目のスタジオ・アルバム『ディシプリン』をリリース。その後バンド名を改め、「キング・クリムゾン」の名を復活させた。これはレーベル側の商業的な意向を反映させたものである。この年12月には初来日している。



左から エイドリアン・ブリュー、ビル・ブルーフォード、トニー・レヴィン、ロバート・フリップ


 復活したキング・クリムゾンの音楽的特徴は、ツイン・ギター編成を前面に押し出したギター・ロック、ポリリズムの多用とニュー・ウェイヴの要素を大胆に取り入れたことである。そのほかポスト・パンク、ファンク、ワールド・ミュージックなど幅広い音楽性を包含していた。これは、管楽器やヴァイオリン、メロトロンなどを恒常的に編成に組み込み、リリカルでウェットな音楽的要素が大きかった1970年代までのスタイルとは一線を画すものである。このクリムゾンの劇的な変化には賛否両論が起こり、一部からは「クリムゾンはトーキング・ヘッズと化してしまった」と批判された。また元メンバーのジョン・ウェットンは、当時「イギリス人以外がメンバーとして参加しているこのバンドは、クリムゾンとしては認められない」と述べている。



左から トニー・レヴィン、ビル・ブルーフォード、エイドリアン・ブリュー、ロバート・フリップ


 1982年には通算9枚目のスタジオ・アルバム『ビート』を発表したが、制作はアイデアが不足している状態で開始せざるえを得なかったため緊張感に満ちており、ギタリスト兼リード・ヴォーカリスト、そして作詞家でもあるブリューは重い責任からくるストレスに苛立った結果、フリップと衝突したことさえあったという。復活当初は『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため、新たなアイデアが不足している状態で制作を開始せざるをえなかったという。
 1984年3月、通算10枚目のスタジオ・アルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』をリリース。しかしバンドの方向性は定まっておらず、この頃にはメンバーの制作意欲は低下してしまっていた。同年春には再来日し、その後北米ツアーをこなしたが、フリップは7月にはバンドの解散を決定した。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年明かしている。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>

  1969年 クリムゾン・キングの宮殿/In the Court of Crimson King UK5位, US28位
  1970年 ポセイドンのめざめ/In the Wake of Poseidon UK4位, US31位
  1970年 リザード/Lizard UK26位, US113位
  1971年 アイランズ/Islands UK30位, US76位
 ☆1972年 アースバウンド/Earthbound ※録音1971年

  1973年 太陽と戦慄/Lark's Tongues in Aspic UK20位, US61位
 ☆1974年 暗黒の世界/Starless and Bible Black UK28位, US64位 ※ライヴ音源とスタジオ録音の両方を収録

  1974年 レッド/Red UK45位, US66位
 ☆1975年 USA/USA ※録音1974年
 ★1976年 新世代への啓示/A Young Person's Guide to King Crimson
  1981年 ディシプリン/Discipline UK41位, US45位
  1982年 ビート/Beat UK39位, US52位
  1984年 スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー/Three of a Perfect Pair UK30位, US58位
 

【メンバー変遷】
#1 1969
  ロバート・フリップ(guitars)
  イアン・マクドナルド(sax, keyboard, vocal)
  グレッグ・レイク(bass, vocal)
  マイケル・ジャイルズ(drums, vocal)
  ピート・シンフィールド(words)

#2 1970.1~1970.4
  ロバート・フリップ(guitars)
  ピーター・ジャイルズ(bass)
  メル・コリンズ(sax, flute)
  マイケル・ジャイルズ(drums)
  ピート・シンフィールド(words)
  キース・ティペット(piano)
  グレッグ・レイク(vocal)
  ゴードン・ハスケル(vocal)

#3 1970.8~1970.11
  ロバート・フリップ(guitars)
  メル・コリンズ(sax, flute)
  ゴードン・ハスケル(vocal, bass)
  アンディ・マッカロック(drums)
  ピート・シンフィールド(words)

#4 1971
  ロバート・フリップ(guitars)
  メル・コリンズ(sax, flute)
  ボズ・バレル(vocal, bass)
  イアン・ウォーレス(drums)
  ピート・シンフィールド(words)

#5 1971.11~1972.4
  ロバート・フリップ(guitars)
  メル・コリンズ(sax, flute)
  ボズ・バレル(vocal, bass)
  イアン・ウォーレス(drums)

#6 1972.9~1973.2
  ロバート・フリップ(guitars)
  ジョン・ウェットン(bass, vocals)
  デヴィッド・クロス(violin, keyboard)
  ビル・ブルーフォード(drums)
  ジェイミー・ミューア(percussions)

#7 1973.2~1974.7
  ロバート・フリップ(guitars)
  ジョン・ウェットン(bass, vocals)
  デヴィッド・クロス(violin, keyboard)
  ビル・ブルーフォード(drums)

#8 1974.7~1974.9
  ロバート・フリップ(guitars)
  ジョン・ウェットン(bass, vocals)
  ビル・ブルーフォード(drums)

#9 1981~1984
  ロバート・フリップ(guitars)
  エイドリアン・ブリュー(guitars, vocals)
  トニー・レヴィン(bass)
  ビル・ブルーフォード(drums) 

 


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デレク&ザ・ドミノス

2024-02-17 10:03:59 | band

デレク&ザ・ドミノス Derek & The Dominos


活動期間
  1970年~1971年


メンバー
 ☆レギュラー・メンバー
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, vocals)
   ボビー・ウィットロック/Bobby Whitlock(keyboards, acoustic-guitar, vocals)
   カール・レイドル/Carl Radle(bass)
   ジム・ゴードン/Jim Gordon(drums, percussions, piano)
 ☆ゲスト・メンバー
   デイヴ・メイスン/Dave Mason(guitar)
   デュアン・オールマン/(guitar)


 デレク・アンド・ザ・ドミノスは、イギリス人のエリック・クラプトンと、アメリカ人のボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンによって結成されたロック・バンドである。エリック・クラプトンとパティ・ボイドの恋愛を歌ったオリジナル曲「いとしのレイラ」で知られている。


 1969年に結成されたスーパー・グループ「ブラインド・フェイス」は、当時のロック・シーンに多大な衝撃を与えた。
 彼らは6月7日にロンドンのハイド・パークで実に10万人もの聴衆を集めてデビュー・コンサートを行い、次いで7月にはアメリカ・ツアーに出発した。
 センセ-ショナルな話題を巻き起こしたブラインド・フェイスだが、ライヴのセット・リストに充分な曲を持っておらず、それを補うため長尺のアドリブ・ソロをとったり、かつて活動していたクリームなどの曲を演奏したりしていた。バンドのギタリスト、エリック・クラプトンはこれに不満を抱くようになっていった。
 アメリカ・ツアーにサポートとして同行していたのはフリー、テイスト、デラニー&ボニーの各バンドだったが、アメリカのルーツ・ミュージックに接近しつつあったクラプトンは、ソウルフルでブルージーなデラニー&ボニーの音楽に強く惹かれてゆく。また彼は、ファンから過度に崇拝されるよりも、単にバンドの一員としてギターを弾いていたいと願うようになっていた。
 その結果クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごすことが多くなり、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットの演奏に加わることもあった。
 アメリカ・ツアーは8月24日に終了したが、ツアー中に生じたメンバー間の音楽観のずれは、修復不可能なまでに広がっていた。


 ブラインド・フェイスが10月に解散すると、クラプトンは翌11月から1970年3月までデラニー&ボニーのヨーロッパ、およびアメリカ・ツアーにサポート・メンバーとして参加する。この時のバンド・メイトが、のちデレク&ザ・ドミノスのメンバーとなるボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンである。
 ツアーのうち1969年12月にサウス・ロンドンで行われたライヴは、1970年3月にデラニー&ボニー&フレンズ名義で『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』としてリリースされている。
 クラプトンは、そのほかにプラスティック・オノ・バンドにもサポート・メンバーとして加わっており、1969年9月のトロント・ロックンロール・リバイバルなどに出演している。
 1970年にはデラニー・ブラムレットをプロデューサーに起用して初のソロ・アルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を制作しているが、この時のレコーディング・セッションにはボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンも参加している。
 この後、レイドルとゴードンはデラニー&ボニーを脱退してジョー・コッカーのバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュ・メン」のツアーに参加したが、ウィットロックはデラニー&ボニーに残った。


 1970年4月、ウィットロックはクラプトンに会うため渡英する。
 ふたりはたびたびジャム・セッションを行い、曲を書いた。これがのちにドミノスのレパートリーになる。
 クラプトンはウィットロックが到着すると、新たなバンドの結成を望むようになり、アメリカにいたレイドルに連絡を取った。ドラマーには当初ジム・ケルトナーに白羽の矢を立てたが、スケジュールが合わなかったため断念した。ちょうどその時、ジム・ゴードンがジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に参加するため招待されてロンドンに滞在していた。


 1970年5月にジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作が始まった。クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、このレコーディング・セッションにも参加している。
 この後4人はクラプトンの家があったハートウッド・エッジに住み、曲を書いてはひたすらセッションに没頭していた。このセッションを通じて4人はより結束を強めてゆく。とくにクラプトンは「これまでにないくらいの音楽的自由が感じられた」とのちに語っている。またウィットロックは、自身とクラプトンによる、バンドにおけるヴォーカルの比率を重視していたという。
 『オール・シングス・マスト・パス』のベーシック・トラックの録音が終わりに近づいた頃、クラプトンらとともにデラニー&ボニーで活動していたデイヴ・メイスンがクラプトン宅でのセッションに加わった。メイスンは『オール・シングス・マスト・パス』のレコーディングにも加わっていた。こうしてラインナップが5人となったバンドは、1970年6月14日に、ロンドンはライセウムでのチャリティ・コンサートでステージ・デビューを果たす。
 バンドは便宜上「エリック・クラプトン&フレンズ」と呼ばれていたが、ウィットロックによって「デル&ザ・ダイナモス」というバンド名が提案された。これは1969年のデラニー&ボニーのツアー以来、ギタリストは「デレク」あるいは「デル」と呼ばれていたからである。ところがバンド名をアナウンスした時に、発音が「デレク&ザ・ドミノス」と誤解されてしまい、結局それがバンド名に決まった。(オープニング・アクトを務めた「アシュトン・ガードナー&ダイク」のトニー・アシュトンが「デル&ザ・ドミノス」という名を提案した、という説もある)
 コンサートそのものには賛否両論あり、その中には「名ギタリストであるクラプトンをバンドのシンガーとして見たがる者はいない」との声もあった。
 なおこの6月14日のデビュー・ライヴでクラプトンが使用したアコースティック・ギターは、2021年にオークションに出品され、625,000ドル(約7120万円)で落札されている。





 1970年6月18日、デレク&ザ・ドミノスの5人とジョージ・ハリスンはロンドンのアップル・スタジオに入り、フィル・スペクターのプロデュースでクラプトンとウィットロックが共作した「テル・ザ・トゥルース」と「ロール・イット・オーヴァー」の2曲をシングル用に録音した。そのほか2つのインストゥルメンタル・ジャムを録音したが、それは『オール・シングス・マスト・パス』の3枚目に収録された。この3枚目は「Apple Jam」と呼ばれている。
 このロンドンでのセッションの後、ドミノスの本格的な活動がなかなか始まらないことに業を煮やしたデイヴ・メイソンがバンドから離れた。
 クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、同年7月からのドクター・ジョンのアルバム『ザ・サン、ムーン&ハーブス』のロンドンでのレコーディングにも参加している。


 ドミノスは、8月1日からイギリス国内をサーキットしている。
 このツアーは22日間で18公演を行うもので、会場は小規模な場所が選ばれた。クラプトンは名を明らかにせず匿名で演奏した。また、すべてのライヴ会場ではクラプトンの名前を宣伝に使用してはならないという契約が交わされていた。これは「自分が主役である必要はなく、アンサンブルの一員としてただ演奏に集中したい」というクラプトンの願望の現れであった。クラプトンはスター扱いされるのを嫌がっていたのである。
 ツアーの期間中、マネージャーのロバート・スティグウッドはファースト・アルバム制作の準備に取りかかり、プロデューサーにトム・ダウドを起用した。


 8月23日、ドミノスはファースト・アルバムをレコーディングするためフロリダ州マイアミのクライテリア・スタジオに移動する。
 8月26日、クラプトンはプロデューサーのトム・ダウドからオールkマン・ブラザーズ・バンドが公演のためにマイアミに来ていることを聞き、「ぜひそのコンサートに行きたい」と強く希望した。ダウドとドミノスのメンバーたちはオールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートに行った。ふたりはすでにお互いの音楽、ギターに敬意を持ってはいたが、初めてオールマンの演奏を見たクラプトンは身動きができなくなるほど感動したという。これがクラプトンとデュアン・オールマンの出会いである。
 コンサートのあとクラプトンは「ぜひギターを持って来てくれ、君も一緒にプレイしよう」とオールマンをスタジオに招待した。ドミノスとオールマン・ブラザーズはクライテリア・スタジオで何時間もセッションを楽しんだ。クラプトンとオールマンのふたりは一晩中語り合い、セッションすることで尊敬の念をより深めた。のちクラプトンはオールマンについて「自分と不可分の存在で、音楽の兄弟だ」だと述べている。





 ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』のレコーディング・セッションは8月28日に始まり、9月上旬まで続いた。
 デュアン・オールマンはオールマン・ブラザーズの活動の合間に10回以上スタジオ入りし、全14曲中11曲でギターを弾いた。このアルバムで聴かれる彼の情感豊かなスライド・ギターは、いまなお絶賛されている。レコーディング終了後、クラプトンはオールマンをドミノスに誘ったが、オールマンはこれを断り、自分のバンドに戻った。
 またドミノスは以前にフィル・スペクターのプロデュースによって録音した「テル・ザ・トゥルース」を再録音した。アメリカでは9月に、オリジナル・ヴァージョンの「テル・ザ・トゥルース」が「ロール・イット・オーヴァー」とのカップリングでシングルとして発表されたが、これはバンドの意向ですぐに販売停止となった。
 アルバム『いとしのレイラ』に収められたタイトル曲「いとしのレイラ」は、クラプトンが彼の親友ジョージ・ハリスンの妻パティに対する恋慕の気持ちを歌ったものとして非常に有名である。
 「レイラ」は、ギターがメインの前半部分とピアノがメインの後半部分から成り立っている。後半はジム・ゴードンが作曲(実際はリタ・クーリッジとの共作)したもので、ゴードン自身がピアノを弾いており、ゴードンを補足する2番目のピアノ・パートをボビー・ウィットロックが弾いている。
 ドミノスは、『いとしのレイラ』レコーディング終了後の9月20日からイギリス・ツアーを行い、11月から12月にかけてはアメリカ・ツアーを行った。このツアーはドラッグとアルコールにどっぷり浸ったものだったが、ライヴ・レコーディングされ、1973年に2枚組アルバム『イン・コンサート』としてリリースされた。なおデュアン・オールマンは12月1日と12月2日にドミノスと共演している。


 デレク&ザ・ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』は、2枚組アルバムとして1970年11月にリリースされた。
 アメリカン・ロックからの影響とクラプトンが目指したブルースへの回帰がはっきり現れたこのアルバムはレイド・バックした作品に仕上がっている。
 プロデューサーのトム・ダウドは「これは自分が関わったアルバムとしては、『The Genius of Ray Charles』以来最高の作品だ」と賞賛したほか、一部の音楽誌からも高い評価を得た。アルバムはRIAAからゴールド・アルバムに認定されたが、アルバムの販売元であるポリドールはほとんどプロモーションをしておらず、さらにはクラプトンがドミノスのメンバーであることが知られていなかったため、アルバムのセールスは思ったほど伸びなかった。この結果にダウドもクラプトンも失望した。
 1972年、クラプトンのコンピレーション・アルバム『エリック・クラプトンの歴史』が発売された。「いとしのレイラ」はこの中に収録されており、また同年7月にはシングルとして再発され、全米10位、全英7位のヒットを記録した。これがきっかけでアルバム『いとしのレイラ』も再評価されるようになった。
 現在では『いとしのレイラ』をクラプトンの最高傑作に推す声も高い。


 『いとしのレイラ』制作中の9月9日、クラプトンは友人ジミ・ヘンドリックスの作品「リトル・ウイング」をレコーディングしているが、その直後の9月18日にヘンドリックスが急死。ヘンドリックスはクラプトンにとってかけがえのない友人だったため、クラプトンは精神的に大打撃を受けた。それに加えて『いとしのレイラ』に対する不評がさらにクラプトンを鬱状態とドラッグへの依存へと追い詰めていった。


 1971年秋、ドミノスはセカンド・アルバムの制作に取りかかったが、完成させることなく解散した。クラプトンの重度のヘロイン中毒そしてパティ・ボイドとの不安定な関係による荒れた精神状態、バンド内でのドラッグの蔓延、バンド内のエゴのぶつかり合いによる極度の緊張が解散の理由だと言われている。
 この年10月29日には、クラプトン自身が「音楽の兄弟」と呼んでいた盟友デュアン・オールマンがオートバイ事故で死亡した。ふたりの尊敬する友人を失ったクラプトンの精神状態はさらに打ちのめされた。


 解散後のクラプトンは薬物中毒からのリハビリテーションに多くの時間を費やしたが、1973年1月に行われたロンドンのレインボウ・シアターでのコンサートで劇的な復活を遂げた。
 ウィットロックはアメリカのABCダンヒルと契約し、1972年に『ボビー・ウィットロック』、『ロウ・ヴェルヴェット』の2枚のソロ・アルバムを発表した。2枚ともドミノスのメンバー全員がゲスト参加している。
 レイドルは、クラプトンがソロ・アーティストとして復帰した1974年から1979年夏までクラプトンのツアー・バンドのベーシストを務めていたが、1980年5月に37歳で死去。
 ゴードンはアルコールとドラッグの過度の摂取が原因で徐々に仕事が減り、1983年には母親を殺害した。統合失調症と診断されたゴードンの病状が快方へ向かうことはなく、一度も仮釈放されないまま2023年に医療施設で死亡した。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>

  1970年 いとしのレイラ/Layla and Other Assorted Love Songs US16位
 ☆1973年 イン・コンサート/In Concert US20位

  1990年 レイラ・セッションズ/The Layla Sessions: 20th Anniversary Edition US157位
 ☆1994年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア/Live at the Fillmore

 <シングル>
  1970年 テル・ザ・トゥルース / ロール・イット・オーヴァー
  1971年 いとしのレイラ / アイ・アム・ユアーズ US51位
  1971年 ベル・ボトム・ブルース / キープ・オン・グロウイング US91位
  1972年 いとしのレイラ / ベル・ボトム・ブルース US10位
  1973年 ベル・ボトム・ブルース / リトル・ウイング
  1973年 恋は悲しきもの [live] / プレゼンス・オブ・ザ・ロード [live] 
  2011年 ガット・トゥ・ゲット・ベター・イン・ア・リトル・ホワイル / いとしのレイラ


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KGB

2024-02-14 12:17:33 | band

KGB KGB


活動期間
  1975年~1976年


メンバー
  レイ・ケネディ/Ray Kennedy(vocals)
  マイク・ブルームフィールド/Mike Broomfield(guitars)
  ベン・シュルツ/Ben Schultz(guitars)
  バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(keyboards, vocals)
  リック・グレッチ/Rick Gretch(bass)
  グレッグ・サットン/Greg Sutton(bass)
  カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, vocals)


 KGBは1975年に結成されたロック・バンドである。

 1974年、マイク・ブルームフィールド(guitar)とバリー・ゴールドバーグ(keyboard)は「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加したが、散発的な活動のすえ解散に至ったため、セッション・ミュージシャンとして活動していたレイ・ケネディ(sax, vocal)を加えて新バンドを結成しようとしていた。
 これに目をつけたのがMCAレコードである。


 MCAは彼らを「スーパー・グループ」として売り出すため、ベック・ボガート&アピスが解散したあとフリーになっていたカーマイン・アピス(drums)と、活動の拠点をアメリカに移して「ジョニー・リヴァース・バンド」のメンバーだったリック・グレッチ(bass)というふたりの知名度の高いミュージシャンをメンバーとして迎え入れた。
 バンド名は、バンド結成当初から集結していたケネディ(K)、ゴールドバーグ(G)、ブルームフィールド(B)の頭文字を並べたものである。
 1975年にMCAと高額の契約を交わした彼らはアルバムの制作に取りかかるが、ブルームフィールドがレコーディングが行わるロスアンゼルスへの移動に同意しなかったため、やむなくギターパートは別の場所で録音せざるをえなかった。
 同年デビュー・アルバム『KGB』とシングル『Sail On Sailor』(ビーチ・ボーイズのカヴァーで、ブライアン・ウィルソンとケネディの共作)がリリースされる。アルバムにはビートルズのカヴァー『アイヴ・ガッタ・フィーリング』も収録されていた。
 鳴り物入りでデビューしたKGBだったが、デビュー・アルバムはの評判は芳しいものではなかった。これはラインナップから想像されたブルース・ロックあるいはヘヴィーなサウンドとは異なり、ソウル・ミュージック寄りでレイドバック感のある、のちのAORサウンドへもつながる内容だったためで、評論家からもリスナーからも不評をかってしまった。ただし、ソウルフルなケネディのヴォーカル、ヘヴィなアピスのドラム、ブルージーなブルームフィールドのギターなど、個々にみると「スーパー・グループ」の前評判どおりの演奏であると言える。
 この後間もなく薬物依存の悪化によってブルームフィールドは脱退。バンドはジョー・コッカーのツアーに帯同する。


     
     左から レイ・ケネディ、カーマイン・アピス、バリー・ゴールドバーグ、マイク・ブルームフィールド、リック・グレッチ


 その後ブルームフィールドの後任として、バディ・マイルスのアルバムに参加したこともあるベン・シュルツ(guitar)が、グレッチの脱退に伴いボブ・ディランのバックを務めていたグレッグ・サットン(bass)が参加して、1976年にセカンド・アルバムモーション』をリリースした。このアルバムはケネディとアピスのカラーが全面的に押し出されたものだったが、ほとんど話題にならず、セールスは全くの不振に終わり、バンドも活動を停止した。


 KGB解散後、ケネディは1980年にアルバム『Ray Kennedy』をリリースし、AORブームの中でブレイクするが、その後マイケル・シェンカー・グループにヴォーカリストとして加わってロック・ファンを驚かせた。

 アピスは1977年にロッド・スチュワート・バンドに加入。ゴールドバーグはソロ、セッションなどで息の長い活動を続けている。
 グレッチは1977年にジンジャー・ベイカー(drums)のソロ・アルバム『Eleven Sides of Baker』に参加した後は音楽業界の第一線から身を引き、1990年に他界。
 ブルームフィールドは1977年にソロ・アルバムを発表したが、薬物の過剰摂取のため1981年に死亡した。


【ディスコグラフィ】

 <アルバム>
  1975年 KGBKGB US(ビルボード)124位
  1976年 モーション/Motion


【メンバー変遷】

#1 1975~1976
  レイ・ケネディ(vocals)
  マイク・ブルームフィールド(guitars)※ex. Electric Flag
  バリー・ゴールドバーグ(keyboards, vocals)※ex. Electric Flag
  リック・グレッチ(bass)※ex. Johnny Rivers Band
  カーマイン・アピス(drums, vocals)※ex. Beck, Bogert & Appice

#2 1976
  レイ・ケネディ(vocals)
  ベン・シュルツ/Ben Schultz(guitars)
  バリー・ゴールドバーグ/Barry Goldberg(keyboards, vocals)
  グレッグ・サットン/Greg Sutton(bass)
  カーマイン・アピス/Carmine Appice(drums, vocals)



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ラフ・ダイアモンド

2023-11-29 10:32:06 | band

ラフ・ダイアモンド Rough Diamond


活動期間
  1976年~1977年


メンバー
  デヴィッド・バイロン/David Byron(vocals)
  デイヴ・"クレム"・クレムソン/Dave "Clem" Clempson(guitars)
  デモン・ブッチャー/Damon Butcher(keyboard)
  ウィリー・バス/Willie Bath(bass)
  ジョフ・ブリットン/Geoff Britton(drums)



 「ラフ・ダイアモンド」は、コロシアムやハンブル・パイのギタリストとして知られるデイヴ・"クレム"・クレムソンが1976年5月に「スティーヴ・マリオット・オール・スターズ」から離れたのちに、ユーライア・ヒープを脱退したデヴィッド・バイロンと1976年9月に結成したハード・ロック・バンドである。
 ドラムスには元「ポール・マッカートニー&ウィングス」のジョフ・ブリットンが、キーボードに
は元「スティーヴ・マリオット・オール・スターズ」でクレムソンとバンド・メイトだったデモン・ブッチャーが、ベースにはブリットンの紹介で彼の古い友人であるウィリー・バスが加わった。
 バンド名は「ダイアモンドの原石」という意味である。


 1976年の終わり頃からレコーディングを開始し、1977年春にアイランド・レーベルからデビュー・アルバム『ラフ・ダイアモンド』をリリース。
 アルバム・リリース後はピーター・フランプトンのアメリカ・ツアーにオープニング・アクトとして参加している。
 当時一部では「新たなスーパー・グループの結成」と注目されたが、吹き荒れるパンク、ニュー・ウェイヴ旋風によってその後は話題に上ることも少なくなり、レコード・セールスも低迷した。


 1977年秋にデヴィッド・バイロンが脱退すると、バンドは新たなヴォーカリストとしてゲイリー・ベルを迎え入れ、「チャンピオン」と改名して再スタートを切った。
 バイロンは、脱退後ソロ活動を経て「デヴィッド・バイロン・バンド」を結成した。     



【ディスコグラフィ】

 <アルバム>

  1977年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamond US103位


【メンバー変遷】

#1 1976.9~1977.9
  デヴィッド・バイロン(vocals)※ex. Uriah Heep
  デイヴ・"クレム"・クレムソン(guitars)※ex. Steve Marriott's All Stars
  デモン・ブッチャー(keyboard)※ex. Steve Marriott's All Stars
  ウィリー・バス(bass)
  ジョフ・ブリットン(drums)※ex. Wings


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スモール・フェイセス

2023-10-29 10:36:27 | band

スモール・フェイセス Small Faces


活動期間
  1965年~1969年
  1976年~1978年


メンバー
  スティーヴ・マリオット/Steve Marriott(guitars, vocals)
  ジミー・ウィンストン/Jimmy Winston(keyboard)
  イアン・マクレガン/Ian McLagan(keyboard)
  ロニー・レーン/Ronnie Lane(bass,vocals)
  リック・ウィリス/Rick Wills(bass, vocals)
  ケニー・ジョーンズ/Kenny Jones(drums)



 スモール・フェイセスは、1960年代中盤~後半にわたってブリティッシュ・ロック・シーンを牽引したバンドのひとつである。
 音楽的には、ポップやソウル、ハード・ロック、サイケデリックなどの要素を併せ持っており、「ザ・フー」と並ぶ、ロンドンのイースト・エンドを代表するモッズ・バンドとして高い人気を誇った。
 2012年に「ロックの殿堂」入りを果たしている。


 ロンドンのイースト・エンド出身のスティーヴ・マリオットは子役俳優として映画や舞台に出演していたが、長じてミュージシャンとしても活動するようになり、ソロ・シングルを発表。1963年には「ザ・モーメンツ」を結成し、翌64年にはアメリカでシングル・レコードを発表するが、いずれもセールスは低調だった。


 1964年のある日、当時マリオットが働いていたミュージック・バーに、当時ザ・パイオニアーズのメンバーだったロニー・レーンがベース・ギターを買いに父親とともに来店した。マリオットとレーンは会話を交わし、レーンはベース・ギターを購入した。そしてマリオットが仕事を終えると、レーンはレコードを聴きに彼の家を訪ねた。これがマリオットとレーンの出会いである。
 ふたりは意気投合し、ドラマーにパイオニアーズでレーンのバンドメイトだったケニー・ジョーンズを、キーボードにザ・モーメンツのバンド・メイトだったジミー・ウィンストンを加え、翌65年に新たなバンドを結成する。このバンドはメンバーは全員がイースト・ロンドン出身の、生粋のモッズ・バンドであった。
 新バンドは「スモール・フェイセス」と名付けられた。これは、モッズ用語で「顔役、クールな奴」という意味を持つ「Face」と、マリオット、レーン、ジョーンズの3人が小柄だったこととをかけ合わせたものである。


 結成直後から精力的にライブを行っていたスモール・フェイセスに注目したのが、エージェントのドン・アーデンである。彼の尽力によって、バンドはデッカ・レコードと契約を交わすことができた。

 1965年8月、デッカレコードからデビュー・シングル「ホワッチャ・ゴナ・ドゥ・アバウト・イット?」を発表。これは全英チャート14位のヒットとなった。
 この年11月、ウィンストンが俳優として活動するために脱退し、後任として元ボズ&ボズ・ピープル(ボズ・バレルが在籍していた)のメンバーだったイアン・マクレガンが加入。
 1966年1月にサード・シングルとして発表した「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」が全英チャート3位のヒットを記録すると、5月に発表したファースト・アルバム「スモール・フェイセス」も全英アルバム・チャートで最高3位まで上昇。さらに同年8月に発表した5枚目のシングル「オール・オア・ナッシング」はついに全英1位となり、スモール・フェイセスはモッズのヒーローにのし上がった。


     


 人気バンドのひとつとなったスモール・フェイセスだが、ドン・アーデンとの関係が悪化(バンドの収益を搾取していたと言われている)したことがデッカ・レコードとの関係に影響を及ぼし、結局彼らは1967年2月にイミディエイと・レコードに移籍する。ちなみにイミディエイトの創立者は、ローリング・ストーンズの元マネージャーだったアンドリュー・ローグ・オールダムである。
 この年6月には移籍第1弾のアルバム『スモール・フェイセス』(前年リリースしたファースト・アルバムと同じタイトル)を発表したが、これは収録曲全てがオリジナルで構成されており、バンドとしての成長が伺えるものであった。
 一方デッカ・レコードは、移籍後間もないその年2月に、シングルと未発表曲を集めた『フロム・ザ・ビギニングス』というコンピレイション・アルバムを、バンドに相談することなくリリースしている。これはスモール・フェイセスの移籍に対する報復と言われている。
 同年は6月にリリースしたシングル「イチクー・パーク」が全英3位(全米16位)、8月にリリースしたシングル「ティン・ソルジャー」が全英9位(全米73位)のヒットを記録している。
 なおバンドが全米シングル・チャート入りを果たしたのは「イチクー・パーク」が初めてであった。またこの曲では初めて「フランジャー」というエフェクターが使用されている。
 1968年5月には、スモール・フェイセスの代表作と言われるアルバム、『オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』が発表される。
 このアルバムのB面は、月の欠けた半分を探しに出かけるハピネス・スタンの物語が収録されており、いわゆる「コンセプト・アルバム」として制作された。リリース後は全英アルバム・チャートを席捲し、6週連続でチャート1位を記録した。


 イギリスでは人気バンドに成長したスモール・フェイセスだが、アメリカでのセールスは今ひとつ伸び悩んでいた。
 質の良いレコードを制作してもアイドルとしてしか見られていない現実に対し、マリオットの不満は鬱積してゆき、さらなるR&Bの追求を望むようになっていった。
 1968年、マリオットは、彼と同じくアイドル視されることに嫌気がさしていた元ハードのピーター・フランプトン(guitar, vocal)をバンドに加えることを提案したが、レーンとマクレガンの反対に遭う。
 この年12月31日、スモール・フェイセスはアレクシス・コーナーをゲストに迎えたコンサートを行ったが、途中でマリオットがステージから降りてしまった。コンサート後、激怒したメンバーはマリオットを問い詰めるが、この時マリオットはバンドからの脱退を宣言したのである。


 残されたマクレガン、ジョーンズは、1969年5月にアート・ウッドのバンド「クワイエット・メロン」に参加、ここでロン・ウッドとバンド・メイトになる。クワイエット・メロンにはその後レーンとロッド・スチュワート(voval)が加わり6人編成となったが、アート・ウッドを除く5人は意気投合して新たなバンド「フェイセス」を結成するのである。
 なおマリオットは脱退後すぐにフランプトンとのバンド結成に取りかかり、ベースにグレッグ・リドリー(元スプーキー・トゥース)、ドラムにジェリー・シャーリー(元アポストリック・インターヴェンション)を迎えて1969年1月頃から活動を開始する。このバンドが「ハンブル・パイ」である。
 フェイセスもハンブル・パイも、1970年代は人気バンドとして活躍した。


 1976年、「イチクー・パーク」がリバイバル・ヒットするが、これをきっかけとしてマリオット、レーン、マクレガン、ジョーンズの4人が再び集まった。当時レーンは自己のバンド「スリム・チャンス」を率いて活動していたこともあり、リハーサルには参加したものの一週間ほどで脱退。後任にはロキシー・ミュージックのツアー・メンバーだったリック・ウィルスが加わり、スモール・フェイセスの再結成が実現した。
 彼らはアトランティックと契約し、1977年には9年ぶりのスダジオ・アルバム『プレイメイツ』を、翌1978年にはゲストにジミー・マカロック(ギター)を迎えたアルバム『78 イン・ザ・シェイド』を発表したのち、再び解散した。


 1991年4月20日、マリオットが44歳で死去。自宅で就寝中、寝たばこが原因の火事で一酸化炭素中毒死するという、いたましい最期だった。
 1997年6月4日、1970年代後半に多発性硬化症を発症して長年闘病生活を続けていたレーンが、肺炎のため51歳で病没。
 2014年12月3日、マクレガンが脳卒中の合併症のため69歳で死去。


 スモール・フェイセスは、2012年にフェイセズとともに「ロックの殿堂」入りを果たしている。


     



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>

  1966年 スモール・フェイセス/Small Faces UK3位
  1967年 スモール・フェイセス/Small Faces UK12位
 ★1967年 フロム・ザ・ビギニング/From The Beginning UK17位
  1968年 There Are But For Small Faces US178位
  1968年 オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク/Ogdens' Nut Gone Flake UK1位、US159位
 ★1969年 イン・メモリアム/In Memoriam
 ★1969年 ジ・オータム・ストーン/The Autumn Stone
  1977年 プレイメイツ/Playmates
  1978年 78イン・ザ・シェイド/78 In The Shade

 <シングル>
  1965年 Whatcha Gonna Do About It UK14位
  1965年 I've Got Mine
  1966年 Sha-La-La-La-Lee UK3位
  1966年 ヘイ・ガール/Hey Girl UK10位
  1966年 オール・オア・ナッシング/All or Nothing UK1位
  1966年 心のひとみ/My Mind's Eye UK4位
  1967年 I Can't Make It UK26位
  1967年 Patterns UK51位
  1967年 Here Comes the Nice UK24位
  1967年 サイケデリック・パーク/Itchycoo Park UK3位、US16位
  1967年 涙の少年兵/Tin Soldier UK9位、US73位
  1968年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday UK2位、US114位
  1968年 The Universal UK16位
  1969年 Mad John
  1969年 アフターグロウ/Afterglow of Your Love UK36位
  1975年 イチクー・パーク/Itchycoo Park UK9位
  1976年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday UK39位


【メンバー変遷】

#1 1965
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)※ex. The Moments
  ロニー・レーン(bass, vocals)※ex. The Pioneers
  ジミー・ウィンストン(keyboards)※ex. The Moments
  ケニー・ジョーンズ(drums)※ex. The Pioneers

#2 1965~1969
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)
  ロニー・レーン(bass, vocals)
  イアン・マクレガン(keyboards)※ex. Boz & Boz People
  ケニー・ジョーンズ(drums)

#3 1976~1978
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)
  リック・ウィルス(bass, vocals)※ex. Roxy Music Tour Support
  イアン・マクレガン(keyboards)
  ケニー・ジョーンズ(drums)


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ブラインド・フェイス

2023-10-20 12:46:05 | band

ブラインド・フェイス (Blind Faith)


【活動期間】
   1969年

【メンバー】
   スティーヴ・ウインウッド/Steve Winwood(vocals, organ, piano, guitar)
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitar, vocal)
   リック・グレッチ/Ric Grech(bass, violin)
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums)

 
 1968年に解散したクリームのエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカートラフィックのスティーヴ・ウインウッドが結成したスーパー・グループ。
 ブラインド・フェイスの結成は、クロスビー、スティルス & ナッシュの結成と並ぶ、「1969年の最もセンセーショナルな出来事」とも言われた。


 「スーパー・グループのはしり」とも言われるクリームは、ジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの不和などが原因で、1968年11月に解散する。クラプトンは、レコードのセールスを伸ばすためだけのブルースを演奏することに疲れており、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』に影響されて、新たな音楽を作りたいという願望を持つようになっていた。
 ちょうどその頃、スティーヴ・ウインウッドもトラフィックからの脱退を考えていた。
 もともとクラプトンとウィンウッドは「パワーハウス」(エレクトラが企画したオムニバス・アルバム『What's Shakin'』のための臨時的なユニットで、ベーシストはジャック・ブルースであった)でともに活動していた仲であり、このふたりは1969年に入ると、クラプトンの所有するコテージの地下室でリハーサルを始める。
 やがてジンジャー・ベイカーが彼らのリハーサル・コテージを訪れる。


 当然この3人でグループを結成するという案が出たが、クラプトンはクリーム解散時にジャック・ブルースに対して「われわれが再び一緒に演奏する機会が来るなら、その時はベイカーも含めて3人全員で演奏する」という約束をしていること、仮にブルースが新バンドに加わるとしてもクリームの解散からまだ数ヵ月しか経っていないことを理由に、ベイカーがバンドに入るということに同意しなかった。
 ウィンウッドは、ベイカーほどのドラマーを探すのは難しいとクラプトンを説得し、最終的にベイカーをバンドに加えた。
 このプロジェクトにはベーシストが不在だったが、1969年5月に、当時「ファミリー」に在籍していたリック・グレッチが迎えられた。
 その後、このバンドは「ブラインド・フェイス」と名付けられる。


 究極のスーパー・グループとも言われたブラインド・フェイス結成のニュースは、センセーショナルな話題を巻き起こした。
 1969年6月7日、ブラインド・フェイスはロンドンのハイド・パークにおけるフリー・コンサートで、推定10万人もの聴衆を前に衝撃的なデビューを果たした。この動員数は、当時の史上最高記録であった。
 コンサートのセット・リストはファースト・アルバムに収録されている6曲のほか、ローリング・ストーンズの「アンダー・マイ・サム」や、トラフィックの「ミーンズ・トゥ・アン・エンド」などが含まれていた。
 このコンサートは、ファンには好評をもって迎えられたが、クラプトンはバンドの演奏が一定の水準に達していないと感じていたため、大観衆の歓声は自分たちのネームバリューによるものに過ぎないとして不満だったという。
 バンドはまだ発展途上、言い換えると準備不足の状態だった。バンドには充分なリハーサルが必要だったのだが、マネジメント側はバンドを維持するためにツアーを行うことを主張した。
 彼らはまだアルバムのレコーディング中だったが、ほどなくスカンジナビアで短いツアーを行い、その後アメリカ・ツアーに出発した。その初日である7月12日には、マディソン・スクエア・ガーデンで約2万人の聴衆を前に演奏している。
 ブラインド・フェイスのオリジナル曲はまだ少なかったため、1時間演奏するのがやっとという状態だった。これを解消するためにバンドはクリームとトラフィックの曲を演奏し、聴衆はこれを喜んだ。しかし、クラプトンは曲数の不足を補うために長いアドリブ・ソロをとったり、かつての素材を演奏することには失望していた。
 またクラプトンはツアー中に開催された「ウッドストック・フェスティヴァル」への出演を望んだが、他のメンバーからの反対でこれを断念せざるを得なかった。


     


 アメリカ・ツアーでは、「フリー」「テイスト」「デラニー&ボニー」がブラインド・フェイスのオープニング・アクトを務めたが、クラプトンはデラニー&ボニーのソウルフルなブルースに興味を持つようになった。
 クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごす方を好み、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットにも参加するようになった。このためクラプトンはさらに孤立を深め、自然バンドのイニシアティブはウィンウッドに移っていったのである。
 ブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーに深く惹かれたクラプトンは、ブラインド・フェイスの代わりに彼らがヘッドライナーになることを望むようにさえなった。


 ツアー中の1969年7月、ブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』がリリースされた。
 売り上げ枚数は発売後1ヵ月で50万枚を超え、最終的にはミリオン・セラーを記録。アルバム・チャートは、同年9月20日には英米ともにチャート1位となる大ヒットとなった。
 ただし、音楽的にはソウルフルかつポップ寄りなスティーヴ・ウィンウッドの個性が中心となっており、クラプトンもよりアーシーな音楽に接近していたため、ブルースに根差した音作りやインプロヴィゼイションの展開など、クリームの音楽性、あるいはそれに近いものを期待していたファンの中にはこのレコードを聴いて戸惑う者も多かった。
 このアルバムのジャケット写真は、クラプトンの友人で、ジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドなどの写真を手がけたボブ・サイデマンが撮影したものだったが、使われた写真は11歳の少女のヌード写真だったため、アメリカでは猥褻であるとみなされて物議を醸した。撮影にあたっては少女の両親の同意も得ていたが、発売禁止の措置を取った国もいくつかあったため、少女の写真はバンドの写真に差し替えられた。
 ちなみにこのアルバムに代わってチャート1位にランクされるや11週にわたって首位の座を維持したのは、ビートルズの『アビイ・ロード』である。


     


 アメリカ・ツアーは8月24日のハワイを最後に終了したが、この期間中に生じたメンバー間の価値観のずれは大きくなっていた。マネージメント側は新たなツアーが予定されていると発表したが、クラプトンとウィンウッドは活動を終わらせることにした。
 1969年10月、ブラインド・フェイスはバンドの解散を発表する。その活動はアルバムを1枚を残すのみ、期間は実質わずか半年ほどであった。
 解散の知らせは、グレッチにはすぐに知らされたが、ベイカーはジャマイカでの短い休暇を終えてイギリスに帰国するまではこのニュースを知らなかったので、帰国後にウィンウッドからバンドの解散を伝えられて動揺したという。

 
 解散後、クラプトンは「プラスティック・オノ・バンド」を経て「デラニー&ボニー」と行動を共にすることになる。これはいずれもサイド・マンとして参加したもので、華やかなスポット・ライトを浴びることに嫌気がさしたクラプトンが、単なるバンドの一員として純粋にギターを弾きたかったことの現れと言えよう。
 その後のクラプトンは、キャリアを通じてブラインド・フェイスのレパートリーである「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」を折にふれては演奏している。
 ベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加えて「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成した。
 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース脱退後のウィンウッドはトラフィックを再結成し、グレッチはそのトラフィックに参加している。
 なお1970年、クラプトンはトラフィックのライヴに姿を見せ、ウィンウッドと「ディア・ミスター・ファンタジー」でツイン・リード・ギターを披露している。


     


 1983年9月、クラプトンとウィンウッドは、多発性硬化症 (ARMS) の研究を支援するためのチャリティ・コンサート「ARMSコンサート」で再びステージをともにした。ちなみにこのコンサートは、ARMSに罹患していたロニー・レーン(元フェイセズ)が提唱したものであった。


 2005年、1969年のハイド・パークにおけるブラインド・フェイスのライヴ全体を収録したDVD「London Hyde Park 1969」がリリースされた。

 2007年7月、クラプトンとウィンウッドは、イリノイ州で開催された「第2回クロスロード・ギター・フェスティヴァル」で再会した。クラプトンとウィンウッドのデュオはセットの一部としてステージに上がり、ブラインド・フェイスの曲を3曲演奏した。
 このパフォーマンスは、2008年2月にマディソン・スクエア・ガーデンでのクラプトンとウィンウッドの再会コンサートの実現に繋がる。この時の彼らは、ブラインド・フェイス、クラプトンのソロ、トラフィック、ジミ・ヘンドリックス、デレク&ザ・ドミノスなどの曲からセット・リストを作り、演奏した。その模様は2009年に2枚組CD+DVDの「ライヴ・フロム・マディソン・スクエア」としてリリースされている。
 彼らはさらに2009年6月にアメリカ・ツアーを、翌2010年にはヨーロッパ・ツアーを行ったほか、2011年5月26 日から6月1日までロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、同年11月から12月にかけて日本でコンサートを行っている。


【ディスコグラフィ】
 <アルバム>
   1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith UK1位、US1位、日本3位、カナダ1位、フランス4位、ドイツ5位
 <シングル>
   1969年 ウェル・オール・ライト/Well All Right
   1969年 チェンジ・オブ・アドレス/Change of Address(*プロモーション・シングル)


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アルマゲドン

2023-07-05 23:33:25 | band

アルマゲドン Armageddon


活動期間
  1974年~1975年


メンバー
  キース・レルフ/Keith Relf(vocals, harmonica)

  マーティン・ピュー/Martin Pugh(electric-guitars, acoustic-guitars)
  ルイス・セナモ/Louis Cennamo(bass, electric-bowed-bass)
  ボビー・コールドウェル/Bobby Caldwell(drums, percussions, piano, backing-vocals)



 アルマゲドンは1974年に結成されたイングランドのロック・バンド。
 イギリス人3人、アメリカ人1人から成る英米混成バンドである。


 キース・レルフとルイス・セナモは「ルネッサンス」でバンドメイトであった。
 ルネッサンスを脱退したセナモは1971年「スティームハマー」に加入し、ここでマーティン・ピュー(guitar)に出会う。バンドはしばしばメンバー・チェンジを行ったのち、1973年夏にはバンド名を「アクシス」と変えたが、同年の終わりに活動を停止する。そこでセナモとピューは新バンド結成を計画する。


 一方レルフはプロデューサーとして活動していたが、1971年から72年にかけて「メディシン・ヘッド」にべーシストとして在籍。
 1971年冬、レルフは「スティームハマー」の4作目『Speech』の共同プロデューサーとしてアルバムの制作に関わり、その時にピューとも意気投合する。
 1974年にセナモと再会したレルフは、セナモとピューによる新バンド結成の計画に興味を持った。そして三人で音楽的方向性について話し合った結果、レルフも新バンドに加入することになった。


 イギリスのレコード会社は契約に対して消極的だったたため、1974年に3人はアメリカへ渡る。
 ロサンゼルスのハリウッドに着いた夜、彼らは「レインボー・バー」で元キャプテン・ビヨンドのドラマー、ボビー・コールドウェルと知り合った。ドラマー候補はほかにも数人いたが、名ドラマー、エインズレー・ダンバーからも推薦されたことによってコールドウェルとジャム・セッションすることになった。このセッションをA&Mレコードのスタッフが聴いており、翌日にはさっそくA&Mからオファーを受けたのである。
 こうして3人はコールドウェルをバンドに迎えた。
バンドは「アルマゲドン」と命名され、1974年末にリハーサルを開始した。
 ヤードバーズ、ルネッサンス、キャプテン・ビヨンド、スティームハマーの元メンバーで構成されたアルマゲドンは、一部で「スーパー・グループ」と呼ばれ、期待された。
 1975年、ファースト・アルバム『アルマゲドン』を発表。イギリスで制作されたこのアルバムは、プログレッシヴ感覚豊かで個性的なハード・ロックが詰め込まれている。
 『アルマゲドン』は一部からは高く評価されたが、商業的な成功を得ることはできなかった。またバンドとマネージメント側とのコミューニケーションがうまく取れておらず、そのうえピューとコールドウェルの薬物問題もバンドに影を落とすようになった。
 これらの理由から、アルマゲドンはデビュー・アルバムのみを残して、1975年暮れには活動を停止したのである。


 アルマゲドンの解散後、レルフはセナモや妹のジェーン・レルフらルネッサンスの元メンバーを中心として新たなバンド(「Now」と名付けられ、のち「イリュージョン」と改名)を結成するべくリハーサルを行っていたが、1976年5月12日に自宅地下室でエレキ・ギターを弾いている時に感電死した。
 セナモはイリュージョンに参加し、1979年までに2枚のアルバムを残した。
 コールドウェルは1976年にキャプテン・ビヨンドへ復帰。
 ピューはアルマゲドン解散後は音楽業界から離れてカリフォルニアに住んでいたが、21世紀になって「セヴンス・オーダー」の一員として活動を再開させている。


     


【ディスコグラフィ】
 <アルバム>
  1975年 アルマゲドン/Armageddon


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プロコル・ハルム

2023-06-15 00:24:15 | band

                            Procol Harum 1975

プロコル・ハルム
 Procol Harum



活動期間
  1967年~1977年
  1991年~2022年



メンバー
 <ピアノ>
  ゲイリー・ブルッカー/Gary Brooker(piano, vocal)在籍1967~1977, 1991~2022

 <オルガン>
  マシュー・フィッシャー/Matthew Fisher(organ, vocal)在籍1967~1969, 1991~1992, 1993~2003
  クリス・コッピング/Chris Copping(bass, organ)在籍1969~1977, 1997
  ピート・ソリー/Pete Solley(organ, piano, synthesizer, violin)在籍1976~1977, 1997
  ドン・スノー/Don Snow(organ)在籍1992
  ジョシュ・フィリップス/Josh Phillips(organ)在籍1993, 2004~2022

 <ギター>
  レイ・ロイヤー/Ray Royer(guitar)在籍1967
  ロビン・トロワー/Robin Trower(guitar, vocal)在籍1967~1971
  デイヴ・ボール/Dave Ball(guitar)在籍1971~1972
  ミック・グラバム/Mick Grabham(guitar)在籍1972~1977,1997~2000
  ティム・レンウィック/Tim Renwick(guitar)在籍1977, 1991
  ロビン・トロワー/Robin Trower(guitar)在籍1991
  ジェリー・スティーヴンソン/Jerry Stevenson(guitar)1991
  ジェフ・ホワイトホーン/Geoff Whitehorn(guitar)在籍1991~1996, 2000~2022

 <ベース>
  デヴィッド・ナイツ/David Knights(bass)在籍1967~1969
  アラン・カートライト /Alan Cartwright(bass)在籍1971~1976, 1977, 1997
  ディー・マレー/Dee Murray(bass)在籍1977
  デイヴ・ブロンズ/Dave Bronze(bass)在籍1991~1992, 1993, 1997
  ローレンス・コットル/Laurence Cottle(bass)在籍1992
  マット・ペグ/Matt Pegg(bass)在籍1993~2022
  
 <ドラムス>
  ボビー・ハリソン/Bobby Harrison(drums)在籍1967
  B.J. ウィルソン/B.J. Wilson(drums)在籍1967~1977
  マーク・ブレゼジッキー/Mark Brzezicki(drums)在籍1991~1992, 2000~2006
  イアン・ウォーレス/Ian Wallace(drums)在籍1993
  グラハム・ブロード/Graham Broad(drums)在籍1995, 1997
  ヘンリー・スピネッティ/Henry Spinetti(drums)在籍1996
  ジェフ・ダン/Geoff Dunn(drums)在籍2006~2022

 <作詞>
  キース・リード/Keith Reid(lyrics)在籍1967~1977, 1991~2016
  ピート・ブラウン/Pete Brown(lyrics)在籍2016~2022


     
     Procol Harum 1969


 プロコル・ハルムはイングランド出身のロックバンド。デビュー曲「青い影」の世界的な大ヒットで知られている。
 クラシックやブルースから大きな影響を受けた独自の作風を持っている。とくにクラシックとロックの融合を実現したその音楽性は、プログレッシヴ・ロックの源流のひとつとも言われている。

 
 プロコル・ハルムの前身は、イングランド出身のR&Bバンド「パラマウンツ」である。
 パラマウンツは、当時ミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)に「最高のR&Bバンド」と称賛されたほどのバンドだったが、ヒット曲に恵まれず1966年9月に解散する。
 パラマウンツのピアニスト兼ヴォーカリストだったゲイリー・ブルッカーは、バンドの解散後にプロデューサーのガイ・スティーヴンスの紹介で詩人のキース・リードと出会い、リードが作詞、ブルッカーが作曲を担当してデモ・テープを共同制作するようになる。
 1967年1月、ブルッカーとリードはメロディ・メーカー紙に新バンドのメンバー募集の広告を出した。これに応じて採用されたのがレイ・ロイヤー(guitar)とデヴィッド・ナイツ(bass)だった。そして同じ時期に、ブルッカーとリードの制作したデモ音源が認められ、デラム・レコードと契約を交わした。
 この頃マシュー・フィッシャー(organ)は、メロディ・メイカー紙に自身の採用を売り込む広告を出していたが、これを見たブルッカーが連絡を取り、1967年2月にフィッシャーの採用が決まった。こうして「プロコル・ハルム」が結成されたのである。メンバーにふたりの鍵盤奏者と作詞担当者が名を連ねているが、これは非常にユニークな編成だと言えよう。

 なおバンド名は「Beyond these things」(こうしたものを越えて)を意味する不正確なラテン語で、プロデューサーであるガイ・スティーヴンスの飼い猫の名をもじったものと言われている。


 バンドは3月29日にロンドンのオリンピック・スタジオで「青い影」を録音。当時のプロコル・ハルムにはレギュラー・ドラマーがいなかったため、ジャズ・ドラマーのビル・エイデンが収録に参加した。この直後、ボビー・ハリスン(drums)がバンドに加わり、再び「青い影」が録音されたが、この時のテイクは採用されなかった。この時同時に録音された「ライム・ストリート・ブルース」は、「青い影」のB面に収録されている。

 「青い影」は、1967年5月12日にデラムよりデビュー・シングルとして発表された。
 ブルッカーのソウルフルな歌声とピアノ、フィッシャーのオルガン、哲学的な歌詞が非常に印象深いこの曲は、リリースされると同時に火がつき、イギリスでは発売後わずか2週間で38万枚を売り上げた。そして全英シングル・チャートを凄まじい勢いで駆け上がり、6月14日には1位となり、以後計6週連続1位を記録したのである。
 アメリカでもビルボード誌で5位まで上昇。そのほか西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、カナダでも軒並みチャート1位となり、全世界で1,000万枚以上のセールスを記録する大ヒットとなった。

 この曲はバッハから多大な影響を受けており、「クラシックとR&Bの結婚」と絶賛された。なかでもジョン・レノン(ビートルズ)は、「今の音楽業界で、この曲以外は聴く価値がない」と、最大級の賛辞を贈った。また日本では荒井由実がこの曲を自身のルーツとし、これを聴いたのをきっかけに曲を自作するようになったと述べているほか、山下達郎は「レコードを買ったその日に100回は聴いた」と語っている。


 「青い影」は大ヒットしたものの、1967年7月には早くもメンバー・チェンジが行われた。レーベル側の意向でハリスンとロイヤーが解雇されたのである。ハリソンの後任にはB.J. ウィルソンが、ロイヤーの後任にはロビン・トロワーが迎えられたが、新メンバーのふたりはブルッカーのパラマウンツ時代のバンド・メイトであった。またバンドから離れたハリスンとロイヤーのふたりは、「フリーダム」というサイケデリック・ロック・バンドを結成した。
 1967年9月、アメリカでデビュー・アルバム『Procol Harum』が発表された。この後デラムからリーガル・ゾノフォンに移籍したが、1968年1月にゾノフォンからリリースされた母国イギリスでのデビュー・アルバムには、移籍に伴う契約上の問題から「青い影」は収録されなかった。


 1969年9月にはフィッシャーとナイツが脱退。その後任としてベースとキーボードの両方を演奏できるクリス・コッピングが加入する。コッピングもパラマウンツに在籍したことがあり、この時点でのプロコル・ハルムは、作詞のリードを除く全員がパラマウンツの元メンバーであった。
 この年発表したアルバム『ソルティ・ドッグ』は、初期の名作として評価されている。
 プロコル・ハルムはピアノとオルガンのツイン・キーボードという特異性を持っていたが、当時同じような編成のバンドとしてはザ・バンドやスプーキー・トゥースがあり、それぞれの類似点や相違点がしばしば話題となっていた。
 またこの頃はトロワーがジミ・ヘンドリックスに次第に傾倒するようになり、それに従ってバンド内でのトロワーのハードなギターの存在感も大きなっていった。


     
     Procol Harum 1977


 1971年に自分の音楽を追求するためにロビン・トロワーが脱退すると、バンドはブルッカーの持つクラシカルで重厚な音楽性に回帰するようになり、1972年にはカナダのエドモントン交響楽団との共演によるライブ・アルバム『プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ』を、翌73年には傑作『グランド・ホテル』を発表した。『グランド・ホテル』におけるラインナップは、ゲイリー・ブルッカー(vocal, piano)、クリス・コッピング(organ)、ミック・グラバム(guitar)、アラン・カートライト(bass)、B.J. ウィルソン(drums)、キース・リード(作詞)の6人であるが、以後約4年はこのメンバーで安定した活動を続けた。
 なお、1972年にはテン・イヤーズ・アフターとともに来日し、ジョイント・ライヴを行っている。


 1975年、当時ポップス・シーンに勃興していたAORの要素を取り入れたアルバム『プロコルズ・ナインス』を発表。
 1976年、『輪廻』の制作が始まったが、ゲイリー・ブルッカーはベーシストにクリス・コッピングを指名、オルガンにピート・ソリーを迎えた。このメンバー・チェンジにより、カートライトは1976年6月に脱退した。

 この年5月のアメリカでのプロモーション・ツアー終了後、ブルッカーを除く全メンバーが脱退を表明する。これを受けて、ブルッカーは「すべてをやりつくした」として、プロコル・ハルムの解散を決断した。
 1977年10月、プロコル・ハルムは最後の公演を行った。   



 1990年にB.J.ウィルソンが死去したが、これがきっかけとなって元メンバーのブルッカー、フィッシャー、トロワー、リードが集結し、哀悼の念をこめて1991年にプロコル・ハルムを再結成。ジェリー・スティーヴンソン(guitar, mandolin)、デイヴ・ブロンズ(bass)、マーク・ブレゼジッキー(drums)を加えて、14年ぶりの新作アルバム『放蕩者達の絆』を発表した。
 トロワー1991年秋には脱退したが、バンドはその後もライヴやアルバム制作など活動を続ける。2003年には再来日して四人囃子との共演を実現させた。


 2005年、フィッシャーが著作権を巡ってブルッカーとリードを相手に訴訟を起こし、印税を要求する。「『青い影』では、オルガン・ソロを書いただけでなく、ブルッカーの書いたオリジナルのコードに重要な改変を加え、2分36秒に渡ってオルガンで貢献している」というのがその理由である。しかしブルッカーは、「『青い影』はフィッシャーがプロコル・ハルムのメンバーになる前に書いたもので、フィッシャーはアレンジしたに過ぎない」と主張。
 2006年12月20日、高等法院はフィッシャーの訴えを原則として認め、40パーセントの著作権を認める判決を下した。ブルッカーは、この判決を受け入れられないとしてただちに控訴。
 2008年4月3日、控訴院は「青い影」におけるフィッシャーの貢献を認めながらも「フィッシャーにはそれに伴う印税は一切入らない」とした。
 2009年7月30日、貴族院は2008年の控訴審を覆し、フィッシャーの主張を認める最終判決をくだした。これによって法廷での争いは終わり、現在ではブルッカー、フィッシャー、リードの3人が「青い影」の作詞作曲者としてクレジットされている。
 なおこの2009年にはイギリスのBBCラジオ2で、「青い影」が「過去75年間最もオンエアされた曲」に選ばれた。


 2012年来日。この時は松任谷由実とのジョイント・ライヴを数か所で行って、話題になった。
 2017年4月、14年ぶりの新作アルバム『乙女は新たな夢に』を発表したが、このアルバムではクリームの作品に歌詞を提供していたことで知られるピート・ブラウンが作詞を担当している。
 2019年に行なったスイスでのライヴを最後に、コロナ感染症拡大の影響でツアーを休止していたが、その期間に3曲入りEP『Missing Persons(Alive Forever)』を録音(2021年5月リリース)。


 2022年2月19日、プロコル・ハルムの支柱であるゲイリー・ブルッカーが76歳で病没。ブルッカーの死去ともない、プロコル・ハルムはその活動を終えた。
 2023年3月23日、創設メンバーで作詞担当のキース・リードがガンのため76歳で死去。


 プロコル・ハルムは、「青い影」は歴史的なヒットを記録したものの、その類似作品を作ることをよしとせず、つねに革新的で独自性のある音楽を制作し続けたといえる。ロックとクラシックを見事に融合・昇華させた個性的な作風は異彩を放っており、いまなお彼らの音楽を評価する声は高い。


 1994年9月9日、イタリアのソルマーノ天文台でピエロ・シーコリとピエランジェロ・ゲッツィによって小惑星が発見されたが、この星は「プロコル・ハルム」と命名されている。もちろんバンド「プロコル・ハルム」にちなんだものである。


     
     Procol Harum 2007


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★コンピレーション・アルバム)

 <アルバム>
  1967年 青い影/Procol Harum
  1968年 月の光/Shine on Brightly
  1969年 ソルティ・ドッグ/A Salty Dog
  1970年 ホーム/Home
  1971年 ブロークン・バリケーズ/Broken Barricades
 ☆1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ
       Procol Harum Live with the Edmonton Symphony Orchestra
  1973年 グランド・ホテル/Grand Hotel
  1974年 異国の鳥と果実/Exotic Birds And Fruits
  1975年 プロコルズ・ナインス/Procol's Ninth
  1977年 輪廻/Something Magic
  1991年 放蕩者達の絆/The Prodigal Stranger
  1996年 The Long Goodbye
  1997年 Ain't Nothin' to Get Excited About(as Liquorice John Death)
 ☆1999年 BBC Live In Concert ※1974年録音
 ☆2000年 One More Time:Live in Utrecht, Netherlands, 13, February 1992
  2003年 ウェルズ・オン・ファイアー/The Well's on Fire
  2007年 Secrets of the Hive
 ☆2008年 One Eye to the Future -Live in Italy 2007
 ☆2009年 Procol Harum-In Concert With the Danish National Concert Orchestra and Choir
  2017年 乙女は新たな夢に/Novum

 <EP盤>
  2021年 Missing Persons(Alive Forever)※2019年録音

 <シングル>
  1967年 青い影/A Whiter Shade of Pale UK1位 US5位
  1967年 ホンバーグ/Homburg UK6位 US34位
  1968年 クワイト・ライトリー・ソー/Quite Rightly So UK50位
  1969年 ソルティ・ドッグ/A Salty Dog UK44位
  1969年 The Devil Came From Kansas
  1971年 ブロークン・バリケーズ/Broken Barricades
  1971年 シンプル・シスター/Simple Sister
  1972年 征服者/Conquistador UK22位 US16位
  1973年 2Robert’s Box
  1973年 Grand Hotel
  1973年 A Souvenir Of London
  1974年 狂夢/Nothing But the Truth
  1975年 パンドラの箱/Pandora's Box UK16位
  1975年 ファイナル・スラスト/The Final Thrust
  1976年 As Strong As Sansom
  1977年 Wizard Man


【メンバー変遷】

#1 1967

  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)※ex. The Paramounts
  マシュー・フィッシャー(organ)※ex. The Roman Empire
  レイ・ロイヤー(guitar)→ Freedom
  デヴィッド・ナイツ(bass)
  ボビー・ハリソン(drums)※ex. The Powerpack → Freedom
  キース・リード(lyrics)

#2 1967~1969
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)→ solo
  ロビン・トロワー(guitar)※ex. The Paramounts, Jam
  デヴィッド・ナイツ(bass)→ Ruby
  B.J.ウィルソン(drums)※ex. The Paramounts, George Bean & The Runners
  キース・リード(lyrics)

#3 1969~1971
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ロビン・トロワー(guitar)→ Jude
  クリス・コッピング(bass, organ)※ex. The Paramounts
  B.J.ウィルソン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#4 1971~1972
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  クリス・コッピング(organ)
  デイヴ・ボール(guitar)※ex.Big Bertha → Long John Baldry Band
  アラン・カートライト(bass)※ex. Every Which Way
  B.J.ウィルソン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#5 1972~1976
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  クリス・コッピング(organ)
  ミック・グラバム(guitar)※ex. Cochise
  アラン・カートライト(bass)→ Procol Harum #8
  B.J.ウィルソン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#6 1976~1977
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ピート・ソリー(organ)※ex. Snafu
  ミック・グラバム(guitar)
  クリス・コッピング(bass)→ Frankie Miller’s Full House
  B.J.ウィルソン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#7 1977.4~1977.5
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ピート・ソリー(organ)
  ミック・グラバム(guitar)→ Bandit
  ディー・マレー(bass)※ex. Elton John Band
  B.J.ウィルソン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#8 1977.10
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)→ solo
  ピート・ソリー(organ)→ Whitesnake
  ティム・レンウィック(guitar)
  アラン・カートライト(bass)
  B.J.ウィルソン(drums)→ Frankie Miller’s Full House
  キース・リード(lyrics)

#9 1991
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ロビン・トロワー(guitar)
  ジェリー・スティーヴンソン(guitar, mandolin)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#10 1991.8~1991.10
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ティム・レンウィック(guitar)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#11 1991.12~1992.4
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#12 1992.5~1992.6
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ドン・スノー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#13 1992.8
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  ローレンス・コットル(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#14 1993.6
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ジョシュ・フィリップス(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  イアン・ウォーレス(drums)
  キース・リード(lyrics)

#15 1993.7~1993.8
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  イアン・ウォーレス(drums)
  キース・リード(lyrics)

#16 1993.8~1993.9
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  イアン・ウォーレス(drums)
  キース・リード(lyrics)

#17 1995.7~1995.8
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  グラハム・ブロード(drums)
  キース・リード(lyrics)

#18 1996.2~1996.4
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  ヘンリー・スピネッティ(drums)
  キース・リード(lyrics)

#19 1997.7
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ピート・ソリー(organ)
  ミック・グラバム(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  デイヴ・ブロンズ(bass)
  クリス・コッピング(bass, organ, guitar)
  アラン・カートライト(bass)
  グラハム・ブロード(drums)
  キース・リード(lyrics)

#20 2000.9
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  ミック・グラバム(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#21 2001.5~2003
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  マシュー・フィッシャー(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#22 2004~2006.8
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ジョシュ・フィリップス(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  マーク・ブレゼジッキー(drums)
  キース・リード(lyrics)

#23 2006.10~2016
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ジョシュ・フィリップス(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  ジェフ・ダン(drums)
  キース・リード(lyrics)

#24 2016~2022
  ゲイリー・ブルッカー(piano, vocal)
  ジョシュ・フィリップス(organ)
  ジェフ・ホワイトホーン(guitar)
  マット・ペグ(bass)
  ジェフ・ダン(drums)
  ピート・ブラウン(lyrics)


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