ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

アラン・カートライト

2024-07-11 15:35:22 | bass

アラン・カートライト Alan George Cartwright


【パート】

  ベース・ギター、コントラバス、ヴォーカル

【生没年月日】
  1945年10月10日~2021年3月4日(75歳没)

【出身地】
  イングランド ロンドン

【経 歴】
  フレディー・マック・サウンド/Freddie Mack Sound

  スウィートウォーター・キャナル/Sweetwater Canal(1969)
  エヴリ・ウィッチ・ウェイ/Every Which Way(1970~1971)
  プロコル・ハルム(1971~1976, 1977)

 
 アラン・カートライトはロンドン北部で生まれた。
 1960年代中頃、元ライトヘヴィー級世界3位のボクサーでシンガーのフレディ・マックのバンド「ザ・マック・サウンド」(のち「フレディー・マック・サウンド」に改名)にベーシストとして加入する。このバンドのドラマーは、のちにプロコル・ハルムで一緒にプレイすることになるB.J.ウィルソン(drums)であった。


 1969年、ブルースやジャズを演奏するバンド「スィートウォーター・キャナル」に加わる。メンバーはカートライトのほか、アリキ・アシュマン(vocal)、ロイ・デイヴィーズ(keyboard)、トニー・ナイト(drums)、フレッド・ダルバート(guitar)、フィル・ケンジー(alto sax)、デイヴ・コックスヒル(alto sax)、ジェフ・ドリスコール(trumpet)、パット・ヒッグス(tuba)、レイ・ドラパー(valve trombone)の計10人であった。バンドはロニー・スコッツ・クラブなどで演奏活動を行った。


 1970年には、元ナイスのブライアン・デヴィソン(drums)、グラハム・ベル(vocal)、ジョン・ヘドリー(guitar)、ジェフリー・ピーチ(sax, flute)とともにジャズ・ロック・グループ「エヴリ・ウィッチ・ウェイ」を結成したが、アルバムを1枚発表しただけで、1971年春に解散。


 1971年8月、プロコル・ハルムに加入。カートライトが加入したことによって、それまでオルガンとベースを兼ねていたクリス・コッピングはオルガンに専念できるようになった。
 プロコル・ハルムには約5年間在籍。その間名作と名高い『グランド・ホテル』を含む3枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムの制作に参加した。
 1976年、プロコル・ハルムはアルバム『輪廻』を制作するため再結成したが、ゲイリー・ブルッカーはベーシストにクリス・コッピングを指名、オルガンにピート・ソリーを迎えた。このメンバー・チェンジにより、カートライトは1976年6月に脱退した。
 1977年、アルバム『輪廻』のリリース・ツアーが行われたが、ツアー終了後の5月にブルッカーを除く全員が脱退したため、ブルッカーは解散を表明した。
 1977年10月、プロコル・ハルムは最後の公演を行ったが、カートライトはこの時バンドに復帰した。その後カートライトは音楽業界から離れ、長年にわたってバーを経営した。
 1997年頃になってカートライトとゲイリー・ブルッカーは連絡を取り合うようになり、カートライトは同年のプロコル・ハルム30周年記念コンサートにも参加している。


 カートライトは2020年に胃がんと診断され、2021年3月4日に75歳で死去した。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <エヴリ・ウィッチ・ウェイ>
  1970年 エヴリ・ウィッチ・ウェイ/Brian Davison's Every Which Way
 
 <プロコル・ハルム>
  1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ
      /Live In Concert with The Edmonton Symphony Orchestra(UK48位, US5位)

  1973年 グランド・ホテル/Grand Hotel(US21位)
  1974年 異国の鳥と果物/Exotic Birds And Fruit(US86位)
  1975年 プロコルズ・ナインス/Procol’s Ninth(UK41位, US52位)


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ジョー・シャーミー

2024-06-25 13:25:52 | bass

ジョー・シャーミー Joe Schermie

 【本名】
   ジョー・シャーメッツラー/Joseph Edward Schermetzler

 【パート】

   ベース

 【生没年月日】
   1946年2月12日~2002年3月25日(56歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国ウィスコンシン州マディソン

 【経歴】
   コリー・ウェルズ・バンド/Cory Wells Blues Band(1967)
   スリー・ドッグ・ナイト/Three Dog Night(1968~1973)

   S. S. フールズ/S. S. Fools(1975~1976)
   K. A. T. T. (1998~2002)


 ジョー・シャーミーは、アメリカのベーシストである。「スリー・ドッグ・ナイト」のオリジナル・メンバーとして知られている。


 シャーミーは、1967年にコリー・ウェルズが結成した「コリー・ウェルズ・ブルース・バンド」に参加。
 しかしウェルズは1968年にハリウッドに戻り、ダニー・ハットン、チャック・ネグロンとともに「レッドウッド」の名前でデモ・テープの制作を始めた。レッドウッドの3人はギター、ベース、キーボード、ドラムからなるバック・バンドの結成を考え、シャーミーはこのバンドにベーシストとして参加することになった。この時集められたのはジム・グリーンスプーン(keyboard)、フロイド・スニード(drums)、ロン・モーガン(guitar)である。(モーガンはファースト・アルバムの録音前に脱退し、代わりにマイケル・オールサップが加入)
 このバンドが「スリー・ドッグ・ナイト」である。


 スリー・ドッグ・ナイトは、1968年11月にダンヒル・レコードからシングル『ノーバディ』でデビュー。
 『ノーバディ』はビルボード116位に終わったが、セカンド・シングル『トライ・ア・リトル・テンダーネス』がビルボード最高29位を記録、続く『ワン』がビルボード最高5位のヒットを記録して、バンドは一躍スターダムにのし上がった。
 シャーミーのベースは、R&Bなど黒人音楽をリスペクトするバンドの音楽性にマッチし、フロイド・スニードとともにバンドのボトムをしっかりと支えた。
 スリー・ドッグ・ナイトは
1970年「ママ・トールド・ミー」、1971年『喜びの世界』、1972年『ブラック・アンド・ホワイト』と、3年連続してビルボード1位に曲を送り込み、アメリカを代表する人気バンドのひとつに成長したが、シャーミーはバンドの中における自分の役割に失望し、「明らかに解決不可能な問題が生じた」ことを理由に、1973年初頭にバンドを脱退した。後任にはジャック・ライランドが選ばれた。


 スリー・ドッグ・ナイト脱退後のシャーミーは、1975年にスリー・ドッグ・ナイトのバンド・メイトだったフロイド・スニード(drums)、マイク・オールサップ(guitar)、そしてのち「TOTO」に加わることになるボビー・キンボール(vocal)、スタン・セイモア(guitar)、ウィン・デヴィリアー(keyboard)の6人で「S. S. フールズ」というグループを結成し、1976年にデビューアルバム『S. S. フールズ』を発表。
 バンドは短命に終わったが、その後のシャーミーはスリー・ドッグ・ナイトでバンド・メイトだったチャック・ネグロン(vocal)のバンドのベーシストとしていくつかのライヴで演奏したほか、スティーブン・スティルス(guitar)やイヴォンヌ・エリマン(vocal)などとも仕事をした。


 1998年、シャーミーはフロイド・スニード(drums)らとともに「K.A.T.T.」を結成。このバンドのメンバーはシャーミー、スニードのほか、カット・クライバー(vocal)、ロン・ディエゴ・ジョンストン(guitar)である。彼らは2002年にはツアーとレコーディングを行っている。
 またシャーミーは、2000年にトム・リール主演の料理番組「フード・ルール」(Food Rules starring Tom Riehl)にフロイド・スニードとともに出演したが、これが彼の最後のテレビ出演となった。
 シャーミーは2002年に心臓発作のためカリフォルニア州ロサンゼルスで亡くなった。56歳であった。


     
 


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <スリー・ドッグ・ナイト>

  1968年 ワン/Three Dog Night(US11位)
  1969年 融合/Suitable for Framing(US16位)
 ☆1969年 白熱のライヴ/Captured Live at the Forum(US6位)
  1970年 イット・エイント・イージー/It Ain't Easy(US8位)
  1970年 ナチュラリー/Naturally(US14位) 
 ★1971年 ゴールデン・ビスケッツ~スリー・ドッグ・ナイト・アーリー・ヒッツ/Golden Biscuits(US5位)
  1971年 ハーモニー/Harmony(US8位)
  1972年 セヴン・セパレート・フールズ/Seven Separate Fools(US6位)
 ☆1973年 アラウンド・ザ・ワールド/Around the World with Three Dog Night(US18位)
 ★1974年 喜びの世界/Joy to the World(US15位)
 ★1999年 20th Century Masters - The Millennium Collection:The Best of Three Dog Night(US109位)
 ★2004年 The Complete Hit Singles(US178位)

 <参加アルバム>
 *キム・フォウリー/Kim Fowley
  1968年 Outrageous


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デイヴ・ショグレン

2024-05-16 12:03:32 | bass

デイヴ・ショグレン David Paul "Dave" Shogren

 【パート】
   ベース、キーボード、ギター、バッキング・ヴォーカル

 【生没年月日】
   1950年10月12日~1999年12月14日(49歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ

 【経歴】
   ドゥービー・ブラザーズ/The Doobie Brothers(1970~1972)
   SMB(1996~1999)




 デイヴ・ショグレンはアメリカのベーシスト。ドゥービー・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。


 当初は12弦ギターを弾いていた。1970年、トム・ジョンストン(guitar, vocal)とジョン・ハートマン(drums)が在籍していたバンド「Pud」に、グレッグ・マーフィー(bass)の後任として加入し、ベーシストに転向。その後パトリック・シモンズ(guitar, vocal)が加わったPudは、同年にはバンド名を新たに「ドゥービー・ブラザーズ」と変えた。
 ドゥービーズは1970年11月にデビュー・アルバムのレコーディングを始め、1971年4月に『ドゥービー・ブラザーズ・ファースト』というタイトルで発表したが、これはほぼ話題にならなかった。
 1972年、セカンド・アルバム『トゥールーズ・ストリート』の制作中、ショグレンは『トゥールーズ・ストリート』(bass, acoustic-guitar)、『ホワイト・サン』(backing-vocals)の2曲の録音を残してドゥービーズを脱退。
 ショグレンのベース・ラインは、初期のドゥービー・ブラザーズ・サウンドを堅実に支えている。


     


 ドゥービーズ脱退後のショグレンは、サンフランシスコのベイエリアでセッション・ベーシストとして音楽活動を続ける。またカリフォルニアにスタジオを所有し、長年レコーディング業界に携わってプロデューサー、エンジニアとしても仕事をした。
 1993年から1995年までは、ライターのブラッド・フィーガーと協力して「Parrot Audio Books」という出版社を設立し、バート・レイノルズやジョン・デンヴァーの自伝などのナレーション付きの本を12冊出版した。ショグレンは録音の専門知識を活かしてチーフ・エンジニアを務め、「エクソシスト」「アルジャーノンに花束を」の20周年記念オーディオも担当している。


 1996年、ショグレンは彼のマネージャー兼プロデューサーであるポール・クルシオと協力して、チェット・マクラッケン(drums)、コーネリアス・バンパス(sax, keyboard)とともに「SMB」というバンドを結成した。
 このバンドは主にドゥービー・ブラザーズの曲を演奏するトリビュート・バンドで、ドゥービーズのヒット曲のレコーディングも行った。当初は「オリジナル・ドゥービー・ブラザーズ」と名乗って活動していたが、ドゥービーズはこのバンド名を使用することに対して訴訟を起こし、裁判所からは名前の差し止め命令が出された。
 SMBは1998年9月にフロリダ州クリアウォーターのクラブ・モアでライヴを行った。クラブ・モアの共同オーナーであるデイヴ・ケアリーはのちに「そのライブは大成功だった」と述べている。


 1999年12月14日、ショグレンはカリフォルニア州サンノゼの自宅で睡眠中に死去。49歳だった。
 健康状態は良好だったと言われているが、死の数日前にショグレンは父に体調不良であるとの電話をかけていたという。
 SMBは新しいCDを完成させており、ヨーロッパ・ツアーの計画を立てていたところであった。


     



【ディスコグラフィ】

 <ドゥービー・ブラザーズ>

  1971年 ドゥービー・ブラザーズ・ファースト/The Doobie Brothers
  1972年 トゥールーズ・ストリート/Toulouse Street US21位

 <参加アルバム>
  1974年 Ron Gardner「RG」
  1982年 Richard Horner「Talkin' 'Bout You」
  1992年 The Charlie Brechtel Band「Made In The U.S.A.」
  1999年 Joel Crawford「BeFriender」  


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ベリー・オークリー

2024-02-12 15:50:59 | bass

ベリー・オークリー Raymond Berry Oakley Ⅲ

 【パート】
   ベース、ヴォーカル 

 【生没年月日】
   1948年4月4日~1972年11月11日(24歳没)

 【出生地】
   アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

 【経歴】
   オールマン・ブラザーズ・バンド(1968~1972)


 ベリー・オークリーは、ベーシストであり、オールマン・ブラザーズのオリジナル・メンバーである。


 オークリーは、イリノイ州シカゴで生まれ、同州パークフォレスト郊外で育った。
 のちフロリダ州に移ったオークリーはディッキー・ベッツ(guitar)に出会い、彼のバンド「ブルース・メッセンジャーズ」(のち「セカンド・カミング」と改名)に加入する。
 その頃、ベッツとともに参加したセッションで、デュアン・オールマン(guitar)に出会う。
 その後デュアンとジェイモ(ジェイ・ジョハンソン drums)から連絡があり、3人でセッションを重ねたが、セカンド・カミングでの活動があったため、オークリーは間もなくバンドに戻った。
 ほどなくデュアンとジェイモはフロリダで新バンド結成のために動き始める。この時に呼び集められたのが、オークリーのほか、ディッキー・ベッツ(guitar)、グレッグ・オールマン(keyboard, vocal)、ブッチ・トラックス(drums, percussion)であった。こうして1968年3月にオールマン・ブラザーズ・バンドが結成され
た。


 1969年8月にニューヨークで制作を開始したファースト・アルバム『オールマン・ブラザーズ・バンド』は11月にリリースされた。翌70年9月にはセカンド・アルバム『アイドルワイルド・サウス』が順調にリリースされている。


 オークリーの愛器はフェンダー・ジャズ・ベースだが、これには彼のアイデアでギルドのピックアップが搭載されている。この愛器は「トラクター・ベース」の愛称で知られている。トラクターから繰り出されるどっしりしてメロディックなベース・ラインやフレーズはオークリーならではの個性的なものとして定評があり、「Bass Player」誌の「史上最も偉大なベーシスト100人」には46位にランクされている。


     


 バンドは1971年7月にライヴ・アルバム『フィルモア・イースト』を発表したが、これが全米アルバム・チャートで最高13位まで上昇するヒットを記録した。これによりオールマン・ブラザーズ・バンドは一躍アメリカを代表するバンドのひとつと見なされるようになったのである。
 ところが1971年10月29日、ジョージア州メイコンでバイクを運転中だったデュアン・オールマンが、急停車したトラックを避けようとして衝突し、24歳で死去。バンドが大ブレイクした矢先のアクシデントであった。
 しかし1972年に発表したアルバム『イート・ア・ピーチ』は全米4位の大ヒットを記録、オールマン・ブラザーズは蘇ったと思われた。ところが同年11月11日、今度はオークリーがバイク事故を起こす。
 ジョージア州メイコンを走行中だったオークリーは急な右カーブを走行中にセンター・ラインを越え、対向車線を走ってきたバスと衝突した。オークリーはバスの前部と衝突したあと後部にも衝突し、デュアンと同じようにバイクから投げ出されて頭を打った。にもかかわらずオークリーは治療を受けずに車で帰宅したが、約3時間後にせん妄症状と激しい頭痛が起こり、急遽病院に運ばれたが頭蓋骨骨折による脳浮腫のため死亡した。まだ24歳の若さであった。
 事故の場所は、デュアンの事故現場からわずか3ブロックしか離れておらず、また24歳での死亡もデュアンと同じである。担当医師は、「オークリーがたとえ事故現場から病院へ直行していたとしても、おそらく助からなかっただろう」と述べている。


 オークリーの死後、1973年に発表されたアルバム『ブラザーズ&シスターズ』は全米1位の大ヒットを記録。このアルバムには、オークリーのベースで録音された曲が2曲収められており、その中の1曲「ランブリン・マン」はシングルとしてリリースされ、全米2位の大ヒットを記録している。


 1995年、オークリーはオールマン・ブラザーズ・バンドのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。
 1998年、ジョージア州議会はジョージア州メーコンのルート41に架かる橋を「レイモンド・ベリー・オークリーⅢ・ブリッジ」、そして橋から走る道路を「デュアン・オールマン・ブールバード」と名付けることを決定した。決議では、これらの名前は「オールマン・ブラザーズ・バンドの故創設メンバーに敬意を表し、追悼するために付けられた」と述べられている。


 なお息子のベリー・オークリー・ジュニアは、「オールマン・ベッツ・バンド」のベーシストとして活躍している。


     

  


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

<オールマン・ブラザーズ・バンド>

  1969年 オールマン・ブラザーズ・バンド/The Allman Brothers Band US188位
  1970年 アイドルワイルド・サウス/Idlewild South US38位
 ☆1971年 フィルモア・イースト・ライヴ/At Fillmore East US13位
  1972年 イート・ア・ピーチ/Eat A Peach US4位
  1973年 ブラザーズ&シスターズ/Brothers & Sisters US1位 UK42位
 ★1973年 Beginnings US25位
 ★1989年 Dreams US103位
 ★1991年 オールマン・ブラザーズ・バンド・コレクション/A Decade of Hits 1969~1979 US39位


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エド・ガリアルディ

2023-10-19 14:33:38 | bass

エド・ガリアルディ Edward John "Ed" Gagliardi



 【パート】
   ベース、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1952年2月13日~2014年5月11日(62歳没)

 【出身】
   アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン

 【経歴】
   フォリナー/Foreigner(1977~1979)
   スパイズ/Spys(1981~1983)



 エド・ガリアルディはフォリナーのオリジナル・ベーシストである。



 1952年2月13日、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。
 20代前半の頃は、ニューヨーク周辺のローカル・バンドで活動していたが、全く無名の存在だった。
 1976年、フォリナーに加入。
 バンドが制作したデモ音源がアトランティック・レコードの目にとまり、契約が成立する。
 同年11月下旬にはファースト・アルバム「栄光の旅立ち」のレコーディングが始まった。



     

     左からエド・ガリアルディ、ミック・ジョーンズ、イアン・マクドナルド


 ガリアルディが制作に参加したフォリナーのアルバムは、『栄光の旅立ち』『ダブル・ヴィジョン』の2枚であるが、『栄光の旅立ち』は400万枚以上、『ダブル・ヴィジョン』は500万枚以上のセールスを記録している。
 1978年には初来日を果たし、日本武道館や大阪フェスティヴァル・ホールなどで公演を行った。
 フォリナーは一躍トップ・バンドのひとつにのし上がったが、ガリアルディは音楽性の相違を理由として、1979年に解雇される。
 
 
 1981年、フォリナーでバンド・メイトだったアル・グリーンウッド(keyboards)らとともに「スパイズ」というバンドを結成。
 スパイズはEMIと契約し、1982年にファースト・アルバム『スパイズ』をリリース。このアルバムはビルボード・アルバムチャートで138位となり、シングル『ドント・ラン・マイ・ライフ』はビルボード・ホット100で82位を記録した。
 スパイズは、1980年代に多く出現したシンセサイザーを多用するロック・バンドで、80年代ニュー・ウェイヴからの影響も窺えるメロディアスでハードな音作りはフォリナーの音楽性に通じる部分もあった。一部では高く評価されていたものの、1983年に発表したセカンド・アルバム『ビハインド・エネミー・ラインズ』のセールスは低迷、その後契約に関してレーベル側と合意に至らず、解散した。


 スパイズ解散後のガリアルディは音楽業界から離れ、2000年代初頭にはニューヨーク州グレンコープのラリーレクサス社でサービス部門のライターとして働いていた。
 2014年5月11日、8年間の闘病生活の末、ニューヨーク市でガンのため死去。62歳だった。
 ガリアルディは、7月31日にフロリダで行われる予定の、フォリナー時代のバンド・メイトだったルー・グラム(vocal)の公演でグラムと再会する予定だったという。
 葬儀は家族や友人が非公開で執り行ったということである。


     


 ガリアルディは、本来は右利きであるにもかかわらず、ポール・マッカートニーの大ファンであったことから、左利き用のリッケンバッカーを使用していた。楽器は、ほとんどの場合ガリアルディ自身が再設計し、改造していたという。


 2017年にフォリナーの40周年記念北米ツアーが行われたが、このうち10月6日~7日のミシガン州マウント・プレザントでの公演で、ガリアルディを除くオリジナル・メンバーが「衝撃のファースト・タイム」など5曲を演奏、またオリジナル・メンバーと現ラインナップが一緒に2曲演奏した。ミック・ジョーンズ(guitar)は、「衝撃のファースト・タイム」を演奏する際、「エド・ガリアルディに捧げる」とコメントしたということである。



【ディスコグラフィ】

 <フォリナー>
  1977年 栄光の旅立ち/Foreigner US4位
  1978年 ダブル・ヴィジョン/Double Vision US3位、UK32位

 <スパイズ>

  1982年 スパイズ/Spys
  1983年 ビハインド・エネミー・ラインズ/Behind Enemy Lines 


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ボズ・バレル

2023-07-12 21:27:16 | bass

ボズ・バレル Raymond "Boz" Burrell

 【パート】
   ベース、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1946年8月1日~2006年9月21日(60歳没)

 【出身】
   イングランド リンカンシャー州ホルビーチ

 【経歴】
   ティー・タイム・フォー/Tea Time Four(1963~1965)
   ボズ・ピープル/Boz People(1965)
   ザ・サイドワインダーズ/The Sidewinders(1965~1966)
   フィール・フォー・ソウル/Feel For Soul(1966~1967)
   パノラマ/Panorama(1968)
   ミラーズ/Mirrors(1970)
   センティピード/Centipede(1970, 1971)
   キング・クリムゾン/King Crimson(1970~1972)
   ディック&ザ・ファイアメン(1971~1976)
   スネイプ/Snape(1972)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1973~1982)
   ヒンクリーズ・ヒーローズ/Hinkley's Heros(1976)
   ロジャー・チャップマン&ザ・ショートリスト/Roger Chapman & The Shortlist(1981~1983)
   チャック・ファーリー/Chuck Farley(1983)
   ナイトフライ/Nightfly(1984)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1986~1988)
   バッド・カンパニー/Bad Company(1998~1999)



 1946年、イングランドのリンカンシャーにあるホルビーチという町で生まれる。
 1963年、学友と「ティー・タイム・フォー」というローカル・バンドを結成し、アコースティック・ギターとして参加する。このバンドはおもにジャズ、ブルース、ソウルなどの黒人音楽を演奏していた。
 1965年春、マネージャーのジャック・バリーの勧めで仲間4人とともにロンドンに拠点を移し、バンド名を「ボズ・ピープル」と改めて、マーキー・クラブやテレビに出演するようになる。ボズ・ピープルは6月にはオーディションによりイアン・マクレガン(keyboard のちスモール・フェイセズ)を加え5人編成となり、EMIのコロンビア・レーベルと契約を交わした。この年後半にはヴォーカルのマイク・プリオールが脱退したため、バレルがヴォーカルを兼ねることになる。しかし商業的な成功には至らず、11月にはやむなく解散した。
 この年、ボズはロジャー・ダルトリーの後任ヴォーカリストとして「ザ・フー」に加入する話もあったということだが、これは結局実現しなかった。


 ボズ・ピープル解散後のバレルは「ザ・サイドワインダーズ」や「フィール・フォー・ソウル」などさまざまなローカル・バンドをバックに起用して活動したほか、1966年に「ボズ」の名でソロとしてデビュー、68年にかけてコロムビアから6枚のソロ・シングルを発表した。
 1968年にリリースしたシングル「アイ・シャル・ビー・リリースト」は、ボブ・ディランの曲のカヴァーであるが、このレコードではベースがチャス・ホッジスのほか、第1期ディープ・パープルのメンバーであるジョン・ロード(organ)、リッチー・ブラックモア(guitar)、イアン・ペイス(drums)が演奏を担当している。


 その後に参加した「ミラーズ」というバンドがロンドン・マーキー・クラブでのギグを最後として1970年10月に解散すると、キース・ティペットによる60人編成のジャズ・オーケストラ「センティピード」に参加して、アルバム『セプトーバー・エナジー』の制作に関わった。この『セプトーバー・エナジー』のプロデューサーを務めたのが、キング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップである。フリップに紹介されたバレルは、キング・クリムゾンのヴォーカリストのオーディションを受け、合格する。
 当時クリムゾンのメンバーだったメル・コリンズ(sax)は、「ボズは、1960年代には「ボズ・ピープル」や「ザ・サイドワインダーズ」での活動によってミュージシャンの間ではよく知られた存在だった。オーディションに来た時点でその実力は群を抜いていたので、即座に"決まり"だと思った」と語っている。
 この頃のキング・クリムゾンはアルバム『リザード』を発表(1970年5月)した後で、ゴードン・ハスケル(bass, vocal)とアンディ・マカロック(drums)が脱退したために新しいメンバーを探していたところだった。


 ヴォーカルにバレル、ドラムスにイアン・ウォーレスの参加が決まったクリムゾンだったが、ベーシストの適任者はなかなか見つからず、ようやく採用したリック・ケンプ(スティーライ・スパン)からもリハーサルの直前に加入を断られてしまう。そんな時、スタジオでたまたまベース・ギターを弾いて遊んでいたバレルを見たフリップは、もともとギターを弾けるバレルにベーシストを兼任させることを思いついた。バレルはフリップから集中的にベース・ギターの指導を受け、わずか2ヵ月という短期間で複雑なクリムゾンのレパートリーを全てマスターしたのである。
 こうしてバレルはヴォーカリスト兼ベーシストとなり、1971年4月に、フランクフルトでフリップ、コリンズ、ウォーレスと共にキング・クリムゾンのステージに立った。これはクリムゾンにとっては実に16ヵ月ぶりのライヴであった。
 またクリムゾン以外にも、クリムゾンやバッド・カンパニーに在籍中の1971年から1976年にかけては「ディック&ザ・ファイアメン」というジャム・セッション系グループで不定期に活動しているが、1976年にはディック&ザ・ファイアメンが発展したやはりジャム・セッション系グループ「ヒンクリーズ・ヒーローズ」にも不定期に参加している。
 

 さてフリップは、バレルがベーシストに決定してからもベーシストを探し続けている。
 ジョン・ウェットンにも加入を打診したが、この時は「今はその時期ではない」として断られている。一方コリンズとウォーレスは、バレルが技術的に向上している事を理由に、バンドの編成を現状のまま維持するようフリップに要望した
 バレルはアルバム『アイランズ』でベースを弾き、一定の成果を上げたが、次第にフリップとそれ以外のメンバーの間で対立が生じるようになる。バレル、コリンズ、ウォーレスの3人はブルース指向であり、フリップとは方向性が異なっていたからである。
 1972年の年明けのリハーサルでは、フリップとバレルら3人との間に生じた亀裂は深刻なものとなっていた。こうした状況からフリップはバンドの解散を決めたが、このときすでにマネジメント側によって北米ツアーのスケジュールが決定していた。このためメンバーはしぶしぶツアーの契約履行に同意し、2月からキング・クリムゾンのアメリカ・ツアーはスタートした。そしてバンドはツアーが終了した4月に解散した。


 キング・クリムゾンでベース・ギターをマスターしたバレルは、これ以降おもにベーシストとして活動してゆくことになる。
 バレルは、キング・クリムゾンの解散後はコリンズ、ウォーレスとともにアメリカに残り、アレクシス・コーナーのバンド「スネイプ」に参加した。
 スネイプではアルバム『アクシデンタリー・ボーン・イン・ニューオーリンズ』と2枚組ライブ・アルバム『ライヴ・オン・ツアー・イン・ジャーマニー』に参加している。


 その後、セッション・ミュージシャンとして活動していたが、1973年にポール・ロジャース(vocal 元フリー)、サイモン・カーク(drums 元フリー)、ミック・ラルフス(guitar 元モット・ザ・フープル)が結成した「バッド・カンパニー」のオーディションを受け、合格する
 バッド・カンパニーはレッド・ツェッペリンが設立したレーベル「スワン・ソング」と契約。この「スーパー・グループ」の出現はロック界の注目を一身に集めた。
 バッド・カンパニーは、1974年にアルバム『バッド・カンパニー』でデビュー。このアルバムは全世界で1200万枚以上を売り上げ、アルバム・チャートで全米1位、全英3位となる大ヒットを記録し、一躍有数の人気バンドにのし上がった。
 バレルは『バッド・カンパニー』から1982年に発表された『ラフ・ダイアモンド』までの、6枚のアルバムの制作に参加している。
 バンドは順調にキャリアを重ねていったが、『ラフ・ダイアモンド』の発表後、メンバー間の軋轢が高じて解散する。 


 その後のバレルの音楽活動は、スタジオ経営のかたわらセッション・ベーシストとして演奏する生活を送る。
 1982年、ジョン・ロードのソロ・アルバム『時の過ぎゆくままに』に収録されている「ハリウッド・ロックンロール」の録音に参加。
 1984年にはスペンサー・ジェイムス(vocal, guitar)、ミッキー・ムーディ(guitar)、ミッキー・シモンズ(keyboard)、ザック・スターキー(drums)らと「ナイトフライ」を結成したが、短命に終わっている。

 1986年、ボーカリストにブライアン・ハウ(元テッド・ニュージェント・バンド)を迎えて再結成したバッド・カンパニーに参加したが、同年秋にアルバム『フェイム・アンド・フォーチュン』リリースした後に脱退する。
 1996年、アルヴィン・リー、ルビー・ターナーらとベスト・オブ・ブリティッシュ・ブルース・ツアーに参加。
 1998年にオリジナル・メンバーによって再結成されたバッド・カンパニーに参加、久々に元気な姿を見せた。1999年には4曲の新曲を含むベスト・アルバム『バッド・カンパニー・アンソロジー』のリリースに伴うツアーが行われた。

 しかし、「本格的にジャズに取り組みたい」という理由により、2002年のツアーには参加しなかった。
 20世紀の終わり頃からは、1960年代からの旧友であるスコットランドのブルース・シンガー、ボーカリストのタム・ホワイトと組み、「シュー・ストリング・バンド」や「ケルティック・グルーヴ・コネクション」で活動した。


 2006年9月21日、スペインの自宅にて心臓発作で死去。60歳だった。
 その日、ボズはタム・ホワイトらとともにとあるパーティで演奏することになっており、その準備をしていたところ、ギターを持って椅子に座った途端に倒れたとのことである。


          


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <ソロ・シングル>
  1966年 Isn't That So
  1966年 Meeting Time
  1966年 Pinocchio
  1966年 The Baby Song
  1968年 I Shall Be Released
  1968年 Light my Fire

 <センティピード>
  1971年 セプトーバー・エナジー/Septober Energy

 <キング・クリムゾン>
  1971年 アイランズ/Islands UK30位、UK76位
 ☆1972年 アースバウンド/Earthbound
 ☆2002年 レディース・オブ・ザ・ロード/Ladies of the Road ※録音1971~1972年
 ★2017年 Sailor's Tales(1970-1972)

 <アレクシス・コーナー&スネイプ>
  1973年 アクシデンタリー・ボーン・イン・ニューオーリンズ/Accidentally Born in New Orleans
 ☆1973年 ライヴ・オン・ツアー・イン・ジャーマニー/Live On Tour in Germany

 <バッド・カンパニー>
  1974年 バッド・カンパニー/Bad Company UK3位、US1位
  1975年 ストレート・シューター/Straight Shooter UK3位、US3位
  1976年 ラン・ウィズ・ザ・パック/Run With the Pack UK4位、US5位
  1977年 バーニン・スカイ/Burnin' Sky UK17位、US15位
  1979年 ディソレーション・エンジェル/Desolation Angels UK10位、US3位
  1982年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamonds UK15位、US26位
 ★1985年 ベスト・オブ・バッド・カンパニー/10 from 6 US137位
  1986年 フェイム・アンド・フォーチュン/Fame and Fortune US106位
 ★1999年 バッド・カンパニー・アンソロジー/The Original Bad Company Anthology US189位
 ☆2006年 ライヴ・イン・アルバカーキ1976/Live Albuquerque Nm Usa ※1976年録音

 <ロジャー・チャップマン&ザ・ショートリスト>
  1982年 He Was... She Was... You Was... We Was...
  1982年 Riff Burglar (The Legendary Funny Cider Sessions Vol.1)

 <タム・ホワイト>
  1991年 Keep it under your hat(Tam White & The Band)
  1999年 The Celtic Groove Connection(Tam White/Boz Burrell)

 <ゲスト参加>
 *Ellis
  1972年 Riding on the Crest of A Slump
  1973年 Why Not?

 *アルヴィン・リー&マイロン・ルフェーヴル
  1973年 On the Road to Freedom

 *チリ・チャールズ
  1973年 Busy Corner

 *エディ・ハリス
  1973年 E. H. in the U. K.

 *エスター・フィリップス
  1973年 Black-Eyed Blues

 *ピート・シンフィールド
  1973年 スティル/Still

 *チャップマンーホイットニー
  1974年 Streetwalkers

 *アレクシス・コーナー
  1974年 Alexis Korner

 *アメイジング・ブロンデル
  1974年 Amazing Blondel

 *ダスター・ベネット
  1975年 Fingertips

 *アルヴィン・リー
  1975年 パンプ・アイアン!

 *ピート・タウンゼント&ロニー・レーン
  1977年 Rough Mix

 *ボクサー
  1979年 Bloodletting

 *ジョン・ロード
  1982年 時の過ぎゆくままに/Before I Forget

 *ロジャー・チャップマン
  1983年 Mango Crazy

 *ピーター・グリーン
  1986年 Lastest Game

 *クリス・ファーロウ
  1991年 Farlowe

 *スティーヴ・マリオッツ・スクラバーズ
  1992年 Steve Marriott's Scrubbers ※1974年録音

 *ジョーン・アルマトレーディング
  1995年 What's Inside

 *ルビー・ターナー
  1998年 Call Me By Name


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ジョン・ウェットン

2023-05-31 14:45:09 | bass

ジョン・ウェットン John Kenneth Wetton

 【パート】
   ベース、ヴォーカル、ギター、キーボード

 【生没年月日】
   1949年6月12日~2017年1月31日(67歳没)

 【出生地】
   イングランド ダービーシャー州ウィリントン

 【経歴】
   ブラザーフッド/Brotherhood(1969~1970)
   モーグル・スラッシュ/Mogul Thrash(1970~1971)
   ルネッサンス/Renaissance(1971)
   シルヴァー・ジェイド(1971)
   ファミリー(1971~1972)
   キング・クリムゾン(1972~1974)
   ロキシー・ミュージック(1974~1975)
   ユーライア・ヒープ(1975~1976)
   ブライアン・フェリー・バンド(1976~1977)
   U.K.(1977~1980)
   ウィッシュボーン・アッシュ(1980~1981)
   エイジア(1981~1983、1984~1986、1989~1991、2006~2017)
   U.K.(2011~2015)


 ブリティッシュ・ロック史上に残るベーシストのひとり。
 キング・クリムゾンユーライア・ヒープ、ロキシー・ミュージック、エイジア、U.K.、ウィッシュボーン・アッシュなど、数多くの名だたるバンドで活躍した。
 テクニカルかつ重厚なベースが持ち味である。かつ幅広い音楽性を備えており、コンポーザーとしても定評がある。
 哀愁を帯びた深みのある声を持ち、ヴォーカリストとしても評価が高い。
 

 ダービーシャー州ウィリントンに生まれ、10代前半の頃に一家でイギリス南西部のドーセット州ボーンマスに転居する。
 教会のオルガン奏者だった兄ロバートの影響で、幼い頃からクラシック音楽に馴れ親しみ、足鍵盤のないオルガンやピアノで練習する兄のために連弾のようにして低音部のパートを受け持ったりしていた。
 やがて当時の人気バンドであるエヴァリー・ブラザーズやシャドウズなどのロックンロール、あるいはR&Bバンドに夢中になり、エレキギターを弾き始める。
 学生時代に音楽活動を始めたが、この頃、のちにソング・ライティングでチームを組むリチャード・パーマー=ジェイムスと知り合い、1964年にはパーマー=ジェイムスのバンド「The Corvetts」(のち「The Palmer-James Group」に発展)に加入している。


 学校を卒業すると、地元ボーンマスやロンドンなどでプロ・ミュージシャンとして本格的に活動を始める。
 パーマー=ジェイムスと新たなバンド「Tetrad」組んだのを皮切りに、「スプリンター」というバンドに加わったり、ヘレン・シャピロのバックを務めたりするなど、徐々に活躍の場を広げていった。
 スプリンター解散後の1969年秋、ウェットンとエド・ビックネル(drums)は、「ダンディ・ホーンズ」の名で活動していたマルコム・ダンカン(sax)とロジャー・ボール(sax)と出会い、新たなバンドの構想を練るようになる。そしてこのバンドに興味を持った元コロシアムのジェームズ・リザーランド(guitar)が合流し、「ブラザーフッド」が結成された。
 その後すぐに「ジェームス・リザーランズ・ブラザーフッド」と名を改めたバンドは、ドラマーをビル・ハリスンに替え、マイケル・ローゼン(guitar, trumpet)を加えて、RCAと契約を交わすことになった。この時に同名のバンドが存在することが分かったため、1970年5月に名前を「モーグル・スラッシュ」と改めて契約した。
 1971年2月にデビュー・アルバム『モーグル・スラッシュ』をリリース。
 しかし間もなくバンドは解散したため、セッション・ミュージシャンとして働くようになった。この頃、短期間「ルネッサンス」や「ジェイド」に加入している。


 1971年9月、ジョン・ワイダーの後任として「ファミリー」に参加し、アルバム『フィアレス』の録音に参加。
 しかし、次作『バンドスタンド』が発表された1972年9月、ポーツマス時代からの友人ロバート・フリップからの要請でファミリーを脱退し、同年4月に新生「キング・クリムゾン」に参加した。この当時のメンバーはフリップ、ウェットン、ビル・ブルーフォード(drums)、デヴィッド・クロス(violin)、ジェイミー・ミューア(percussions)の5人である。ちなみに、ウェットンがファミリーに参加した1971年9月には、すでにロバート・フリップからクリムゾン入りを要請する最初のアプローチを受けている。
 クリムゾンではベース、ヴォーカルはもちろん、旧友で作詞担当のパーマー=ジェイムスを含めた他のメンバーとともに多くの曲作りに携わり、『太陽と戦慄』(1973年)、『暗黒の世界』(1974年)、『レッド』(1974年)の3枚のアルバム制作に加わった。これらはキング・クリムゾンのみならずロック史上に残る傑作との呼び声が高いアルバムである。
 ウェットンとブルーフォードの複雑な変拍子をものともしないリズム陣はまさに鉄壁で、ウェットン自身もベーシスト、そしてヴォーカリストとしてさらなる高い評価を得た。
 しかし1974年の『レッド』発表直後に、フリップが突然解散を宣言。


 クリムゾン解散後の1974年にロキシー・ミュージックに加入。そして1975年にはユーライア・ヒープに加入したが、ウェットンはプログレッシヴ・ロック畑のミュージシャンと見られていたため、この動きはロック界をあっと言わせた。
 ユーライア・ヒープでも曲作りに参加するなどバンドの中枢として活躍、『幻想への回帰』(1975年)、『ハイ・アンド・マイティ』(1976年)の2枚のアルバムを残して脱退した。


 1976年、ビル・ブルーフォードとインプロヴィゼイションを主体とする新グループの構想を練り、キング・クリムゾンの再結成を視野に入れてロバート・フリップに声をかけるが、フリップはこれを受け入れなかった。そこでイエスを脱退してソロ活動を行っていたリック・ウェイクマンとのスーパー・トリオ「ウェイクマン・ウェットン&ブルーフォード」(仮称)を結成し、リハーサルを行う。しかしウェイクマンが当時所属していたレコード会社と意見が合わなかったため、公式でのバンド活動には至らず、曲の一部がのちにブルーフォードのソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』に別アレンジで収録されるに留まった。


 ウェットンは新たなバンドの構想を練りつつ、1976年からはブライアン・フェリーのソロ・アルバム、ソロ・ツアーに参加する。1977年に入って再びブルーフォードと新バンド結成について話し合うようになり、ウェットン、ブルーフォードに、エディ・ジョブソンとアラン・ホールズワースを加えたプログレッシブロック・バンド「U.K.」を結成。このバンドは「スーパー・グループ」として大きな注目を集め、1978年にはファースト・アルバム『U.K.』を発表したが、同年の北米ツアー終了後の11月、音楽性の相違を理由にブルーフォードとホールズワースが脱退。 1979年にはセカンド・アルバム『デンジャー・マネー』を発表、5月には日本公演を行ったが、ウェットンとジョブソンのあいだに生まれた溝が深刻になり、1979年末に活動を停止した。


 1980年、初のソロアルバム『コート・イン・ザ・クロスファイアー』を発表。
 1980年末、ウィッシュボーン・アッシュに加入してアルバム『ナンバー・ザ・ブレイヴ』の制作に参加する。
 1980年、ウェットンはこの年解散したイエスのマネージャーだったブライアン・レーンによって、元イエスのスティーヴ・ハウ(guitar)とジェフ・ダウンズ(keyboard)のふたりに引き合わされる。これに元エマーソン・レイク&パーマーのカール・パーマー(drums)が加わり、プログレッシブ・ロック界のスター・プレイヤーが集まったスーパー・グループ「エイジア」が結成された。1982年に発表したデビュー・アルバム『詠時感~時へのロマン』はビルボードで9週連続1位の大ヒットを記録、エイジアは世界的な人気を得るに至った。
 セカンド・アルバム『アルファ』もヒットしたが、この頃からハウとの関係が悪化し、ウェットン自身のアルコール依存症という問題もあって、1983年秋にバンドを解雇された。
 エイジアは一時グレッグ・レイクを代役として迎えたが、ウェットンは翌84年には復帰する。
 1985年、ウェットンが主導して制作したサード・アルバム『アストラ』のセールスが伸び悩んだため、バンドから解雇される。
 1989年、再結成されたエイジアに参加するが、バンドの限界を感じたことを理由に1991年脱退。


 この後は主にソロ・アーティストとして活動する一方、プログレッシブ・ロック系のアーティストのトリビュート・アルバムに参加したり、プロジェクト活動を積極的に行った。
 スティーヴ・ハケットを中心とした大物ぞろいのバンドでツアーを行うなどし、1996年にはイアン・マクドナルドらとともにスティーヴ・ハケットのバック・バンドの一員として来日。
 1996年、ウェットン、ブルーフォード、ジョブソンの3人でU.K.を再結成したが、レコーディングを行ったものの、ウェットンとジョブソンの対立がもとで、間もなく解散。
 1999年~2000年かけてはカール・パーマーと新バンド「Quango」を結成。


 2002年、エイジアでの作曲面のパートナーだったジェフ・ダウンズと再会し、ライブで共演したのをきっかけとして、ダウンズとのユニット「ウェットン/ダウンズ」を結成し、2005年にアルバム『アイコン』を発表
 2006年にはオリジナル・メンバーによって再結成されたエイジアに参加、精力的にツアーを行っていたが、2007年夏に行われた定期検診で心臓の冠動脈に異常が見つかったため、一時活動を停止する。同年8月10日にバイパス手術を受けて順調に回復、2008年に活動を再開した。また、オリジナル・メンバーでのアルバム『フェニックス』が発表された。
 2009年11月、エディ・ジョブソンのプロジェクト「U-Zプロジェクト」に参加したことがきっかけとなり、2011年には正式にU.K.を再々結成してライブ活動を行っていたが、2015年に活動を停止した。

 2017年1月、闘病中だった大腸がんの治療に専念するため、エイジアでの活動を一時休止することを表明。しかしその後間もなく病状が悪化し、同月31日午前5時25分にドーセット州ボーンマスの自宅で死去した。67歳だった。
 ウェットンが死去した2日後、エリック・クラプトンが「For John W」という小品をSNSで公開、話題となった。


          



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレイション・アルバム)

 <モーグル・スラッシュ>
   1971年 モーグル・スラッシュ/Mogul Thrash(旧邦題「炸裂!モーグル・スラッシュ」)

 <ファミリー>
   1971年 フィアレス/Fearless UK14位 US177位
   1972年 バンドスタンド/Bandstand UK15位 US183位

 <キング・クリムゾン>
   1973年 太陽と戦慄/Larks' Tongues in Aspic UK20位 US61位
   1974年 暗黒の世界/Starless and Bible Black UK28位 US64位
   1974年 レッド/Red UK45位 US66位
  ☆1975年 USA/USA US125位

 <ユーライア・ヒープ>
   1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy UK7位 US85位
   1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty UK55位 US161位

 <ロキシー・ミュージック>
  ☆1976年 VIVA! ロキシー・ミュージック/Viva! UK6位 US81位

 <ブライアン・フェリー・バンド>
   1974年 アナザー・タイム、アナザー・プレイス (いつかどこかで)/Another Time, Another Place UK4位
   1976年 レッツ・スティック・トゥゲザー/Let's Stick Together UK19位 US160位
   1977年 イン・ユア・マインド(あなたの心に)/In Your Mind UK5位 US126位
   1978年 ベールをぬいだ花嫁/The Bride Stripped Bare UK13位 US159位

 <U.K.>
   1977年 U.K.(憂国の四士)/U.K. UK43位 US65位
   1978年 デンジャー・マネー/Danger Money US45位
  ☆1979年 ナイト・アフター・ナイト(ライヴ・イン・ジャパン)/Night After Night US109位
  ☆1999年 U.K. ライヴ・イン・ボストン/Concert Classics, Vol.4
  ☆2013年 リユニオン-ライヴ・イン・トーキョー/ーReunionー Live in Tokyo ※2011年録音
  ☆2015年 エディー・ジョブソン-U.K.特別公演『憂国の四士』『デンジャー・マネー』完全再現ライヴ カーテン・コール/Curtain Call ※2013年録音

 <ウィッシュボーン・アッシュ>
   1981年 ナンバー・ザ・ブレイヴ/Number the Brave UK61位
   2008年 アーガス・スルー・ザ・ルッキング・グラス/Argus Through the Looking Glass ※「マーティン・ターナー & フレンズ」名義

 <エイジア>
   1982年 詠時感~時へのロマン/Asia UK11位 US1位
   1983年 アルファ/Alpha UK5位 US6位
   1985年 アストラ/Astra UK68位 US67位
  ☆1991年 ライヴ・イン・モスクワ 1990/Live in Moscow
  ☆1997年 ライヴ・イン・ノッティンガム 1990/Now-Live in Nottingham
  ☆2007年 Extended Versions
  ☆2007年 ファンタジア~ライヴ・イン・トーキョー 2007/Fantasia:Live in Tokyo
   2008年 フェニックス/Phoenix UK166位 US73位
   2010年 オメガ/Omega UK135位
  ☆2010年 スピリット・オブ・ザ・ナイト~ザ・フェニックス・ツアー・ライヴ・イン・ケンブリッジ/Spirit of the Night-Live in Cambridge 09
  ☆2011年 Live at the London Forum(The Omega Tour)
  ☆2012年 レゾナンス-オメガ・ツアー~ライヴ・イン・バーゼル 2010/-Resonance- The Omega Tour 2010
   2012年 XXX~ロマンへの回帰/XXX
   2014年 グラヴィタス~荘厳なる刻/Gravitas
  ☆2014年 ハイ・ヴォルテージ・ライヴ2010/High Voltage-Live
  ☆2015年 エイジア・ライヴ・イン・サンフランシスコ 2012/Axis XXX Live in San Francisco MMXII
  ☆2015年 Live in America
  ☆2017年 シンフォニア~ライヴ・イン・ブルガリア 2013/-Symfonia- Live in Bulgaria 2013

 <コラボレーション・アルバム>
 ◇ジャックナイフ
   1980年 アイ・ウィッシュ・ユー・ウッド/I Wish You Would
 ◇ウェットン・マンザネラ(with フィル・マンザネラ)
   1987年 ウェットン・マンザネラ/Wetton/Manzanera
 ◇with リチャード・パーマー=ジェイムス
   1998年 モンキー・ビジネス/Monkey Business 1972-1997
 ◇with ケン・ヘンズレー
   2002年 One Way or Another
   2002年 More Than Conquerors
 ◇アイコン(ウェットン/ダウンズ)
   2002年 ウェットン/ダウンズ/Wetton Downes
   2005年 アイコン/Icon
   2005年 Heat of the Moment '05 EP
   2006年 ルビコン/IconⅡ:Rubicon
   2009年 アイコン3/Icon 3
 ◇with ディストリクト97
  ☆2014年 ワン・モア・レッド・ナイト:ライヴ・イン・シカゴ (ジョン・ウェットン、キング・クリムゾンを歌う)/One More Red NightLive in Chicago
 ◇with ザ・レス・ポール・トリオ
   2015年 ニューヨーク・ミニット/New York Minute

 <ソロ・アルバム>
   1980年 コート・イン・ザ・クロスファイアー/Caught in the Crossfire
   1994年 ヴォイス・メイル/Voice Mail ※旧邦題『バトル・ラインズ』
  ☆1995年 チェイシング・ザ・ドラゴン/Chasing the Dragon (Live in Japan)
  ☆1996年 アクスティカ/ライヴ・イン・アメリカ/Akustika:Live in America
   1997年 アークエンジェル/Arkangel
   1998年 チェイシング・ザ・ディアー/Chasing the Deer ※サウンドトラック
  ☆1998年 ライヴ・イン・トウキョウ/Live in Tokyo 1997
  ☆1999年 ノーマンズ・ランド/Nomans Land
  ☆1999年 ヘイジー・モネット/Hazy Monet Live in New York City May 27, 1997
  ☆1999年 サブ・ローサ(ライヴ・イン・ミラン)/Sub Rosa Live in Milan Italy
   2000年 ウェルカム・トゥ・ヘヴン/Welcome to Heaven
  ☆2000年 ライヴ・イン・トウキョウ1999/Live at the Sun Plaza Tokyo 1999
   2003年 ロック・オブ・フェイス/Rock of Faith
  ☆2003年 ライヴ・イン・オオサカ/Live in Osaka
  ☆2003年 ライヴ・イン・ジ・アンダーワールド/Live in the Underworld
  ☆2003年 ライブ・イン・アージェンティーナ/Live in Argentina
  ☆2003年 ライヴ・イン・スウェーデン/Live in Stockholm 1998
  ☆2004年 アマータ/Amata
  ☆2004年 アジェンダ/Agenda
   2011年 レイズド・イン・キャプティヴィティー/Raised in Captivity
  ☆2015年 ライヴ・ヴィア・サテライト/Live via Satellite
  ★2015年 Studio Recording Anthology

 <ゲスト参加>
  ◇デヴィッド・バイロン
   1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners
  ◇イアン・マクドナルド
   1999年 ドライヴァーズ・アイズ/Drivers Eyes


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トレヴァー・ボルダー

2023-05-14 23:21:51 | bass

トレヴァー・ボルダー Trevor Bolder


【パート】

  ベース、ギター、トランペット、トロンボーン、ヴォーカル

【生没年月日】
  1950年6月9日~2013年5月21日(62歳没)

【出生地】
  イングランド ヨークシャー州キングストン・アポン・ハル

【経 歴】
  スパイダーズ・フロム・マース/Spiders From Mars(1971~1976)
  ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1976~1981)

  ウィッシュボーン・アッシュ/(1981~1983)
  ユーライア・ヒープ/Uriah Heep(1983~2013)
  サイバーノウツ/Cybernauts(2000~2001)


 イギリスのベーシスト、ソングライター、プロデューサー。

 ユーライア・ヒープの5代目、7代目のベーシストとして、足掛け37年の間バンドを支え続けた。
 タイトかつグルーヴィーなボルダーのベースは、ブリティッシュ・ロックにおいて正統派と呼べるものだった。


 ボルダーは、イングランド北部に位置するヨークシャーのキングストン・アポン・ハルで生まれた。
 彼の父親はトランペット奏者だった。ボルダーも学校のバンドでコルネットを吹くようになり、1960年代前半には地元のR&Bバンドで演奏するようになった。
 その後ビートルズを聴いて衝撃を受けたボルダーは、1964年に兄とバンドを組むことになり、ベース・ギターを始める。
 やがて地元ハルで活動していた「ザ・ラッツ」に加入。このバンドでリード・ギターを担当していたのが、同じキングストン・アポン・ハル生まれのミック・ロンソンである。


 1971年、ボルダーはミック・ロンソン(guitar)のいたデヴィッド・ボウイのバック・バンドに、トニー・ヴィスコンティの後任ベーシストとして加入する。
 同年、ボルダーとミック・ロンソン、そしてやはりボウイのバック・バンドのメンバーだったウッディ・ウッドマンジー(drums)の三人は一時ボウイの元を離れ、「ロノ」というバンド名でシングル『Fourth Hour Of My Sleep』を発表。そのほかアルバムも1枚録音したそうだが、そのテープの所在は不明のままだという。
 彼らは間もなくボウイに呼び戻され、再びバック・バンドに加入したが、これがのちに「スパイダーズ・フロム・マーズ」と名付けられるバンドである。
 ボルダーは「スパイダーズ・フロム・マーズ」在籍時に『ハンキー・ドリー』(1971年)、『ジギー・スターダスト』(1972年)、『アラジン・セイン』(1973年)、『ピンナップス』(1973年)の4枚のアルバムの制作に参加している。
 1973 年にはドキュメンタリー映画『Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』に出演。
 1974年、ミック・ロンソンのソロ・アルバム『スローター・オン・10th・アヴェニュー』の録音に招かれ、ベースのほかトランペットとトロンボーンを演奏。このアルバムは全英9位まで上昇するヒットとなった。


 1976年、ジョン・ウェットンの後任としてユーライア・ヒープに加入。
 この時のオーディションの課題曲は「七月の朝」だったそうだが、ボルダーのレコード・プレイヤーの具合がわるく、回転数がおかしくなっていたため、違ったキーで練習してオーディションに臨んだという。
 1977年2月、ヒープ加入後の初録音であるアルバム『ファイアフライ』がリリースされる。
 その後『罪なきいけにえ』(1977年)、『堕ちた天使』(1978年)、『征服者』(1980年)の制作に携わったが、『征服者』発表後にオリジナル・メンバーのケン・ヘンズレー(keyboards, guitar)が脱退。これがきっかけとなり、やはりオリジナル・メンバーのミック・ボックス(guitar)を除く全員がバンドから離れ、ユーライア・ヒープは活動を停止する。


 ヒープから離れたボルダーは、1981年春にウィッシュボーン・アッシュに加入。この時もジョン・ウェットンと入れ替わっての加入であった。
 1982年にアルバム『ツイン・バレルズ・バーニング』を発表しているが、これがウィッシュボーン・アッシュ在籍時唯一の参加アルバムである。
 1983年、ユーライア・ヒープは15枚目のスタジオ・アルバム『ヘッド・ファースト』を制作したが、ボルダーはそのリリース直後にボブ・ディズリーの後任としてユーライア・ヒープに復帰。
 ボルダーは、アルバム・リリース直後の「ヘッド・ファースト・ツアー」からステージを務め、その後2011年の『イントゥ・ザ・ワイルド』までの全てのスタジオ・アルバムでベースを担当した。1991年のアルバム『ディファレント・ワールド』ではプロデュースを行っている。


 1993年、「スパイダーズ・フロム・マース」時代のバンド・メイトで、旧友のミック・ロンソンが死去。
 彼のトリビュート・コンサートは1994年に行なわれたが、ボルダーはこの時に結成されたバンドのベーシストを務めた。
 この時のバンドのメンバーは、ボルダーのほかジョー・エリオット(vocal、デフ・レパード)、フィル・コリン(guitar, vocal、デフ・レパード)、ウッディ・ウッドマンジー(drums、スパイダース・フロム・マース)、ディック・ディセント(keyboards, vocal)の5人で、彼らはのちバンドを「サイバーノウツ」と名付け、1970年代前半のデヴィッド・ボウイの曲を演奏するという目的で一時的に活動した。
 サイバーノウツは、2000年にはライヴ・アルバム『Live』を発表。2001年1月には来日しており、この時ボルダーもメンバーの一員として同行している。
 2001年にはスタジオでレコーディングも行われたが、その後のサイバーノウツは目立った活動をしていない。
 2010年10月、ボルダーはユーライア・ヒープの一員として来日。この時クラブチッタで行われたライヴは、2枚組アルバム『ユーライア・ヒープ~ライヴ・イン・カワサキ 2010』に完全収録されている。


 ボルダーは2013年1月に膵臓癌の手術を受け、その後療養生活を送っていたが、2013年5月21日にコッティンガムにあるキャッスルヒル病院で癌のため62歳で死去。療養中に代役を務めていたデイヴ・リマーが後任のユーライア・ヒープ第8代目ベーシストとなった。
 ボルダーの死によって制作途中だった彼のソロ・アルバムは未完となったが、その後家族や友人によって完成し、2020年11月に『セイル・ザ・リヴァーズ』のタイトルでリリースされた。レコーディングにはユーライア・ヒープやウッシュボーン・アッシュのメンバーが参加している。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレイション・アルバム)

 <スパイダーズ・フロム・マース>
  1971 ハンキー・ドリー/Hunky Dory UK3位, US57位
  1972 ジギー・スターダスト/The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars UK5位, US21位
  1973 アラジン・セイン/Aladdin Sane UK1位, US17位
  1973 ピンナップス/Pin Ups UK1位, US23位
 ☆1983 Ziggy Stardust - The Motion Picture(recorded live 1973) UK17位, US89位
 ☆2008 Santa Monica '72(recorded live 1972) UK61位

 <ユーライア・ヒープ>
  1977 ファイアフライ/Firefly UK166位
  1977 罪なきいけにえ/Innocent Victim
  1978 堕ちた天使/Fallen Angel US186位
  1980 征服者/Conquest UK37位
  1985 イクウェイター/Equator UK79位
 ☆1986 ライヴ・イン・ヨーロッパ1979/Live in Europe 1979
 ☆1988 ライヴ・イン・モスクワ/Live in Moscow 1987
  1989 レイジング・サイレンス/Raging Silence
  1991 ディファレント・ワールド/Different World
  1995 シー・オブ・ライト/Sea of Light
 ☆1996 スペルバインダー~ライヴ・イン・ジャーマニー~/Spellbinder Live 1994
  1998 ソニック・オリガミ/Sonic Origami
 ☆2000 Future Echoes of the Past
 ☆2001 アコースティカリー・ドリヴン~ライヴ2000/Acoustically Driven
 ☆2001 Electrically Driven
 ☆2002 真・魔の饗宴~ライヴ2001/The Magician's Birthday Party
 ☆2003 ライヴ・イン・ザ・USA~ライヴ2002/Live in USA
 ☆2004 マジック・ナイト~ライヴ2003/Magic NIght
  2008 ウェイク・ザ・スリーパー/Wake the Sleeper
 ★2009 Celebration-Forty Years of Rock
  2011 イントゥ・ザ・ワイルド/Into the wild
 ★2015 Totally Driven(recorded 2000-2001)

 <ウィッシュボーン・アッシュ>
  1982 ツイン・バレルズ・バーニング/Twin Barrels Burning UK22位

 <サイバーノウツ>
  2000 Cybernauts Live

 <ソロ・アルバム>
  2020 セイル・ザ・リヴァーズ/Sail the rivers

 <ゲスト参加>
 *ダナ・ギレスピー
  1973 Weren't Born a Man
 *ケン・ヘンズレー
  1980 Free Sprit
  1994 From Time to Time
 *ミック・ロンソン
  1974 Slaughter on 10th Avenue UK9位
  1975 Play Don't Worry UK29位
  1997 Memorial Concert
  1998 Main Man


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ピーター・ジャイルズ

2023-04-22 11:37:18 | bass

ピーター・ジャイルズ Peter Anthony Giles

【パート】
  ベース、ヴォーカル


【生没年月日】
  1944年6月17日~


【出生地】
  イングランド ハンプシャー州ハヴァント


【経歴】
  ジョニー・キング&ザ・レイダース/Johnny King & The Raiders(1960~1961)
  デイヴ・アンソニー&ザ・レベルス/Dave Anthony & The Rebels(1961)
  ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス/The Dowlands & The Soundtracks(1961~1963)
  ザ・サンズ・コンボ/The Sands Combo(1963)
  ジ・インターンズ/The Interns(1963)
  ザ・トレンドセッターズ・リミテッド/The Trendsetters Limited(1963~1967)
  ザ・ブレイン/The Brain(1967)

  ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ/Giles, Giles & Fripp(1967~1968)
  キング・クリムゾン/King Crimson(1970)
  マクドナルド & ジャイルズ/McDonald & Giles(1970)
  21st センチュリー・スキッツォイド・バンド/21st Century Schizoid Band(2002~2007)


 ハンプシャー州ハヴァントに生まれ、南イングランドのドーセット州ボーンマス郊外で育った。
 実兄のマイケル・ジャイルズは、のちのキング・クリムゾン初代ドラマーである。
 10代の頃、兄マイケルの影響で音楽に興味を持ち、ベースを弾き始める。

 1960年、地元のスキッフル・バンド「ジョニー・キング&ザ・レイダース」に加わる。これがジャイルズ兄弟の本格的な音楽活動の始まりである。1961年にバンドが解散すると「デイヴ・アンソニー&ザ・レベルス」に加入。1961年11月に兄マイケルとともにボーンマスの人気グループ「ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス」に参加する。
 ザ・ダウランド・ブラザーズを離れてからは「ザ・サンズ・コンボ」と「ジ・インターンズ」を経て、1963年12月にトロンボーン奏者をフィーチュアしたR&Bバンド「ザ・トレンドセッターズ・リミテッド」にマイケルとともに加入する。このバンドでは4枚のシングル・レコードの録音に参加したり、ベン・E・キングの英国公演時のバックを務めたりしている。



 ザ・トレンドセッターズ・リミテッドは1967年6月に「ザ・ブレイン」(The Brain)と改名して方向性をサイケデリック・ミュージックにシフトしようとしたが、現状を打開できず同年8月に解散する。
 ジャイルズ兄弟は新バンドを結成するため新聞にシンガー兼オルガニスト募集の広告を出す。これに応募してきたのが、オルガニストではなかったが同じドーセット州出身であるギタリストのロバート・フリップであった。オーディションの結果、3人は1967年8月に「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」を結成した。


 ジャイルズ・ジャイルズ&フリップは1967年の終わり頃にロンドンへ進出し、デラムとレコーディング契約を結ぶ。
 この年6月にはイアン・マクドナルド(元インフィニティ)と、彼の恋人であるジュディ・ダイブル(vocal、元フェアポート・コンヴェンション)がジャイルズ・ジャイルズ & フリップに加入。また、イアン・マクドナルドを通じて、イアンのインフィニティ時代のバンド・メイトだったピート・シンフィールドとも知り合い、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップはシンフィールドから歌詞を提供されるようになる。
 同年7月、イアンと破局したジュディ・ダイブルがバンドを脱退。
 同年9月13日、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップはデビュー・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』を発表したが、セールスは全く振るわなかった。


          


 12月になると、ロバート・フリップとの関係に溝ができたことが原因で、ピーターはジャイルズ・ジャイルズ & フリップを脱退する。後任として参加したのがグレッグ・レイク(bass, vocal)である。
 ジャイルズ・ジャイルズ & フリップは一度もライヴでの演奏をすることなく活動に終止符を打ち、バンド名を改めて再出発を図ることになるが、その新たなバンド名が「キング・クリムゾン」である。


 ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ脱退後のピーターはコンピューターのオペレーターとして働いていたが、1970年にロバート・フリップからの依頼を受けて、キング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』の録音に参加、ベースを担当した。当時のキング・クリムゾンは過渡期にあり、メンバーはフリップとシンフィールドのふたりになっていたためである。

 この年は引き続いてマイケル・ジャイルズとイアン・マクドナルドのユニット「マクドナルド & ジャイルズ」が残した唯一のアルバム『マクドナルド & ジャイルズ』のレコーディングにも参加している。
 その後はセッション・ミュージシャンとして活動していたが、1974年頃からは弁護士の書記となり、長年にわたってイギリス音楽業界の著作権管理団体「パフォーミング・ライト・ソサエティ」のために働いた。

 1977年にはエルヴィス・コステロのバック・バンドのオーディションを受けたが、ピーターのベースはコステロが求めているものではなかったため、採用には至らなかった。
 1978年、マイケル・ジャイルズのソロ・アルバム『プログレス』(発表は24年後の2002年)の録音に参加したのを最後にしばらく音楽活動から遠ざかるが、1980年代半ばからジャズ・バンドのベーシストとして活動を再開。


 2001年、かつてジャイルズ・ジャイルズ&フリップがイアン・マクドナルドとジュディ・ダイブルを加えて制作した未発表音源の編集に携わる。この音源はLP『Metaphormosis』、CD『The Brondesbury Tapes』として同年に発表された。
 2002年、マイケル・ジャイルズやイアン・マクドナルド、メル・コリンズなどキング・クリムゾンの元メンバーらとともに「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」(命名はロバート・フリップ)を結成。このバンドは初期キング・クリムゾンやマクドナルド&ジャイルズのナンバーをレパートリーとしており、2007年まで活動を続け、高い評価を得た。
 2009年、ザ・ダウランド・&ザ・サウンドトラックスやトレンドセッターズ・リミテッドなど、1967年以前に録音された音源を『The Giles Brothers』としてリリースした。


 ピーターは2001年以来妻ヤスミン(keyboard, vocal)とともに「Aluna」というユニットで音楽活動を続けていたが、2018年にアルバムを制作。これは2021年に「Yasmin and Peter Giles」名義のアルバム『Insights』として発表された。


          


 ピーター・ジャイルズは中長距離ランナーとしての顔も持っている。
 2015年にはリヨンで行われた世界マスターズ陸上競技選手権に出場し、1500m70歳代の部で2位となっている。


【参加アルバム】☆=ライヴ・アルバム ★コンピレイション・アルバム

 <ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ>

  1968年 チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ/The Cheerful Insanity of Giles, Giles & Fripp
  2001年 The Brondesbury Tapes(CD。LPとしては『Metaphormosis』のタイトルで発表)


 <キング・クリムゾン>
  1970年 ポセイドンのめざめ/In the Wake of Poseidon

 <マクドナルド & ジャイルズ>
  1970年 マクドナルド & ジャイルズ/McDonald & Giles

 <21st センチュリー・スキッツォイド・バンド>
  2002年 Official Bootleg Volume One
 ☆2004年 Tokyo 2002
 ☆2004年 Live in Italy
 ☆2005年 Live in Japan
 ☆2006年 Pictures of a City - Live in New York

 <Peter Giles, Michael Giles>
 ★2009年 The Giles Brothers 1962-1967

 <Yasmin and Peter Giles>
  2021年 Insights

 <レコーディング・セッション>
  1972年 Nigel Lived(Murray Head)

  1994年 Vast Empty Spacec(Todd Dillingham)
  2002年 プログレス/Progress(マイケル・ジャイルズ)※録音1978年
  2002年 Passion(Murray Head)

 


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グレッグ・レイク

2022-11-28 20:15:32 | bass

グレッグ・レイク Gregory Stuart "Greg" Lake


【パート】
  ベース、ギター、ボーカル
  

【生没年月日】
  1947年11月10日~2016年12月7日(69歳没)


【出生地】
  イングランド ドーセット州プール


【経 歴】
  ザ・シェイム(1967)
  ザ・ゴッズ(1968)
  シャイ・リムス(1968)
  キング・クリムゾン(1968~1970)
  エマーソン・レイク & パーマー(1970~1980)
  グレッグ・レイク・バンド(1981~1982)
  エイジア(1983~1984)
  エマーソン・レイク & パウエル(1985~1986)
  エマーソン・レイク & パーマー(1991~1998)
  エマーソン・レイク & パーマー(2010)


 イングランドの南岸、ドーセット州プールのパークストーン地区の貧しい家に生まれ、郊外のオークデイルで育った。父ハリーはエンジニア、母パールは主婦であった。
 1957年にリトル・リチャードのシングル『ルシール』を買ったことがきっかけで、ロックンロールに夢中になる。
 12歳の誕生祝いに母からギターを贈られ、それがきっかけでクラシック・ギターのレッスンを受けるようになる。この時の指導者ドン・ストライクは、少年時代のロバート・フリップにもギターを教えた人物だという。ちなみにレイクもフリップも、のち「キング・クリムゾン」の創設に参加することになる。
 ヘンリー・ハービン・セカンダリー・モダン・スクールを卒業するとプール港で貨物の積み降ろしに従事し、その後短期の製図工として働いたが、17歳の時にフルタイムのミュージシャンになろうと決意した。


 1965年、「ユニット・フォー」という名のバンドを組む。これがレイクが初めて参加したバンドである。

 その後「ザ・タイム・チェックス」などのローカルバンドを経て、1967年「ザ・シェイム」(The Shame)を結成し、同年9月にはシェイム唯一のシングル『Don't Go Away Little Girl』をリリース。
 1967年の終わりにシェイムを脱退すると、1968年3月に、当時ケン・ヘンズレーリー・カースレイク(いずれものちユーライア・ヒープ)が在籍していた「ザ・ゴッズ」(The Gods)にベーシスト兼ヴォーカリストとして参加。
 1968年9月にはゴッズから離れ、「シャイ・リムス」(Shy Limbs)にギタリスト兼ヴォーカリストとして加入するが、数ヵ月で脱退する。


 1968年、ロバート・フリップ(guitar)、マイケル・ジャイルズ(drums)、ピーター・ジャイルズ(bass)からなる「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」にイアン・マクドナルド(keyboard, woodwins)、ピート・シンフィールド(作詞、照明)、ジュディ・ダイブル(vocal)が加わる。同年7月にこのバンドからダイブルが脱退したが、同年11月に、旧知のフリップから誘われて、レイクがダイブルの後任ヴォーカリストとしてグループに参加。同年11月に今度はピーター・ジャイルズが脱退し、これを受けてレイクはベースとヴォーカルを兼任することになる。
 こうしてこのバンドのラインナップは、フリップ、レイク、マクドナルド、ジャイルズ、シンフィールドの5人に固まり、1968年12月にピート・シンフィールドによって「キング・クリムゾン」と命名された。
 1969年10月に発表されたキング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、文字通りロック界に衝撃を与えた歴史的名盤として、現在でも高く評価されている。
 『クリムゾン・キングの宮殿』の大成功でクリムゾンは瞬く間にロック界の寵児となった。それと同時にレイクの甘く深みのあるヴォーカルも「ロック界の至宝」と絶賛され、一躍ロック界有数のボーカリストと目されるようになった。
 クリムゾンは1970年にセカンド・アルバムの制作にとりかかったが、レイクはレコーディング途中から姿を見せなくなる。これは「エマーソン・レイク & パーマー」結成に向けての準備のためであった。結局セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』にはヴォーカリストとしてのみの参加となり、同年そのままクリムゾンから脱退した。


     


 1969年、クリムゾンはアメリカ・ツアーを行い、そこでキース・エマーソン率いる「ナイス」とステージを共にする。12月14日~16日に行われたフィルモア・ウエストでのライヴでもナイスとクリムゾンは顔を合わせ、この時レイクはエマーソンと意気投合したという。ふたりはその後もコンタクトを取り合い、バンド結成へ向けて動くことで意向が一致した。
 ふたりはアトミック・ルースターのドラマー、カール・パーマーに声をかける。パーマーがこのオファーを承諾して1970年6月に結成されたのが、プログレッシヴ・ロック界ばかりかロック史上に大きな足跡を残すことになる「エマーソン・レイク & パーマー」である。
 ナイス、キング・クリムゾン、アトミック・ルースターというブリティッシュ・ロックの重要バンドを支えた3人が集まったEL&Pは「スーパー・グループ」として大きな注目を集める。
 1970年8月29日、ワイト島で開催された「第3回ワイト島ポップ・フェスティヴァル」がEL&Pの実質的デビューである。この時のエネルギッシュなパフォーマンスは聴衆から大きな支持を得た。


 もともとギタリストだったレイクは、キング・クリムゾンではベーシスト兼ヴォーカリストだったが、EL&Pではベース、ギター、ヴォーカルを担当。レイクがギターを弾いている時にはエマーソンがモーグ・シンセサイザーあるいはハモンド・オルガンの左手でベース・ラインを弾いていた。
 またアコースティック・ギターで弾き語りをしたり、8弦エレクトリック・ベースを使用するなど、いちベーシストにとどまらない多彩な活躍を見せた。


     


 EL&Pは1979年の解散までにライヴ・アルバム2枚を含む9枚のアルバムを発表したが、デビュー作から1973年『恐怖の頭脳改革』まで5作連続で全英アルバム・チャートでトップ5入りしているほか、デビュー作から1974年のライヴ・アルバム『レディース・アンド・ジェントルメン』までは7作連続で全米アルバム・チャートのトップ20に送り込んでいる。
 バンドは「四大プログレッシヴ・ロック・バンド」のひとつに数えられるなど、世界的な人気を得たのはもちろん、商業的にも大きな成功を収めた。
 1977年8月のアメリカ・ツアーを最後にEL&Pはいったん活動を停止。それ以後アルバム4枚(『ELP四部作』『作品第2番』『ラヴ・ビーチ』『イン・コンサート』)をリリースしたが、セールスは下降の一途をたどり、メンバーの間でも活動を継続させようとする熱意が薄れ、1980年2月にEL&Pの解散が正式に発表された。


 解散後のレイクはソロ。アルバム『グレッグ・レイク & ゲイリー・ムーア』の制作に着手する。
 レコーディングはイギリスとアメリカで行われたが、イギリスでのレコーディングに参加したメンバーで、1981年6月から「グレッグ・レイク・バンド」として活動を始める。メンバーはレイクのほか、ゲイリー・ムーア(guitar)、トミー・アイアー(keyboard)、ティストラム・マーゲッツ(bass)、テッド・マッケンナ(drums)の5人である。このアルバムはギター・サウンドをメインとしたロック・サウンドで、EL&Pのサウンドとは一線を画したものである。
 同年秋にハマースミス・オデオンでライヴを行っているが、この模様を収めているのが、1996年に発表されたライヴ・アルバム『イン・コンサート』である。
である。
 グレッグ・レイク・バンドは1982年春まで活動を続けたが、ゲイリー・ムーアがソロ・プロジェクトに取りかかったため活動を終えた。
 1983年に発表したレイクのセカンド・ソロ・アルバム『マヌーヴァーズ』はファースト・アルバム制作時に録音された音源の残りを収録したものである。


 1983年、ジョン・ウェットンの後任として、当時カール・パーマーが在籍していた「エイジア」に一時的に加入、ツアーのため来日も果たした。この公演の模様はライブ・ビデオ『エイジア・イン・エイジア』に収録されている。


     


 1985年、エマーソン・レイク & パーマー再結成の話が持ち上がったが、当時カール・パーマーは「エイジア」に参加していたため合意に至らず、代わりとしてコージー・パウエルが加わり、「エマーソン・レイク & パウエル」として1986年より活動を開始した。
 しかしエマーソン・レイク & パウエルは、1枚のアルバムを残しただけで、パウエルの脱退により解散。
 折からカール・パーマーがエイジアから離れたため、レイクとエマーソンはパーマーに声をかけてリハーサルに入ったが、今度はレイクが脱退する。残されたふたりはロバート・ベリーを迎えて「3」を結成するが、アルバム1枚をリリースしたのみで解散した。


 レイクはソロ活動を始めるつもりではあったが、レコード会社がセールス面での危惧を示したため、同じくソロ活動を希望するもレコード会社の反対で暗礁に乗り上げていたエマーソンと協議した末、1991年にエマーソン・レイク & パーマーを再結成する。
 1992年、アルバム『ブラック・ムーン』を発表。その後ワールド・ツアーを行い、約20年ぶりの来日公演も行った。
 EL&Pは1993年に4枚組アルバム『リターン・オブ・ザ・マンティコア』を、1994年にはアルバム『イン・ザ・ホットシート』をリリース、その後もツアーを行うなどしていたが、1997年のモントルー公演を最後に活動を停止した。


 2001年、リンゴ・スター & ヒズ・オール・スター・バンドのアメリカ・ツアーに参加。「クリムゾン・キングの宮殿」と「ラッキー・マン」を歌った。
 2003年、「ザ・フー」のベーシスト、ピノ・パラディーノがツアーに出ていたため、依頼されてフーの新曲『リアル・グッド・ルッキング・ボーイ』のレコーディングでベースを担当。
 2005年には「グレッグ・レイク・バンド」を組織してドイツとイギリスでツアーを行っている。バンドのメンバーはデヴィッド・アーチ(david Arch keyboard)、フローリアン・オパール(Florian Opahle guitar)、トレヴァー・バリー(Trevor Barry bass)、ブレット・モーガン(Brett Morgan drums)であった。
 2010年、キース・エマーソンとのコンビでアメリカ・ツアーを行い、新たな編曲でナイス、キング・クリムゾン、EL&Pの曲を演奏した。エマーソン & レイクでの来日公演も予定されていたが、エマーソンの病気によりキャンセルとなった。
 同年7月25日、その夜限りでEL&Pを再再結成し、ロンドンで行われた「ハイ・ボルテージ・フェスティヴァル」にメイン・アクトとして登場した。カール・パーマーは、「今後はEL&Pとしては活動しない」とコメントしたが、その言葉通りこれ以後エマーソン・レイク & パーマーとしてのライブは行われなかった。
 2013年にはにソロとして来日公演を行い、キング・クリムゾンとELPの他、エルヴィス・プレスリーなどお気に入りの楽曲も交えて歌った。

 柔軟な発想によるベース・ラインを創り出すベーシストであり、エマーソン・レイク & パーマーのキーボード・トリオの枠にとらわれないスケールの大きなサウンド構築に貢献している。
 使用ベースは、当時としては珍しい8弦ベースであった。(ただし8本の独立した弦ではなく、ひとつの弦が2本セットになっているもの)
 ヴォーカリストとしての存在感の大きさは特筆されるべきものである。「21世紀の精神異常者」のようなハード・ロックから「エピタフ」のような壮大なバラードまで歌いこなす。とくに「ラッキー・マン」「スティル・ユー・ターン・ミー・オン」などのトラッド色の濃いフォーキーな曲で一層その甘い声が映える。


 2016年3月10日、キース・エマーソンが死去。訃報を知ったレイクは哀悼メッセージを送った。そして同年12月7日、レイク自身もガンのためロンドンで死去。69歳だった。
 残されたカール・パーマーは悲しみに打ちひしがれたが、かつてレイクが『展覧会の絵』で歌った「死はすなわち生」という歌詞を引用したメッセージを発表してレイクの死を悼んだ。
 パーマーは、2017年に自己のバンド「Carl Palmer's ELP LEGACY」でエマーソンとレイクを追悼するワールド・ツアーを行っている。


     


【ディスコグラフィ】
 ☆アルバム(*=ライヴ・アルバム)
 <キング・クリムゾン>
  1969年 クリムゾン・キングの宮殿/In the Court of the Crimson King(イギリス5位 アメリカ28位 日本96位)
  1970年 ポセイドンのめざめ/In the Wake of Poseidon(イギリス4位 アメリカ31位)
  1997年 Epitaph*(1969年録音)(日本42位)
  1998年 Live at Marquee*(1969年録音)
  2000年 Live in Hyde Park*(1969年録音)
  2004年 Live at Fillmore East*(1969年録音)

 <エマーソン・レイク & パーマー>
  1970年 エマーソン・レイク & パーマー/Emerson Lake & Palmer(イギリス4位 アメリカ18位 日本66位)
  1971年 タルカス/Tarkus(イギリス1位 アメリカ9位 日本55位)
  1971年 展覧会の絵/Pictures at Exhibition*(イギリス3位 アメリカ10位 日本2位)
  1972年 トリロジー/Trilogy(イギリス2位 アメリカ5位 日本4位)
  1973年 恐怖の頭脳改革/Brain Salad Surgery(イギリス2位 アメリカ11位 日本18位)
  1974年 レディース・アンド・ジェントルメン/Welcome Back My Friends…*(イギリス6位 アメリカ4位 日本23位)
  1977年 ELP四部作/Works Volume 1(イギリス9位 アメリカ12位 日本13位)
  1977年 作品第2番/Works Volume 2(イギリス20位 アメリカ37位 日本38位)
  1978年 ラヴ・ビーチ/Love Beach(イギリス48位 アメリカ55位)
  1979年 イン・コンサート/In Concert*(アメリカ73位)
  1992年 ブラック・ムーン/Black Moon(アメリカ78位 日本16位)
  1993年 ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール/Live at the Royal Albert Hall*(日本90位)
  1993年 ワークス・ライヴ/Works Live*
  1994年 イン・ザ・ホットシート/In the Hot Seat(日本60位)
  1997年 Live at the Isle of Wight Festival 1970*
  1997年 Live in Poland*
  1997年 King Biscuit Flower Hour:Greatest Hits Live*(1973年~1974年、1977年録音)
  1998年 Then and Now*(1974年、1997年~1998年録音)
  2010年 A Time and a Place*(1971~1978年録音)
  2010年 High Voltage(2010年録音)*
  2013年 Live in Montreal 1977*
  2015年 Once Upon a Time:Live in South America 1997*
  2015年 Live at Montreux 1997* 

 <エイジア>
  2001年 Enso Kai:Live in Tokyo*(1983年録音)

 <エマーソン・レイク & パウエル>
  1986年 エマーソン・レイク & パウエル/Emerson Lake & Powell(イギリス35位 アメリカ23位 日本44位)
  2010年 ライヴ。イン・コンサート/Live in Concert

 <ソロ・アルバム>
  1981年 グレッグ・レイク & ゲイリー・ムーア/Greg Lake(イギリス62位 アメリカ62位)
  1983年 グレッグ・レイク & ゲイリー・ムーアⅡ マヌーヴァーズ/Manoeurves
  1995年 イン・コンサート/King Biscuit Flower Hour Presents Greg Lake in Concert*(1981年録音)
  2007年 Greg Lake*(2005年録音)
  2013年 ソングス・オブ・ア・ライフタイム/Songs of a Lifetime*(2012年録音)
  2017年 ライヴ・イン・ピアツェンツァ/Live in Piacenza*(2012年録音)

 <キース・エマーソン & グレッグ・レイク>
  2014年 ライヴ・フロム・マンティコア・ホール/Live from Manticore Hall*(2010年録音)

 <グレッグ・レイク & ジェフ・ダウンズ>
  2015年 ライド・ザ・タイガー/Ride the Tiger(1989年~1990年録音)

 <参加アルバム>
  1968年 Still(ピート・シンフィールド)

 ★シングル
 <ソロ・シングル>
  1975年 I Believe in Father Christmas(イギリス2位 アメリカ95位)
  1977年 セ・ラ・ヴィ/C'est La Vie(アメリカ91位 カナダ75位)
  1978年 Watching Over You
  1981年 Love You Too Much
  1981年 Let Me Love You Once(アメリカ48位)
  1981年 It Hurts
 
 <ザ・シェイム>
  1967年 Don't Go Away Little Girl

 <シャイ・リムス>
  1968年 Love

 <エマーソン・レイク & パウエル>
  1986年 Touch and Go


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