ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

『イクウェイター』(ユーライア・ヒープ)

2023-10-30 11:22:50 | albums

イクウェイター Equator


【歌・演奏】
  ユーライア・ヒープ/Uriah Heep


【リリース】
  1985年3月(イギリス)
  1985年7月18日(アメリカ)


【録音】
  1983年1月~3月
  バッテリー・スタジオ(1984年8月27日~9月9日 ロンドン)

  ジェイコブズ・スタジオ(1984年9月12日~10月26日 サレー、ファーンハム)
  ジェネティック・スタジオ(1985年1月12日~1月26日 バークシャー)



【プロデューサー】
  トニー・プラット/Tony Platt



【エンジニア】
  トニー・プラット/Tony Platt


【レーベル】
  ポートレイト・レコード/Portrait Records(UK)
  コロンビア・レコード/Columbia Records(US)



【収録曲】(☆シングル=①⑦)
 side:A
 ☆① ロッカラマ 4:20
    Rockarama(Uriah Heep)
    *1985年3月リリース

  ② バッド・ブラッド 3:33
    Bad Blood(Uriah Heep)
  ③ ロスト・ワン・ラヴ 4:40
    Lost One Love(Uriah Heep)
  ④ エンジェル 4:47
    Angel(Uriah Heep)
  ⑤ ホールディング・オン 4:20
    Holding On(Uriah Heep)
  side:B

  ⑥ パーティ・タイム 4:20
    Party Time(Uriah Heep)
 ☆⑦ プアー・リトル・リッチ・ガール 6:25
    Poor Little Rich Girl(Uriah Heep)
    *1985年5月リリース

  ⑧ スクール・バーニング 4:25
    Skools Burnin'(Uriah Heep)
  ⑨ ハートエイク・シティ 4:59
    Heartache City(Uriah Heep)
  ⑩ ナイト・オブ・ウルフ 4:31
    Night of the Wolf(Uriah Heep)


【録音メンバー】
 ☆ユーライア・ヒープ
   ピーター・ゴールビー/Peter Goalby(lead-vocals)
   ミック・ボックス/Mick Box (guitars, backing-vocals)
   ジョン・シンクレア/John Sinclair(keyboards, backing-vocals)
   トレヴァー・ボルダー/Trevor Bolder(bass, backing-vocals)
   リー・カースレイク/Lee Kerslake(drums, backing-vocals)
 

【チャート】
 1985年週間アルバム・チャート  イギリス79位


【メ  モ】
 ユーライア・ヒープ16作目のスタジオ・アルバム。
 本作からCBS傘下のポートレイト・レコードからリリースされており、AC/DCなどを手がけたことで知られるトニー・プラットが担当している。またベーシストにはトレヴァー・ボルダーが復帰した。
 なおピーター・ゴールビー(vocal)とジョン・シンクレア(keyboards)はこのアルバムを最後にバンドから脱退した。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スモール・フェイセス

2023-10-29 10:36:27 | band

スモール・フェイセス Small Faces


活動期間
  1965年~1969年
  1976年~1978年


メンバー
  スティーヴ・マリオット/Steve Marriott(guitars, vocals)
  ジミー・ウィンストン/Jimmy Winston(keyboard)
  イアン・マクレガン/Ian McLagan(keyboard)
  ロニー・レーン/Ronnie Lane(bass,vocals)
  リック・ウィリス/Rick Wills(bass, vocals)
  ケニー・ジョーンズ/Kenny Jones(drums)



 スモール・フェイセスは、1960年代中盤~後半にわたってブリティッシュ・ロック・シーンを牽引したバンドのひとつである。
 音楽的には、ポップやソウル、ハード・ロック、サイケデリックなどの要素を併せ持っており、「ザ・フー」と並ぶ、ロンドンのイースト・エンドを代表するモッズ・バンドとして高い人気を誇った。
 2012年に「ロックの殿堂」入りを果たしている。


 ロンドンのイースト・エンド出身のスティーヴ・マリオットは子役俳優として映画や舞台に出演していたが、長じてミュージシャンとしても活動するようになり、ソロ・シングルを発表。1963年には「ザ・モーメンツ」を結成し、翌64年にはアメリカでシングル・レコードを発表するが、いずれもセールスは低調だった。


 1964年のある日、当時マリオットが働いていたミュージック・バーに、当時ザ・パイオニアーズのメンバーだったロニー・レーンがベース・ギターを買いに父親とともに来店した。マリオットとレーンは会話を交わし、レーンはベース・ギターを購入した。そしてマリオットが仕事を終えると、レーンはレコードを聴きに彼の家を訪ねた。これがマリオットとレーンの出会いである。
 ふたりは意気投合し、ドラマーにパイオニアーズでレーンのバンドメイトだったケニー・ジョーンズを、キーボードにザ・モーメンツのバンド・メイトだったジミー・ウィンストンを加え、翌65年に新たなバンドを結成する。このバンドはメンバーは全員がイースト・ロンドン出身の、生粋のモッズ・バンドであった。
 新バンドは「スモール・フェイセス」と名付けられた。これは、モッズ用語で「顔役、クールな奴」という意味を持つ「Face」と、マリオット、レーン、ジョーンズの3人が小柄だったこととをかけ合わせたものである。


 結成直後から精力的にライブを行っていたスモール・フェイセスに注目したのが、エージェントのドン・アーデンである。彼の尽力によって、バンドはデッカ・レコードと契約を交わすことができた。

 1965年8月、デッカレコードからデビュー・シングル「ホワッチャ・ゴナ・ドゥ・アバウト・イット?」を発表。これは全英チャート14位のヒットとなった。
 この年11月、ウィンストンが俳優として活動するために脱退し、後任として元ボズ&ボズ・ピープル(ボズ・バレルが在籍していた)のメンバーだったイアン・マクレガンが加入。
 1966年1月にサード・シングルとして発表した「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」が全英チャート3位のヒットを記録すると、5月に発表したファースト・アルバム「スモール・フェイセス」も全英アルバム・チャートで最高3位まで上昇。さらに同年8月に発表した5枚目のシングル「オール・オア・ナッシング」はついに全英1位となり、スモール・フェイセスはモッズのヒーローにのし上がった。


     


 人気バンドのひとつとなったスモール・フェイセスだが、ドン・アーデンとの関係が悪化(バンドの収益を搾取していたと言われている)したことがデッカ・レコードとの関係に影響を及ぼし、結局彼らは1967年2月にイミディエイと・レコードに移籍する。ちなみにイミディエイトの創立者は、ローリング・ストーンズの元マネージャーだったアンドリュー・ローグ・オールダムである。
 この年6月には移籍第1弾のアルバム『スモール・フェイセス』(前年リリースしたファースト・アルバムと同じタイトル)を発表したが、これは収録曲全てがオリジナルで構成されており、バンドとしての成長が伺えるものであった。
 一方デッカ・レコードは、移籍後間もないその年2月に、シングルと未発表曲を集めた『フロム・ザ・ビギニングス』というコンピレイション・アルバムを、バンドに相談することなくリリースしている。これはスモール・フェイセスの移籍に対する報復と言われている。
 同年は6月にリリースしたシングル「イチクー・パーク」が全英3位(全米16位)、8月にリリースしたシングル「ティン・ソルジャー」が全英9位(全米73位)のヒットを記録している。
 なおバンドが全米シングル・チャート入りを果たしたのは「イチクー・パーク」が初めてであった。またこの曲では初めて「フランジャー」というエフェクターが使用されている。
 1968年5月には、スモール・フェイセスの代表作と言われるアルバム、『オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』が発表される。
 このアルバムのB面は、月の欠けた半分を探しに出かけるハピネス・スタンの物語が収録されており、いわゆる「コンセプト・アルバム」として制作された。リリース後は全英アルバム・チャートを席捲し、6週連続でチャート1位を記録した。


 イギリスでは人気バンドに成長したスモール・フェイセスだが、アメリカでのセールスは今ひとつ伸び悩んでいた。
 質の良いレコードを制作してもアイドルとしてしか見られていない現実に対し、マリオットの不満は鬱積してゆき、さらなるR&Bの追求を望むようになっていった。
 1968年、マリオットは、彼と同じくアイドル視されることに嫌気がさしていた元ハードのピーター・フランプトン(guitar, vocal)をバンドに加えることを提案したが、レーンとマクレガンの反対に遭う。
 この年12月31日、スモール・フェイセスはアレクシス・コーナーをゲストに迎えたコンサートを行ったが、途中でマリオットがステージから降りてしまった。コンサート後、激怒したメンバーはマリオットを問い詰めるが、この時マリオットはバンドからの脱退を宣言したのである。


 残されたマクレガン、ジョーンズは、1969年5月にアート・ウッドのバンド「クワイエット・メロン」に参加、ここでロン・ウッドとバンド・メイトになる。クワイエット・メロンにはその後レーンとロッド・スチュワート(voval)が加わり6人編成となったが、アート・ウッドを除く5人は意気投合して新たなバンド「フェイセス」を結成するのである。
 なおマリオットは脱退後すぐにフランプトンとのバンド結成に取りかかり、ベースにグレッグ・リドリー(元スプーキー・トゥース)、ドラムにジェリー・シャーリー(元アポストリック・インターヴェンション)を迎えて1969年1月頃から活動を開始する。このバンドが「ハンブル・パイ」である。
 フェイセスもハンブル・パイも、1970年代は人気バンドとして活躍した。


 1976年、「イチクー・パーク」がリバイバル・ヒットするが、これをきっかけとしてマリオット、レーン、マクレガン、ジョーンズの4人が再び集まった。当時レーンは自己のバンド「スリム・チャンス」を率いて活動していたこともあり、リハーサルには参加したものの一週間ほどで脱退。後任にはロキシー・ミュージックのツアー・メンバーだったリック・ウィルスが加わり、スモール・フェイセスの再結成が実現した。
 彼らはアトランティックと契約し、1977年には9年ぶりのスダジオ・アルバム『プレイメイツ』を、翌1978年にはゲストにジミー・マカロック(ギター)を迎えたアルバム『78 イン・ザ・シェイド』を発表したのち、再び解散した。


 1991年4月20日、マリオットが44歳で死去。自宅で就寝中、寝たばこが原因の火事で一酸化炭素中毒死するという、いたましい最期だった。
 1997年6月4日、1970年代後半に多発性硬化症を発症して長年闘病生活を続けていたレーンが、肺炎のため51歳で病没。
 2014年12月3日、マクレガンが脳卒中の合併症のため69歳で死去。


 スモール・フェイセスは、2012年にフェイセズとともに「ロックの殿堂」入りを果たしている。


     



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>

  1966年 スモール・フェイセス/Small Faces UK3位
  1967年 スモール・フェイセス/Small Faces UK12位
 ★1967年 フロム・ザ・ビギニング/From The Beginning UK17位
  1968年 There Are But For Small Faces US178位
  1968年 オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク/Ogdens' Nut Gone Flake UK1位、US159位
 ★1969年 イン・メモリアム/In Memoriam
 ★1969年 ジ・オータム・ストーン/The Autumn Stone
  1977年 プレイメイツ/Playmates
  1978年 78イン・ザ・シェイド/78 In The Shade

 <シングル>
  1965年 Whatcha Gonna Do About It UK14位
  1965年 I've Got Mine
  1966年 Sha-La-La-La-Lee UK3位
  1966年 ヘイ・ガール/Hey Girl UK10位
  1966年 オール・オア・ナッシング/All or Nothing UK1位
  1966年 心のひとみ/My Mind's Eye UK4位
  1967年 I Can't Make It UK26位
  1967年 Patterns UK51位
  1967年 Here Comes the Nice UK24位
  1967年 サイケデリック・パーク/Itchycoo Park UK3位、US16位
  1967年 涙の少年兵/Tin Soldier UK9位、US73位
  1968年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday UK2位、US114位
  1968年 The Universal UK16位
  1969年 Mad John
  1969年 アフターグロウ/Afterglow of Your Love UK36位
  1975年 イチクー・パーク/Itchycoo Park UK9位
  1976年 レイジー・サンデー/Lazy Sunday UK39位


【メンバー変遷】

#1 1965
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)※ex. The Moments
  ロニー・レーン(bass, vocals)※ex. The Pioneers
  ジミー・ウィンストン(keyboards)※ex. The Moments
  ケニー・ジョーンズ(drums)※ex. The Pioneers

#2 1965~1969
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)
  ロニー・レーン(bass, vocals)
  イアン・マクレガン(keyboards)※ex. Boz & Boz People
  ケニー・ジョーンズ(drums)

#3 1976~1978
  スティーヴ・マリオット(guitars, vocals)
  リック・ウィルス(bass, vocals)※ex. Roxy Music Tour Support
  イアン・マクレガン(keyboards)
  ケニー・ジョーンズ(drums)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ファー・フロム・ホーム』(トラフィック)

2023-10-22 10:09:08 | albums

ファー・フロム・ホーム Far From Home


【歌・演奏】

  トラフィック/Traffic

【リリース】
  1994年5月9日

【録音】
  1974年、1994年 ウッドストック(アイルランドダブリン)

【プロデューサー】
  スティーヴ・ウィンウッド/Steve Winwood
  ジム・キャパルディ/Jim Capaldi


【エンジニア】
  スティーヴ・ウィンウッド/Steve Winwood
  ミック・ドーラン/Mick Dolan

【レーベル】
  ヴァージン/Virgin


【収録曲】(★=シングル)
 side:A
  ① ライディング・ハイ 5:30
    Riding High(Steve Winwood & Jim Capaldi)
 ★② ヒア・カムズ・ア・マン 5:06
    Here Comes a Man(Steve Winwood & Jim Capaldi)
    *UK87位 1994年5月23日リリース

  ③ ファー・フロム・ホーム 8:33
    Far from Home(Steve Winwood & Jim Capaldi)
  ④ ノーホェア・イズ・ゼア・フリーダム 6:57
    Nowhere is Their Freedom(Steve Winwood & Jim Capaldi)
  ⑤ ホーリー・グラウンド 7:48
    Holy Ground(Steve Winwood, Jim Capaldi, Davy Spillane)
 ★⑥ サム・キンダ・ウーマン 5:26

    Some Kinda Woman(Steve Winwood & Jim Capaldi)
    *UK81位 1994年9月12日リリース

  ⑦ エヴリ・ナイト・エヴリ・ディ 5:30
    Every Night, Every Day(Steve Winwood & Jim Capaldi)
  ⑧ ディス・トレイン・ウォント・ストップ 5:23

    This Train Won't Stop(Steve Winwood & Jim Capaldi)
  ⑨ ステイト・オブ・グレイス 7:16
    State of Grace(Steve Winwood & Jim Capaldi)


【録音メンバー】
 ☆トラフィック
   スティーヴ・ウィンウッド/Steve Winwood(lead-vocals, backing-vocals, piano, organ, synthesizer, synthesizer-programming, guitars, bass, drum-machine-programming, flute, saxophone⑥, percussions①⑨)
   ジム・キャパルディ/Jim Capaldi(drums, percussions, backing-vocals④⑥⑦)
 ☆ゲスト・ミュージシャン
   ミック・ドーラン/Mick Dolan(rhythm-guitar④, sampler-programming)

   デイヴィー・スピレーン/Davy Spillane(uilleann Pipes⑤)


【チャート】
 1994年週間アルバム・チャート 
   アメリカ(Billboard)33位、イギリス29位、ドイツ22位、ニュージーランド72位


【メ  モ】
 20年ぶりに再結成したトラフィックの、通算8枚目のスタジオ・アルバムである。
 このアルバムは、トラフィックのオリジナル・メンバーであるクリス・ウッド(flute, sax)に捧げられたものである。アルバムにはウッドのフルート演奏をサンプリングした音源を用いた曲が使用されている。またアルバム・ジャケット中央の、フルートを吹いているように見える人物像は、ウッドを模したものである。
 ⑨「ステイト・オブ・グレイス」は、もともとジム・キャパルディがソロとして取り上げる予定だったが、トラフィックのプロジェクトが具体的になると、キャパルディとスティーヴ・ウィンウッドは本作に収録することにした。
    


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラインド・フェイス

2023-10-20 12:46:05 | band

ブラインド・フェイス (Blind Faith)


【活動期間】
   1969年

【メンバー】
   スティーヴ・ウインウッド/Steve Winwood(vocals, organ, piano, guitar)
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitar, vocal)
   リック・グレッチ/Ric Grech(bass, violin)
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums)

 
 1968年に解散したクリームのエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカートラフィックのスティーヴ・ウインウッドが結成したスーパー・グループ。
 ブラインド・フェイスの結成は、クロスビー、スティルス & ナッシュの結成と並ぶ、「1969年の最もセンセーショナルな出来事」とも言われた。


 「スーパー・グループのはしり」とも言われるクリームは、ジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの不和などが原因で、1968年11月に解散する。クラプトンは、レコードのセールスを伸ばすためだけのブルースを演奏することに疲れており、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』に影響されて、新たな音楽を作りたいという願望を持つようになっていた。
 ちょうどその頃、スティーヴ・ウインウッドもトラフィックからの脱退を考えていた。
 もともとクラプトンとウィンウッドは「パワーハウス」(エレクトラが企画したオムニバス・アルバム『What's Shakin'』のための臨時的なユニットで、ベーシストはジャック・ブルースであった)でともに活動していた仲であり、このふたりは1969年に入ると、クラプトンの所有するコテージの地下室でリハーサルを始める。
 やがてジンジャー・ベイカーが彼らのリハーサル・コテージを訪れる。


 当然この3人でグループを結成するという案が出たが、クラプトンはクリーム解散時にジャック・ブルースに対して「われわれが再び一緒に演奏する機会が来るなら、その時はベイカーも含めて3人全員で演奏する」という約束をしていること、仮にブルースが新バンドに加わるとしてもクリームの解散からまだ数ヵ月しか経っていないことを理由に、ベイカーがバンドに入るということに同意しなかった。
 ウィンウッドは、ベイカーほどのドラマーを探すのは難しいとクラプトンを説得し、最終的にベイカーをバンドに加えた。
 このプロジェクトにはベーシストが不在だったが、1969年5月に、当時「ファミリー」に在籍していたリック・グレッチが迎えられた。
 その後、このバンドは「ブラインド・フェイス」と名付けられる。


 究極のスーパー・グループとも言われたブラインド・フェイス結成のニュースは、センセーショナルな話題を巻き起こした。
 1969年6月7日、ブラインド・フェイスはロンドンのハイド・パークにおけるフリー・コンサートで、推定10万人もの聴衆を前に衝撃的なデビューを果たした。この動員数は、当時の史上最高記録であった。
 コンサートのセット・リストはファースト・アルバムに収録されている6曲のほか、ローリング・ストーンズの「アンダー・マイ・サム」や、トラフィックの「ミーンズ・トゥ・アン・エンド」などが含まれていた。
 このコンサートは、ファンには好評をもって迎えられたが、クラプトンはバンドの演奏が一定の水準に達していないと感じていたため、大観衆の歓声は自分たちのネームバリューによるものに過ぎないとして不満だったという。
 バンドはまだ発展途上、言い換えると準備不足の状態だった。バンドには充分なリハーサルが必要だったのだが、マネジメント側はバンドを維持するためにツアーを行うことを主張した。
 彼らはまだアルバムのレコーディング中だったが、ほどなくスカンジナビアで短いツアーを行い、その後アメリカ・ツアーに出発した。その初日である7月12日には、マディソン・スクエア・ガーデンで約2万人の聴衆を前に演奏している。
 ブラインド・フェイスのオリジナル曲はまだ少なかったため、1時間演奏するのがやっとという状態だった。これを解消するためにバンドはクリームとトラフィックの曲を演奏し、聴衆はこれを喜んだ。しかし、クラプトンは曲数の不足を補うために長いアドリブ・ソロをとったり、かつての素材を演奏することには失望していた。
 またクラプトンはツアー中に開催された「ウッドストック・フェスティヴァル」への出演を望んだが、他のメンバーからの反対でこれを断念せざるを得なかった。


     


 アメリカ・ツアーでは、「フリー」「テイスト」「デラニー&ボニー」がブラインド・フェイスのオープニング・アクトを務めたが、クラプトンはデラニー&ボニーのソウルフルなブルースに興味を持つようになった。
 クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごす方を好み、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットにも参加するようになった。このためクラプトンはさらに孤立を深め、自然バンドのイニシアティブはウィンウッドに移っていったのである。
 ブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーに深く惹かれたクラプトンは、ブラインド・フェイスの代わりに彼らがヘッドライナーになることを望むようにさえなった。


 ツアー中の1969年7月、ブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』がリリースされた。
 売り上げ枚数は発売後1ヵ月で50万枚を超え、最終的にはミリオン・セラーを記録。アルバム・チャートは、同年9月20日には英米ともにチャート1位となる大ヒットとなった。
 ただし、音楽的にはソウルフルかつポップ寄りなスティーヴ・ウィンウッドの個性が中心となっており、クラプトンもよりアーシーな音楽に接近していたため、ブルースに根差した音作りやインプロヴィゼイションの展開など、クリームの音楽性、あるいはそれに近いものを期待していたファンの中にはこのレコードを聴いて戸惑う者も多かった。
 このアルバムのジャケット写真は、クラプトンの友人で、ジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドなどの写真を手がけたボブ・サイデマンが撮影したものだったが、使われた写真は11歳の少女のヌード写真だったため、アメリカでは猥褻であるとみなされて物議を醸した。撮影にあたっては少女の両親の同意も得ていたが、発売禁止の措置を取った国もいくつかあったため、少女の写真はバンドの写真に差し替えられた。
 ちなみにこのアルバムに代わってチャート1位にランクされるや11週にわたって首位の座を維持したのは、ビートルズの『アビイ・ロード』である。


     


 アメリカ・ツアーは8月24日のハワイを最後に終了したが、この期間中に生じたメンバー間の価値観のずれは大きくなっていた。マネージメント側は新たなツアーが予定されていると発表したが、クラプトンとウィンウッドは活動を終わらせることにした。
 1969年10月、ブラインド・フェイスはバンドの解散を発表する。その活動はアルバムを1枚を残すのみ、期間は実質わずか半年ほどであった。
 解散の知らせは、グレッチにはすぐに知らされたが、ベイカーはジャマイカでの短い休暇を終えてイギリスに帰国するまではこのニュースを知らなかったので、帰国後にウィンウッドからバンドの解散を伝えられて動揺したという。

 
 解散後、クラプトンは「プラスティック・オノ・バンド」を経て「デラニー&ボニー」と行動を共にすることになる。これはいずれもサイド・マンとして参加したもので、華やかなスポット・ライトを浴びることに嫌気がさしたクラプトンが、単なるバンドの一員として純粋にギターを弾きたかったことの現れと言えよう。
 その後のクラプトンは、キャリアを通じてブラインド・フェイスのレパートリーである「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」を折にふれては演奏している。
 ベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加えて「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成した。
 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース脱退後のウィンウッドはトラフィックを再結成し、グレッチはそのトラフィックに参加している。
 なお1970年、クラプトンはトラフィックのライヴに姿を見せ、ウィンウッドと「ディア・ミスター・ファンタジー」でツイン・リード・ギターを披露している。


     


 1983年9月、クラプトンとウィンウッドは、多発性硬化症 (ARMS) の研究を支援するためのチャリティ・コンサート「ARMSコンサート」で再びステージをともにした。ちなみにこのコンサートは、ARMSに罹患していたロニー・レーン(元フェイセズ)が提唱したものであった。


 2005年、1969年のハイド・パークにおけるブラインド・フェイスのライヴ全体を収録したDVD「London Hyde Park 1969」がリリースされた。

 2007年7月、クラプトンとウィンウッドは、イリノイ州で開催された「第2回クロスロード・ギター・フェスティヴァル」で再会した。クラプトンとウィンウッドのデュオはセットの一部としてステージに上がり、ブラインド・フェイスの曲を3曲演奏した。
 このパフォーマンスは、2008年2月にマディソン・スクエア・ガーデンでのクラプトンとウィンウッドの再会コンサートの実現に繋がる。この時の彼らは、ブラインド・フェイス、クラプトンのソロ、トラフィック、ジミ・ヘンドリックス、デレク&ザ・ドミノスなどの曲からセット・リストを作り、演奏した。その模様は2009年に2枚組CD+DVDの「ライヴ・フロム・マディソン・スクエア」としてリリースされている。
 彼らはさらに2009年6月にアメリカ・ツアーを、翌2010年にはヨーロッパ・ツアーを行ったほか、2011年5月26 日から6月1日までロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、同年11月から12月にかけて日本でコンサートを行っている。


【ディスコグラフィ】
 <アルバム>
   1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith UK1位、US1位、日本3位、カナダ1位、フランス4位、ドイツ5位
 <シングル>
   1969年 ウェル・オール・ライト/Well All Right
   1969年 チェンジ・オブ・アドレス/Change of Address(*プロモーション・シングル)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『スーパー・ジャイアンツ』(ブラインド・フェイス)

2023-10-20 12:42:45 | albums

スーパー・ジャイアンツ Blind Faith


【歌・演奏】

  ブラインド・フェイス/Blind Faith

【リリース】
  アメリカ 1969年8月9日
  イギリス 1969年8月22日

【録音】
  1969年2月20日~6月28日(ロンドン、オリンピック・スタジオ、ロンドン、モーガン・スタジオ)

【プロデューサー】
  ジミー・ミラー/Jimmy Miller

【エンジニア】
  ジョージ・チキアンツ/George Chkiantz
  キース・ハーウッド/Keith Harwood
  アンディ・ジョンズ/Andy Johns
  アラン・オダフィー/Alan O'Duffy

【レーベル】
  ポリドール・レコード(イギリス)
  アトコ・レコード(アメリカ)

【録音メンバー】
 ☆ブラインド・フェイス
   スティーヴ・ウインウッド/Steve Winwood(lead-vocals①②④⑤⑥, piano, organ, guitar③④, bass③④, autoharp⑤)
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, lead-vocals③, vocals⑥)
   リック・グレッチRic Grech(bass, violin⑤, vocals⑥)
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums, percussions, vocal⑥)


【収録曲】(☆=シングル ③)
 side:A
  ① 泣きたい気持ち 8:48
    Had to Cry Today(Steve Winwood)
  ② マイ・ウェイ・ホーム 3:16
    Can't Find My Way Home(Steve Winwood)
 ☆③ オール・ライト 4:27
    Well All Right(Buddy Holly, Jerry Allison, Joe B. Mauldin)
    1969年週間シングル・チャート オランダ20位
  ④ プレゼンス・オブ・ザ・ロード 4:50
    Presence of the Lord(Eric Clapton)
 side:B
  ⑤ 歓喜の海 5:22
    Sea of Joy(Steve Winwood)
  ⑥ 君の好きなように 15:18
    Do What You Like(Ginger Baker)


【チャート】
 1969年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 1位、イギリス(OCC) 1位、日本(オリコン) 3位
                カナダ1位、オランダ1位、デンマーク1位、ノルウェイ1位、オーストラリア2位、フランス4位、西ドイツ5位、フィンランド5位
 1992年週間アルバム・チャート スペイン9位
 2015年週間アルバム・チャート クロアチア25位
 1969年年間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 78位、イギリス(OCC) 35位、ノルウェイ20位、西ドイツ53位


【メ  モ】
 鳴り物入りで発表されたこのアルバムは、発売後1ヵ月で50万枚を売り上げ、最終的にはミリオン・セラーとなった。
 アルバム・チャートでは全米・全英とも1位となったが、アメリカではブラック・アルバム・チャートでも40位を記録した。これはイギリスのバンドとしては異例の偉業である。
 このアルバムの大ヒットは、クリームのアルバムの売り上げにも繋がった。


 本作のアルバム・ジャケットの写真を撮影したのは、エリック・クラプトンの友人のボブ・サイデマンである。彼はジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドの写真を手がけたことで知られている。
 ジャケットには、銀色の宇宙船を持った11歳の少女のヌード写真が使われていたため、猥褻なものであると見なされて物議を醸し、いくつかの国では発売禁止の措置が取られた。しかし実際は少女の両親の同意を得たうえで撮影されている。
 ジャケットにはバンド名もアルバム・タイトルも表示がなく、アルバム・ジャケットとしては当時あまり例を見ないものであった。これはクラプトンの発案だということである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エド・ガリアルディ

2023-10-19 14:33:38 | bass

エド・ガリアルディ Edward John "Ed" Gagliardi



 【パート】
   ベース、ヴォーカル

 【生没年月日】
   1952年2月13日~2014年5月11日(62歳没)

 【出身】
   アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン

 【経歴】
   フォリナー/Foreigner(1977~1979)
   スパイズ/Spys(1981~1983)



 エド・ガリアルディはフォリナーのオリジナル・ベーシストである。



 1952年2月13日、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。
 20代前半の頃は、ニューヨーク周辺のローカル・バンドで活動していたが、全く無名の存在だった。
 1976年、フォリナーに加入。
 バンドが制作したデモ音源がアトランティック・レコードの目にとまり、契約が成立する。
 同年11月下旬にはファースト・アルバム「栄光の旅立ち」のレコーディングが始まった。



     

     左からエド・ガリアルディ、ミック・ジョーンズ、イアン・マクドナルド


 ガリアルディが制作に参加したフォリナーのアルバムは、『栄光の旅立ち』『ダブル・ヴィジョン』の2枚であるが、『栄光の旅立ち』は400万枚以上、『ダブル・ヴィジョン』は500万枚以上のセールスを記録している。
 1978年には初来日を果たし、日本武道館や大阪フェスティヴァル・ホールなどで公演を行った。
 フォリナーは一躍トップ・バンドのひとつにのし上がったが、ガリアルディは音楽性の相違を理由として、1979年に解雇される。
 
 
 1981年、フォリナーでバンド・メイトだったアル・グリーンウッド(keyboards)らとともに「スパイズ」というバンドを結成。
 スパイズはEMIと契約し、1982年にファースト・アルバム『スパイズ』をリリース。このアルバムはビルボード・アルバムチャートで138位となり、シングル『ドント・ラン・マイ・ライフ』はビルボード・ホット100で82位を記録した。
 スパイズは、1980年代に多く出現したシンセサイザーを多用するロック・バンドで、80年代ニュー・ウェイヴからの影響も窺えるメロディアスでハードな音作りはフォリナーの音楽性に通じる部分もあった。一部では高く評価されていたものの、1983年に発表したセカンド・アルバム『ビハインド・エネミー・ラインズ』のセールスは低迷、その後契約に関してレーベル側と合意に至らず、解散した。


 スパイズ解散後のガリアルディは音楽業界から離れ、2000年代初頭にはニューヨーク州グレンコープのラリーレクサス社でサービス部門のライターとして働いていた。
 2014年5月11日、8年間の闘病生活の末、ニューヨーク市でガンのため死去。62歳だった。
 ガリアルディは、7月31日にフロリダで行われる予定の、フォリナー時代のバンド・メイトだったルー・グラム(vocal)の公演でグラムと再会する予定だったという。
 葬儀は家族や友人が非公開で執り行ったということである。


     


 ガリアルディは、本来は右利きであるにもかかわらず、ポール・マッカートニーの大ファンであったことから、左利き用のリッケンバッカーを使用していた。楽器は、ほとんどの場合ガリアルディ自身が再設計し、改造していたという。


 2017年にフォリナーの40周年記念北米ツアーが行われたが、このうち10月6日~7日のミシガン州マウント・プレザントでの公演で、ガリアルディを除くオリジナル・メンバーが「衝撃のファースト・タイム」など5曲を演奏、またオリジナル・メンバーと現ラインナップが一緒に2曲演奏した。ミック・ジョーンズ(guitar)は、「衝撃のファースト・タイム」を演奏する際、「エド・ガリアルディに捧げる」とコメントしたということである。



【ディスコグラフィ】

 <フォリナー>
  1977年 栄光の旅立ち/Foreigner US4位
  1978年 ダブル・ヴィジョン/Double Vision US3位、UK32位

 <スパイズ>

  1982年 スパイズ/Spys
  1983年 ビハインド・エネミー・ラインズ/Behind Enemy Lines 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ア・ストーリー・エンディド』(ディック・ヘクストール=スミス)

2023-10-19 09:11:42 | albums

ア・ストーリー・エンディド A Story Ended


【演奏】

  ディック・ヘクストール=スミス/Dick Heckstall-Smith

【リリース】
  1972年7月

【録音】
  1972年3月~4月
  マナー・スタジオ(イングランド オックスフォードシャー)


【プロデューサー】
  ジョン・ハイズマン/Jon Hiseman

【エンジニア】
  トム・ニューマン/Tom Newman

【レーベル】
  ブロンズ・レコード/Bronze Records


【収録曲】
 side:A
  ① フューチャー・ソング 4:07
    Future Song(Pete Brown, Dick Heckstall-Smith)
  ② クラブズ 5:12
    Crabs(Pete Brown, Dick Heckstall-Smith)
  ③ パピルスの中のモーゼス 3:40
    Moses in the Bullrushourses(Pete Brown, Dick Heckstall-Smith)
  ④ ホワット・ザ・モーニング・ワズ・アフター 5:31
    What the Morning Was After(Pete Brown, Dick Heckstall-Smith)
 side-B

  ⑤ ザ・パイレーツ・ドリーム 11:12
    The Pirate's Dream(Clem Clempson, Dick Heckstall-Smith, Jon Hiseman)
  ⑥ セイム・オールド・シング 6:32

    Same Old Thing(Clem Clempson, Dick Heckstall-Smith, Jon Hiseman)


【録音メンバー】
   ディック・ヘクストール=スミス/Dick Heckstall-Smith(sax)
   カレブ・クアエ/Caleb Quaya(electric-guitar, acoustic-guitar)
   クリス・スペディング/Chris Spedding(guitars)
   デイヴ・グリーンスレイド/Dave Greenslade(piano)
   ゴードン・ベック/Gordon Beck(piano)

   グラハム・ボンド/Graham Bond(piano, organ, synthesizer, vocals)
   マイク・ヴィッカーズ/Mike Vickers(synthesizer)

   マーク・クラーク/Mark Clarke(bass, vocals)
   ジョン・ハイズマン/Jon Hiseman(drums, Percussions)
   ロブ・テイト/Rob Tait(drums)
   クリス・ファーロウ/Chris Farlowe(vocals)

   ポール・ウィリアムス/Paul Williams(vocals)


【チャート】
 1972年週間アルバム・チャート 圏外 


【メ  モ】
 ディック・ヘクストール=スミスがコロシアム解散後に発表したファースト・ソロ・アルバム。
 コロシアムにも通ずるブルージーなジャズ・ロックを展開している。
 ピート・ブラウン(作詞)との共作が4曲、ジョン・ハイズマンとクレム・クレムソンの3人による共作が2曲の、計6曲が収録されている。

     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『夢見る人』(ニッキー・ホプキンス)

2023-10-18 16:07:17 | albums

夢見る人 The Tin Man Was A Dreamer


【歌・演奏】

  ニッキー・ホプキンス/Nicky Hopkins

【リリース】
  1973年4月23日

【録音】
  1972年~1973年1月
  アップル・スタジオ(ロンドン)
  ウォーリー・ヘイダー・スタジオ(ロスアンゼルス)

【プロデューサー】
  デヴィッド・ブリッグス/David Briggs
  ニッキー・ホプキンス/Nicky Hopkins

【レーベル】
  コロンビア・レコード/Columbia Records


【収録曲】(★=シングル)
 side:A
  ① サンダウン・イン・メキシコ 1:35
    Sundown in Mexico(Nicky Hopkins)
 ★② ウェイティング・フォー・ザ・バンド 2:15
    Waiting for the Band(Nicky Hopkins)
  ③ エドワード 5:20
    Edward(Nicky Hopkins)
  ④ ドリー 4:42
    Dolly(Nicky Hopkins, Jerry Lynn Williams
 ★⑤ スピード・オン 3:59
    Speed On(Nicky Hopkins, Jerry Lynn Williams)
    *US=1973年5月28日リリース UK=1973年8月10日リリース
 side:B
  ⑥ 夢見る人 5:47

    The Dreamer(Nicky Hopkins)
 ★⑦ バナナ・アンナ 3:37
    Banana Anna(Nicky Hopkins, Jerry Lynn Williams)
  ⑧ 弁護士の嘆き 3:43
    Lawyer's Lament(Nicky Hopkins, Jerry Lynn Williams)
  ⑨ シャウト・イット・アウト 3:39
    Shout It Out(Nicky Hopkins, Jerry Lynn Williams)
  ⑩ ピッグズ・ブギ 2:42
    Pig's Boogie(Nicky Hopkins)


     


【録音メンバー】
   ニッキー・ホプキンス/Nickey Hopkins(piano①~⑩, organ③, vocals②④~⑨)
   クリス・レア/Chris Rae(acoustic-guitar④⑥⑨)
   マイク・イーガン/Mike Egan(acoustic-guitar④⑥⑨)

   ミック・テイラー/Mick Taylor(acoustic-guitar⑧, electric-guitar④⑤⑧)
   クリス・スペディング/Chris Spedding(electric-guitar⑩)
   ジョージ・オハラ/George O'Hara(electric-guitar③⑤⑦, slide-guitar②)※ジョージ・ハリスンの変名
   クラウス・フォアマン/Klaus Voormann(bass②~⑩)
   プレイリー・プリンス/Prairie Prince(drums②~⑩)
   レイ・クーパー/Ray Cooper(percussions②~⑩)
   ジェリー・リン・ウィリアムス/Jerry Lynn Williams(vocals②⑤⑦⑨)
   ボビー・キーズ/Bobby Keys(saxophones③⑤⑦⑩)
   ジム・ホーン/Jim Horn(saxophone⑤)
   ジム・プライス/Jim Price(trumpet⑤)
   デル・ニューマン/Del Newman(string arrangements④⑥⑧ and brass arrangements⑥⑧)


【チャート】
 1973年週間アルバム・チャート 圏外 


【メ  モ】
 ニッキー・ホプキンスのセカンド
・ソロ・アルバム。
 ジョージ・ハリスンが「ジョージ・オハラ」の変名でレコーディングに参加している。
 ⑤「スピード・オン」ではジョージ・ハリスンが、⑧「弁護士の嘆き」ではミック・テイラーがリード・ギターを弾いている。


     
 


     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・ハイズマン

2023-10-17 14:36:04 | drums

ジョン・ハイズマン Philip John Albert "Jon" Hiseman

 【パート】
   ドラムス、パーカッション 

 【生没年月日】
   1944年6月21日~2018年6月12日(73歳没)

 【出生地】
   イングランド ロンドン、ウールリッチ

 【経歴】
   イアン・バード・クインテット/Ian Bird Quintet
   ウェス・ミンスター・ファイヴ/The Wes Minster Five(1960~1962)
   ニュー・ジャズ・オーケストラ/The New Jazz Orchestra(1964~1970)
   マイク・テイラー・カルテット/Mike Taylor Quartet(1965)
   ピーター・レマー・クインテット/Peter Lemer Quintet(1966)
   ピーター・ブラウン&ヒズ・バタード・オーナメンツ/Peter Brown & His Batterd Ornaments(1966)
   グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation(1966~1967)
   ジョージー・フェイム&ザ・ブルーフレイムズ/Georgie Fame & The Blue Flames(1967~1968)
   ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ/John Mayall's Bluesbreakers(1968)
   コロシアム/Colosseum(1968~1971)
   テンペスト/Tempest(1972~1974)
   コロシアムⅡ/ColosseumⅡ(1975~1978)
   グリーンスレイド/Greenslade(1977)
   ザ・ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル/The United Jazz+Rock Ensemble(1977~2002)
   バーバラ・トンプソンズ・パラフェナリア/Barbara Thompson’s Paraphernalia(1979~)
   コロシアム/Colosseum(1994~2015)
   JCM(2017~2018)



 ジョン・ハイズマンは,、1960年代から2010年代にかけて活躍したイギリスのドラマー、バンド・リーダー、音楽プロデューサー、音楽出版者、レコーディング・エンジニアである。
 テクニカルかつパワフル、そしてタイム感覚の正確さを兼ね備えたドラマーである。
 ジャズとロックの両分野で活動し、プログレッシヴ・ロックを形作った源流のひとつであるジャズ・ロック・グループ「コロシアム」のほか、「テンペスト」「コロシアムⅡ」を率いた。
 音楽プロデューサーとしての評価も高い。
 プロデューサーといて活動しはじめたのは1970年代でる。妻であるサックス奏者バーバラ・トンプソンのプロジェクトや自身の作品などのほか、ディック・ヘクストール=スミスのソロ第一作『ア・ストーリー・エンデッド』や、イアン・カーの在籍していたバンド「ニュークリアス」のアルバムなど、数多くの作品を手がけている。
 バーバラ夫人とは1967年に結婚し、2018年に亡くなるまでともに暮らした。
 シンガーソングライターのアナ・グレーシーはハイズマンの娘である。


 ジョン・ハイズマンは、ロンドン南東部のウールリッジで、キャンバーウェル美術工芸学校の講師である父フィリップとイングランド銀行の音楽図書館司書として働いていた母リリーの間に生まれた。
 母リリーはピアノとフルートを演奏することができた。また父方にはミュージック・ホールの芸人や、ダンス・バンドのミュージシャンがいた。
 名前の綴りは、芸名は ’Jon’ だが、本名は ‘John’ である。
 これは、メロディーメーカー誌が1964年のある記事で、ハイズマンの名前を「Jon」と綴ったことに端を発する。これをきっかけとして、ハイズマンは以後名前の綴りを「Jon」としたのである。


 アディ・アンド・スタンホープ・スクール通うようになったハイズマンは、ヴァイオリンやピアノのレッスンを受けるようになる。そしてコルフェス・グラマー・スクールに進むとドラムを始め、クラスメイトだったデイヴ・グリーンスレイド(piano)やトニー・リーヴスcontrabass)とアマチュア・バンドを組んで演奏するようになった。


 1960年、ジョン・ハイズマン(drums)、デイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、トニー・リーヴス(bass)、クライヴ・バロウズ(sax)、ポール・マクドウェルの、高校の仲間5人によって「ウエス・ミンスター・ファイヴ」(Wes Minster Five ロンドンのウェストミンスターをもじっている)が結成される。このバンドがのちの「コロシアム」の母体である。
 また1960年代の前半には、トニー・リーヴスやクライヴ・バロウズが在籍していたロンドンのジャズ・バンド「イアン・バード・カルテット」に加わっている。
 ウエス・ミンスター・ファイヴは、彼らの卒業の年である1962年に解散。その後ハイズマンは、1964年にニール・アードレイらの若手ジャズ・ミュージシャンたちと「ニュー・ジャズ・オーケストラ」を結成して、イギリスのジャズ・シーンで注目されるようになる。ちなみに、このオーケストラは「イアン・バード・カルテット」を母体としたものであった。
 1965年には、いずれもリーヴスがベーシストを務めていた「マイク・テイラー・トリオ」や「ピーター・レマー・クインテット」に参加するなど、1960年代半ばまではジャズ・シーンでの活動を中心としていた。


 1966年5月、ジンジャー・ベイカー(drums)の後任として、ジャック・ブルース(bass)やディック・ヘクストール=スミス(sax)らが在籍していた「グラハム・ボンド・オーガニゼーション」に加入する。
 この頃のハイズマンは、ユニリーバのマーケティング・マネジメントの研修員として日雇い勤務をしていたが、グラハム・ボンド・オーガニゼーションに加入したのをきっかけに、フルタイムのミュージシャンとなった。
 この1966年には、「ジョージー・フェイム & ザ・ブルー・フレームズ」にも短期間加わっているほか、「ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン」のデビュー・シングル「Devil’s Grip」の録音にも参加している。


 1968年4月、ハイズマンはトニー・リーヴスとともに「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ」に加入する。このバンドにはグラハム・ボンド・オーガニゼイションを脱退したディック・ヘクストール=スミスが在籍していた。
 ブルースブレイカーズでは、ジャズ色を強めた名盤『ベア・ワイヤーズ』の録音に参加(1968年6月発表)しているが、同年8月には、リーヴス、ヘクストール=スミスとともにブルースブレイカーズを脱退し、新たなバンドの結成に向けて動き始める。


 ハイズマンは、新しいグループの結成に向けて、1968年8月17日付のメロディ・メイカー紙でメンバー募集の告知を行った。これを見て応募してきたのがジム・ローチェ(guitar)とジェームス・リザーランド(vocal)である。このふたりに加え、ローチェとは旧知の中であり元ウエス・ミンスター・ファイヴのメンバーでもあるデイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、そしてブルース・ブレイカーズから行動を共にしていたリーヴス(bass)、ヘクストール=スミス(sax)がグループに参加、計6人でリハーサルを開始する。(なおハイズマンは、ヘクストール=スミスとともに「ニュー・ジャズ・オーケストラ」の一員としての活動も継続している)
 このバンドが「コロシアム」である。


     


 コロシアムは1968年10月11日~12日、スカボローのディスコ「シーン・トゥー・クラブ」でデビュー・ライヴを行い、翌11月には英フォンタナ・レコードと契約したほか、クリームの解散コンサートにも出演している。
 12月に録音が始まったファースト・アルバムは、1969年5月に『コロシアム・ファースト』として発表されたが、これは全英チャートで15位まで上昇するヒットを記録した。
 コロシアムはこの後1971年にかけて『ヴァレンタイン組曲』『ドーター・オブ・タイム』『コロシアム・ライヴ』を発表するが、すべて全英アルバム・チャートで30位以内を記録しており、アート・ロックが席捲していた当時のロック界にあって注目に値するグループとして活躍した。
 1970年8月にはナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァル出演している。


 コロシアムは、ジャズ、ブルース、ロックなどを融合させたユニークなスタイルと圧倒的な演奏力でイギリスを代表するジャズ・ロック・グループとして大きな存在感を示していたが、1971年11月に解散する。
 1971年11月6日付のメロディ・メイカー紙は、コラシアムの解散を報じ、これを惜しんでいる。


 コロシアム解散後、ハイズマンはジャズ・シーンでその存在を知られつつあった新進ギタリスト、アラン・ホールズワースと知り合う。
 ハイズマンはホールズワースを迎え入れ、ポール・ウィリアムズ、コロシアムのメンバーだったマーク・クラークのふたりを加えて、1972年6月にハード・ロック色の濃いストレートなロック・バンド「テンペスト」を結成した。
 テンペストはデビュー・アルバム『テンペスト』をリリースした後にウィリアムズが脱退し、後任にオリー・ハルソールが加わって一時的にツイン・ギター編成となったが、今度は自分の音楽的指向を追求するホールズワースがバンドから離脱し、それに伴いハルソールがギターとボーカルを兼ねるロック・トリオになった。
 テンペストは、2枚のアルバムを残して1974年5月に解散する。


 1975年、ハイズマンはギタリストのゲイリー・ムーアに出会い、「Peter And The Wolf」のロック・バージョンをレコーディングする。これがきっかけとなって、ハイズマン、ゲイリー・ムーア(guitar)、ドン・エイリー(keyboard)、ニール・マレー(bass)、マイク・スターズ(vocal)の5人でフュージョンの影響を受けたハード・ロック・バンド「コロシアムⅡ」を同年結成。
 1978年、コロシアムⅡは、ミュージカル作曲家として著名なアンドリュー・ロイド・ウェバーとのコラボレーションを行っている。
 弟のチェロ奏者ジュリアン・ロイド・ウェバーをフィーチャーしたアルバムの制作を考えていたアンドリューがたまたまコロシアムⅡのサウンドに出会い、このプロジェクトにオファーを送ったのである。これがアンドリュー・ロイド・ウェバーとハイズマンとの関係の始まりである。
 アンドリューは、ジュリアンとコロシアムを起用して、ITVのアート番組の『The South Bank Show』のテーマ曲が収録されているアルバム『Variations』をリリースしている。ジュリアンはこの時の共演について、「普段コンサートで演奏しているチェロ奏者に合わせて、すぐにそのニュアンスを捉えるのは多くのドラマーにとって難しい事だが、ジョンにはそれが可能であり、形にできていた」というコメントを残している。


 1970年代半ばのハイズマンは、デイヴ・グリーンスレイドのアルバム『カクタス・クワイア』のツアーに参加して、グリーンスレイドと共演しているほか、1970年代後半からは、妻でサックス奏者のバーバラ・トンプソン(1967年に結婚)が率いる「パラフェナリア」に参加したり、トンプソンやイアン・カーらとともに、英米独混成のジャズ・フュージョン・グループ「ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル」に創立メンバーとして加入するなど、精力的に活動を続けた。
 このふたつのグループは長年にわたって活動を続けた。


 1982年、ハイズマンは自宅の隣に当時の最先端の設備を取り入れたレコーディング・スタジオを建設した。
 ハイズマンとバーバラ・トンプソンは、そのスタジオで映画やテレビのサウンドトラックの制作を手がけたほか、ハイズマンはレコーディング機材の貸し出しも行うレコード・レーベル、「TM」を設立した。
 またハイズマンは、有名なドイツ人の音楽家も参加していたグループ、「ユナイテッド・ジャズ・アンド・リック・アンサンブル」の一員にもなった。彼のドラム・ソロが収録されたバンドのアルバム『About Time Too!』は、1991年にリリースされている。


 1994年6月、全盛期と同じラインナップ(ハイズマン、クリス・ファーロウvocal、クレム・クレムソンguitar、デイヴ・グリーンスレイドkeyboards、マーク・クラークbass、ディック・ヘクストール=スミスsax)でコロシアムを再結成する。
 1997年には23年ぶりのスタジオ・アルバム『Bread and Circuses』を発表した。2003年には『Tomorrow’s Blues』(2003年)をリリースしている。
 コロシアムは精力的にライブを行い、バーバラ・トンプソンもさまざまな機会に客演していたが、2004年にディック・ヘクストール=スミスが死去したのちは、トンプソンが後任として正式に加入した。
 2007年には初の日本公演が実現、2月17日~18日にクラブチッタ川崎で演奏した。


     


 2010年10月、ハイズマンの伝記『Playing the Band』が出版された。 著者はマーティン・ハンソンで、コロシアムの元マネージャーであるコリン・リチャードソンによって編集されたものである。


 2014年、コロシアムは11年ぶりのスタジオ・アルバム『タイム・オン・アワ・サイド』を発表したが、2015年2月28日にロンドンのO2・シェパーズ・ブッシュでの公演を最後に活動を終了した。 
 その後ハイズマンは、技術を磨いてジャズ・ロックの領域でトップ・ミュージシャンになり、最前線での活躍を続けてきたことが高く評価され、2016年のプログレッシブ・ミュージック・アワードでヴィジョナリー・アワード(「先見の明のある人」に贈られる賞)を受賞している。
 2017年には、クレム・クレンプソン(guitar, vocal)、マーク・クラーク(bass, vocal)とともに「JCM」という新しいトリオを結成、同年にはアルバム『Heroes』をレコーディングした。JCMは2018年4月にファースト・アルバムをリリースし、4月7日にツアーを開始した。


 2018年5月、家族によってハイズマンが癌性脳腫瘍の治療を行っていることが発表された。
 腫瘍の除去手術を行ったが結果は思わしいものではなく、6月1日にはホスピスに入院する。
 6月12日午前3時55分、ハイズマンは腫瘍の除去手術後の脳出血により、ロンドンのサットンで死去。74歳の誕生日まであと9日だった。


 2022年7月9日、ハイズマンの妻バーバラ・トンプソンが長年の闘病生活のすえ77歳で死去。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <ソロ・アルバム>

  1982年 A Night in the Sun
  1986年 Ganz Schön Heiss, Man! 
  1991年 About Time Too! Drum Solos

 <コロシアム>
  1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(UK15位)
  1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(UK15位)
  1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener ※アメリカのみ発売
  1970年 ドーター・オブ・タイム/Daughter of Time(UK23位 ドイツ36位)
 ☆1971年 コロシアム・ライヴ/Colosseum Live(UK17位 オーストラリア48位)
 ☆1995年 LiveS The Reunion Concerts 1994
  1997年 Bread & Circuses
  2003年 Tomorrow's Blues
 ☆2003年 コロン1994-リユニオン・コンサート/Live Cologne 1994
 ☆2003年 The Complete Reunion Concert
 ☆2007年 コロシアム・ライヴ!05/Live05
 ☆2009年 Theme for a Reunion
  2014年 タイム・オン・アワ・サイド/Time on Our Side
 ☆2015年 Live At Boston Tea Party, August 1969
 ☆2020年 Live At Montreux Jazz Festival 1969
 ☆2020年 Live At Ruisrock, Turku, Finland, 1970
 ☆2020年 Live At Oioer Club, Rome, Italy 1971
 ☆2020年 Live '71, Canterbury, Brighton & Manchester

 <テンペスト>
  1973年 テンペスト/Tempest
  1974年 眩暈/Living In Fear
  2005年 Under The Blossom:The Anthology

 <コロシアムⅡ>
  1976年 ストレンジ・ニュー・フレッシュ/Strange New Flesh
  1977年 エレクトリック・サヴェイジ/Electric Savage
  1977年 ウォーダンス/War Dance

 <参加アルバム>
 *ニュー・ジャズ・オーケストラ
  1965年 Western Reunion London 1965
  1969年 Le Dejeuner Sur L’herbe
 ☆2008年 Camden ’70 ※1970年のライヴ

 *ピーター・レマー
  1968年 ローカル・カラー/Local Colour

 *マイク・テイラー
  1966年 Pendulum ※マイク・テイラー・カルテット名義
  1966年 Trio ※マイク・テイラー・トリオ名義
 ★2007年 Remembered

 *ハワード・ライリー・トリオ
  1967年 ディスカッションズ/Discussions ※限定100枚の自主制作盤

 *ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ
  1968年 ベア・ワイアーズ/Bare Wires

 *ジャック・ブルース
  1969年 ソングス・フォー・ア・テイラー/Songs for a Tailor(US55位 UK6位)
  1970年 シングス・ウィ・ライク/Things We Like
  1971年 ハーモニー・ロウ/Harmony Row

 *グラハム・ボンド
  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond

 *キーフ・ハートリー・バンド
  1971年 Overdog

 *ディック・ヘクストール=スミス
  1972年 ア・ストーリー・エンディッド

 *ユナイテッド・ジャズ+ロック・アンサンブル
  1977年 Live Im Schützenhaus 
  1978年 Teamwork
  1979年 The Break Even Point
  1981年 Live in Berlin
  1984年 United Live Opus Sechs
  1984年 Highlights
  1987年 Round Seven
  1992年 Na Endlich!  Live In Concert 
  1994年 Highlights II
  1996年 Die Neunte Von United
  1998年 The UJRE plays Albert Mangelsdorff
  1999年 X
  2002年 The UJRE plays Wolfgang Dauner
  2002年 The UJRE plays Volker Kriegel

 *バーバラ・トンプソンズ・パラフェナリア
  1978年 Barbara Thompson's Paraphernalia
  1979年 Wilde Tales
 ☆1980年 Live in Concert
  1984年 Pure Fantasy
 ☆1985年 Live in Berliner MetropolーTheater
 ☆1988年 A Cry from the Heart
  1991年 Breathless
  1993年 Everlasting Flame
  1995年 Lady Saxophone
  1997年 Nightwatch
  1998年 Shifting Sands
  2000年 Thompson's Tangos and Other Soft Dances
  2003年 In the Eye of a Storm
  2005年 Never Say Goodbye
  2015年 The Last Fandango

 *バーバラ・トンプソン
  1978年 Barbara Thompson's Jubiaba
  1982年 Mother Earth
  1982年 Ghosts
  1986年 Heavenly Bodies
  1990年 Songs from the Center of the Earth
  2011年 George Martin Presents

 *Shadowshow
  1985年 Shadowshow

 *JCM
  2018年 Heroes


     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ヘッド・ファースト』(ユーライア・ヒープ)

2023-10-12 12:18:13 | albums

ヘッド・ファースト Head First


【歌・演奏】
  ユーライア・ヒープ/Uriah Heep


【リリース】
  1983年5月


【録音】
  1983年1月~3月
  メイナー・スタジオ(イングランド オックスフォードシャー オックスフォード)

  ラウンドハウス・スタジオ(ロンドン)


【プロデューサー】
  アシュリー・ハウ/Ashley Howe



【エンジニア】
  ニック・ロジャース/Nick Rogers


【レーベル】
  ブロンズ・レコード/Bronze Records(UK)
  マーキュリー・レコード/Mercury Records(US)



【収録曲】(☆シングル=②③)
 side:A
  ① ジ・アザー・サイド・オブ・ミッドナイト 3:55
    The Other Side of Midnight(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, Lee Kerslake, John Sinclair)
 ☆② ステイ・オン・トップ 3:35
    Stay on Top(Tom Jackson)
    *1983年週間チャート UK76位

 ☆③ ロンリー・ナイツ 4:07
    Lonely Nights(Bryan Adams, Jim Vallance)
    *1983年週間チャート UK85位

  ④ スウィート・トーク 3:51
    Sweet Talk(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, Lee Kerslake, John Sinclair, Linda Sinclair)
  ⑤ ラヴ・イズ・ブラインド 3:38
    Love is Blind(Richie Zito, Joey Carbone)
  side:B

  ⑥ ロール・オーヴァーチュア 2:18
    Roll-Overture(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, John Sinclair) 
  ⑦ レッド・ライツ 2:57
    Red Lights(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, John Sinclair)
  ⑧ ローリン・ザ・ロック 3:48
    Rollin' the Rock(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, John Sinclair)
  ⑨ ストレート・スルー・ザ・ハート 5:25
    Straight Through the Heart(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, Lee Kerslake, John Sinclair)
  ⑩ ウィークエンド・ウォーリアーズ 3:42
    Weekend Warriors(Mick Box, Bob Daisley, Peter Goalby, Lee Kerslake, John Sinclair)


【録音メンバー】
 ☆ユーライア・ヒープ
   ピーター・ゴールビー/Peter Goalby(lead-vocals)
   ミック・ボックス/Mick Box (guitars, backing-vocals)
   ジョン・シンクレア/John Sinclair(keyboards, synthesizer, backing-vocals)
   ボブ・デイズリー/Bob Daisley(bass, backing-vocals)
   リー・カースレイク/Lee Kerslake(drums, backing-vocals)
 ☆ゲスト・ミュージシャン
   フランク・リコッティ/Frank Ricotti(percussion⑥)
 

【チャート】
 1983年週間アルバム・チャート
   イギリス46位、アメリカ(ビルボード)159位、ノルウェイ19位、ドイツ56位


【メ  モ】
 ユーライア・ヒープ15作目のスタジオ・アルバム。③「ロンリー・ナイツ」はブライアン・アダムスのカヴァーである。
 いわゆる「産業ロック」的な音作りがさらに顕著になっている。

 前作『魔界再来』と同じメンバーでレコーディングされたが、ボブ・デイズリーはレコーディング終了後に脱退し、オジー・オズボーン・バンドに復帰した。
 アルバムリリース後のツアーではトレヴァー・ボルダーが再び加入してデイズリーの後任を務め、2013年に亡くなるまでユーライア・ヒープのベーシストを務めた。

 ユーライア・ヒープは、このアルバムを最後にブロンズ・レーベルから離れ、CBSに移籍する。 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする