ヘンリー・マッカロー Henry McCullough
【本名】
ヘンリー・キャンベル・ライケン・マッカロー/Henry Campbell Liken McCullough
【パート】
ギター、ベース、ヴォーカル
【生没年月日】
1943年7月21日~2016年6月14日(72歳没)
【出身地】
北アイルランド ロンドンデリー ポートスチュワート
【経 歴】
スカイロケッツ/The Skyrockets
ジーン & ザ・ジェンツ/Gene & The Gents(1964~1967)
ザ・ピープル/The People(1967)
エール・アパレント/Éire Apparent(1967~1968)
スウィーニーズ・メン/Sweeney's Men(1968)
グリース・バンド/Grease Band(1969~1971)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1970)
ウイングス/Wings(1971~1973)
フランキー・ミラー・バンド/Frankie Miller Band(1975)
ドクター・フィールグッド/Dr. Feelgood(1977)
ヘンリー・マッカロー・バンド/The Henry McCullough Band
ヘンリー・マッカローはアイルランド出身のギタリスト。ウイングスのギタリストだったことで知られる。
また、ウッドストック・フェスティヴァルでパフォーマンスを行った唯一のアイルランド人でもある。
マッカローは1943年7月21日に北アイルランドのロンドンデリー州ポートスチュワートで生まれた。
1960年代初頭、「スカイロケッツ」というショウ・バンドにリード・ギタリストとして加入したのが、マッカローのショウ・ビジネス界でのキャリアの始まりである。
1964年にスカイロケッツを脱退すると、「ジーン & ザ・ジェンツ」の結成に参加。
1967年にベルファストに移ったマッカローは、アーニー・グラハム(vocal)、クリス・スチュワート(bass)、デイヴ・ルートン(drums)とともにサイケデリック・バンド「ザ・ピープル」を結成。この年ロンドンに拠点を移した彼らはマネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズ)と契約することに成功し、バンド名を「エール・アパレント」に改め、ピンク・フロイドやソフト・マシーン、ザ・ムーヴ、ジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンス、アニマルズなどとツアーを行った。
1968年2月、アニマルズとのツアーのためにバンドとともにカナダのバンクーバーに滞在していたマッカローは、マリファナを所持していたため帰国させられ、そのままバンドを脱退した。
同年5月頃にはアイルランドのフォーク・ロック・バンド「スウィーニーズ・メン」に加入、数ヵ月参加している。
1969年、ロンドンに戻ったマッカローは、ジョー・コッカー(vocal)のバック・バンド「グリース・バンド」に加入する。当時のラインナップは、マッカローのほかクリス・ステイントン(keyboard)、アラン・スペナー(bass)、ブルース・ロウランド(drums)であった。マッカローが合流したグリース・バンドはアメリカー・ツアーを行い、8月にはウッドストック・フェスティヴァルにも出演した。
1970年には、ロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』のスタジオ・アルバムのレコーディングに参加。また同年には、バンドの内紛で揺れていたスプーキー・トゥースに一時的に加入し、アルバム『ザ・ラスト・パフ』のレコーディングに参加したが、アルバムの発表前にバンドは解散した。
グリース・バンドは1969年末にコッカーから独立し、ハーヴェスト・レコードと契約したが、翌71年にマッカローはグリース・バンドを脱退。
グリース・バンドから離れたマッカローは、ダブリン北部を拠点に活動していたが、ポール・マッカートニー(bass, vocal)からの要請で、1971年12月に彼の新たなバンド「ウイングス」に参加することになった。
マッカローのウイングスのメンバーとしての最初のレコーディングは、物議を醸したシングル「アイルランドに平和を」である。これは1972年に非武装の市民権デモ隊にイギリス軍が発砲して死者13人を出した「血の日曜日」事件に対して、アイルランド系のマッカートニーが抗議を表明したものであった。その結果、マッカートニーは「アイルランド軍を支持した」としてイギリスのメディアからの批判を浴び、BBCなど多くのメディアでは「アイルランドに平和を」を放送禁止とした。
ウイングスに在籍中のマッカローは、「ハイ・ハイ・ハイ」「007 死ぬのは奴らだ」「マイ・ラヴ」などのヒット曲や、アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の収録に参加している。なかでも「マイ・ラヴ」におけるマッカローのギター・ソロはロック史上に残る名演だと言われている。マッカートニーはいつもと同じように、この曲のために短いソロを書いていた。収録はオーケストラの生演奏との共演だったが、スタジオ入りしたマッカローが録音直前に「ちょっと違うことを試してみてもいいかな?」と尋ねてきた。戸惑いながらその申し出を了承したマッカートニーだったが、マッカローのソロを聴いて驚愕したという。このソロは、マッカローの即興によるものであった。
ポール・マッカートニー(左)、ヘンリー・マッカロー(右)
1973年8月、マッカローはウイングスから脱退。マッカートニーの演奏に対する注文の多さに端を発する音楽的見解の相違、そして長期ツアーによる疲労が重なったのがその理由である。脱退したのは、『バンド・オン・ザ・ラン』セッションのためナイジェリアに出発する前夜であった。
1973年にピンク・フロイドが制作したアルバム『狂気』はロック史上に残るモンスター・ヒット・アルバムであるが、その中に収録されている「マネー」の最後に、マッカローの「I don't know. I was really drunk at the time.(分からない、その時は本当に酔っていた)」というセリフを聞くことができる。これは、その前夜マッカローが夫人と喧嘩したことを思い出してのセリフだそうである。
その後はフランキー・ミラー・バンドに参加し、1975年にアルバム『ザ・ロック』をリリース。同じく1975年にはダーク・ホース・レコードよりファースト・ソロ・アルバム「Mind Your Own Business」を発表している。
また、セッション・ギタリストとしてロイ・ハーパー、エリック・バードン、マリアンヌ・フェイスフル、ロニー・レーン、ドノヴァンらと共演した。1977年には、ウィルコ・ジョンソンの後任として、一時的に「ドクター・フィールグッド」に加わっている。
マッカローは、1980年8月にミッチ・ミッチェル(drums)、ティム・ヒンクリー(keyboard)などをメンバーとするバック・バンドとともにアイルランド・ツアーを行った。その後は手を負傷して長期間の活動休止を余儀なくされたが、アイルランドに残り、回復後は故郷のポートスチュワートでパーシー・ロビンソン(pedalsteel guitar)、ロー・ブッチャー(bass)、リアム・ブラッドリー(drums)らと新たなバンドを結成し、フロント・マンとして復帰する。
1998年、マッカローはポーランドでツアーを行い、ポーランドのミュージシャンとともにライヴ・アルバムを収録、『Blue Sunset』のタイトルでリリースした。
ポーランドから帰国したのち、シングル「Failed Christian」を録音したが、これはのちニック・ロウが彼のアルバム「ディグ・マイ・ムード」でカヴァーしている。
その後もレコーディングと演奏を続け、2001年には『Belfast to Boston』(2001年)、『Unfinished Business』(2003年)などのソロ・アルバムを発表している。
2003年にはアラスカのミュージシャン、ザ・レヴ・ニール・ダウンのアルバム『When A Wrong Turns Right』にギターで参加した。
2007年、マッカローは元ジ・アラームのデイヴ・シャープ(guitar)と活動を開始し、ズート・マネー(keyboard)、ゲイリー・フレッチャー(bass)、コリン・アレン(drums)を加えたラインナップで「ハード・トラヴェラーズ」を結成する。このバンドは2008年1月にポーツマスの「ザ・セラーズ」でデビュー・ライヴを行った。
2008年、『プア・マンズ・ムーン』を制作し、アイルランドでリリースする。
2009年12月20日、ダブリンで行われたポール・マッカートニーのコンサートに出席した。マッカートニーは、マッカローがウイングスに貢献したことを公に認めた。
2010年3月13日、マッカローは自分のバンドとともにスコットランドのファイフストック・フェスティヴァルに出演し、ヘッドライン・アクトを務めた。
マッカローの、スワンプやブルースを昇華したいぶし銀のプレイは、アイルランドでは伝説的な存在と見なされている。彼はヨーロッパ全土で活動を続け、エド・ディーン、ジェームス・デラニー、ノエル・ブリッジマンらと共演した。
2011年にはポール・ドハーティ & ザ・ヴァルズとのコラボレーションを行い、ギターとバッキング・ヴォーカルを担当した「ルック・トゥ・ジ・ワン」は全世界でエアプレイされた。
2012年11月、マッカローは心臓発作のため重体に陥った。また併せて脳卒中を起こしたため、イギリスのラジオはマッカローの訃報を誤って報道されたほどだった。
2015年3月17日、南西ロンドンのパトニーでマッカローのためのチャリティー・コンサートが開催され、そのためのバック・バンド「ヘンリーズ・ヒーローズ」が結成された。メンバーはマッカローのソロ・アルバムのメンバーだったティム・ヒンクリー(keyboard)、ニール・ハバード(guitar)、ジョン・ハルゼー(drums)のほか、メル・コリンズ(sax)、クマ原田(bass)が参加した。コンサートには、ポール・キャラック、ニック・ロウ、アンディ・フェアウェザー・ロウ、ボブ・テンチらが出演した。
長い闘病生活を送っていたマッカローだが、心臓発作から完全に回復するには至らず、2016年6月14日早朝に北アイルランドのアントリム州バリーマネーにある自宅で死去した。72歳だった。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ>
1975年 Mind Your Own Business
1984年 Hell of a Record
1987年 Cut
☆1989年 Get in the Hole
1998年 Blue Sunset
2001年 Belfast to Boston
2002年 Unfinished Business
☆2007年 The Henry McCullough Band:FBI Live
2008年 Poor Man's Moon
2012年 Shabby Road
<スプーキー・トゥース>
1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff(US84位)
<ウイングス>
1973年 レッド・ローズ・スピードウェイ/Red Rose Speedway(UK5位 US1位)
<レコーディング・セッション>
*アンドリュー・ロイド・ウェバー & ティム・ライス/Andrew Lloyd Webber and Tim Rice
1970年 Jesus Christ Superstar
1976年 Evita
*ジョー・コッカー/Joe Cocker
1969年 心の友/With a Little Help from My Friends(UK29位 US35位)
1969年 ジョー・コッカー&レオン・ラッセル/Joe Cocker!(UK29位 US11位)
1974年 ア・リトル・レイン/I Can Stand a Little Rain(US11位) ※旧邦題「ユー・アー・ソー・ビューティフル」
1975年 ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル/Jamaica Say You Will(US42位)
☆1997年 オン・エアー/On Air 1968/1969(1968年録音)
☆2009年 Live at Woodstock
*グリース・バンド/The Grease Band
1971年 The Grease Band
1975年 Amazing Grease(1970年~1971年録音)
*ロゼッタ・ハイタワー/Rosetta Hightower
1970年 Hightower
*Christopher Kearney
1972年 Christopher Kearney
*Jackie Flavelle
1972年 Admission Free
*ドノヴァン/Donovan
1973年 エッセンス/Essence to Essence
*ヴィオラ・ウィルス/Viola Wills
1974年 Soft Centers(のち「Without You」として再発)
*デイヴ・カールセン
1973年 Pale Horse
*アンディ・フェアウェザー・ロウ/Andy Fairweather Low
1974年 Spider Jiving
2004年 Wide Eyed and Legless:The A&M Recordings
*フランキー・ミラー・バンド/The Frankie Miller Band
1975年 ザ・ロック/The Rock
*ボビー・ハリスン/Bobby Harrison
1975年 Funkist
*ゲイリー・ロックラン/Gary Lockran
1976年 Rags to Gladrags
*マリアンヌ・フェイスフル/Marianne Faithfull
1976年 ドリーミン・マイ・ドリームス/Dreamin' My Dreams(1978年「Faithless」として再発)
*ロイ・ハーパー/Roy Harper
1977年 Bullinamingvase(USでのタイトルは「One of Those Days in England」)
1994年 Commercial Breaks(1977年録音)
2011年 Songs of Love and Loss
*スティーヴ・エリス/Steve Ellis
1978年 The Last Angry Man(cassette issue)
*ロニー・レーン/Ronnie Lane
☆1980年 Live at Rockpalast
1980年 See Me
*デニー・レイン/Denny Laine
1980年 Japanese Tears
*エリック・バードン/Eric Burdon
1980年 Darkness Darkness
*リンダ・マッカートニー/Linda McCartney
1998年 Wide Prairie(1971年録音)
*ブレンダン・クイン/Brendan Quinn
2001年 Small Town
2008年 Sinner Man
*ケヴィン・ドハーティ/Kevin Doherty
2002年 Sweet Water
*リチャード・ギルピン/Richard Gilpin
2002年 Beautiful Mistake
*レヴ・ネイル・ダウン/Rev. Neil Down
2003年 When a Wrong Turns Right
*ティム・ヒンクリー/Tim Hinkley
2005年 Hinkley's Heroes
*ディーンズ/The Deans
2006年 The Deans
*スティーヴ・マリオッツ・オールスターズ/Steve Marriott's All Stars
2007年 Wham Bam
*ジェフ・グリーン/Jeff Greene
2008年 Dark Nite of the Soul
*ヴァルス/The Vals
2011年 look to the One
*Various Artists
☆1995年 Alive in Belfast – The Warehouse Sessions
★2014年 The Art of McCartney
<シングル>
1965年 ジーン & ザ・ジェンツ:Puppet on a String
1968年 エール・アパレント:Follow Me
1972年 ウイングス:アイルランドに平和を/Give Ireland Back to the Irish(UK16位 US21位)
1972年 ウイングス:メアリーの子羊/Mary Had a Little Lamb(UK9位 US28位)
1972年 ウイングス:ハイ・ハイ・ハイ/Hi, Hi, Hi(UK5位 US10位)
1973年 ウイングス:マイ・ラヴ/My Love(UK9位 US1位)
1973年 ウイングス:007 死ぬのは奴らだ/Live and Let Die(UK9位 US2位)
1973年 ウイングス:カントリー・ドリーマー/Country Dreamer(「愛しのヘレン/Helen Wheels」のB面)
ピーター・グリーン Peter Green
【本名】
ピーター・アレン・グリーンバウム/Peter Allen Greenbaum
【パート】
ギター、ハーモニカ、ヴォーカル
【生没年月日】
1946年10月29日~2020年7月25日(73歳没)
【出身地】
イングランド ロンドン特別区ベスナル・グリーン
【経 歴】
ザ・マスクラッツ/The Muskrats(1965)
ザ・ピーター・B's・ルーナーズ/The Peter B's Looners(1965~1966)
ショットガン・エクスプレス/Shotgun Express(1966)
ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ/John Mayall's Bluesbreakers(1966~1967)
フリートウッド・マック/(1967~1970)
ホワイト・スカイ/White Sky(1982)
カラーズ/Kolors(1982)
カトマンズ/Katmandu(1985)
ピーター・グリーンズ・スプリンター・グループ/Peter Green's Splinter Group(1997~2009)
ピーター・グリーンは、「ブリティッシュ・ブルース界最高」とも言われたイギリスのギタリストである。「フリートウッド・マック」の創設者としても知られている。
ブルースに根差した感性豊かなギター・プレイは現在でも高く評価されており、ローリング・ストーン誌が選出する「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」では2003年版で38位、2011年改訂版で58位にランクされている。
1946年10月29日、グリーンはロンドンのベスナル・グリーンのユダヤ人家庭で生まれた。父ジョー、母アンのグリーンバウム夫妻の4人兄弟の末っ子で、ピーター・アレンと名付けられた。
幼い頃から感受性の強かったグリーンは、10歳の頃ギターに興味を持つようになった。兄マイケルからコードを教わったグリーンは独学でギターを弾くようになり、B.B.キング、エルモア・ジェイムス、マディ・ウォーターズ、ハンク・マーヴィンらのブルース・マンや、シャドウズなどから大きな影響を受けたという。
15歳のときにロンドンの海運会社で働き始めたグリーンは、同時に「ボビー・デニス & ザ・ドミノス」というバンドにベーシストとして加わり、ミュージシャンとしての活動も開始した。
1965年、R&Bバンド「ザ・マスクラッツ」に短期間在籍したのち、「ザ・トライデンツ」にベーシストとして加入。さらに同年12月にはピーター・バーデンス(keyboard のちキャメル)のバンド「ザ・ピーター・B’s・ルーナーズ」(のち「ザ・ピーター・B's」と改名)にギタリストとして加入した。このバンドのドラマーが、のちにフリートウッド・マックをともに結成することになるミック・フリートウッドである。ルーナーズが1966年3月にリリースしたシングル「If You Wanna Be Happy」がグリーンにとってのレコード・デビューであった。
1966年5月、ザ・ピーター・B'sにロッド・スチュワート(vocal)とベリル・マースデン(vocal)が加わり、「ショットガン・エクスプレス」と改名したが、グリーンは1966年9月には脱退する。
ショットガン・エクスプレスから離れたグリーンは、この年7月にエリック・クラプトンの後任として「ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ」へ迎えられた。グリーンは1965年にクラプトンの代役としてブルースブレイカーズのステージに数回上がったことがあり、それが縁となっての加入であった。
当時のグリーンはまだ無名に等しかった。
グリーンの加入直後、デッカ・レコードのプロデューサーだったマイク・ヴァーノンは、クラプトンがブルースブレイカーズから脱退したことを聞いてショックを受けた。「心配ない、良い奴がいるんだ」と答えたジョン・メイオールに、ヴァーノンは重ねて「クラプトンより良い奴がいるのか」と尋ねた。それに対してメイオールは「グリーンは今の時点ではクラプトンより優れているとは言えないかもしれない。しかし数年後には彼は最高のミュージシャンになるだろう」と答えた、という話が残っている。
その言葉どおり、グリーンはブルースブレイカーズへの参加を境に、一躍注目されるようになる。
1967年、アルバム「ジョン・メイオールとピーター・グリーン/ブルースの世界」が発表される。これはグリーンにとってのアルバム・デビューであった。この中に収められている「ザ・セイム・ウェイ」「ザ・スーパーナチュラル」がグリーンのオリジナル曲である。「ザ・スーパーナチュラル」はすぐにバンドのトレード・マークになった。
グリーンの仕事ぶりは素晴らしく、評価は確固たるものとなった。ミュージシャン仲間からは「The Green God」というニックネームで呼ばれていたという。「God」はもちろんクラプトンに由来するものである。
グリーンの前任者であるクラプトンは、この頃にはイギリスを代表するギタリストとして知られていた。当時ロンドンの駅に、「Clapton Is God」と落書きされていたのは有名な話であるが、グリーンのブルースブレイカーズ加入後はそのとなりに「Peter Green Is Greater Than God」と書き足されていたという。
なお、グリーン加入時にブルースブレイカーズでベースを弾いていたのが、ジョン・マクヴィーである。また1967年4月にはミック・フリートウッドが加入し、再びバンド・メイトとなった。
クラプトンに勝るとも劣らない評価を得たグリーンだったが、1967年4月に在籍わずか10ヵ月ほどでブルースブレイカーズから脱退。そしてこの年7月には自らがリーダーのバンド「フリートウッド・マック」(結成当初は「ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック」)を結成する。メンバーはグリーン、フリートウッド、マクヴィーのほか、ジェレミー・スペンサー(guitar 元レヴィ・セット・ブルース・バンド)、ボブ・ブランニング(bass)であった。ベーシストの第1候補ジョン・マクヴィーだったのだが、まだ参加できる態勢が整っていなかったので、一時的にブランニングが起用されたのである。
感情を揺さぶるようなヴィブラートと個性的な音色に彩られたグリーンのギターは、当時のイギリスのブルース・ブームにあって重要な存在となっていた。のちにB.B.キングは、グリーンについて「彼は私が今までに聴いた中でもっとも優しい音色を持っている。彼は私に冷や汗をかかせた唯一の男だ」とコメントしている。
フリートウッド・マックは1967年8月、クリームやチキン・シャックらとともに「ウィンザー・ナショナル・ジャズ&ブルース・フェスティヴァル」に出演して好評を博し、すぐにマイク・ヴァーノンのブルー・ホライゾン・レーベルと契約した。
同年9月、ブランニングが脱退し、後任としてジョン・マクヴィーが加入する。
1967年11月、フリートウッド・マックはシングル「アイ・ビリーヴ・マイ・タイム・エイント・ロング」でデビュー。
翌68年2月にはファースト・アルバム「ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック」を発表。これは全英チャートに37週とどまり、最高4位を記録した。
1968年8月、セカンド・アルバム「ミスター・ワンダフル」を発表。このころダニー・カーワン(元ボイラーハウス)が3人目のギタリストとして加入する。
1968年11月にリリースしたシングル「アルバトロス」は、翌69年に全英シングル・チャート1位の大ヒットとなった。続くシングル「マン・オブ・ザ・ワールド」も全英チャートを2位まで上昇した。
1969年には、シカゴのチェス・レコードのスタジオで、オーティス・スパン、ウィリー・ディクソン、ウォルター・ホートン、バディ・ガイら錚々たるシカゴのブルースメンとレコーディングを行った。この音源は「ブルース・ジャム・イン・シカゴ」というタイトルでアルバムとしてリリースされている。
デビュー当初からチャートを賑わせたフリートウッド・マックは、またたく間にチキン・シャック、サヴォイ・ブラウンと並んでブリティッシュ・ホワイト・ブルースの三大バンドと言われるようになった。
しかし1969年頃からグリーンの精神状態は悪化の一途をたどる。
1970年、バンドはシングル「オー・ウェル」を全英1位に送り込んだが、グリーンの精神状態は深刻なドラッグへの依存によって非常にもろくなっていた。それに加えてブルースを追求したいグリーンの音楽観はバンドの方向性と合わなくなっていた。その結果、1970年5月20日の演奏を最後に、グリーンはフリートウッド・マックを脱退した。グリーンの脱退は、その後のフリートウッド・マックの音楽性の変化に大きな影響を及ぼしたと言われている。
バンドの中枢だったグリーンは、フリートウッド・マック時代にソング・ライターとしても才能を開花させ、「ブラック・マジック・ウーマン」(UK37位 1970年にサンタナがカヴァー)、「アルバトロス」(UK1位)、「マン・オブ・ザ・ワールド」(UK2位)、「オー・ウェル」(UK2位)、「グリーン・マナリシ」(UK10位 1978年ジューダス・プリーストがカヴァー)などの名曲を残している。
フリートウッド・マックから離れて1ヵ月後の6月27日、グリーンは「バース・フェスティヴァル・オブ・ブルース・アンド・プログレッシヴ・ミュージック」に出演。ステージをともにしたのは、ジョン・メイオール(guitar)、ロッド・メイオール(organ)、リック・グレッチ(bass)、エインズレー・ダンバー(drums)であった。
この年、全曲即興的なインストゥルメンタルであるソロ・アルバム「エンド・オブ・ザ・ゲーム」を発表する。これはゴッドフリー・マクリーン(drums)、ズート・マネー(keyboard)、ニック・バック(keyboard)、アレックス・ドモチョフスキー(bass)によるジャム・セッションを録音したものである。
1971年には、フリートウッド・マックから突如脱退したジェレミー・スペンサーの穴を埋めるため、「ピーター・ブルー」の変名で急遽フリートウッド・マックのツアーに参加する。そのほかピーター・バーデンス、ボブ・テンチのバンド「ガス」、ナイジェル・ワトソンなどのレコーディング・セッションに参加したほか、1973年にはフリートウッド・マックのアルバム「ペンギン」に収録されている「ナイトウォッチ」にノン・クレジットで参加。しかしこの時点のグリーンはもはや薬物に蝕まれたどん底の状態で、音楽界からも姿を消した。一時は墓地の管理人などをしていたという。この頃に愛用していたギター(レスポール)をゲイリー・ムーアに無料同然の値段で譲り渡している。
1977年には自分の会計士を散弾銃で脅したとして逮捕された。
グリーンは最終的に統合失調症と診断され、1977年には精神病院への入院を余儀なくされた。
こうしてグリーンは、1970年代の大半をドラッグの使用とその治療に費やしたが、1978年に約1年ぶりに退院すると、兄の援助でPVKとレコーディング契約を交わした。これをきっかけに、スノウィー・ホワイト(guitar)のサポートを受けてソロ活動を再開し、1979年にアルバム「虚空のギター」を発表、ついにカムバックを果たした。このアルバムは全英チャートで32位を記録した。同年にはフリートウッド・マックのアルバム「タスク」の「ブラウン・アイズ」にクレジットなしで参加している。
以後は1980年から1983年までは毎年ソロ・アルバムを発表したほか、「カラーズ」や「カトマンズ」というプロジェクトでも活動した。
1981年にはミック・フリートウッドのソロ・アルバム「ビジター」へ客演している。
1985年、レイ・ドーセット(guitar 元マンゴ・ジェリー)やヴィンセント・クレイン(keyboard 元アトミック・ルースター)らと「カトマンズ」を結成し、アルバムを制作するが、1980年代半ばになると再びドラッグの使用によって健康を損ない、消息不明となる。
一時は「ピーター・グリーンの再起は不可能」だとする噂も流れたほどだったが、1990年代にゲイリー・ムーアやピート・ブラウンらによって自身の楽曲の再評価を受けたことを機に、本格的な復帰の準備に入る。
1996年3月14日、ドイツのフランクフルトで開催された楽器イベント「ミュージックメッセ」で、出演を取りやめたB.B.キングの代わりにライヴを行う。ナイジェル・ワトソン(guitar)、ニール・マーレイ(bass)とコージー・パウエル(drums)を従えたグリーンは「ピーター・グリーン・スプリンター・グループ」として約30分ほどのステージをこなし、再びカムバックしたのである。
この年12月にはイギリス・ツアーを行うまでに回復したグリーンは、1997年には「スプリンター・グループ」として初のアルバムを発表する。のちパウエルの交通事故死とマーレイの脱退によるメンバー・チェンジもあったが、1999年4月には初の日本公演も行い、Char、ジョー山中、近藤房之助らと共演した。2002年には再来日し、「ジャパン・ブルース・カーニヴァル」に出演している。
しかしワトソンとの間にできた溝は徐々に広がり、訴訟にまで発展。これが原因でスプリンター・グループは2004年に解散した。
なお1998年にはフリートウッド・マックの他のメンバーとともに「ロックの殿堂」入りを果たしている。
この後グリーンはまたもや音楽界から姿を消すが、2009年から2010年にかけて「ピーター・グリーン & フレンズ」として、イギリス、ドイツおよびオーストラリア・ツアーを行った。その後はエセックス州に居を構えて穏やかに日々を過ごした。
2009年2月、「ピーター・グリーン&フレンズ」として再び演奏とツアーを開始した。この年BBCのドキュメンタリー番組「ピーター・グリーン:マン・オブ・ザ・ワールド」が制作されている。
2020年2月25日、盟友ミック・フリートウッドはグリーンに対するリスペクトから、グリーンの音楽を讃える特別ライヴ「ミック・フリートウッド & フレンズ・トリビュート・トゥ・ピーター・グリーン」をロンドン・パラディアムで開催した。グリーンはこのイヴェントには出席しておらず、おそらくはイヴェントが開催されたことも知らなかっただろう、と言われている。
2020年7月25日、イングランド、エセックス州キャンヴェイ島にて73歳で死去。死因は公表されていないが、睡眠中に息を引き取ったという。
21世紀初頭、初期メンバーによるフリートウッド・マック再結成の噂が何度か流れたが、実現することはなかった。
ゲイリー・ムーア、ジョー・ペリー、アンディ・パウエル、マーク・ノップラー、ノエル・ギャラガーなど多くの名ギタリストがグリーンから影響を受けたと公言している。
またグリーンの曲はサンタナ、エアロ・スミス、ステイタス・クォー、ブラック・クロウズ、ジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、トム・ペティなどによってカヴァーされ、演奏され続けている。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ>
1970年 エンド・オブ・ザ・ゲーム/The End of the Game ※旧邦題『ジニアス』
1979年 虚空のギター/In the Skies(UK32位)
1980年 夢幻のギター/Little Dreamer
1981年 自由へのギター・ロード/Whatcha Gonna Do?
★1981年 Blue Guitar ※アルバム未収録シングル含む編集盤
1982年 無垢のギター/White Sky
1984年 A Case For The Blues / Katmandu
★1988年 Legend ※未発表を含む編集盤
★1991年 Last Train To San Antone
★1992年 Baby When the Sun Goes Down
★1993年 Collection
★1995年 Rock and Pop Legends
★1996年 Green and Guitar
★1997年 Bandit
★1997年 Knights of the Blues Table
★1998年 Blues for Dhyana
★1998年 Born on the Wild Side
★2000年 Alone with the Blues
★2001年 The Clown
★2001年 A Fool No More
★2001年 Promised Land
★2008年 Anthology
<ジョン・メイオール & ザ・ブルースブレイカーズ>
1967年 ジョン・メイオールとピーター・グリーン/ブルースの世界/Hard Road(UK10位)
<フリートウッド・マック>
1968年 ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック/Peter Green's Fleetwood Mac(UK4位, US198位)
1968年 ミスター・ワンダフル/Mr. Wonderful(UK10位)
1969年 ゼン・プレイ・オン/Then Play On(UK6位, US109位)
1969年 ブルーズ・ジャム・イン・シカゴ/Fleetwood Mac in Chicago(US118位)
<カラーズ>
★1983年 彩りのギター/Kolors ※未発表曲集。Kolorsの解散後にリリース
<カトマンズ>
1985年 ア・ケース・フォー・ザ・ブルース/A Case for the Blues
<ピーター・グリーンズ・スプリンター・グループ>
☆1997年 スプリンター・グループ/Peter Green Splinter Group ※ソロ名義
1998年 The Robert Johnson Songbook ※Peter Green with Nigel Watson Splinter Group
☆1998年 Soho Session
1999年 デスティニー・ロード/Destiny Road
2000年 ホット・フット・パウダー/Hot Foot Powder ※Peter Green with Nigel Watson Splinter Group
2001年 タイム・トレイダーズ/Time Traders
★2001年 Me and the Devil ※限定3CDボックス。1CDはロバート・ジョンソンの録音
2001年 Blues Don't Change ※コンサート会場および公式ウェブサイト限定
2003年 リーチング・ザ・コールド 100/Reaching the Cold 100
★2006年 ザ・ベスト・オブ・ピーター・グリーン・スプリンター・グループ/The Best of Peter Green Splinter Group
★2013年 The Very Best of Peter Green Splinter Group
<レコーディング・セッション>
*エディー・ボイド
1967年 Eddie Boyd and His Blues Band featuring Peter Green
1968年 7936 South Rhodes
*ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ
1968年 ベア・ワイヤーズ/Bare Wires(UK3位) ※収録はリイシュー盤(CD)のボーナス・トラックのみ
1968年 ローレル・キャニオンのブルース/Blues from Laurel Canyon(UK33位)
*ダスター・ベネット
1968年 Smiling Like I'm Happy
1969年 Bright Lights
1970年 12 DB's
*ゴードン・スミス
1968年 ロング・オーヴァーデュー/Long Overdue
*オーティス・スパン
1969年 The Biggest Thing Since Colossus
*ブランニング・サンフラワー・ブルース・バンド
1969年 Trackside Blues
1970年 I Wish You Would
*ガス
1970年 Juju
*ジェレミー・スペンサー
1970年 Jeremy Spencer
*トー・ファット
1970年 Toe Fat Two
*メンフィス・スリム
1971年 Blue Memphis
*B.B. キング
1971年 B.B.King in London(Green plays on「Caldonia」)
*デイヴ・ケリー
1971年 Dave Kelly
*カントリー・ジョー・マクドナルド
1971年 Hold On It's Coming
*ピーター・バーデンス
1970年 ジ・アンサー/The Answer
*フリートウッド・マック
1973年 ペンギン/Penguin(Plays on "Night Watch" )(US49位)
1979年 牙(タスク)/Tusk(Plays on "Brown Eyes" )(UK1位, US4位)
*リチャード・カー
1973年 From Now Until Then
*ダッフォ
1980年 The Disappearing Boy
*ミック・フリートウッド
1981年 ザ・ビジター/The Visitor
*ブライアン・ナイト
1981年 A Dark Horse
*ジ・エネミー・ウィズイン
1986年 ア・タッチ・オブ・サンバーン/A Touch Of Sunburn
*SAS バンド
1997年 SAS Band
*ディック・ヘクストール=スミス
2001年 Blues and Beyond
*クリス・ココ
2002年 Next Wave
*ピーター・ガブリエル
2003年 Up(UK11位 US9位)
ポール・コゾフ Paul Francis Kossoff
【パート】
ギター
【生没年月日】
1950年9月14日~1976年3月19日(25歳没)
【出生地】
イングランド ロンドン ハムステッド
【経 歴】
ブラック・キャット・ボーンズ(1966~1968)
フリー(1968~1971)
コゾフ・カーク・テツ&ラビット(1971)
フリー(1972~1973)
バック・ストリート・クローラー(1973~1976)
イギリスのロック・ギタリスト。
「フリー」のギタリストとして知られている。
ブルースをベースにした「泣き」のギターが特徴で、ギブソン・レスポールがトレード・マークである。
ポール・コゾフは、俳優である父デヴィッド・コゾフと母マーガレットの子息子として、ロンドンの裕福な家庭に生まれた。
叔父は放送作家のアラン・キースであり、モデルのリンダ・キースはいとこにあたる。
9歳の時に両親の意向によってクラシック・ギターのレッスンを始めた。レッスンは15歳まで続けたが、堅苦しい雰囲気に嫌気がさしてレッスンばかりかギターまでやめてしまった。
少年時代は名門私立学校に通っていたが、不良仲間とドラッグを使用しているのを見つかって公立学校に転校する。
1965年12月、ロンドン北西部のゴルダーズ・グリーンにあるザ・リフレクトリーでジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのライヴを見たコゾフは、当時このバンドに在籍していたエリック・クラプトンのギターを聴いて衝撃を受け、これがきっかけとなって再びギターを弾くようになる。
1966年、コゾフはロンドンのチャリングクロス街にあった「セルマーズ・ミュージック・ストア」という楽器店で働き始めた。それと並行して、同年ブルース・バンド「ブラック・キャット・ボーンズ」(Black Cat Bones)の結成に加わり、本格的な音楽活動を始める。
ブラック・キャット・ボーンズはしばしばフリートウッド・マックやピーター・グリーン(guitar)のライヴをサポートしていたが、そこでコゾフの演奏に接したグリーンによってそのギター・プレイは認められ、これがきっかけとなってコゾフの存在は徐々に知られるようになっていった。
1968年2月にはブラック・キャット・ボーンズにサイモン・カーク(drums)が加入している。
この1968年、ロンドン北部のクラブに遊びに行ったコゾフは、「ブラウン・シュガー」というバンドで歌っていたポール・ロジャースと出会う。さっそく意気投合したふたりはサイモン・カークを加えて1968年4月にバンドを結成。ベーシストには、アレクシス・コーナーの紹介で、元ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのベーシストであるアンディ・フレイザーが参加することになった。
メンバー全員がティーンエイジャーのこの若さあふれるバンドは、アレクシス・コーナーのバンド「フリー・アット・ラスト」にちなんで「フリー」と名乗ることになった。一説には、アレクシスが彼らにその名前を譲った、とも言われている。
フリーはアレクシス・コーナーの後押しもあって、徐々にロンドンで知名度を上げていった。そしてDJ兼音楽評論家のジョン・ピールと出会い、彼の協力もあってアイランド・レコードと契約するに至った。
1969年3月、フリーはデビュー・アルバム『トンズ・オブ・ソブス』を発表。
粗削りではあるが豊かな将来性が伺えるこのアルバムの評価は好ましいものだったが、セールス的にはいまひとつであった。
同年、フリーは当時スーパー・グループとして大きな話題となっていた「ブラインド・フェイス」のアメリカ・ツアーのサポート・バンドに抜擢され、同行する。帰国後にセカンド・アルバム『フリー』を制作したが、これは全米チャートでトップ30に入るヒットを記録した。サイケデリック全盛の当時にあって、正面からソウルフルなブルースを演奏していたフリーは、一躍期待の新進バンドとして注目されることとなった。
1970年6月に発表したサード・アルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』によってフリーの人気は決定的なものになった。このアルバムからシングル・カットされた「オール・ライト・ナウ」は大ヒットし、全英1位を獲得している。
この年はワイト島フェスティヴァルにも出演し、そのパフォーマンスは聴衆のみならず評論家からも絶賛された。
同年12月には早くも4thアルバム『ハイウェイ』を発表。この当時メンバーはまだ20歳そこそこであったが、彼らの人気は絶頂を迎えた。
1971年には全米ツアーを成功させ、同年5月には初の日本公演を行う。しかしその直後のオーストラリア公演終了後に、フリーは突如は解散を発表してロック界を驚かせた。コゾフのドラッグ常用や、メンバー間の確執がその理由だと言われている。
解散後、コゾフはサイモン・カークとともに「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」を結成したが、短期間活動しただけで終わった。
1972年1月、オリジナル・メンバーによってフリーは再結成。同年5月にはアルバム『フリー・アット・ラスト』を発表、ツアーも開始した。
しかしコゾフはドラッグの使用によってステージに立てないこともあり、また依然としてメンバー間の溝は埋まらず、同年7月にはアンディ・フレイザーが脱退した。ちなみにその後任としてフリーに加入したのが、「コゾフ・カーク・テツ&ラビット」のメンバーだった山内テツ(bass)とラビット(keyboard)である。
この年後半にはアルバム『ハートブレイカー』の制作が始まったが、コゾフはこの時も体調が思わしくなく、レコーディングをリタイア。これがきっかけとなって、1973年7月にコゾフはフリーから脱退する。
再びフリーを離れたコゾフは、1973年に初のソロ・アルバム『バック・ストリート・クロウラー』を発表。そして1年間の療養の後、ソロ・アルバムと同じ名前のバンド「バック・ストリート・クロウラー」を結成する。
1975年にアルバム『バンド・プレイ・オン』、76年には『2番街の悲劇』を発表するが、ヘロインを常用していたコゾフの状態は、心臓の一部の機能が停止してしまう事もあるなど幾度か生死の境をさまよったこともあるほど予断を許さないものだった。
コゾフは15歳の時からドラッグを使用していたが、精神的に非常に繊細だったため、ドラッグへの依存や逃避が深刻化したとも言われている。サイモン・カークによると、ジミ・ヘンドリックスを崇拝していたコゾフは1970年のジミによって精神的にさらに大きな打撃を受け、そのショックはついに癒えることがなかったそうである。
1976年3月19日、バック・ストリート・クロウラーのライヴ・ツアーのためにロサンゼルスからニューヨークへ移動中の飛行機の中で、コゾフは眠るように亡くなった。死因は足の血栓が肺に転移したことによる肺塞栓症であった。
遺体はロンドンに搬送され、埋葬された。コゾフの墓石には「All right Now」(いまはもう大丈夫)という文字が刻まれている。
コゾフの父で俳優のデイヴィッド・コゾフは、2005年に他界するまで熱心に薬物乱用反対の活動を続けた。
人柄の良さと個性的な演奏で、コゾフは数多くのレコーディング・セッションから声がかかっていたという。
コゾフの演奏は、ブルースをベースにしており、比較的音数が少なくシンプルである。
チョーキングや美しいヴィブラートを用いた「泣き」のギターはコゾフの代名詞とも言えるもので、愛器レスポールから生み出されるエモーショナルなサウンドは、エリック・クラプトンら多くの名手も一目置いていたそうである。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ソロ・アルバム>
1973年 バック・ストリート・クロウラー/Back Street Crawler
★1977年 彷徨える魂/Koss
☆1983年 LIVE AT CROYDON FAIRFIELD HALLS/Live at Croydon Fairfield Halls 15/6/75
★1986年 ブルー・ソウル/Blue Soul
<フリー>
1968年 トンズ・オブ・ソブス/Tons Of Sobs US197位
1969年 フリー/Free UK22位 US177位
1970年 ファイアー・アンド・ウォーター/Fire And Water UK2位 US17位
1970年 ハイウェイ/Highway UK41位 US190位
☆1971年 フリー・ライヴ/Free Live! UK4位 US89位
1972年 フリー・アット・ラスト/Free At Last UK9位 US69位
1973年 ハートブレイカー/Heartbreaker UK7位 US47位
★1973年 The Free Story UK2位
★1974年 Best of Free US120位
★1991年 The Best of Free:All Right Now UK9位
★2000年 Songs of Yesterday UK150位
★2005年 Chronicles UK42位
☆2006年 Live at the BBC UK127位
★2010年 The Very Best of Free & Bad Company Featuring Paul Rodgers UK10位
<コゾフ・カーク・テツ&ラビット>
1972年 コゾフ/カーク/テツ/ラビット/Kossoff Kirke Tetsu Rabbit
<バック・ストリート・クロウラー>
1975年 バンド・プレイズ・オン/The Band Plays On
1976年 2番街の悲劇/2nd Street
<レコーディング・セッション>
*チャンピオン・ジャック・デュプリー
1968年 ホエン・ユー・フィール・ザ・フィーリング・ユー・ワズ・フィーリング
*Martha Veléz
1969年 Friends and Angels
*Michael Gately
1971年 Gately's Cafe
*Mike Vernon
1971年 Bring It Back Home
*Uncle Dog
1972年 Old Hat
*Jim Capaldi
1972年 Oh How We Danced
1975年 Short Cut Draw Blood
*Amazing Blondel
1974年 Mulgrave Street
*John Martyn
1975年 Live at Leeds
*Ken Hensley
1994年 From Time to Time
アルヴィン・リー Alvin Lee
【本名】
グラハム・アンソニー・バーンズ/Graham Anthony Barnes
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1944年12月19日~2013年3月6日(68歳没)
【出生地】
イングランド ノッティンガム
【経 歴】
テン・イヤーズ・アフター(1966~1974)
アルヴィン・リー&カンパニー(1974~1975、1976)
テン・イヤーズ・レイター(1978~1980)
アルヴィン・リー・バンド(1980~1982、1990年代)
テン・イヤーズ・アフター(1988~2003)
アルヴィン・リーは、1960年代から1970年代にかけて世界的な成功を収めたブルース・ロック・バンド「テン・イヤーズ・アフター」のギタリスト兼ヴォーカリストである
トレード・マークは、「Big Red」と呼ばれたチェリー・レッドのギブソンES-335。
ロック・ミュージックにおける「速弾き」ギタリストの先駆者のひとりであり、多くのギタリストに影響を与えた。
アル・ディ・メオラは、アルヴィンのギターを聴いた時に全てピッキングしているものと思い込み、自分もその練習を続けているうちに速く弾けるようになったという。
イングランドのノッティンガムに生まれ、ノッティンガム西部のウォラトンにあるマーガレット・グレン・バット校に進む。
アルヴィンは、両親が集めていたジャズやブルースのレコードによって音楽に親しむようになっていた。
13歳の時、ロックンロールに影響されてギターを弾き始める。当時のアルヴィンはチャック・ベリーとスコッティ・ムーアに夢中だったという。
当時のロック・ギタリストたちはアメリカのブルース・ギタリストをお手本としていたが、やがてアルヴィンはチャーリー・クリスチャンやタル・ファーロウらのジャズ・ギタリストをひたすらコピーするようになり、それによって速弾きと「マシンガン」とも形容されたピッキングを習得した。
1960年、アルヴィンは地元ノッティンガムで知り合ったレオ・ライオンズ(bass)とともに「アイヴァン・ジェイ&ザ・ジェイメン」という5人組のバンドを結成。
間もなくこのバンドはギター・トリオとなり、「ザ・ジェイメン」から「ザ・ジェイキャッツ」へ、そして「ザ・ジェイバーズ」と改名。演奏場所を求めて彼らは一時はハンブルグに移った。
ジェイバーズは1964年2月にデビュー・シングル『Not Fade Away』をリリース。
1965年夏にドラマーがリック・リーに交替し、メンバーはアルヴィン・リー、レオ・ライオンズ、リック・リーとなる。
1966年、ジェイバーズはロンドンへ進出。この年、チック・チャーチル(keyboards)が加わり4人編成となったバンドは「テン・イヤーズ・アフター」と改名する。
テン・イヤーズ・アフターは、1967年にウィンザー・ジャズ・フェスティバルに出演したが、この時のパフォーマンスが認められ、デッカ・レーベル傘下にあるデラム・レコードと契約することになった。
1967年、デビュー・アルバム『テン・イヤーズ・アフター・ファースト』を発表すると、アルヴィンのギターを中心としたエネルギッシュなステージが徐々に評判となる。
1968年にはセカンド・アルバム『イン・コンサート』を発表。このアルバムは、当時としては異例のライヴ・アルバムとしてリリースされており、ライヴ・バンドとして頭角を現しつつあったテン・イヤーズ・アフターの魅力が反映されたものになっている。
1969年、テン・イヤーズ・アフターはウッドストック・フェスティヴァルに出演。
8月17日夜のステージで見せた「アイム・ゴーイング・ホーム」の熱演は、25万人もの大観衆を熱狂させた。
この時のテン・イヤーズ・アフターの演奏はウッドストック・フェスティヴァルのハイライトのひとつに数えられており、ドキュメンタリー映画『ウッドストック』にも収められている。そしてこの時のパフォーマンスによって、アルヴィンの人気も決定的なものとなった。
テン・イヤーズ・アフターではスタジオ・アルバムを8枚リリースしているが、イギリスでは2作目の『ストーンドヘンジ』(1969年)から5作目の『ワット』(1970年)まで4作連続トップ10入りを、アメリカでは3作目の『夜明けのない朝』から6作目の『スペース・イン・タイム』まで4作連続トップ30入りを記録している。
1971年、バンドはコロムビア・レコードに移籍。9月にリリースしたシングル『チェンジ・ザ・ワールド』はビルボードで40位となるヒット(テン・イヤーズ・アフター唯一の全米トップ40入り)を記録したが、ひと頃の人気は徐々に影をひそめるようになり、1973年の来日公演終了後からはブルース・ロックを追求したいリーとポップ路線にシフトさせようとするレーベルとの間の音楽的指向の相違が表面化するようになった。
1973年、アルヴィンはジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ロン・ウッド、ミック・フリートウッドをゲストに迎えて、アメリカのゴスペル系シンガー、マイロン・ルフェーヴルとのコラボレーション・アルバム『自由への旅路』を制作、発表する。カントリー・ロックから大きな影響を受けているこのアルバムは、セールスは今ひとつ伸びなかったものの、好意的な評価を受けた。
同年発表されたジェリー・リー・ルイスの2枚組アルバム『ロックンロール・スーパー・セッション』の録音にも参加している。
アルヴィンは、1974年にはソロ・プロジェクトを本格化させる。
この年3月22日に行われる予定のロンドンのレインボー・シアター公演のために、ブリティッシュ・ファンク・バンド「ココモ」のメンバーとアレクシス・コーナーのバンド「スネイプ」の元メンバーのジョイントによる「アルヴィン・リー&カンパニー」を結成。この公演の模様は2枚組のライヴ・アルバム『栄光への飛翔』として、テン・イヤーズ・アフター解散後の1974年11月にリリースされている。
テン・イヤーズ・アフターは1974年4月に通算8作目のスタジオ・アルバム『ヴァイブレーションズ』を発表したが、アルヴィンが活動の比重の重きをソロに置くようになっていたことなどで人気の停滞に拍車がかかり、アルバムのリリース後間もなく解散した。
1975年8月4日、サンフランシスコのウィンターランドで、アメリカでのフェアウェル・コンサートのため一時的にテン・イヤーズ・アフターが再結成される。
1975年にはソロ・アルバム『パンプ・アイアン』を制作したが、この時のレコーディング・メンバーが第2期「アルヴィン・リー&カンパニー」である。
同年にはボ・ディドリーのアルバム『栄光のロックン・ロール・ジャム』の録音にも参加、数曲でギターを弾いている。
1978年、ズート・マネー(keyboard)やアラン・スペナー(bass)らを起用してソロ・アルバム『レット・イット・ロック』を制作。
『レット・イット・ロック』を発表した後、トム・コンプトン(drums)、ミック・ホークスワース(bass)を起用して「テン・イヤーズ・レイター」を結成。『甦る雷神』(1978年)と『ライド・オン』(1979年)の2枚のアルバムをリリースし、ヨーロッパやアメリカなどでツアーを行った。
1980年、「テン・イヤーズ・レイター」のメンバーを一新、元レア・バードのスティーヴ・グールド(vocal, guitar)などを加えて、バンド名も「アルヴィン・リー・バンド」とした。このバンドは1980年10月に『フリーフォール』、そして1981年11月に『RX-5』の、計2枚のアルバムをリリースした。1981年にはスティーヴ・グールドの後任としてミック・テイラー(guitar, vocal)が加入している。
1983年7月1日、一夜限りで再結成し、ロンドンの「マーキー・クラブ25周年記念コンサート」に出演。
1989年、ソロ活動と並行して、オリジナル・メンバーによる「テン・イヤーズ・アフター」の再結成にも参加。同年アルバム『アバウト・タイム』をリリースした。
1990年代には再びスティーヴ・グールドとともに「アルヴィン・リー・バンド」としての活動を再開させ、1993年に12年ぶりのサード・アルバム『Nineteenninetyfour』発表した。
2004年、D.J. フォンタナ、そしてかつてのアルヴィンのアイドルであるスコッティ・ムーアを招いて制作したアルバム『アルヴィン・リー・イン・テネシー』をリリース。
晩年はレコーディング・スタジオのある自宅にこもって「FBI」というバンドをプロデュースするなど、マイ・ペースで活動した。
2012年9月にはアルバム『スティル・オン・ザ・ロード・トゥ・フリーダム』をリリースしたが、これがアルヴィンの最後の作品となった。
2013年3月6日、アルヴィン・リーはスペインで死去。68歳であった。
死因は、「心房細動を治療するための通常の外科的処置後に起きた予期せぬ合併症」とメディアで発表されている。
アルヴィンの訃報を聞いたレオ・ライオンズは、アルヴィンを「兄弟に最も近いもの」と呼んでその死を惜しみ、リック・リーは「彼の死の現実についてまだピンと来ていない」と哀しみを述べた。
アルヴィンは20枚以上のアルバムや多くの楽曲を残しているが、「ビルボード」誌は、ウッドストック・フェスティバルでの『アイム・ゴーイング・ホーム』や、1971年のヒット・シングル『チェンジ・ザ・ワールド』などを画期的なパフォーマンスだったとして、アルヴィンの功績を讃えている。
【ディスコグラフィ】☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム
<テン・イヤーズ・アフター>
1967年 テン・イヤーズ・アフター・ファースト/Ten Years After
☆1968年 イン・コンサート/Undead UK26位、US(ビルボード)115位
1969年 ストーンドヘンジ/Stonedhenge UK6位、US(ビルボード)61位
1969年 夜明けのない朝/Ssssh UK4位、US(ビルボード)20位
1970年 クリックルウッド・グリーン/Cricklewood Green UK4位、US(ビルボード)14位
1970年 ワット/Watt UK5位、US(ビルボード)21位
1971年 スペース・イン・タイム/A Space in Time UK36位、US(ビルボード)17位
1972年 ロックンロール・ミュージック・トゥ・ザ・ワールド/Rock & Roll Music to the World UK27位、US(ビルボード)43位
★1972年 Alvin Lee and Company US55位
☆1973年 ライヴ!/Recorded Live UK36位、US(ビルボード)39位
1974年 ヴァイブレーションズ/Positive Vibrations US(ビルボード)81位
★1975年 Goin' Home! US174位
1989年 アバウト・タイム/About Time US(ビルボード)120位
☆2001年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト/Live at the Fillmore East 1970
☆2003年 One Night Jammed
☆2005年 Roadworks
<ソロ・アルバム等>
1973年 自由への旅路/On the Road to Freedom(アルヴィン・リー with マイロン・ルフェーヴル) US(ビルボード)138位
☆1974年 栄光への飛翔/In Flight(アルヴィン・リー&カンパニー) US(ビルボード)65位
1975年 パンプ・アイアン/Pump Iron!(アルヴィン・リー) US(ビルボード)131位
1978年 レット・イット・ロック/Let It Rock(アルヴィン・リー)
1978年 甦る雷神/Rocket Fuel(アルヴィン・リー&テン・イヤーズ・レイター) US(ビルボード)115位
☆1978年 Live at Rockpalast
1979年 ライド・オン/Ride On(アルヴィン・リー&テン・イヤーズ・レイター) US(ビルボード)158位
1980年 フリー・フォール/Free Fall(アルヴィン・リー・バンド) US(ビルボード)198位
1981年 RX5/RX5
1986年 デトロイト・ディーゼル/Detroit Diesel US(ビルボード)124位
1992年 ズーム/Zoom
1994年 Nineteen Ninety-Four
☆1994年 Live In Vienna
2004年 アルヴィン・リー・イン・テネシー/In Tennessee
2007年 Saguitar
2012年 スティル・オン・ザ・ロード・トゥ・フリーダム/Still on the Road to Freedom
☆2013年 The Last Show
<ソロ・シングル>
1986年 デトロイト・ディーゼル/Detroit Diesel US(ビルボード)26位
テリー・キャス Terry Alan Kath
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1946年1月31日~1978年1月23日(31歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
【経 歴】
ビッグ・シング/The Big Thing(1967~1968)
シカゴ・トランジット・オーソリティ/Chicago Transit Authority(1968~1969)
シカゴ/Chicago(1970~1978)
アメリカン・ロックの代表的バンドのひとつ、「シカゴ」のオリジナル・メンバー。
シカゴではギター、リード・ヴォーカル、作詞作曲を担当、バンドの中心人物として1960~1970年代のシカゴを支えた。
ギターのほか、バンジョー、ベース・ギター、アコーディオン、ドラムも演奏するマルチ・プレイヤーである。
貧しい農家に生まれる。正式な音楽教育は受けていないが、育った家庭はみな音楽好きで、テリーも幼いころからバンジョーやアコーディオンに親しんでいた。
1950年代の終わりにヴェンチャーズが登場すると、テリーはたちまちヴェンチャーズ、そしてヴェンチャーズのギタリスト、ノーキー・エドワーズに夢中になり、独学でギターをマスターした。この間ケニー・バレル、ジョージ・ベンソン、ハワード・ロバーツなどのジャズ・ギタリストのレコードも聴きあさっていたという。その後1年ほどジャズのレッスンを受ける。
1963年頃、「ジミー&ザ・ジェントルメン」に参加。このバンドで終生の親友となるウォルター・パラザイダーに出会う。
1964年頃、ABCの人気番組『アメリカン・バンドスタンド』のホスト、ディック・クラークが率いていた「キャラヴァン・オブ・スターズ」にベーシストとして参加。このグループの前任ベーシストが、のち「シカゴ」のプロデューサーとなるジェイムス・ウィリアム・ガルシオであった。
その後ウォルター・パラザイダーと「ジ・エグゼクティヴス」を結成。このバンドでダニエル・セラフィン(drums)と出会う。
「ジ・エグゼクティヴス」は「ミッシング・リンクス」へと発展したのち1966年に解散したが、テリーとウォルター・パラザイダーは自分たちの「ホーン・セクションを入れたロック・バンドを作る」という構想に合ったミュージシャンを探し始め、ジェイムス・パンコウ(trombone)、リー・ロックネイン(trumpet)、ロバート・ラム(keyboard, vocal)を仲間に加えて、1967年2月に「ザ・ビッグ・シング」(The Big Thing)を結成した。
ザ・ビッグ・シングはイリノイ州メイウッドにあったウォルター・パラザイダーの母の家にある地下室でリハーサルを重ね、オリジナル曲を増やし、中西部でサーキットして、徐々にその知名度を上げていった。
1967年12月、ザ・ビッグ・シングのメンバーにピーター・セテラ(bass, vocal)が加わり、バンドは7人編成となる。
1968年なると旧知のプロデューサー、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオがザ・ビッグ・シングのマネジメントとプロデュースを手掛けることになり、バンドは活動の幅を広げるために本拠地をロサンゼルスに移す。
ザ・ビッグ・シングのユニークな音楽はロサンゼルスの音楽業界でも知られるようになり、紆余曲折を経て、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオの尽力でコロムビア・レコードと契約を結ぶことに成功した。そしてザ・ビッグ・シングは「シカゴ・トランジット・オーソリティ」(=シカゴ交通局)と改名し、1969年1月からファースト・アルバムの制作を開始する。
優れたオリジナル曲を多く持っていたシカゴ・トランジット・オーソリティーのファースト・アルバムは、当時標準だったLPレコード35分に収まりきらなかったため、新人バンドとしては異例の2枚組アルバムとして1969年4月にリリースされた。これが『シカゴの軌跡』である。
アルバム・リリース後はツアーに次ぐツアーを行った結果、「シカゴ・トランジット・オーソリティ」のパワフルでユニークな音楽性は広く認知されるようになった。アルバム『シカゴの軌跡』も全米チャート17位を記録、ゴールド・アルバムを獲得する好セールスを記録した。
この1969年、シカゴ市の運輸部門からバンド名に対してクレームがついたため、バンド名は「シカゴ」と改められる。
1970年にリリースしたセカンド・アルバム『シカゴと23の誓い』でバンドは大ブレイクする。シカゴはこの『シカゴと23の誓い』から10作連続して全米アルバム・チャートのトップ10に送り込んだが、とくに『シカゴⅤ』から『シカゴⅨ』まで5作連続して全米アルバム・チャート1位を記録している。
シカゴはアメリカン・ロックの頂点に立つ巨大バンドへと成長したが、その中にあってテリーは大きな柱としてバンドを支え続けた。
テリーは、ファースト・アルバム発表時からギタリスト、ヴォーカリスト、そしてソングライターとして活躍しており、以後もバンドの中枢部を担い続けることになる。
彼のギターは、パワフルで荒々しく、圧倒的な存在感を誇っている。ロックやジャズのエッセンスを存分に吸収、昇華させたプレイは高く評価されている。
テリーはジミ・ヘンドリックスを崇拝していたが、そのジミはテリーを「俺よりうまい」と称賛している。1968年9月、ウィスキー・ア・ゴーゴーでのシカゴのライヴに当時絶頂期だったジミ・ヘンドリックスが現れ、「(シカゴの)ホーン・セクションの息はぴったり、ギタリスト(テリー)は俺よりうまい。俺の前座をやってもらいたい。」と語った、という話が残っている。ちなみに、テリーとジミは、ふたりの共作アルバムを制作する、というプランを持っていたという。
また親友のひとりでもあったロバート・ラムは、テリーのギターについて「ぼくはテリーほどうまいリズム・プレイヤーを見たことがないし、彼のリード・ギターは当時としては世界的レベルだった」と語っている。
またバンド内では、ロバート・ラム、ピーター・セテラと並んでリード・ヴォーカルのポジションをも担っていた。
『イントロダクション』などのハードなナンバーでの男くさいヴォーカルはまさに「ロック」そのものだが、『リトル・ワン』『明日へのラヴ・アフェア』などのバラードで聴かれる、温もりのある歌声も評価が高い。
テリーは、表面上はアメリカを代表するバンドであるシカゴの主要メンバーであったが、メディアから正当に評価されていないという不満を抱えていた。また人間関係に疲弊しつつあったうえに、ドラッグへの依存が深刻化しており、精神的な余裕が失われつつあった。
1978年1月22日の夜、テリーは親友のウォルター・パラザイダーの家を訪ねていた。テリーはガールフレンドと大喧嘩していたうえに数日間ほぼ眠っておらず、疲れていたようだったという。心配するウォルターの家をあとにしたテリーは、翌1月23日にシカゴのスタッフのひとりであるドン・ジョンソンの家を訪れた。
テリーはガン・マニアでもあり、銃の分解や組み立てが好きで、ジョンソンの家でもピルトルの手入れをしていたという。
午後5時頃、テリーの様子を心配したジョンソンはテリーに「ベッドへ行って休むよう」忠告したが、テリーはクリップ(挿弾子)を抜いてある自動拳銃を見せ、「まだこれにはクリップが入っていないんだ」と言った。テリーは空のクリップを銃に装填し、その銃を頭の上で振り回していたが、その時指が引き金を引いてしまった。銃からクリップを抜いてはいたが、実は銃内の薬室には実弾が1発が残っており、テリーはその弾丸で自らの側頭部を撃ち抜いて即死した。まだ31歳の若さであり、32回目の誕生日のわずか8日前のことであった。
テリーは、死亡した翌日から、ファースト・ソロ・アルバムに向けてのリハーサルを行う予定だったという。
なおテリーの死後に後任としてシカゴに加入したのは、元スティーヴン・スティルス・バンドのドニー・デイカスである。
【ディスコグラフィ】
<シカゴ>
1969年 シカゴの軌跡/Chicago Transit Authority(アメリカ17位、イギリス9位)
1970年 シカゴと23の誓い/Chicago(アメリカ4位、イギリス6位)
1971年 シカゴⅢ/Chicago Ⅲ(アメリカ2位、イギリス9位)
1971年 シカゴ・アット・カーネギー・ホール/シカゴChicago at Carnegie Hall(アメリカ3位)
1972年 シカゴⅤ/Chicago Ⅴ(アメリカ1位、イギリス24位)
1972年 シカゴ・ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan
1973年 シカゴⅥ(遥かなる亜米利加)/Chicago Ⅵ(アメリカ1位)
1974年 シカゴⅦ(市俄古への長い道)/Chicago Ⅶ(アメリカ1位)
1975年 シカゴⅧ(未だ見ぬアメリカ)/Chicago Ⅷ(アメリカ1位)
1975年 シカゴⅨ(偉大なる星条旗)/Chicago Ⅸ:Chicago's Greatest Hits(アメリカ1位)
1976年 シカゴⅩ(カリブの旋風)/シカゴChicago Ⅹ(アメリカ3位、イギリス21位)
1977年 シカゴⅪ/シカゴChicago Ⅺ(アメリカ6位)
ルーサー・グロヴナー Luther James Grosvenor
【別名】
アリエル・ベンダー/Ariel Bender
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1946年12月23日~
【出生地】
イングランド ウースターシャー州イヴシャム
【経 歴】
ディープ・フィーリング/Deep Feeling(1966~1967)
The V.I.P.'s(1967)
アート(1967)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1967~1970)
スティーラーズ・ホイール/Stealers Wheel(1973)
モット・ザ・フープル/Mott The Hoople(1973~1974)
ウィドウメイカー/Widowmaker(1975~1977)
ヴァーデン & ルーサー/Verden & Luther(1978)
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth(1998~1999)
アリエル・ベンダー・バンド/Ariel Bender Band(2005~)
イギリスのギタリスト。
スプーキー・トゥースの創設メンバー。
1960年代後半から1970年代前半にかけては、イギリスの人気ギタリストのひとりに数えられていた。
モット・ザ・フープルとウィドウメイカーでは「アリエル・ベンダー」の名で活動している。
イングランドのウースターシャー州イヴシャムで生まれる。
1960年代中頃、イヴシャム地方に「ザ・ヘリオンズ」(The Hellions)というローカル・バンドがあった。ヘリオンズにはジム・キャパルディ(drums, vocal)やデイヴ・メイスン(guitar)が在籍していた。
1966年、ヘリオンズは「ザ・レヴォリューション」(The Revolution)と改名する。その年、グロヴナーはデイヴ・メイスンの後任としてザ・レヴォリューションに加入。
ザ・レヴォリューションはグロヴナーの加入に伴い、「ディープ・フィーリング」(Deep Feeling)と名を改めるが、キャパルディはスティーヴ・ウインウッドらと「トラフィック」(Traffic)を結成するため、翌67年4月にディープ・フィーリングを脱退する。
これによりディープ・フィーリングは解散を余儀なくされるが、グロヴナーはすぐに同じマネージメントの「The V.I.P.'s」にフランク・ケニオンの後釜として加入。
The V.I.P.'sは間もなく「アート」と改名し、その後ゲイリー・ライト(keyboard, vocal)が加わって、同年秋に「スプーキー・トゥース」として再始動する。スプーキー・トゥースの創設時のメンバーは、グロヴナーのほか、マイク・ハリスン(vocal, keyboard)、ゲイリー・ライト(vocal, keyboard)、グレッグ・リドリー(bass)、マイク・ケリー(drums)である。
スプーキー・トゥースはブルース・ロックをベースに、アメリカン・ロックのエッセンスを積極的に取り入れているが、グロヴナーのギターはそのスプーキー・サウンドにマッチしていると言える。セカンド・アルバムにして名盤との評価を得ている『スプーキー・トゥー』に収録されている『イヴィル・ウーマン』におけるグロヴナーのソロは、ブルージーかつヘヴィそのもので、ハード・ロック萌芽期における出色のギター・ソロである。
Luther Grosvenor 1969(Spooky Tooth)
1970年に入ると、スプーキー・トゥースの内部はマイク・ハリスンとゲイリー・ライトの対立など、不協和音が目立つようになる。同年7月に4枚目のアルバム『ザ・ラスト・パフ』を発表したものの、秋に行なったツアーを最後に解散した。
解散後のグロヴナーはスペインに渡り、スプーキー・トゥースでのバンドメイトであるマイク・ケリーや、ディープ・フィーリング時代のバンドメイト、ジム・キャパルディなどを起用して、1971年10月にファースト・ソロ・アルバム『Unde Open Sky』を発表する。
1973年2月にはジェリー・ラファティ(Gerry Rafferty guitar)の後任として「スティーラーズ・ホイール」に参加したが、同年7月まで在籍したのち脱退した。
1973年、「バッド・カンパニー」を結成するために脱退したミック・ラルフスの後任として「モット・ザ・フープル」に加わる。この時、まだアイランド・レコードとの契約が残っていたため、アリエル・ベンダー(Ariel Bender)という変名で活動することになった。
この「アリエル・ベンダー」というのは、モット・ザ・フープルが歌手のリンジー・デ・ポールとともにテレビ番組出演のためドイツに行ったとき、当時のギタリストのミック・ラルフスが歩きながら道端の車のアンテナを次々と曲げていったのを見たデ・ポールが口にした言葉「Aerial Bender」(アンテナを曲げる奴)である。これをイアン・ハンターが覚えており、変名としてグロヴナーに提案した。
モット・ザ・フープルでは1974年のアルバム『ロックンロール黄金時代』の制作に加わったが、同年9月に脱退。
グロヴナー(ベンダー)は派手なステージ・アクションがトレード・マークであったが、モット・ザ・フープルでは、フロントに立つイアン・ハンターが、自分より目立つグロヴナーのアクションをいやがっていたという。
Luther Grosvenor 1974(Mott The Hoople)
1975年、スティーヴ・エリス(vocal 元ラヴ・アフェア)、ヒュー・ロイド=ラングトン(guitar 元ホークウインド)、ボブ・デイズリー(bass 元チキン・シャック)、ポール・ニコルス(drums 元リンディスファーン)とともにハード・ロック・バンド「ウィドウメイカー」(Widowmaker)を結成、翌76年にデビュー・アルバムを発表する。
ロック界でのキャリアを持つミュージシャンが集まったため、ウィドウメイカーはスーパーグループとして期待されたが、2枚のアルバムを残して解散した。
1978年には「ヴァーデン & ルーサー」のユニットでシングル「On the Rebound」をリリースしたが、その後グロヴナーは音楽界の表舞台から姿を消す。
Luther Grosvenor 1977(Widowmaker)
1996年、20年近い沈黙を破って、ジム・キャパルディ(chorus)、ジェス・ローデン(vocal)、マイク・ケリー(drums)、デイヴ・ムーア(keyboard)、ミック・ドラン(guitar)、スティーヴ・ドラン(bass)らを迎え、スティーヴ・ウインウッドの所有するスタジオで制作した久々のソロ・アルバム『Floodgates』を発表。
1998年には、ゲイリー・ライトを除く4人のオリジナル・メンバー(グロヴナー、マイク・ハリソン、グレッグ・リドリー、マイク・ケリー)でスプーキー・トゥースが再結成され、25年ぶりにニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
再結成ライヴは、2001年に『Live In Europe』としてリリースされている。
2005年、アリエル・ベンダー・バンドを結成。このバンドは不定期に活動している。
2007年と2008年は、「アリエル・ベンダーズ・モット・ザ・フープル」の名でライブを行い、モット・ザ・フープルとスプーキートゥースの曲を演奏した。
2018年、イアン・ハンター(vocal)、モーガン・フィッシャー(keyboard)とともにモット・ザ・フープルを再結成し、6月23日にスペインで開催された「アズケナ・ロック・フェスティヴァル」に出演。6月30日にはイギリスの音楽フェスティヴァル「ランブリン・マン・フェア」にヘッドライナーとして出演している。
2019年4月にも同じメンバーで集結したが、これはモット・ザ・フープルが1974年に行なったアメリカ・ツアーの45周年を記念したものである。彼らは45年ぶりにアメリカ・ツアー(8公演)を行ったのち、次いで6公演のイギリス・ツアーを行った。この年10~11月にも「モット・ザ・フープル '74」としてツアーを予定していたが、これはイアン・ハンターの体調不良によってキャンセルされた。
【ディスコグラフィ】
<アート>
1967年 Supernatural Fairy Tales
<スプーキー・トゥース>
1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About a Roundabout
1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two(アメリカ44位)
1970年 セレモニー/Ceremony *with Pierre Henry(アメリカ92位)
1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff(アメリカ84位)
1999年 Cross Purpose
2001年 Live in Europe
<モット・ザ・フープル>
1974年 ロックンロール黄金時代/The Hoople(アメリカ28位、イギリス11位)
1974年 華麗なる煽動者~モット・ライブ/Mott The Hoople Live(アメリカ23位、イギリス32位)
<ウィドウメイカー>
1976年 Widowmaker
1977年 Too Late to Cry
<ソロ・アルバム>
1971年 アンダー・オープン・スカイズ/Under Open Skies
1996年 Floodgates
2011年 If You Dare
<ソロ・シングル>
1971年 Here Comes the Queen
1971年 Heavy Day
1972年 All the People
1978年 On the Rebound(※Verden & Luther)
<参加アルバム>
1968年 Featuring the Human Host & The Heavey Metal Kids(Hapshash & The Coloured Coat)
1969年 Thinking Back(Gordon Jackson)
1972年 Smokestack Lightning(Mike Harrison)
1995年 Peter Green Song Book-First Part
ジェイムス・リザーランド James Litherland
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1949年9月6日~
【出生地】
イングランド ランカシャー州サルフォード
【経 歴】
コロシアム(1968~1969)
ブラザーフッド(1969~1970)
モーグル・スラッシュ(1970~1971)
ミリオン
マンチャイルド(1972)
バンディット(1976)
イングランドのヴォーカリスト、ギタリスト。コロシアムのオリジナル・メンバーのひとり。
シンガーソングライター、鍵盤奏者でプロデューサーのジェイムス・ブレイクの父でもある。
8歳の時に両親からギターをプレゼントされる。
11歳の時に地元のローカル・バンドで音楽活動を始める。
1965年、グラマースクール時代の友人だったスティーヴ・ボルトン(guitar のちアトミック・ルースター、ポール・ヤング・バンドetc)が在籍していたマンチェスター周辺のインストゥルメンタル・バンド「モッドロックス」(The Modrox)に加わる。
リザーランドによってリズム&ブルースの要素を持ち込まれたモッドロックスは徐々にモッズスタイルのビート・バンドへ変貌を遂げ、バンド名を「パズル」(The Puzzle)に改めた。しかしリザーランドはほどなくパズルを脱退する。
この後、ローカル・バンドの「The Go Go」に参加するが、この頃グラハム・ボンド・オーガニゼイションやジミ・ヘンドリックスから大きな影響を受け、以後はブルース・ロックを演奏するようになる。
1968年、8月17付のメロディ・メイカー紙で、ジョン・ハイズマン(drums)が告知したメンバー募集記事を見たリザーランドはヴォーカリストとしてこれに応募。同時に応募してきたジム・ローチェ(guitar)とともに採用された。
ジョン・ハイズマンは、このふたりに加えてデイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、トニー・リーヴス(bass)、ディック・ヘクストール=スミス(sax)の計6人で新しいグループの活動を開始した。これが「コロシアム」の結成である。
同年10月11日~12日、スカボローの「シーン・トゥー・クラブ」でデビュー・ライヴを行い、11月には英フォンタナ・レコードと契約。
12月にはファースト・アルバムのレコーディングが始まったが、すぐにローチェが脱退したため、リザーランドがギターも兼ねることになった。
アート・ロック・ブームが熱を帯びていた1969年5月、コロシアムはファースト・アルバム『コロシアム・ファースト』をリリース、たちまち注目されるようになった。
引き続いて行われたセカンド・アルバム『ヴァレンタイン組曲』のレコーディングが終わった同年10月、リザーランドは「ブラザーフッド」(のちの「モーグル・スラッシュ」)へ参加するためコロシアムを脱退する。後任として加入したのは、元ベイカールーのデイヴ・"クレム"・クレムソンだった。
なお、ジュリアス・シーザーの最期を描いた『ヴァレンタイン組曲』は全英15位まで上昇するヒットを記録し、コロシアムはブリティッシュ・ロック界に中で確固たる位置を占めるようになる。
ジェイムス・リザーランド(中央)
「ブラザーフッド」のメンバーは、リザーランド(guitar, vocal)のほか、ジョン・ウェットン(bass, guitar, vocal 元Splinter)、エド・ビックネル(drums)、ロジャー・ボール(sax)、モリー・ダンカン(sax)であった。
間もなく、唯一知名度のあるリザーランドの名を冠して、バンド名を「ジェイムス・リザーランズ・ブラザーフッド」(James Litherland's Brotherhood)と改めた。
1969年末、ドラマーがビル・ハリスンに交替。その後、元エレクションのマイケル・ローゼン(guitar, trumpet, mellophone)が加わってバンドは6人編成となる。
1970年にRCAと契約を結ぶことになったが、同名のバンドが存在することがわかったため、同年5月にバンドは「モーグル・スラッシュ」と名を改めた。
モーグル・スラッシュはシングル1枚(『Sleeping in the Kitchen』1970年)、アルバム1枚(『モーグル・スラッシュ』1971年)を残し、1971年に解散した。
ジェイムス・リザーランド(中央)
その後は自己のグループ「ミリオン」を結成したほか、ロング・ジョン・ボルドリーなどのレコーディングに参加。
1972年には、ファースト・ソロ・アルバムをリリースしたばかりのディック・ヘクストール=スミス(sax 元コロシアム)、デイヴ・ローズ(keyboard)、ビリー・スミス(bass)、セオドア・サンダー(drums)とともに「マンチャイルド」を結成した。
1970年代中頃にはサンフランシスコで活動している。
帰国後の1976年、「バンデット」(Bandit)に参加。他のメンバーはリザーランド(guitar)のほか、ジム・ダイアモンド(vocal)、ダニー・マッキントッシュ(guitar)、クリフ・ウィリアムス(bass)、グラハム・ブロード(drums)である。リザーランドは、アルバム『Bandit』とシングル『Ohio』を残したのみで脱退した。
その後はテレビや映画音楽の仕事をしていたが、1990年代に入ってからはソロ・アルバムの制作も行っている。
2017年6月、ソロ・アルバム『バック・アンド・ブルー』(Back 'n Blue)を発表。
【ディスコグラフィ】
コロシアム
1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(全英15位)
1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(全英15位)
1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener *アメリカ編集盤
モーグル・スラッシュ
1971年 モーグル・スラッシュ/Mogul Thrash
バンディット
1976年 Bandit
レコーディング参加アルバム
The Fureys
1968年 Finbar Furey
ジェイド
1970年 フライ・オン・ストレンジウイングス/Fly On Strangewings
エドワード・ハンド
1970年 ストランデッド/Stranded
1971年 Rainshine
ロング・ジョン・ボルドリー
1972年 Everything Stops for Tea
レオ・セイヤー
1974年 ジャスト・ア・ボーイ/Just a Boy
スティーヴ・マリオット
1976年 マリオット/Marriott
アレクシス・コーナー
1979年 The Party Album
マイク・ブルームフィールド Michael Bernard "Mike" Bloomfield
【パート】
ギター、ボーカル
【生没年月日】
1943年7月28日~1981年2月15日(37歳)
【出生地】
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
【経 歴】
バターフィールド・ブルース・バンド(1965~1967)
エレクトリック・フラッグ(1967~1968、1974)
KGB(1975)
1960年代のブルース・ロック・シーンを代表するギタリスト。
エレクトリック・ブルース・ギタリストの先駆者的な存在である。
その実力は「白人ブルース・ギタリストの中でも最高峰」とも評価されており、ボブ・ディランは「彼は出会った中で最高のギタリストだった」、カルロス・サンタナは「彼をはじめて見た時に私の人生は変わった。生涯をかけて彼のようなギタリストになりたいと思わずにはいられなかった」と語っている。
「ローリング・ストーンの選ぶ史上最も偉大な100人のギタリスト」では、2003年版第22位、2011年版第43位にランクされている。
イリノイ州シカゴのノース・サイドで会社経営者の息子として、ユダヤ系の裕福な家庭で生まれ、育つ。
少年時代はサウス・サイドで過ごし、ラジオでBBキング、マジック・サム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらのブルースに親しむ。
やがて、ブルームフィールド家で働いていたメイドを通じてマディ・ウォーターズやリトル・ウォルター、オーティス・ラッシュのような伝説のブルース・ミュージシャンたちと出会う。16歳の頃にはシカゴのブルース・シーンで彼らとジャム・セッションしながらステージに立っており、その後徐々に認められるようになる。
1964年には、ブルームフィールドの評判を耳にしたコロンビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドと契約、ニューヨークでレコーディングを行った。
レコーディング終了後にシカゴに戻ったブルームフィールドは、ポール・バターフィールドから声をかけられ、「バターフィールド・ブルース・バンド」にリード・ギタリストとして加入する。
1965年、ブルームフィールドはボブ・ディランと出会うが、この時ディランはブルームフィールドのギターを聴いて非常に大きな衝撃を受け、すぐにアルバム『追憶のハイウェイ61』のレコーディングにブルームフィールドを招請した。レコーディングではまず「ライク・ア・ローリング・ストーン」の収録を予定しており、アル・クーパーがギターを弾く予定だった。しかしブルームフィールドが現れてギターを弾くや否やクーパーはすぐに「もう自分にはやることがない。こんな素晴らしいギタリストを前にして自分がギターを弾くなんて馬鹿げている」と思ったという。これがブルームフィールドとクーパーの出会いである。
同年7月25日、バターフィールド・ブルース・バンドの一員としてニューポート・フォーク・フェスティヴァルに参加。ブルームフィールドは急遽アル・クーパーとともにボブ・ディランのバックも務めた。この時ディランはエレクトリック・ギターを持ってロック・ミュージシャンとともに演奏したことで聴衆から大きなブーイングを浴びるという有名な事件が起きている。
バターフィールド・ブルース・バンドは、1966年10月にファースト・アルバム『ザ・バターフィールド・ブルース・バンド』を、1966年8月には名盤の誉れ高いセカンド・アルバム『イースト・ウエスト』(全米65位)を発表。彼らのエレクトリック・スタイルで演奏するブルースは、シカゴのブルース・シーンに大きな影響を与えた。
1967年にバターフィールド・ブルース・バンドを脱退したブルームフィールドは、バディ・マイルス(drums)や、シカゴ時代の盟友であるバリー・ゴールドバーグ(organ)、ニック・グレイブナイツ(vocal)、ハーヴェイ・ブルックス(bass)らとともに「エレクトリック・フラッグ」を結成。このバンドはホーン・セクションの入った革新的な編成で、ブルームフィールドはブルース、ソウルはもちろん、ゴスペルやカントリーからもインプピレーションを得て、独自のサウンドを生み出そうとした。エレクトリック・フラッグの登場は画期的で、ブラッド・スウェット&ティアーズと並んで注目されたが、ブルームフィールドはドラッグへの依存が健康に悪影響を及ぼすようになっていたため、ファースト・アルバム『ア・ロング・タイム・カミン』(全米31位)の録音後に脱退している。
1968年、モビー・グレープのアルバム『グレープ・ジャム』に参加。
同年、アル・クーパーからジャム・セッションのアルバム制作を提案され、1960年代を象徴するアルバムのひとつである『スーパー・セッション』(全米12位)のレコーディングに参加した。ただしブルームフィールドは不眠症で体調が不安定であることを理由に、レコーディング途中で置手紙をして姿を消した。
重い不眠症に悩んでいたブルームフィールドは、自宅にこもって映画音楽の制作やプロデュース・ワークをこなすようになったが、1968年9月26日~28日にはサンフランシスコのフィルモア・ウェストでアル・クーパーと、『スーパー・セッション』の再現的意味を持つライヴを行うことになった。この模様を収録したアルバムが、1969年にリリースした『フィルモアの奇蹟』(全米18位)である。
『スーパー・セッション』『フィルモアの奇蹟』の2枚のアルバムによって、ロック界には既存のグループから離れた自由な演奏形態である「セッション」のブームが起こった。
しかしブルームフィールドは、最終日の9月28日の演奏をまたしてもすっぽかしてしまう。不眠症から逃れるための薬物への依存と逃避がその理由だったという。
『スーパー・セッション』
『フィルモアの奇蹟』
アル・クーパーとは、1968年12月にもフィルモア・イーストでライヴを行ったが、これは2003年に『Filmore East; The Lost Concert Tapes 12/13/68』として発表された。
同年6月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『コズミック・ブルース』のレコーディングに参加。
この年ソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』(全米127位)と、フィルモア・ウェストで録音した『ライヴ・アット・ビル・グラハムズ・フィルモア・ウェスト』をリリースしている。
1970年代に入るとヘロイン中毒のため活動のペースが落ちてゆく。
一時はギターからも離れたが、カルロス・サンタナらベイ・エリアのミュージシャンたちのバック・アップで演奏活動を徐々に復活させ、1973年にはジョン・ハモンド・ジュニア(guitar)、ドクター・ジョン(piano)とアルバム『三頭政治』(全米105位)を発表。
1974年には「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加。
1975年にはカーマイン・アピス(drums)、レイ・ケネディ(sax, vocal)、リック・グレッチ(bass)、バリー・ゴールドバーグ(keyboard)とともに「KGB」を結成したが、ブルームフィールドは薬物中毒が悪化したためアルバム『KGB』に参加したのみでほどなくバンドを離れた。
1977年には、アルバム『If You Love Those Blues, Play 'Em as You Please』を発表している。
その後のブルームフィールドは再び薬物依存が悪化し、1981年2月15日、カリフォルニア州サンフランシスコにおいて37歳で死去。駐車場に停めた車の中で意識不明になっているところを発見されたという。ヘロインの過剰摂取による死亡だと言われている。
この数ヵ月後にはアル・クーパーからの要請によるセッションが予定されていたという。
カルロス・サンタナが初めてブルームフィールドに会った時のことである。
独特のギター・スタイルであること、またメキシコ出身のマイノリティであることなどを理由にしばしば心ない批判を受けていたサンタナは、一種の被害者意識から攻撃的な言動を相手に浴びせることも珍しくなかった。ブルームフィールドに対しても「いつかお前を潰してやる」と脅したが、ブルームフィールドは「君ならできるかもしれないね。がんばってくれよ。」とサンタナにエールを送った。これを聞いたサンタナは「彼の気持ちが伝わった気がした。もう虚勢を張るのはやめようと心に決めた」とのちに語っている。
ブルームフィールドの人柄が偲ばれるエピソードである。
【ディスコグラフィ】
<ポール・バターフィールド・ブルース・バンド>
1966年 イースト・ウェスト/East-West US65位
<エレクトリック・フラッグ>
1968年 ア・ロング・タイム・カミン/A Long Time Comin' US31位
<KGB>
1975年 KGB/KGB US(ビルボード)124位
<参加レコーディング>
*アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス
1968年 スーパー・セッション/Super Session US12位